日々愚案

親鸞の未然1

 世界の無言の条理についてよく考えます。秩序の生のままの存在といってもおなじことです。さまざまな思想や哲学、つまりは文化的言説がたくさんありますが、これまで人々は世界の無言の条理を突き崩すことができていません。それはどうしてなのだろうかと思います。

 人と人はどうつながっているのか、人が人とつながるということはどういうことかについてながく考えてきました。内包論の根本モチーフです。

 たまたま見つけたネットの記事に、ガザの少女の言葉がありました。
 「私は今夜死ぬかもしれない」
 16歳の女の子です。
 言いたいことが刺さってきます。

 

 すぐにレヴィナスの一節を思いだした。レヴィナスの「旗なき名誉」に似た言葉があります。

戦争がおわってからも、血は流れつづけている。人種差別、帝国主義、搾取は依然として情け容赦ない。諸国民は、人間たちは憎悪と侮蔑にさらされ、悲惨と破壊を恐れている。
けれども、この犠牲者たちは、少なくともその虚ろな眼をどこに向ければいいのかは心得ているし、荒涼とした彼らの居場所も世界に属していることに変わりない。万人の認める意見が、異論の余地のないかずかずの制度が、そして〈正義〉なるものが蘇っている。さまざまな言説のなかで、文書のなかで、学校のなかで、善はいかなる条件のもとでもつねに〈善〉であるものと合体し、悪はいついかなるときにも〈悪〉であるものと化す。暴力があえてその名を明かすことはもはやない。これに対して、一九四〇年から一九四五年までの時期にあって他に例を見なかったこと、それは遺棄であった。いつもひとはひとりで死に、不幸な者たちはいたるところで絶望していた。たったひとりの者たちと絶望した者たちのあいだにあって、不正の犠牲者たちはいつでもどこでも、もっとも悲嘆にくれ、もっとも孤独な者たちだった。しかし、ヒトラーの勝利―そこでは〈悪〉の優越はあまりにも確固たるもので、悪は嘘を必要としないほどだったのだが―によって揺るがされた世界のうちで死んでいった犠牲者たちの孤独がおわかりだろうか。善悪をめぐる優柔不断な判断が主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださないような時代、いかなる兆しも外部から訪れることのない時代にあって、自分は〈正義〉と同時に死ぬのだなと観念した者たちの孤独がおわかりだろうか。
 諸〈制度〉の空位もしくは終焉だろうか。さながら存在そのものが宙吊りにされたかのようだ。もはやなにひとつ公式のものはなかった。〈人間〉の諸権利も。いかなる「左翼知識人の抗議」も! 一切の故郷の不在、フランス全体の休暇だ! どの教会も黙りを決め込んでいる!(『固有名』合田正人訳「無名/旗なき名誉」185~186p)

 イスラエルのガザ住民の虐殺の報道をネットの記事で見知るとレヴィナスの思想も無効だと思ってしまう。レヴィナスもまた文化人の文化言説の人だと思います。いまわたしたちが迎えているこの国の現状を世界規模の鎌倉時代に譬喩するとき、吉本隆明の思想もフーコーの思想もまったく無力であるという前提から内包論を始めています。

 レヴィナスもヴェイユもアーレントも思想を詰め切れていなかったのだと思うのです。思想の言葉が秩序の無言の条理に刺さっていません。レヴィナスやヴェイユやアーレントの言葉の詰め方にはまだ甘さがあり、ことばが始まる場所についての峻烈な思考が不足していると感じています。

 家族全員をアウシュビッツで喪ったレヴィナスが言う。

それでは人間の複数性ということはどうなるのでしょうか。他者のかたわらにいる第三者は、そして三者と共にいる他のすべてのひとたちはどうなるのでしょうか。私と対面している他者へのこの責任、隣人の顔へのこの応答は、第三者を無視しうるのでしょうか。第三者もまた私の他者ではないでしょうか。第三者もまた私を見つめているのではないでしょうか。
他者の責めを負うべく呼び出された自我は、他者のための責任に向けて選ばれ、あるいはその責任によってある精神性を余儀なくされます。(これこそおそらく慈悲であり慈愛なのです)。私はこの責任によってある精神性を定義します。今や、この精神性のうちで、私は比較を余儀なくされます。私は比較不能な者たちを、唯一者たちを比較しなければなりません。これは「各自は自己のために」への回帰ではありません。そうではなく他者たちを判断しなければならないのです。顔との出会いにあっては、判断する必要はありませんでした。なぜなら唯一者としての他者は判断されることなく、ただちに私に優先し、私は彼に対して臣従するからです。しかし第三者が出現するやいなや、判断と正義が必要になります。隣人に対する絶対的義務というまさにその名において、隣人が要請する絶対的臣従を放棄せねばならないのです。ここに新たな秩序の問題があります。この秩序のために、制度や政治が、すなわち国家の全骨格が必要なのです。私が言う国家とは自由な国家のことです。つまり他者の顔の要求に対して自分が遅れてしまっていることをつねに心配している国家のことです。自由な国家、それは国家の基本的カテゴリーであって、偶然的で経験的な可能性ではありません。自由な国家は、みずからの制度を超えて、人間の権利の探求と擁護の正当性を、たとえその正当性が政治を超えるものであったとしても、それを認めるのです。それは国家の彼方に広がる国家です。それは正義を超えた呼びかけです。この切迫した呼びかけは、不可避的な正義の過酷さに付加されるべきあらゆることがらからの呼びかけです。(『われわれのあいだで』合田正人・谷口博史訳 298~299p )

万人の万人に対する戦いは人間たちを法治国家の建設へと導きます。法治国家においては、他の全員も同一の一般原則に従うたてまえですから、私たちもそれに従うような一般原則がうち立てられます。こういったことはすべて「人間が人間にとって狼である」ような状況にまた戻ってしまうのを怖れるからこそ成り立つわけです。では、いったいなぜ「人間にとって狼でないような人間」、「つねに自分がその責めを負わねばならないような他の人間について有責である人間」というような観念にこだわる必要があるのでしょうか?〈国家〉における律法の普遍性―それは個別的存在に向けてふるわれる暴力です―はただたんにあるがままに放置されているわけではありません。というのも、〈国家〉が自由意志にもとづいて構築されたものであるかぎり、〈国家〉の律法はいまだ完成したものではなく、現行の正義よりもさらに義なるものとなりうるからです。こう言ってよければ、〈国家〉の基盤となっている正義はまだ未完成な正義であると意識することです。(『暴力と聖性』内田樹訳 159p)

 国家の彼方の国家、正義を超えた呼びかけ、切迫した呼びかけがイスラエル軍によるガザ住民の虐殺となっても、殺戮される側は不可避な正義の過酷さに耐えるべきなのか?
 レヴィナスの論理ではそうなります。ハイデガーを根底から批判したくてレヴィナスはかれの哲学をつくりました。「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」とレヴィナスは語った。かれはカウンターとしてしか神を語っていません。その隙間にガザ住民の死が呼び込まれる。わたしはそう思います。

 かろうじてヴェイユの不在の神が世界の無言の条理について持ちこたえているようにみえます。
 ヴェイユはなぜ不在の神と言ったのだろうか? 不在の神という言い方で信の共同体を超えようとしたのではないか。おそらくおなじことを知覚しながら、わたしはヴェイユとちがう言葉でここをひらこうとしている。わたしはヴェイユより少し考えを進めることができると思うようになった。ヴェイユが神ではなく不在の神というとき、不在の神は還相の性と言い換えられるのではないか。ヴェイユにも、人と人はどうやったらつながるか、人と人がつながるとはどういうことかという根源的な問いがあった。

無人格的なものの中にわけ入るために、人格的なものを超越することによってのみ、人間は集団的なものから逃れる。このとき、人間の内部にはなにかが、つまりたましいの一部分があって、それにたいしては、どのような集団的なものもいかなる影響力を及ぼすこともできないのである。(略)
集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団がおかしてはならないなにかがある、ということを集団に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚構によるのでなければ、「だれか」というような人間的存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、存在しない。集団に向かって語りかけるというようなことは作りごとである。さらに、もし集団が「だれか」というようようなものであるなら、集団は、自分以外のものは尊敬しようとしない「だれか」になるだろう。
その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。(『ロンドン論集と最後の手紙』田辺・杉山訳 15p)

 集団は空虚であり、抽象的であり、人間的存在ではないというヴェイユの覚知は吉本隆明の共同幻想という概念でひとくくりすることができます。問題はその先なのです。

 イスラエル軍によるガザ住民の虐殺、ウクライナでの米ロの暗闘、中華政府によるウイグル族の殺戮、そしてこれからこの国で起こる出来事を念頭に置いて書いています。

 二つの勢力が武力で衝突したときどちらに義があるか判定不能です。共に正義を主張します。もちろん当事者として傍観する第三項はありえません。なぜそうしかならないのか。思考の慣性を根源でひらくしかないと思います。間違っても民主主義を未完のプロジェクト(高橋源一郎)とみなすことで口を拭うことだけはしたくありません。

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