日々愚案

歩く浄土212:アフリカ的段階と内包史2-宮沢賢治の擬音論2

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国家や政治や戦争のない、あるいいは交換による富を贈与に変えるにはどんな世界認識が要請されるのだろうか。適者生存という世界の無言の条理は人類史と共に現存してきた。この思考の慣性をどう変換すれば国家が喩としての内包的な親族に、交換は贈与へと転換するのだろうか。宮沢賢治の擬音はその可否を迫るものとしてあった。そこで擬音は信の共同性をつくるか、と問いを立ててみる。わたしより近いあなたとの固有の関係のなかで擬音は成りたつものであるから、信の共同性をつくることはない。そうすると、親鸞の他力や横超や自然法爾は親鸞と仏のむつみ言葉にならないか。そしてそのむつみ言葉は擬音ではないか。そうだとすると親鸞の思想は存在の複相性によって内包化される。きわどいところで親鸞の思想がのこしていた信の共同性は他力や横超や自然法爾を仏との擬音であるむつみ語とすることによって信の宗教性がほんとうの意味で解体される。宮沢賢治のほんとうのほんとうの神がこのことと対応しているように思えた。
もしもわたしたちが、個人としての個人と家族の一員としての個人と社会の一員としての個人、つまり、個人、家族、社会という思考の慣性にそって世界を構成するならば、贈与が交換に、氏族がやがて国家になるのは文明史の必然であるように思う。その必然としての文明がビットマシンの外延革命によって解体されようとしている。わたしたちが生きているのはそういう世界だ。個人と家族と社会という思考の慣性を担保しているのは同一性である。不思議なことに同一性は個人としての個人に委託されている。個人としての個人は同一性によって偽装されているにすぎないのだが、意識の外延化と共に意識のなかで可視化と実体化をうけ、あたかも自己が自己によって所有されると錯認された。この思考の慣性の下では、贈与が交換へ、共同性が国家へと編成されるのは必然であったといえよう。さらに個人という人格を媒介としないビットマシンによる世界システムの到来が転形期の文明史の混乱をもたらしている。人類史は対象とする世界を粗視化しながらいくつもの自然を遷移し、思考の慣性をかたどってきた。真理は時代と共に変遷し、しかし意識の外延性という思考の慣性が変わることはなかった。どうあろうとわたしたちの意識は同一性につなぎとめられてきた。ビットマシンは容赦ない。これまでの歴史が積みあげてきた生の営みになんの配慮もしない。生きていることを情報に分解し、情報というちいさな自然を交換の媒体とする。生の全円性は解体され情報へと還元される。この過程はまだ端緒であり、これからさらに熾烈な生の解体が進むだろう。

あるものが他なるものによぎられることがなければ、あるものはそのものとならない。あるものが他なるものに融即するという驚異によって、あるものは、ふたたびそのものへと回帰する。AがAであることと、わたしがわたしであることはまったく次元の違うことである。ビットマシンと生命工学、あるいは金融工学はかぎりなく生をA=Aの世界に漸近することを強いてくる。意識の外延性という思考の慣性をたどるかぎりこの過程は不可避である。わたしたちの生は情報のちいさな塊に還元される。これまでの人類史も、これから到来する新しい世界システムも信の共同性を拒むことができない。ビットマシンの外延革命のただなかをわたしたちは生きているということだ。

わたしたちの存在のありようは一義的だろうか。個人と家族と社会という存在の仕方は普遍だろうか。意識の外延性としてはそうだとしかいいようがない。ではバイロジカルな存在を措定してみる。意識の外延性は一瞬で意識の内包性に呑み込まれてしまう。記紀万葉の知見にうんざりするのは、日本的自然生成にむかって意識が収縮していくからだ。すでにできあがった思考の慣性を基にしてわたしたちの歴史意識や生のありようが記述されている。典型的な内省と遡行だ。わたしたちの意識のありようは母型的なのか父系的なのか、そんなことはどうでもいい。トッドの、人類の初期は核家族で、父系性や母系制でもない双方性の未分化なありかたが家族の基本であり、歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになることを発見するという気づきは、きわめて刺激的だった。
大きな思考の慣性の転換の可能性をトッドは示唆している。人類初期に核家族であり、長い歴史の過程を経てその歴の奥深さの果てに単に現在に再会しているのだとすれば、国家のない世界も交換ではなく贈与の世界もただちに表現可能となる。仏と懇ろになった親鸞の他力や横超や自然法爾は信を解体され、親鸞の思想は仏とのむつみ語になり、宮沢賢治の喩としての作品は擬音へと収斂する。生や歴史の猛烈な可能性がそこにある。親鸞は仏であり、仏の言葉は擬音へと解体される。自然法爾は「かべ いいいい い  なら いいいい い」であり、「デデッポッポ」なのだ。出来事の根源において言葉は本来、性でしかないから、性から生と歴史が生まれ、性に還っていく。存在をバイロジカルに、複相的に表現すると言葉は性となる。わたしたちは二様の存在の姿をもちうる。個人に担保された同一性を根源の性の分有者の深奥にある還相の性に返上すれば、意識の外延性と内包性といつでも往還できることになる。思考の慣性を拡張すれば、いつでもそれは可能となる。

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〔性〕は向こうにあるのではなくいつも同一性のほんのすこしだけ手前にある。その不思議が〔還相の性〕ということなのだと思う。このリアルを身が心をかぎる同一性に封じ込めるとき性は自己のなかに対幻想としてあらわれることになった。性を知覚しているのは自己であるから、対幻想のなかで自己は全的にではなく部分的にしか登場できないという錯認は根深い。いぜんとしてわたしたちはこの囚われのうちにいる。内包論では対幻想は往相の性と還相の性に拡張されている。意識の外延性が表現する対幻想の狭さについて、むかし書いた文章を貼りつける。

なぜ近親相姦の禁止にこだわるかというと、近親姦を禁圧すると理念として起源の国家が生まれるからです。血縁集団をどれだけ拡大してもそれはそのままでは国家にならないことをぼくたちは実感として知っています。ぼくは国家を経ない人間の関係のあり方の可能性を考えてきました。若い頃の身が凍るような体験を通じて共同幻想というものの怖さを身にしみて知っているからです。理念からそれを分かることはありません。身を持ってというしかありません。共同幻想は人の生をズタズタに切り裂きます。生を損なうのです。再起不能なほどに。共同幻想に良いも悪いもないのです。吉本隆明の共同幻想の定義からしてそうです。共同幻想は共同幻想であって、この理念に善いとか悪いとかないのです。
そのことについては言いたいことが山ほどありますが先を急ぎます。そこでネックになるのが近親姦なのです。太古の面々が氏族共同体から部族共同体に至るには観念の飛躍が必要です。そのためには近親相姦がなぜ禁止されたのかその謎をほどかないといけないのです。現に近親相姦は世の大勢ではありません。また国家は現存します。しかし理念としていえば、血縁集団を拡大したら氏族共同体まではつくれるのですが、氏族制が血縁集団であるかぎり、統一国家あるいは統一社会となりえないわけです。氏族制が部族制へと転化するには断層というか裂け目があります。近親相姦の禁止という一理があれば国家は誕生します。共同幻想の彼方に行くには近親相姦の禁止の謎を解き明かし、それを梃子にして共同幻想を経ない世界がつくれるのではないか、ぼくが考えたのはおおまかにはそういうことです。
国家形成のターニングポイントを吉本隆明はヘーゲルにもとめました(嘘だと思う人は「世界の大思想1ヘーゲル」樫山欽四郎訳『精神現象学』264頁下段及び265頁の下段を見てください。あらま、書いてあります)。例の兄弟と姉妹のあいだのセックスをともなわない性的親和感です。これでいける、と吉本は思いました。ここを認めてしまうと共同幻想の国家への転化は不可避です。うん、じつにうまく説明できる、そう吉本は考えたに違いありません。そのうえで吉本隆明はあらゆる共同幻想の消滅を唱えます。ぼくは共同幻想の彼方を構想してきました。吉本隆明の国家論を認めることはぼくのモチーフに反するのです。自己幻想を梃子にして共同幻想の消滅を遠望することと、内包存在を分有することで共同幻想の彼方を構想することはまったく異なる概念です。延々とそこを考えました。なぜ近親相姦が禁止されたかということについてレヴィ・ストロースは女性を交換の財貨とみなしました。やりたいけど我慢して値をあげると高く売りつけられると互酬制で考えたのです。バタイユも吉本隆明もそれはないぜとアタマにきたかどうかしりませんが、レヴィ・ストロースの考えを批判しました。

吉本隆明は「バタイユ論」で近親相姦の禁止について次のように言っています。

「〈氏族〉共同体からの個々の〈家族〉共同体の脱落、孤立、内閉こそが、〈氏族〉の〈部族〉への飛躍と、〈近親相姦〉の〈禁止〉を促した、とわたしにはおもわれる。なぜならば〈家族〉共同体の、上位共同体からの孤立は、いわば、意識的に〈性〉的な対象としての〈近親〉の異性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素直に(自然に)従えば、〈家族〉共同体は、崩壊の危機に見舞われただろうからである。ところで、〈家族〉共同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流浪することでもなければ、〈氏族〉共同体の直接のメンバーに転化することでもない。〈家族〉共同体の内部で自閉した対(ペア)に分裂することであり、それ以外の現実的な行き場所はないのである。つまり、〈家族〉の〈自滅〉そのものであり、どこにも、転化の契機をもたないのである。これを免れるためには〈近親相姦〉を自ら〈禁止〉するほかはない」(『書物の解体学』所収「ジョルジュ・バタイユ」)

暗号文に見えませんか。祝詞よりわかりにくいし、まるで呪文。この文面を何年も何年もくる日もくる日もじっと眺めたのです。よく友人にこれどういう意味だと思う、と尋ねましたが、答えは決まって、わからん、です。脱落・孤立・内閉の反力として氏族制は部族制への飛躍と近親姦の禁止をもたらしたと吉本は考えます。性の自然は家族の自滅に向かってもよいのだが、そうはならなかったことの根拠として近親相姦の禁止をもちだすのは、結果から特定の原因が探られているような不自然さがともないます。性という根源は硬直した因果論で説明されることではないように思えてなりません。この不自然さは吉本の性の定義の硬さと同根であるような気がします。たとえば、最初の性的な拘束が同性であった心性を吉本が「女性」と定義するとき、あるいは、「あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ」(『共同幻想論』)と規定するとき、なにものかを定義しようとする心性はすでに男性と女性を分割することを知っています。これでは二点を結ぶ最短距離を直線と定義するとき生じるトートロジーと同じことになってしまいます。定義されるべきなにものかを定義によって知られるものによって定義しては身も蓋もありません。未知のなにかを手にしたければ概念そのものをあたらしくつくるほかありません。なにより性が真っ先に問われねばならないのです。
性は、ぼくたちの知っている(自己意識の用語法による)男性や女性という名付けと相関はしますが、男や女という言葉によっては言い表しえない何かのように思います。吉本の性についての言説はいつもこの矛盾をあいまいなままやりすごしています。内包存在はそれ自身の内部に禁止や忌避という観念を、つまり倫理をもちません。だからそこには侵犯という観念もありません。内包存在は自意識と異なるしくみをもっています。そのことはとりもなおさず〈根源の性〉という出来事において意識=存在という対称性が破れていることを意味しており、言い換えれば、内包存在がそれ自体のなかに対自―対他構造をもたないということであり、そのためにそこには対自―対他意識のあらわれである禁止と侵犯が存在しないのです。
しかし内包存在は分有することでしか個体化されません。比喩としていえば、内包存在という手足が8本の存在は4本ずつの存在に分節されることで、個体となるのです。そうやって個体としてあらわれた人が、同じように分節された他の一人と向き合ってつくる磁場をぼくたちは事後的に「性」(対幻想)と呼んでいるのです。灼熱の光球であり、混沌としたエネルギーの塊は、喰い、寝て、念ずるひとびとの生活の知恵として秩序(安定)をめざしました。荒々しい驚異の湧出が狂おしさのあまり我が身を焼き尽くさないように、太古の面々は生存を維持しようとしてあるかたちに就くほかなかったのだと思います。それが家族だとぼくは考えます。つまり〈根源の性〉は、おのずと「性」と「家族」とを表現したことになるのです。
ぼくたちはここで家族という秩序を維持するために近親姦の禁止が導かれたと錯覚します。そうではないと思います。逆に、〈根源の性〉が家族に投射され痕跡として焼きつけられたことのゆらぎだと考えるべきです。〈根源の性〉はわたしたちの知る「性」と、性が営む「家族」に分節されたのですが、家族のなかに、倫理をもたない〈根源の性〉がおだやかなかたちで生きながらえたのではないでしょうか。対の内包には禁止や侵犯という概念はありません。その状態を同一性原理が禁止や侵犯と読み込んだわけです。近親姦がないということを自己意識の思考の習慣が「禁止されている」と認識するのです。むしろ近親姦の禁止という観念は、時代をはるかにくだった歴史の詐術だと考えたほうがいいように思います。自己意識のはじまりを宇宙に投影するとビッグバンモデルが考案され、自己意識のきりなさが宇宙の果てのなさに写像されるように、近親相姦タブーの謎は同一性の謎に重なり、由来します。ほんとうは同一性という意識の結び目こそがほどかれるべきことなのです。ぼくはそのように考えます。未開の種族が近親姦を禁止し、侵犯したものに咎を科すとします。掟破りの咎がどのようなものであるかは、〈根源の性〉の痕跡の度合いに比例していると考えられます。痕跡が強ければ、禁圧は強く、痕跡がかすかなら禁圧が弱く、というようにぼくたちには映ると思えます。事実ぼくたちがつくり叙述した歴史はそういうものです。ひとびとは、ある事態をまったく逆向きに見て解釈の体系をこしらえてきたのです。文化人類学の知見は眉唾ものと考えた方がいいように思います。ぼくの考えはそれらのことごとくと対立し、対立を包括し、ひとの関係のありようについてまったく新しい地平を切り拓くことになると思います。なんとなれば共同幻想の彼方をわたしたちは意欲しているのですから。
ありえたけれどもなかったものの未遂は、ないものをあるかのようにかたどったのです。ないものをあるかのように錯覚したとき、禁止と侵犯という規範が息づいてくるのです。禁止されるから、近親相姦を忌避するのではありません。血縁のしくみを維持するために近親相姦を禁圧したのでもありません。〈根源の性〉というひとつながりの全体をなす内包存在にもともと禁止という倫理はないのです。つまり近親相姦の禁止という観念が自己同一性を前提としているにもかかわらず、同一性の彼方の〈根源の性〉を記述しようとして、ひとびとは近親姦が禁止されていると理解したのです。近親相姦の禁止は、女性を財貨とみなし互酬性という経済の効用から解釈しようと、ヘーゲル由来の兄弟姉妹間の性的親和感に糸口を求めようと、内包存在という根源の性を同一性で刻むかぎり、永遠に謎であり続けます。逆にいえば、同一性原理さえあれば、理路はどうであれ、国家は形成できるということです。現に国家が存在し、近親相姦が世の大勢になっていないのですから。内包存在を獲取したことがヒトの画期的な転換点だったと思います。この内包存在をひとであることに埋め込まれた潜勢力であると考えています。(『Guan02』「第二ステージ」論 箚記Ⅱ)

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ずいぶんむかしに書いた文章を貼りつけたが、いくらか古めかしくて、そのとき気づいていないことがあるにしても、大意において、いま、現在の内包論と重なる。トッドの発見した、人類初期は核家族であったということは、べつの人類史の可能性を喚起する。人類学に大きな足跡をのこした幾人かの思索家や民俗学の研究者の事績の大半が不要のものと思えてくる。かれらはある思考の慣性を前提としてこの世の条理をなぞっただけだった。かれらがじぶんの世界認識を可能とした思考の慣性を疑うことなく、生や歴史は観察可能なものであると前提にされ、思考することの当事者性はどこにもなかった。そんなものをありがたく拝読してきたわけだ。俯瞰可能な現実があることを内包論の総表現者が認めることはない。わたしたちはだれもが総表現者のひとりを生きるのであり、そこでしか固有の生が可能にならないと考えるからだ。そのなかにいてそこを生きるときだけ、生は猶予ならぬものとしてあらわれる。なにより根源の性の分有者の生のなかに、一万年の人類史が直立して内挿されており、その根底を変わるだけ変わって変わらない根源のふたりが支えて、統覚している。べつの人類史が可能とならないはずがない。
性を基軸にして新しい世界認識の方法をつくるには、対幻想を自己幻想と共同幻想の媒介にするのではなく、対幻想それ自体を拡張することが要請された。観察する理性が要請したのではない。上弦でも下弦でもなく満月の生を全円性として描きたかったからだ。対の世界は世界のなかで人間が取りうる観念のひとつではない。それがあることによってヒトが人となった由縁が対の世界のなかにあり、母系制や父系性の親族とその外延がつくった国家と貨幣の交換というモダンな思考の慣性を拡張する機縁が根源の性の分有者のなかにあるとわたしは実感したからだ。わたしの構想している世界では対幻想は往相の性と還相の性という領域として存在している。固有名が固有名のまま匿名になる還相の性があるから、親鸞の自然法爾はわずかにふくらみ、宮沢賢治の擬音は性でしかありえない言葉の本来性を寓喩することになっている。
根源の性の分有者を共同化できるか。仏と仲良くなった親鸞の自然法爾を共同化できるか。宮沢賢治のむつみ語である擬音を共同化できるか。できるわけがない。できないから、根源の性の分有者の根柢にある還相の性によって、個人は一人称と二人称をふくみもつ領域としての個人に、国家という共同性は喩としての内包的な親族にただちに収縮する。わたしたちの知る思考の慣性が同一性の外延性をかたどったものであるなら、意識の外延性とはべつのまなざしは、内包によってもたらされる。近いうちに親鸞さんにお会いして、自然法爾は擬音ですかと訊いてみよう。仏とふたりだけで通じる擬音が自然法爾だというような気がする、面々の擬音をつくればいいではないか、それが念仏だ。擬音となったむつみ語が世界のすべてだ。それよりほかに信が解体される契機はない。おそらく親鸞さんはそう言う。

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