日々愚案

親鸞の未然4

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 還相の性はかなり幅のある考えだと思うようになってきました。もともとはわたしの固有の体験に発し、わたしにとってそれがないと生きていけないものとしてあるのですが、どうもそれにとどまるものではないと思い始めました。

 「還相の性と国家」を書くなかで、この世のしくみが変わることと、じぶんのあり方が変わることはどうじだと考えるようになりました。まだだれも言っていないと思います。

 身体を貫く権力を生政治として緻密に分析したフーコーの思想がニヒリズムだとすると、なにをわたしたちは対置すればいいのかというきわめて状況的な課題があらわれてきます。フーコーの生政治の視点は吉本さんの思想には欠落していて、理念としてのふつうを歴史の動力とみなす思想はなんとも牧歌的です。大衆という理念が迷妄そのものです。
 わたしは根源の性と、根源の性の分有者と、分有者に内在する還相の性を対置したいと思います。この世のしくみが変わることとじぶんのあり方が変わるもっとも中核となる概念が還相の性ではないか。ここから国家のない世界がみえてくるように思うのです。

 問題はだから、還相の性という譲渡不能の出来事から世界をどう編み直すかということになります。ヴェイユの匿名の領域もそのままでは歴史の概念にはなりません。かつてわたしは根源の性の分有者ということを考えました。この出来事のなかにはハイデガーの存在と存在者のあいだにある存在論的差異はありません。その余白がないのです。根源の性と分有者は不一不二でしかも不可逆の関係です。そのことについてはすっきりしました。
 ところがイエスや親鸞もうまくやれなかったことがあります。この理念でさえもイエスや親鸞の思惑からはずれて信の共同体をつくってしまうのです。信者や信徒どうしの相互の関係は神仏の信に拠りながらもこの世の似姿をつくりあげます。野蛮なイスラム国もそうです。迷妄のかたまりです。
 だからヴェイユは匿名の領域を手にして不在の神に祈り、親鸞は浄土教の教理を解体しました。おそらくヴェイユの不在の神はキリストの神ではなかったと思います。親鸞は他力だけを説きました。

 世界に内属しながら、この世界に内属しないというヴェイユの指さしは、自我は起源に先立って他者へと結びついているというレヴィナスとおなじトートロジーを抱え込みます。自己意識の外延表現に就くかぎり抜け道はないのです。表現に対する態度の変更をながいあいだわたしは内包表現といってきました。自己意識の外延態をひらくと内包表現になるのです。このとき自己存在は根源の性の分有者であるから、言いかえれば、内包存在を基にした内包表現というものが、自己意識の外延表現の拡張型としてあらわれます。つまり外延表現と内包表現はあたかも自然数と有理数の関係に比喩される。わたしたちの思考の慣性が思考の余白に出で立つことを押しとどめているのです。

    2
 このノートはむろん、状況に錘鉛を下ろすことも意識しています。
 自力作善を推奨する人が善良な人であることはわかります。そしてそれだけです。人びとの善意の総和によってこの世のしくみが変わることはありません。親鸞の悪人正機説の逆理です。歯の浮くような善行程度で世界の無言の条理に歯が立つことはないのです。自力作善の人たちはこのことに気づきません。そのように生きているからです。

 役割を演じることや代理することの欺瞞について少し書いてみます。特定領域の知識人の役割を強調したフーコーの思想に対する批判を念頭に置いています。世界を占う普遍的思想家の時代から特定領域の知識人の果たす役割への転換をかれは推奨しました。わたしは特定領域の専門家はたんに実務をこなしているだけで、そこにはどんな世界観もないと判断しています。世界認識の方法ぬきに世界を論じても仕方ないと思うからです。いぜんとしてわたしは世界認識の方法をこそ問うべきだと考えています。
 これから扱う三者の思考の型の類縁性をとりだします。それは代理や役割論という偽善そのものです。三者とも、いずれも市民社会の善悪観に回収されるようになっています。そんなものが世界の無言の条理に届くはずもないのです。その程度のことでこの世のしくみが革ることはないという実感があります。
 日々をつなぐ元気の素はここにはなにもありません。できたら素通りした方がいいと思います。偽善の文化言説には、ひととひとがつながるとはどういうことかについてなにも語られていないのです。内面化した〈わたし〉を社会化して語るだけです。

 アフガンでボランティア医療活動を行ってきた中村哲という人がいます。20年以上前になりますが、友人から『ペシャワール』通信を借りて読んだことがあります。若い頃にじぶんが為してきたことと重なることがあり、熟読玩味し、「中村哲論」を書きました。それから長い歳月が経ちましたが、そのなかで書いたことはそのままいまでも通用すると思います。「中村哲論」を書いた当時のわたしの心境はつぎのようなものでした。

「たとえどんな生涯であれ代理不能のふかく刻みこまれた固有の体験というものがある。それは言葉に最も遠い場所だ。書けぬことも書かぬこともある。〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕という表現の格率から、〔わたしは〈性〉である〕という内包の知覚に至る、わたしの三〇年を賭けて、原口論考の感想を走り書きする。一人でながいあいだ戦争をやった。時代がうねって渦巻いた、避けようのない、昏い、仁義なき戦いだった。船戸与一や笠井潔やトマス・ハリスの小説よりもサイコでハード・ボイルドだった。終戦も手打ちもどこにもなかった。じぶんのすべてを賭け、殺されても殺してもゆずれないこととしてそこを潜るほかなかった。不意の一撃にそなえ全身を眼にした二四時間。麻紐の滑り止めを巻きつけた一尺の肉厚鉄パイプをブルゾンの袖にしのばせ、灼熱の夏にボルトナットを縫いこんだ皮手袋を身につけ重ねた十数年。それがじぶんがじぶんであることのすべてだった。書くということはどこか遠い世界の出来事だった。そうやって十数年を生き延びた。それでもアタマのなかが一瞬で真っ白になる出来事のまえでおれは能面になった。迂闊だった。書かぬことも書けぬこともある。一九八六年、三六の歳だった。自殺する人がやたら元気に見えた。じぶんがそこらに転がっている石ころとおなじみたいで一切の感情がなくなった。コトバも消えた。死でさえ余裕がありすぎた。おれたちの連合赤軍としてひきうけた一九七三年春の昏い衝撃も吹き飛んだ。Jumping Jack Flash! そしてわたしはビッグピンクにさわった。そこから内包表現論をはじめ、一〇年が過ぎた」(『guan02』14~15p)

 私自身はすでに部外者でありえなかった。私もまた、死者のまなざしに脅える者のひとりである。少なくとも目前で展開されたこれらの事実を、軽々と器用に総括することができなかった。しかし今、生者の破局的な営み、死の力の跳梁を全世界に見るとき、犠牲者になり代わって、「自覚なき生者の驕り」を伝えずにはおれない。同時に、内戦で逝った二〇〇万の魂を鎮める祈りは、人が根底で共有できる希望を分かちあうことで、真実となると信じうるからである。「ケララ村の惨劇―生きるもの驕るなかれ」(「ペシャワール会報」no41 1994年10月26日)

 「私自身はすでに部外者でありえなかった」という言葉、これはわかります。1973年春にわたしが抱え込んだやっかいな事態そのものでもありました。しかしかれの「内戦で死んだ200万の犠牲者になり代わって」というのは欺瞞そのものです。どうであれかれは荒れ狂う殺戮の狂気の傍観者にすぎません。昔わたしの書いた文章を貼り付けます。

 中村哲が「私自身はすでに部外者でありえなかった」と書くことに二年間拘泥してきた。彼のアフガニスタンでの仕事のすべてが、ある意味でここに集約されているとわたしは思う。深みにはまった部落解放運動が雪崩をうって敗退していくとき、わたしもまたすでに部外者ではありえなかった。一九七三年の春だった。「ケララ村の惨劇」が出現した。ここに至る愚劣とその後の十数年のあいだに遭遇した惨劇は百億の夜のように、今でもまだなまなましく、思いだすと血の気がひいて意識がこわばる。言いようのない、痛切な、一人の戦争だった。まだわたしはそこに立ちつくしている。
 「ケララ村の惨劇」に喉元が凍りつく。「復讐は伝統的な掟である。わが地元ゲリラたちも、旧ソ連=政府軍に対して、過酷な報復を行った。政府軍に協力する村落を襲撃し、一挙に数十名を殺戮した例も珍しくなかった。捕らえられた政府軍兵士は、彼らが行ったと同様に、鼻や耳をそがれ、恐怖の極限で処刑された。公衆の面前で、ナイフで生きながら捕虜の首をはねる光景も、普通に見られた」
 復讐と生は分かちがたく結びついている。なんどか…、命のやりとりがあった。内包表現論は、Jumping Jack Flash! 、おう、嵐のなかから生まれた。

 美しい言葉だが、言わせてくれ、美しすぎる。自他未分の無音の風圧のように息づくなにものかがこう中村哲に言わしめているのは、むろんよく承知している。嘘を中村哲が言っているというのではない。しかし中村哲が、凍りつき打ちのめされ、生身を引き裂かれ背筋を喪った、そのただなかで心の底の底から彼の身をよぎったことではないにもかかわらず、そのことを書けてしまうことができすぎなのだ。彼は人の深みで息づくなにものかをたしかに知っている。しかしほんとうには鷲掴みにされたことがない。凍りつくこともなく、心臓を貫かれることもなく、言葉ではないそれにどうして触ることができるのか。原始キリスト教の伝承されるイエスは、聖句として遺されているわけではないが、この苛烈と逆理を身をもって生きたのではないかとわたしは思う。それは言葉で記すことではない。『歎異抄』の親鸞においてもなお。書かれぬ、苛烈が、そして言葉が、ある。それは文字としては、けっして書かれてはいない。聖句や経文が心を打つのはそのためだ。
 何が「健全な生きる意志」であり、「希望の灯」とは何のことか。危うい罠だ。知者の見聞は出来事を一般化し俯瞰を可能にする。中村哲のからだのどこからこの言葉が生えてきているのかがわたしには見えない。わたしの老眼のせいではない。度重なる復讐と殺戮の応酬に疲れ果て、やむなく生の再建に向かったというのが実状だろうと思う。「復讐という血なまぐさい掟を緩和した」のはおのずからなるひとびとの生活の智恵にほかならない。
 敵に屠られ、歓喜のうちに敵を屠り、やがて為すすべもなく生をたどりなおすという「自己に内在する矛盾」を、「被造物としての低さ・謙虚さにおいて、確かにとらえていた」と感受するのは、まぎれもなく中村哲がそうするのであって、復讐の殺戮を担い、むなしさに襲われた彼らがどうであったか訊く理由を持たない。まして内戦で逝った二〇〇万の犠牲者になり代わることはできぬ。(同前 34~36p)

 わたしは極限代理主義の倒錯を身をもって体験し、そこから身を引きはがし、一切の負債を我がこととして一人で返済した。以後40年、他者の代理をしたことは一度もない。中村哲がやることをわたしはやらない。譲れぬこの一点にわたしは思想の全重量を賭けてきた。中村哲に代表される人道主義の欺瞞についてこれ以上語ることはなく、かれらの思考の型についてはわたしの批判で尽きている。

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