日々愚案

親鸞の未然5

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 無効となった一群の化石のような概念。たとえば、知識人と大衆、戦前と戦後、政治と文学、これらは日々を生きるうえに無効である。少しくらい無効ということではなくまったく無効です。こういう概念をいくらこねくり回しても、わたしたちの日々を生きていく力は出てきません。
 お坊ちゃんヤンキー首相安倍晋三はみずからのアホに任せてやりたい放題をやっています。マスメディアは政府の広報機関に成り下がり、唯々諾々と為政者の政策を丸呑みして報道しています。政府の施策に反感をもつ人々も世界についての構想力をなにも持ちあわせていません。あるのは安倍のやることなすことむちゃくちゃだという情緒だけです。というようなことを言ってもすっきりすることはなにもありません。  

 わたしは生の固有性という当時者性から考え、発言していくしか、日々をつなぐことはできないと思います。わずかでも固有な生の当時者性に言葉のすきまができると、我がことではない他人事があっというまに増殖します。オジジ・オババが口やかましく、日本はこのままでは駄目だと言います。暇つぶしの戯言です。そういうことによって退屈な日々を盛りあげようとしているだけです。血気盛んは借りものであり、ユニクロの千円のシャツ一枚にも劣ります。うだうだ言わずに昼寝がいちばんです。

 長幼にかかわらず気づいた人から、じぶんのからだでよく感じ、じぶんの頭で納得するまで考えるしかありません。そのとき一群の概念は固有の生に敵対するものとしてあらわれます。例外はありません。当時者性に徹するということはわたしの世界認識の根本をなすものですが、固有の生を生きることはさまざまなひずみを引きよせます。そのひとつひとつをじぶんで解いていくしかないのです。巷間の反戦や反原発や反政府に身をよせてそこから発言するよりはるかに困難です。
 敗戦・無条件降伏から69年。制度がひとりひとりの生を引き裂くことはあっても配慮することはないのです。ひとりひとりがこの困難な時代をしのいでいくしかないのです。

 吉本さんは大衆の叡智を信じるという信仰告白をしています。非信の思想家を自称しましたが、かれも信の人です。大衆の叡智を信じたいという気持ちはわかります。

(なぜ、そこまで大衆にこだわるのですか、という問いに答えて)ひとつには大衆の英知というのは基本的に信頼できる。大衆のいい部分も悪い部分も含めて、その凝縮されたものが、どうにか少しずつよくなっていくということが基本にないならば、歴史ってものはいらないじゃないか、と思うからです。(いずれも「大衆の原像」を求めて―吉本隆明氏に聞く『夕刊読売』1999年10月13日号の記事からの抜粋)

 大衆の英知にこと寄せして語られる歴史もうすでに解体されているというのは、かれとの1990年の対談時の実感でした。吉本さんの考えと関係なく、衆生の一人がわたしであること、わたしは大勢のなかのひとりであるということはたしかです。底上げしたわたしはどこにもありません。考えるときのわたしの立ち位置はここにあり、それいがいにありません。固有の生を生きぬくというのはそういうことです。そのときひととひとはどうつながるのか、ひとがひとにつながるというのはどういうことなのか、そのことには強い関心があります。

 フーコーにもよく似た考えがあります。皮肉も身体を貫く生権力という考えをつくったフーコーが自身の考えによって裏切られるのです。

 おそらく「平民」を、歴史のつねに変わりない基盤、あるいはあらゆる隷属化の最終的な目標として、あらゆる反逆の決して消し去ることのできない炉床として、理解すべきではないでしょう。おそらく「平民」という社会学的な実在はありません。しかしながら、ある種の流儀で権力関係を逃れる何ものかが、たしかにつねに存在しています。社会体のなかや階級のなかに、また集団とか、個人それ自体のなかにある。そしてそれは、多少とも従順とか御しがたいといった性質をもつ原材としてあるのではなく、遠心運動として、逆むきのエネルギーとして、そして逃げ道のようなものとしてある、何かなのです。
 おそらく、「平民」そのものは存在しないのかもしれませんが、しかし、なにか平民の「ようなもの」は存在しています。それは、われわれの肉体と精神のなかに存在しているのであり、個人やプロレタリアートのなかにある。そしてブルジョワジーのなかにさえあるのでして、形態や力、非妥協性において多様性をもって存在している。この平民的なものは、権力関係の外部にあるというよりも、権力関係の限界、権力関係の裏側、権力関係のはねかえりとしてあるわけです。それは、権力の進出にたいして、その進出からのがれようとして反応する、そういうものですね。したがってそれは、全く新たな権力網の展開の動因となるものです。・・・(略)・・・
 したがって、この平民的部分からの視点をとること、つまり、権力にたいして裏側の、限界からの視点をとるということですが、権力の仕組みを分析するためには、それがどうしても不可欠となります。(『ミシェル・フーコー』「権力と戦略」大木訳 106~107p)

 吉本隆明もそうだし、いくぶんかフーコーにもみられますが、大衆、あるいは平民をかたまりとしてとらえ俯瞰している。生の隅々まで浸透した生権力を現場に適用してみます。ケガをしたとき消毒することや血糖異常があればバランスのとれたカロリー制限食、というのはこの世の常識であり、真理概念としてあります。創傷と熱傷については夏井睦さんが、創傷も熱傷も湿潤環境をつくれば痛くなくはやく治るという常識と違う治療法を開発した。それはもう異論の余地なく確立した治療法です。なぜ夏井さんにノーベル医学賞が出ないのか。本気でそう思います。
 あるいは食後血糖を上昇させるのは糖質のみであり、食後高血糖と日内血糖値の乱高下が血管内皮を損傷するということは既知の医学知である。おそらくまだ全世界で耐糖能の異常にたいしては、バランスのとれたカロリー制限食を推奨するのが正系です。糖質ゼロという美しい理論をつくった釜池豊秋さんは異端であり、医者を辞め逼塞しています。かれは、迷妄のなかに生まれ、迷妄のまま死んでいくと言っています。けだし、名言です。これが医療の現状だ。

 さて吉本さんやフーコーさんが好きな大衆や平民はこのときどうふるまうか。大半は既製の医学知や医学治療に取り込まれます。医学の常識は非常識ということが多くあります。いまはネットで検索すれば情報を得ることは容易にできます。そのときどうするかは個々の判断です。大衆と知識人という論法は時代錯誤で間違った考えです。大衆と知識人という対位法でどうかなるほど世界の無言の条理はやわではありません。
 ケガや血糖異常なら夏井式や釜池式を取り入れられても、あなたがんです、それも相当に進行しています、いますぐ入院して治療しないと、二、三ヶ月後にどうなっているかわかりませんよ、と告知されたらどうか。頭の中が真っ白になり冷静な判断はおそらくできないでしょう。このとき知識人と大衆という分別の仕方は有効か。まったく無効です。どちらであれ、やすやすと制度の知に組み込まれます。それほどかように生権力は権能があります。ここにわたしたちの日々はあります。ここから目を背けた反原発も反政府も屁みたいなものです。病気は医者に治してもらうという信仰は偉大な虚偽です。自分で生き死にを決めない方が楽だからです。

    2
 役割論の二番手に京大実験原子炉助手の小出裕章さんに登場してもらいます。福島の1Fがメルトダウンしたときはネットでよく記事をみました。彼の発言を真剣に追いかけました。どうなっているかわからないときにとても助かりました。そのことに文句を言いたいのではないのです。よくかれは職責を果たしたと思います。でもかれの世界に対する感受性や理念は大嫌いです。かれはこれまでの世界の歴史は差別をする者とされる者ですべて記述できると言います。唐変木です。

水野「なかにはあの、先生のお友達、っていうんですかね。先輩の方で、もう大学をやめ
て、土木関係のお仕事に」
小出「(笑)」
水野「移って……」
小出「はい」
水野「って方もいらしたんですって?」
小出「はい、まあその……自分の生活を言い訳にしてなんか自分を、自分の生き方を正当化する、というかもうこれしかしょうがないんだというようなことは言いたくないと。自分の人生なんだから、自分……言い訳を作りながらやりたくないので。えー、言い訳を作らなければいけないような場所にいたくないと。それなら、初めから、そんなゆう、優遇されたところにいないで、土方になってしまえばいいと。」
水野「ふうーんー……。」
小出「といって土方になりました。」
水野「そのかた今どうしてらっしゃるんですか?」
小出「ええー、もう。私より二つ年上でしたので、もう、ええ……最後は鳶、とび職でしたけれども。まあとび職の親方になっていましたが。もう定年になって今は職……というのは、定年から造園業に転身して、造園をやっていますが。いまでも女川原子力発電所の反対運動の中心メンバー……です。」
水野「小出さんは、じゃあ、ご自分の生き方をどうしようと決断……また悩まれて、したんですか」
小出「ええ、私はその人がそうする時に、よく、その人の決断がわかった、のですけれども」
水野「ええ」
小出「でも……私はそうしないと、言いました、彼に。ええ……、私は、原子力の場に居ながら原子力に反対するという、役割を負う人間も必要だと思うので。この場に残ると、言って、私は原子力の場に残りました」(2011年10月17日 小出裕章氏が毎日放送「たね蒔きジャーナル」)

 かれは「役割」の必要性を明確に述べています。この役割ではひととひとはつながることができないのです。ひとがひととつながるということはそういうことではまったくありません。おそらく小出さんとわたしは同年代だと思います。だからかれのウソがすぐわかります。かれのウソはかれの欺瞞を覆い隠すための方便です。

 2001年の同時テロ直後にかれは発言しています。アフガン空爆のとき公然とブッシュを批判したのはわたしの知るかぎり吉本隆明と辺見庸です。あとの文化人は事態の推移を見守り右顧左眄していたことを覚えています。その時期にかれは勇気ある発言をしています。わたしはじぶんのかいくぐった体験から小出さんの発言を認めるわけにはいきません。

米国は「米国につくかテロにつくか」と世界に踏み絵を迫った。敢えて問われるのであれば、私は躊躇なく「テロ」に付く。そんな問いをするのであれば、一番悪いのは世界最強国による国家テロである。しかし、真に問うべきは「正義」か「テロ」かではなく、米国に対する底知れぬ憎しみが沸いてくる、その理由である」(米国の「正義」は強者の傲慢 2001年10月22日・記)

 当時わたしは身近な人から内心は快哉を叫んだでしょうと言われました。言下に、おれはアメリカもアルカイダもおなじだけ否定するね、と躊躇することなく言いました。わたしもおなじ時期に「テロと空爆のない世界」を書きました。いまも加筆と訂正の必要を認めません。小出さんは「理由」を傍観するだけでそこを生きたことがないのです。だから役割論に固執します。思想に役割論はありません。生の原像を還相の性で生き切るという当時者性しかないのです。かれが役割に誠実な自力作善の人であることは了解します。そしてそれだけです。苦界にあえぐ衆生を上から目線で語るとき、じぶんの目の中に塵があることに気づかないのです。

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