日々愚案

歩く浄土227:アフリカ的段階と内包史15ーヴェイユの自然1

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シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)とは何者か。二十歳の頃に彼女の著作を息を詰めるようにして読み、狂おしいほどの親近感を覚え、吸い込まれた。これは生存感覚であって知識ではない。以来、ヴェイユのことはいつも頭の片隅にあった。どんな解釈も拒むようにしてヴェイユの思想はある。独白された片言隻句の箴言はおよそ体系的なものではないが、ヴェイユが語ろうとして語りえない、そのなにかの余韻が読者に深く沈潜する。おそらく兄の数学者アンドレ・ヴェイユの天才への複雑な感情があり、ナチの台頭とユダヤ人にたいする過酷な運命が不可避なものとして迫っていた時代がシモーヌ・ヴェイユの背景としてある。
ヴェイユがカトリックの神父に託した草稿の抜粋が死後『重力と恩寵』として出版される。編纂者G・ティボンの「序文」によると、ヴェイユはゲシュタポの手入れを寸前で逃れている。拘留されていたらガス室行きで、彼女が遺した文章を読むことはなかった。西欧のヴェイユとこの国の宮沢賢治は、かれらが生きた精神風土は隔たっているが、そのただなかにいてそこを生きるという精神の気風がある。ヴェイユは34年の生を駆け抜けるように生きた。暗い少女だったと兄のアンドレ・ヴェイユが言っているそのシモーヌ・ヴェイユについて、『遠近の回廊』のなかで、名著『ミシェル・フーコー伝』を書いたエリボンから「彼女のことは、よく御存じでしたか」と訊かれ、レヴィ=ストロースはヴェイユのことを「よく知っていた、というほどではありません。ソルボンヌの通路でよく立ち話をしました。彼女の剃刀の刃のような考え方にはついていけませんでした。彼女にとっては、ものごとはいつもオール・オア・ナッシングでした。後になってアメリカ合衆国でもう一度、彼女に会いました。・・・シモーヌ・ヴェーユという人は、その厳しい考え方を、自己破壊に至るまで貫徹した人でした」と答えている。なにか煩悩に駆られ輾転反側していた若い頃の親鸞みたいではないか。レヴィ=ストロースの印象は当たっていない。

インマヌエルの原事実をつかんでいるヴェイユは洗礼を勧められて言う。なにがヴェイユを止めたのか。
「ところで、ある環境の中に入ることを許され、『わたしたち』と呼び合うある環境の中に住み、この『わたしたち』の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、その中で自分の家にいるように感じることを私は望みません。(略)こう申しあげますと、以前のお手紙の中で述べましたような、どのような人間的環境の中にでも融けこみ、そこを通り、その中に消えてゆきたいという私の欲求と矛盾するようでございます。けれども、実際には同じことなのです。その中に消えてゆくということは、その一部分となることではなく、すべてのものと融合することができるためには、いかなるものの一部分ともならない、ということを暗に意味しているからです」(『神を待ちのぞむ』)

ヴェイユは不在の神に向けて祈ったのであり、教会という社会の一員として祈りたいのではない。「神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること」(『重力と恩寵』)かなり教会を忖度している。キリスト教という信仰のありかたにヴェイユはなんの関心もなかった。トロツキーに相対してロシア革命を罵倒したヴェイユが信の共同性を容認するはずがない。教会が「全体主義的な巨獣」であり、「自我と社会的なものとは二つの大きな偶像である」ことは百も承知だ。この批判は「社会」主義的な思考にもむけられる。ヴェイユはデモクラシーとはべつの人間のありかたを渇望した。教団の理念もデモクラシーの理念も共同幻想である。

レヴィ=ストロースの構造主義の理念を定式化した兄のアンドレ・ヴェイユの数学の大才は数学史のなかに刻まれるだけである。アンドレ・ヴェイユやレヴィ=ストロースの知とシモーヌ・ヴェイユの知は自力廻向と他力廻向ほどの違いがある。観察する理性の知とまったく異なる世界のさわり方があることをシモーヌ・ヴェイユは身をもって体現した。匿名の領域を生きたヴェイユ。

「人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(『ロンドン論集と最後の手紙』)

匿名の領域を知覚したことがヴェイユの最大の功績だと思う。自己を鞭打つ死を超えて長生きしたらもっと先まで行けたはずだ。まったく異なった生の体験と思考の回路を経て、人間の終焉を宣言したフーコーは実体ではない主体をつかんだ。ヴェイユは言う。「ある一つの秩序に、それを超越する秩序を対比させる場合、超越するほうの秩序は、無限に小さなもののかたちでしか、超越されるほうの秩序のなかに挿入されえない」(『重力と恩寵』)ある秩序をべつの秩序によって超えるとき、それは無限小のかたちでしか挿入できないうヴェイユの発見は、自己を無限小にすることを代償とした。それがヴェイユの無だ。この世のどこにも彼女の居場所はなかった。激しく生き急ぎ、生を苛んだ。ある痛ましさと共にあるヴェイユの生をひらくことができる。ヴェイユが生を終えた年頃におまえはなにを考えていたかと問うてみる。生を引き裂く自然から熱い自然へと移行を完了していた。それがどういうことであるかをじぶんの言葉で言うのに、熱い自然を普遍的なものとして表現することに、ヴェイユの生きた歳月を要したことになる。ヴェイユさん、考えることの半分をあなたは充分にやったから、そんなに追い詰めなくていいんだよ、と声を掛けたい。
ヴェイユの言いたかったことを知的に理解するかぎり、ヴェイユの言おうとしたことを手にすることはない。意識の外延化された知のはるか手前に、人格のさまざまな表出の偉大な業績とはべつの匿名の領域がある。わたしはヴェイユが言おうとしたことが手に取るようにわかる。ヴェイユは親鸞の悪人正機の至近まで来ていた。それぞれの個性的な表現をしているが、親鸞も宮沢賢治もヴェイユも言葉の顔つきがちがうだけでほとんどおなじことを言っているとわたしは思う。

不在の神に向けて祈るとはどういうことか。神という人間の精神の夢が外化された信を否定する生の知覚が表明されている。不在の神に向けて祈るには自己を無にするしかない。もし自己が無限小でなければ自我はただちに空間化され実体化するからだ。可視化された主体は不可避に共同性を疎外し信の共同性をかたどることになる。どんな例外もない。この思考の限界についてヴェイユはきわめて自覚的だったと思う。この一瞬の欺瞞を目をつぶってやりすごせばレヴィ=ストロース的な知が可能となる。そのなかにいてそこを生きるときそのことがなんであるか対象化することはできない。身を出来事から引き剥がし距離をとると大衆の原像という社会思想ができる。意識の外延性はだれがどうやろうと生の不全感を生むことになる。どんな例外もない。この思考の隘路をくぐりぬけようとしてヴェイユは自己をかぎりなく無限小なものとして考えようとした。内面を際限なく無に近づけることによって自己を空間化することを拒んだということだ。自己をかぎりなく無に近づけることによって教会や国家や反国家の共同性を斥けることができる。それ以外に共同的なものを消すことはできない。おそらくヴェイユはそう考えた。ヴェイユが気づいて名づけた匿名の領域がどういうしくみになっているか意識の外延性では表現することができなかった。わたしはヴェイユが到達した匿名の領域を終わりの始まりとして言葉で取りだすのにヴェイユが生きた歳月をさらに必要とした。

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人格を媒介にした理念をヴェイユはどう理解していたか。解けない主題を解けない方法で解こうとする愚は犯していない。同胞たちが殺戮され、なにをやっても間に合わないという衝迫感がヴェイユにあった。彼女は「社会」主義的な思想を嫌悪し唾棄した。それほどヴェイユは切迫していた。思考の慣性が自然だとみなすことをヴェイユが受容することはなかった。人格と無人格という対比にはヴェイユの生々しい体験が生きている。

「人間的固有性にたいする尊敬を定義することは不可能である。それは単に言葉で定義することが不可能だというばかりではない。しようと思えば、多くのすばらしい概念は存在する。しかし、この概念がまた理解されないのである。思考の黙して語らぬ働きによって限界づけられているこの概念は、定義されることができないのである。
 定義することも、理解することも不可能な概念を、公の道徳の範とすることは、あらゆる種類の暴虐に道を開くことになる。
 一七八九年、全世界に向かって発せられた権利の概念は、その内容が不十分であったがために、それに委託された機能を遂行することができなかった。
 人間的固有性の諸権利について語ることによって、二つの不充分な概念を混合させてみても、われわれにとって好都合に事は運ばないであろう。
 もし、わたしにその許可があたえられ、またわたし自身がそれに興味をもつとしても、あの男の眼をくり抜いてはならぬ、とわたしを引き止めるものは、正確にはなにであろうか。
 かりに、かれがわたしにとってまったく聖なるものであるとしても、あらゆる関係のもと、あらゆる点において、かれがわたしにとって聖なるものなのではない。かれの腕は長い、またかれの眼は青い、あるいはまたかれの思考はおそらく平凡なものであろうというかぎりでは、かれはわたしにとって聖なるものではないのである。たとえかれが公爵であろうと、かれが公爵であるというかぎりでは、聖なるものではない。たとえまたかれが屑屋であろうと、屑屋であるというかぎりでは聖なるものではない。わたしの手をひきとめるものは、それらのものでは全然ないのである。(『ロンドン論集と最後の手紙』)

「『どうして人はわたしに害を加えるのか』というキリスト自身ですら押さえ切れなかった子どもらしい嘆きが、人間の心の底にきざす時にはいつでも、たしかにそこには不正が存在するのである」(同前)

 政権の獲得やその維持に専心している党派は、この叫び声の中に騒音しか聞きわけることができない。そのような党派は、この騒音が自派の宣伝の音量を妨げるか、あるいは反対にそれを増大せしめるか否かに従って、異った反応を示すだろう。しかし、いかなる場合でも、このような党派は、あの叫び声の意味を識別するために、鋭敏な、未来を予見する注意力をはりめぐらすことはできないのである。
 すぐに党派のやり方を模倣する諸団体についても、つまり、公の生活が党派の活動によって支配されている場合には、例えば労働組合や教会をも含めて、あらゆる団体について、より細部にわたって同様のことが言えるのである。
 もちろん、党派と類似の団体とは、いずれも知性の細心綿密さとは無縁である。
表現の自由が、事実において、この種の団体のための宣伝の自由に帰結する場合には、表現するに値する唯一の人間のたましいの部分は、自らを表現するのに自由ではないのである。言いかえれば、たましいのその部分は、全体主義体制におけるよりかろうじて少し多いくらいの、きわめて僅かな程度において、自由なのである。
 ところで、このことは、党派の活動が権力の配分を支配するようなデモクラシーの中で、つまり、われわれフランス人がこれまでデモクラシーと名づけてきた制度の中で起こりうる場合なのである。われわれがそれをどうしてデモクラシーと呼ぶのかといえば、実は、われわれがその他の形態を知らないからである。だから、別の形態を創造しなければならないのである」(同前)

聖なるもの、それは人格であるどころか、人間の中の無人格的なものなのである。人間の中の無人格的なものはすべて聖なるものであり、しかもそれだけが聖なるものである」(同前)

「無人格的なものの中へわけ入るために、人格的なものを超越することによってのみ、人間は集団的なものから逃れる。この時、人間の内部にはなにかが、つまりたましいの一部分があって、それにたいしては、どのような集団的なものもいかなる影響力をおよはすこともできないのである」(同前)

「最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中へ突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。あるいは、集団的なもののもつ危険は、人格の側の危険の、見せかけの、見る人の眼をあざむきやすい様相に外ならないのかもしれない」(同前)

「ある人びとがいて、その人びとの良心が別な証言を行なっているのに、外ならぬかれらの人格はかれらに聖なるもののある確かな観念をあたえ、その確かな観念を一般化することによってあらゆる人格には聖なるものがあると結論するとしたら、かれらは二重の錯覚の中に存在していることになる。
 かれらが感じているもの、それは正真正銘の聖なるものの観念ではなく、集団的なものが作りだす、聖なるもののいつわりの模造品にすぎない。かれらが自分たち自身の人格について、聖なるものの観念を体験しているとすれば、それは、人格が社会的な重要視(人格には社会的な重要視があっまる)によって、集団の威信とかかわりをもつからである。
 かくして、間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている。このような間違った一般化が、ある高潔な動機から発したものであるとしても、この一般化には十分な効力がないので、匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである。しかし、かれらがこのことを理解する機会をもつのは困難なことである。なぜなら、かれらはそのような機会に接することがないからである。
 人間にあって、人格とは、寒さにふるえ、隠れ家と暖を追い求める、苦悩するあるものなのである。
どのように待ちのぞんでいようとも、そのあるものが社会的に重要視され暖かくつつまれているような人びとには、このことはわからない」(同前)

シモーヌ・ヴェイユの生涯の最後に書かれた遺文は、わたしの生存感覚を貫いていて、実感としてわかる。他者の生存を私性の手段にはしないということ。人格の底にある無人格的なものは聖なるものであるとヴェイユが言うことがじかに響いてくるということだ。これまで安倍的なものと反安倍的なものが意識として同型であるということもたびたび書いてきた。主観的な意識の襞にある信は人格的な共同の信としてしか語られない。ヴェイユがここで言っているシンプルな理念を理解することができない者は百年生きてもわからない。わかる者にはただちにわかる。それほどかんたんなことをヴェイユは言っている。ヴェイユはいつもそのなかにいてそこを生きながら言葉を発している。複数の主体を提唱し、超人をねつ造し、発狂したニーチェを愛好し、けっしてニーチェのように生きることはしなかったハイデガーがニーチェを語ることはできる。ヴェイユその人と、ヴェイユを解説する者たちの関係とよく似ている。さまざまにヴェイユを解説することはできる。だれもヴェイユのようには生きないというだけだ。人と人はどうやったらつながるのかとヴェイユは短い生涯のなかで懸命に言葉を発した。人格は公共性として表明されるだけで、人間の固有性を人格の理念は提示することができないとヴェイユは言う。そのとおりだと思う。デモクラシーという共同幻想もそうである。「思考の黙して語らぬ働きによって限界づけられている」は、正確には、文明の外在史と精神の内在史という意識の外延性としてと言うことだ。どんな社会思想も人間の固有性を定義できない。それにもかかわず「どうして人はわたしに害を加えるのか」と叫ぶとき人には聖なるものがあるとヴェイユは断言する。ヴェイユは人格の底にある匿名性を聖なるものだと言う。無人格性とは意識の操作に拠らないということだ。だれのどんな生のなかにも聖なるものがある、と。匿名の聖なるものが存在するから人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない思考が表現されるとヴェイユは言いたい。無人格性は人格に内挿されている。フロイトの無意識がヴェイユの無人格性に対応しているのではまったくない。それがあることによってヒトが人となった由縁をヴェイユは説いている。意識の外延性では指さすことができないが、それは存在している。思考の限界の向こうに、ある聖なるものがあると。そういうことをヴェイユは心身をすり減らしながら考えた。

兄のアンドレとはべつの知をヴェイユはつくりたかった。おそらく秘められたモチーフとしてそれはあった。もうひとつ。同胞へのむごい仕打ち。燃え盛る共同幻想の猛威にさらされて狂気が乱舞する。なにをやっても間に合わない。このふたつにヴェイユの生は引き裂かれた。どうするか。ヴェイユは集団の狂気にたいしてマルクスほど能天気ではなかった。社会思想は大衆を仮構する。虚偽だとヴェイユの生存感覚は警鐘する。ヴェイユは一切の共同性をこばみ自己の生のなかに降り立つ。自我をかぎりなく無に近づけることで、内面化も共同化もできない出来事として聖なるものをつかもうとし、匿名の領域が存在することをつかんだ。それはとても音色のいい言葉だった。わたしも若い頃ヴェイユの言葉を読み鼓舞されたことを覚えている。ヴェイユの成したことはエックハルト以降の偉業だった。内包までほんのあと一歩というところまでヴェイユは来ていたことになる。自我を無限小にすることで自我を空間化せずに自我の底にある能動性に身を委ねたのだ。日本的な自然生成である自然への融即ではない。自然への融即は天皇制的なものとしてこの国ではあらわれる。ヴェイユがつかんだものはそういうものではない。それは秩序のなかでは無限小であるかもしれない。その無限小が領域であることをヴェイユは言えばよかったが時代がヴェイユに斟酌することなかった。意識の往路では語りえないことがあることをたしかにヴェイユはつかんでいた。往路で直感した存在の知覚を復路てひらけばよかったのだ。

意識の外延を内包として往還するのにわたしも長い歳月を必要とした。言葉が言葉を生きるときヴェイユの匿名の領域が生き始める。それを意識の外延性は指さすことができない。言葉が言葉を生きるとき言葉は性となる。自己は自我ではなく、自我が主体でもなく、自己が領域となる。領域となった自己は〔性〕である。内面という意識の必然を空間化することなく能動的にひらくことができる。そのとき親鸞の他力もまた内包化されることになる。他力のなかの他力が存在する。それが存在することをヴェイユにそっと耳打ちしたかった。大衆を仮構せずに自己の存在の低みから世界を生きようとしたヴェイユの当事者性。everything is broken ヴェイユの言葉が伸び伸びと生きるにはあたらしい言葉が必要だった。(この稿つづく)

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