日々愚案

歩く浄土11

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だれのなかにも根源の性は埋めこまれている。無限小のものとして。そうと気づかないだけ。眠っていたり冬眠してたりする。自己のなかの絶対の他とはこのことです。もしそうでなかったらどうしてわたしたちは他者を気遣うのか。なぜ、自己の陶冶だけではなく他者への配慮という気遣いが起こるのか。それがあるためにヒトが人となった由縁は、目に見えない形でもともと埋めこまれているのだとわたしは思います。それは1から3(多)へと向かう眼差しではなく、根源の性からのうながしだと思っています。ここにはたくさんのことが隠れています。そのことを奥行きのある1と言ってきたのです。

長年の友人Hさんの「重なりの1」と、とてもよく似ています。無限小に折り畳まれているので、つかみだすのがむつかしいです。けっして意識されることもなく1の奥に、無限小のものとしてひっそりと根源の性は息づいているのです。だから性が可能となるのです。レヴィナスはこのことに気づいていました。

有責性は他者性の覚知のうちで重大ななにものかを正しく見てとりますが、愛はもっと先まで進みます。それはかけがえのない唯一のものとの関係です。私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけがえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢中になると、他人をかけがえのないものだと思い込むから、というのではありません。だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです。(『暴力と聖性』内田樹訳 125p)

一読するだけではわかりにくいです。そんなことあるかい、とつい思いがちです。体験としての性や、体験の内省として根源の性をつかむことはできないのです。できると思うときすでに同一性の毒にやられています。それが偉大な近代でもあったわけですが。。。
わたしの性の感覚は世間の性と半分重なり、半分ははみ出ているといってきました。レヴィナスはおなじことを考えていたのだなと思います。根源のつながりがあるから性の世界が立ち上がるのです。ふつうは1が1と出会う世界を対の世界と思っています。違うと思います。

人間というのは実に粗末な、空虚な観念で、いずれにしても将来ゼロに近づいてゆくのだ、と吉本隆明は予告しました。

ある意味で「内面の時代」はすでに終わっています。・・・人間の内面性も同じことです。ゆくゆくは廃棄処分になるというのが、これからの人類の未来じゃないですか」(『わが「転向」』121p)

橋爪大三郎に母校に招聘されたときの講演で、若い詩人の詩を「『無』に塗りつぶされた詩」と批評しました。それは吉本隆明さんの内面の風景でもあったのです。不可避に人類の滅亡が予感されます。『言葉からの触手』を読んだときに違和感がありました。刊行は1989年となっています。『ハイ・イメージ論』も同時期です。翌年わたしは吉本隆明さんと対談をしたことになります。
『共同幻想論』の頃の吉本さんには上り坂の勢いがありました。戦後の擬制を激しく撃つ熱い意志に、わかいわたしたちは惹きつけられました。ある時期から吉本さんの言葉は痩せてきました。なまなましい現実の生成にたいして言葉の解像度がずれてきました。おそらくそう感じていたかれの読者がかなりいたのではないか。偉大な吉本さんの発言だから、なんとか世界の臨界的認識を理解しようとしたのではないかと推測します。

わたしはいま吉本さんの世界認識の方法の必然だったように思います。現人神の天皇のためなら死ねると思い決めていた青年期があり、無条件降伏という敗戦を期に、八紘一宇や一億総玉砕という大義は、一億総懺悔の民主主義社会へと変貌しました。その渦中でかれは生き暮れ、惑ったのです。「転向論」や「マチウ書試論」を書きながらかれは自立思想をつくりつづけました。総中流化の大波のなかでかれは再び「転向」しました。『わが「転向」』という本です。転向の成果が『マス・イメージ論』であり『ハイ・イメージ論』です。のちに『母型論』も出ました。かれの2回目の転向の言葉による成果がここにあります。内容についての吟味はまだなされていないと思います。

しつこく吉本隆明さんの思想にこだわるのはなぜだろうかとふと思うときがあります。すでにわたしは吉本さんの思想の息づかいと異なる世界を生きています。それなのになぜ吉本隆明なのかということです。狡猾さがなく至誠を感じるのがかれの思想だけだということに拠ります。生涯かれは弱さに寄り添うことなく、苦界の衆生を語ることはありませんでした。同伴文化人にいつも挑発的な批判をしました。同世代の文化人を見廻して、口舌の輩だけが生き残っています。弱さの研究や水俣の礼賛です。表現のネタ切れと言えばそれまでですが無惨です。わたしもまた苦界の衆生を語ることなく、ただ、じぶんを生きます。希望や夢をもつこととは違います。じぶんが夢や希望になればいいのです。

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総中流化という幻想の大波のなかで吉本さんも思想も翻弄されました。この変化を思想に繰り込めなければ、おれの思想は生きられないと感じたに違いありません。かれはハイ・アングルな手法をとったのです。ランドサットの視線から、つまり無限遠点から人間を見るとどうなるか。それがかれの世界視線という理念でした。かれ自身が言っていることですが、フーコーの人間の終焉に影響されています。
この乾いた視線がじぶんの暑苦しさを漂白するようで心地いいと感じたときもありました。クラフトワークのアウトバーンがたしかに気持ちよかったのです。吉本さんは貧困や欠如を基盤にした表現はスターリニズムだと断言しました。中上健次も公衆の面前で罵倒されました。

『マス・イメージ論』を書いても『ハイ・イメージ論』を書いても、『母型論』を追加しても『アフリカ的段階』書き重ねてもすっきりしない吉本隆明さんがいたと思います。
1973年にはじめてお会いしたときのわたしのかれの印象は鮮やかにのこっています。唯物的・科学的・現実的というものです。それがかれの思想の骨格としてあります。彼の思想は精悍なのです。精悍すぎるというほどに。同一性の縛りを括弧に入れてつくりあげられた思想の究極形ではないかと思います。わたしがわたしであることは、けっしてA=Aに比喩できないのです。わたしがわたしであることは同一性よりはるかにおおきい概念です。「私」は、神、あるいは仏によぎられることによって、はじめて「私」に成るという精神の古代形象はあります。それはすでにあるものです。

根源の性はそれらよりはるかにふるい精神の面影としてあります。根源の一人称と呼ぶ根源の出来事です。レヴィナスはなんとかそのことを神という概念を借りて、「だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです」と言っています。ヴェイユが言う、「人間の中の無人格的なものはすべて聖なるものであり、しかもそれだけが聖なるものである」も、ともに同一性の唯物的科学的現実的な方法意識では触ることはできません。それは同一性の彼方にあるのです。吉本隆明の、「ともかく〈生存〉だけはしていて、それはまさに〈生存〉しないことと対応している」という考えで定義されることとはまるでちがう出来事なのです。この機微が吉本さんにはわかりませんでした。同一性を認識の基軸にするかぎり、言葉が痩せていくのは必然です。若い詩人の書く詩が「無」であるのも必定です。円環しているのです。

わたしはわかい頃に、衣食足りて充ちぬことのなかに、いつの時代もその時代のもっとも本質的な問題があると、直感的に思いました。それは概念ではなく知覚です。この知覚を根源の性や、還相の性としてつかむのにながい歳月がかかったのです。この概念を手がかりに、浄土が歩く国家のない世界を探求します。

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