日々愚案

歩く浄土12

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ここしばらく考えている思考の現場について書きます。
〈内包論〉を考えています。いくつかのことが派生します。共同幻想論は「還相国家論」(仮題)へと、対幻想論は「還相の性」に、マルクスの資本論は内包自然に包摂され「贈与論」へ、共同幻想の彼岸は「内包浄土論」として組み替え可能です。わたしが自己意識の外延表現と名づける表現はいずれの領域も同一性の彼方として拡張した表現が可能です。国家論も、貨幣論も、浄土論も、還相の性をどう理解するかが鍵になります。

そのあたりのことをいろいろ考えています。ヘーゲルには精神現象学、マルクスには資本論、フロイトには精神分析論、吉本隆明には共同幻想論や言語論があります。思想の全円的な卓越した作品としてあります。それらを外延表現として一括りし、一級の資料として扱い、未明の思想を描くことはできます。

なにかがわたしを押しとどめます。体系をつくることの不毛さを感じてしまうのです。それがじぶんの生きるうえでの力になるだろうか。またおなじことをくりかえすのではないか。その懼れがあります。そのなかにいてそこを生きながら体系をつくることはできるのかという懼れです。体系的な思想はいまを生きていることにたいして遅延することでしか、つまり生を俯瞰することでしか描けないと思います。一歩なまの現実から身を引かないとできないような気がします。そのなかにいてそこを生きながらそのままにそこを言葉として切り出すことができるのだろうか。ためらいがあります。比喩ですが、一瞬息を止めないと言葉はつくれません。

体系は必然として閉じます。いくつかの公理によって体系はできていますが、体系に矛盾があるかどうか、その体系を支える公理によって矛盾がないことを導くことは原理的にできません。体系は閉じるのです。閉じないかぎり体系とはならないのです。たとえば、バランスのとれたカロリー制限食という医療の真理の世界にいるとします。困難は、いい加減な医療者がいて医学知の薄い治療を受ける者がいて、そこでいろいろあってということではないのです。この真理は閉じているから、医療の常識の内部にいるかぎり、外に出ることはできません。治療者と患者の関係は権力の関係ですが、この権力の全体が真理の上に成り立っているのです。そのあたりの詳しいいきさつはフーコーが見事に解明しました。そしてやがて人間は終焉すると宣明したのです。晩年の吉本隆明は人類の滅亡を予告しました。

なぜそうなるのでしょうか。かんたんです。空っぽの自己を根拠にしているから究極は無になるのです。空無が空無をたどるだけなのです。論理の必然です。内包のきりのなさが1に封印されて自己意識ができただけなのです。ここを錯覚すると偉大な才能も生は不全感に覆われます。1の塗りつぶされた真っ黒をひらけばいいのです。ここがどこかになります。気づきです。わたしのいう表現の態度変更です。フーコーの自己が自己ともつ関係を「倫理的活動の核」にあるものに結びつけるべきだという、なにかの分有者という気づきです。
『キリスト教の精神とその運命』を書いた小坊主のヘーゲルが精神現象学へと跨ぎ越していったときのごまかしは巧みです。たいていのひとが騙されます。最晩年のヘーゲルはギリシャ以前に、関係が表現であることに関心があったと研究者が書いているのを読んだ記憶があります。

医療は巧妙ですがおおくはごまかしです。身体を貫く権力として医療は現前します。医療者も患者も前提とされた真理の圏域を生きています。ではその前提がくつがえるとしたらどうでしょうか。一気に真理は崩壊します。釜池豊秋さんの糖質ゼロという理論です。日々恩恵を被っています。
わたしは前提を疑うことを内包論理で行使しています。外延論理の否定ではありません。外延表現の拡張なのです。内包の知覚を外延論理でいうのはいまでもむつかしいのです。自然数の2から3を引くことは自然数の範囲ではできません。生活感覚としては今月はこんなに切り詰めたのにああ1万赤字だなと体験できます。整数という概念をつくるとマイナス1となります。そのような意味での拡張です。

外延論理に内包論理を対置したときどうもそれは体系にはならないのではないかという気がするのです。おのずからの領域は〈ことば〉であってつねにひらきっぱなしだから、閉じた概念で表現することは原理的にできないのではないか。言葉で切り出すたびに、言葉はひからびるのではないか。親鸞の「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)とか、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)は、音色がよくて、風圧を感じる強い言葉です。すごいなあと思います。でもですね、この言葉は体系になりません。主著『教行信証』は浄土教の教義の解説であり、『歎異抄』は弟子の聞き書きです。親鸞が遺した言葉は、そのなかにいてそこを生きた途切れ途切れの深い吐息のようなものです。還暦の頃、おれのやることなすこと嘘だらけ、虚仮のかたまりだと嘆息しました。いまだったら軽く80歳を超えてます。見事です。確信に満ちた体系はうさんくさいです。生きているなまのじぶんを棚上げしないと世界は鳥瞰できません。言葉を切り抜くとそのたびに世界は死にます。

    2
嫌いな言葉の息継ぎはあります。たとえばハイデガー。自己愛しかない男です。壮大な空虚。ハイデガーの言葉にはぬくもりがない。ニーチェにあこがれ、けっしてニーチェのようには生ききれなかった者の弁舌。
1947年に出版された『ヒューマニズムについて』(渡邊二郎訳)で、ハイデガーは次のように述べています。58歳。還暦前のことです。親鸞の言葉の深みとの違いに驚きます。

無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである。しかし、無傷の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、歪む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。
(中略)
ところが世間の人は、歪む働きなどは存在者そのもののうちのどこにも見出されることはできない、と思い込んでいる。
(中略)
歪む働きは、存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そうであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着する何か存在者として、見つけることはできないのである。(131~133p)

1953年刊の『形而上学入門』(川原訳)の言葉から。

宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない。(16p)

ナチに荷担しユダヤ人を絶滅せよと、ときの政府の文部大臣に建白したくせに、戦後、わたしはナチ政権と連合国によって二重に迫害を受けたと平然という、頭の先から爪先まで虚偽意識に満ちたウソをいう男のなにが信じられるか。安倍晋三を想起すればいい。知力において劣るハイデガーの研究者がかれを語ることで糊塗をしのぐ。
そのことは折に触れて書いてきたが、いまはすこし違う言い方ができると思います。神という超越抜きに存在の不思議をかれは語りたかったのです。それは虚偽ではないと思います。〈在る〉の不思議にかれは襲来されたのです。そう思います。
「無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである」ということでかれが言いたいことはナチによるユダヤ人の虐殺を指しています。神戸の少年の事件に接して喉元が凍りつきました。オウム真理教が為した事件のおぞましさも記憶に新しいです。そして2001年9.11以降の世界の歴史の転換。今回のシャルリー・エブト事件から日本人殺害事件に邪悪なものを見て取れます。暗澹とした気持ちになります。

内田樹さんの好きな言い方では邪悪なのもの、不条理との対処の仕方ということになります。文芸批評家の小林秀雄はかつての大戦について言いました。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何も後悔もしていない。大事変が終わった時には、かならずもしかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものにたいする人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無智と野心から起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ。*僕は歴史の必然というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和21年2月号)

かれは正直でかわいいです。邪悪なものや不条理について、流動的知性を唱える中沢新一は、「私たちにはまだよく知られていない人間の精神構造みたいなものがあるんじゃないかという実感がある」(『群像』2004年1月号所収「心とアルケオロジー」226p/吉本隆明との対談での発言)と言います。雑誌の対談の、「言葉の原点はどこにあるか」という小見出しのあとで、中沢新一は言っています。

 必然と偶然の問題、これは非常に難しいと思うのです。大分前ですけれども、イギリスのBBCの番組で、昔のロシアの言語学者がユーラシア母型を再構成する研究をやっていたのを紹介していました。ごらんになりましたか。この学者は天才的な人で、ユーラシア大陸でいろいろ語られている言葉のデータを全部集めてきて、移動の経路も、わかるかぎりの情報をそこへデータとしてインプットし、幾つかの言葉を取り出します。たいがい生活用語ですね。しかも、必ず必要とする水とか、火とか、塩とか、こういうものだけに限定して、ユーラシア語の母型を再構成してみようとした。これをコンピューターで再構成したのを聞いたんですね。それはそれは身の毛のよだつような音でした。ものすごい深さというんですか、火という音をユーラシア母語で発してみた音、まさにこれは火だという音なんですよ。水という音は、これこそ水だと感じるんですね。こういう音に比較すると、僕らが今日耳にしているいろんな昔話の「水」という音や「火」という音は、そこから大分離れちゃって、頭で構成されたり、何かほかの要因でつくられてきたものだなと理解できる。(238p)

先のハイデガーの「愚鈍な動物の一群」も「憤怒に燃えた悪事」や「深い激怒の邪悪さ」も中沢が言う血にまみれた「身の毛のよだつような音」も善悪の彼岸のある事態のことを指しています。わたしがいってきたハイパーリアルな剥きだしの生存競争の到来ということとも重なります。
長くて100年足らずがわたしたちの生です。どんな境遇であろうと自由に生きることはできます。時代の拘束からどれだけしばられずに生きることができるのか、そこに生の固有性があることもわかります。わたしはこの感覚を歴史の概念でも言いたいと思っています。現実を解明したいという赫々とした意志があります。なぜかそう生きたいのです。ハイデガーなどのちゃらい哲学は問題としていません。
「太初(はじめ)に言葉ありき」から聖句は世界を叙述しています。光あれ、という言葉もあったような気がします。ヘーゲルのはじまりの不明があるように、聖句の言葉の始まりも不明です。なぜ言葉をここから立ち上げるのか。それこそが同一性のしばりです。

同一性からのしばりをまぬがれた稀な生をカザルスにみることができます。胸がふくらみます。93歳のカザルスの言葉です。

 過去八十年間、私は、一日を、全く同じやり方で始めてきた。それは無意識な惰性でなく、私の日常生活に不可欠なものだ。ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を二曲弾く。ほかのことをすることなど、思いも寄らぬ。それはわが家を潔める祝禱なのだ。だが、それだけではない。バッハを弾くことによってこの世に生を享けた歓びを私はあらたに認識する。人間であるという信じ難い驚きとともに、人生の驚異を知らされて胸がいっぱいになる。バッハの音楽は常に新しく、決して同じであることはない。日ごとに新しく幻想的で想像を絶するものだ。こういうところがバッハで、自然と同じように一つの奇跡である。
 私の一生で、自然の奇跡をあらたな驚きの目で眺めない日は一日もないと思っている。山襞のかげりにしても、朝露にきらきら光る蜘蛛の巣も、日光にそよぐ木の葉もそうだ。私は常に格別に海を愛してきた。できるだけ、いつも海岸で暮らすようにしている。この十二年間、プエルトリコに住んでいるのもこのためである。私は仕事にかかる前に海岸を散歩するのが長いこと習慣になっている。なるほど、昔に比べると最近の散歩の時間は短くなった。だからといって、海の驚異を感ずることが減ったというわけではない。海はなんと美しく神秘的だろう。無限に変わっていく。一瞬から次の瞬間へと決して止まることがない。絶えず変容して、いつもなにか異なる新しいものになっていく。(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』10~11p)

音色がよくて美しい文章です。わかい頃この本を読みました。とてもうれしかったことを覚えています。はたしてカザルスの言うことはモダンなのでしょうか。音はすでにそこを超えているのでしょうか。このあたりのことについてかつて書いたことがあります。

 高度な消費社会のシステムはどこで超えられるか。資本のシステムはどこで超えられるか。じつに単純なことだ。システムのなかに均質化することができない対の内包性というイメージの拠点から、いつも超えていることにおいて超えるだけだ。「まわらぬ舌で初めてあなたが「ふたり」と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた」のなら、表現する対のイメージの拠点はすでに資本のシステム化された社会のむこうにつき抜けている。音にさわるように生や性を生きられたら、此処がすでに彼方なのだ。
(略)

あなたの眠らなかった夜を私は眠ったが
私の知らないあなたの日々は
私の見た夕焼け雲に縁どられていた
(谷川俊太郎『女へ』「日々」より)

 男女の性や家族はどこへゆく。メビウスの性が、対の内包像が、ひかりを走らせるから〈あなた〉は〈わたし〉の夢のなかに立ちつづける。どこにでも行けるし、どこにも行かない。だからおれはアンチ・エディプスでも、ハイ・エディプスでもなく、〈メビウスの性〉というイン・エディプスについて考えつづけた。

    ここ

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言っているうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく
(谷川俊太郎『女へ』)

 はじまりがあって終わりのないふかい渦が求心する。そ。ふれたピカソの青や吹いた風にさそわれ、たまにはトンボやゆきりんごになって、ずっしりかるい性に日を繋ける。(『内包表現論序説』270p)

いまもそのつづきを考えています。
向かい合いと並び見ができるのは、姿も形もありませんが、還相の性という場所だけだと思います。わたしの体験的な確信であり、わたしの生存感覚を貫いています。
いまを生きる感覚であるとどうじにこのことを歴史の概念でも言いたいと思っているのです。
群生からむっくりもたげた自然との亀裂のすさまじい恐怖が精神の古代形象として同一性に封じ込められたのか、灼熱の性のうねりが先だったのか、その先後のことをよく考えています。いずれにしても同一性の彼方にある無言の条理の世界の只中で起こった出来事だと思います。それは「身の毛のよだつような音」で、そこに「深い激怒の邪悪さ」があったのか。それとも人間であるという信じがたい驚異がそこにあり「胸がいっぱい」になったのか。そのあたりのことを考えています。それは現在(いま)を語ることと同義です。

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