日々愚案

歩く浄土205:情況論68-なぜ戦後理念は総敗北したのか1

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今回の衆議院選挙はこの国のあり方を大きく左右することになる。安倍政権の国策による北朝鮮危機で与党への投票の集配を謀っているアベシンゾウという戦争機械の勢いがつけば緊急事態条項が改憲に織り込まれることになるだろう。アベシンゾウという戦争機械を嫌悪することにおいて人後に落ちない。ここでとりあげる情況論は、アベシンゾウ的なものと、反アベシンゾウ的なものが理念としてまったく同型であり、いずれの理念を奉じようとこの国の瓦解を止めることはできないという危機感に端を発している。反安倍的なものが迫り上がってもこの国ありようがまともになるということもない。みぞおちに良心をもっている文化人たちが考えているよりも、もっとこの国は壊れている。投票行動は面々のはからいであるとしても、戦後総敗北ということは政権与党であれ、政権与党を批判する側であれ、なにも変わらない。この国のことだけでもない。先進国の大半が失墜途上国化している。そしてそれらの国は国家をひらくのではなく、国家と精神を内面化し、コンピューターサイエンスとライフサイエンスが相互に作用するビットマシンによる意識の外延革命がもたらす文明史の転換に抗しようとしている。べつの言い方もできる。国家という共同幻想がグローバルな貨幣という共同幻想に駆逐されようとしているのが現在ということだ。

わたしたちは、人は根源においてふたりであるという生の知覚を基軸にした世界認識をつくりつつある。この世界構想によって人類史を巻き直すことができると考えている。人間に関するすべての事象を根源的に思考し、生のありようや人と人の関係を拡張することは容易ではない。いまでは生は経済的にカテゴライズされた貨幣に換算されるものでしかない。畸形的であり倒錯的な悠久の時代を重畳することで人びとの生活の叡智が積みあげられてきたが、その生が人格を媒介にせずに直接、生に介入するしくみがテクノロジーによってつくられつつある。内面と外界という精神の形式はビットマシンの外延革命を受け入れ、その流れに沿って人間という概念を再編成するだろう。ある理念を観念にとっての自然として受容すると、強大な思考の慣性が駆動する。いうまでもなく思考の慣性は共同幻想である。この思考の慣性からさまざまな共同幻想が派生し遷移する。ここに本当の意味での世界の危機がある。ビットマシンの外延革命も「社会」主義の進化形であり、まして既成の「社会」主義理念でこの危機を回避できるわけがない。わたしたちの日々はみぞおちに良心をもつ者たちが考えるよりはるかに壊れている。

認識にとってのある自然を人々が観念の自然とみなすと、そこにおおきな思考の慣性が作用する。そのひとつに人間は社会的存在であるという観念がある。貨幣は鋳造されたが社会的存在は鍛造されてきた。社会的存在という思考の慣性は、歴史の長い時代を通じて畸形にみちた倒錯の果てに、内面と外界という精神の形式としていまも生きられている。個人としての個人は社会的存在としての個人よりおおきな存在であるにもかかわらず、社会的な存在としての個人は個人としての個人が圧縮されたものとしてしか存在しえない。まさに法と秩序のあいだの和解は永遠の夢だ。
宗教や法や国家や貨幣が共同幻想であるように、社会的存在という観念も共同幻想である。マルクスは生涯、人間の個的な生存がどうじに共同的な生存となることを幻視し、類的生活を身を焼くように渇望した。吉本隆明は三人以上の人間の関係は共同幻想としてあらわれると定義し、あらゆる共同幻想は消滅すべきであると激しく主張した。マルクスの思想も吉本隆明の思想も、解けない主題を解けない方法で解こうとしたと言える。マルクスの思想も吉本隆明の思想も「社会」主義的な思想だからだ。人間の存在のありようを社会的な存在とみなすかぎり社会が必然としてはらむ矛盾を解くことはできない。

片山さんは「社会」主義的な思想が抱え込む解けない課題について次のように発言している。「人は『なぜ』によってつながることはできない」「『なぜ』は各自のものであり、一人ひとりの『なぜ』は生まれも育ちも異なっている。『なぜ』という疑問詞とともに、ぼくたちはばらばらな生を生きると言ってもいいかもしれない。『なぜ』は生まれながらに孤独である」(「小説のために 第十話」)人間の存在を社会的な存在とするとき、一人ひとりの生は引き裂かれ、不遇感の最大公約数が人格を媒介に公共化される。個々の生は人格という抽象化された一般性として疎外される。それは曲がりくねった人間の歴史の輝かしいひとつの到達点だ。それでもわたしたちの生のなかにある不全感が解消されることはない。片山さんとの集中した討論はもっと先まで行っている。なぜが消える地平で、ほんとうはわたしたち一人ひとりはもともとつながっている。ばらばらで生きているように見えても、生の根底でわたしたちは、いやおうなくおのずからつながっている。存在することのはるか手前に、奇妙なことに人はもともと根源のふたりという内包的な存在として存在している。天空を遊弋する新しい鳥たちの棲まう場所のことを内包自然と呼んできた。社会的な存在というモダンな人類史がかたどった外延自然は存在を内包化することで巻き直すことができる。だから知識人と大衆という生を分割支配する権力ではなく、総表現者という理念を提起してきた。内面と外界という精神の範型は内包存在と総表現者という理念で根底から拡張することができる。

人と人は、なぜや、不遇感や不全感でつながることはない。個人としての個人と家族のなかの個人と社会のなかの個人はてんでばらばらなのだ。内面と外界という精神の形式で引き裂かれた生をつなぐことはできない。わたしは内面と外界という精神の形式のことを自己意識の外延表現と呼んできた。マルクスや吉本隆明の思想もこの意識の系列に属する。もっといえば、意識の外延表現を知識人と大衆という生を分割する権力によって、わたしたちの生が統べられてきたということだ。内面はその生に供与されたささやかな慰めである。有史はこの思考の慣性に沿って描かれてきた。人間を社会的な存在であると規定するかぎりこの制約から逃れることはできない。ある思考の慣性が描いた文明は、それが古代文明であろうと現代文明であろうと本質的にはなにも変わらない。かつては王を補弼する司祭階級が衆生の生を采配し、いまはコンピューターサイエンスとライフサイエンスが人びとの生を細切れにして統治している。天然自然由来の人の生はテクノロジーによって分割統治されている。この迷妄を破ることがきるか。内包論はかんたんにできると主張してきた。社会的な存在として可視化される生のはるか手前に人は内包存在として存在しているからだ。始まりがあって終わりのない、しだいに深くなる渦のような内包的な意識が、悠遠の太古から、そしていまも絶えることなく現存しているということだ。

わたしは出来事の当事者性ということにながくこだわってきた。じぶんの体験を観察することができなくて、それは骨身にしみる皮膚感覚のような生の知覚としてあった。そのなかにいてそこを生きているとき、そのことを観察することはできない。つまり、体験したことを内面化することも社会化することもできなかった。ある体験の固有性を物語として語ることができるか。内面化という言葉で体験の固有性を抽出することはできない。体験の固有性は内面化を突き破ってしまうのだ。ここでもわたしたちは思考の慣性に出会う。思考の慣性は、観念が対象とする観念を、認識にとっての自然とみなすことによって成り立っている。内面と外界はセットになっており、この意識は不可避に社会化される。主体は実体ではなく他なるものによぎられることによっておのずから表現される。自己を表現するのではなく自己は一方的な受動性として表現されるのだ。この機微を内面と外界という精神の形式は表現できない。わたしはこのセットになった表現の形式を意識の外延表現と呼んできた。個人としての個人を外界に言葉で汲み出すことができるか。わたしはできないと考えた。少なくともわたしはできなかった。なぜ語りえぬことについて沈黙するのか。内面という社会化された意識のありかたでは体験の固有性を表現できないからだ。おそらくわたしたちの精神の古代形象が根源のふたりから離脱するときに心身一如が巻き込んだ身体性にその起源があるのではないかと思っている。政治と文学という粗野な意識の形式でわたしたちの生の固有性を表現することはできない。生は徹底して個別的であり、生の固有性は、内面化とは比類を絶するものとして、内包的に存在している。また、わたしたちの心身を包む人格という媒介によって根源のふたりを措定することはできない。

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守りたいのは保身という私性そのものなのに、アベシンゾウがモリカケから逃げまくるために衆議院を解散する。北朝鮮の脅威を煽り立て「国難からこの国を守り抜く」と粉飾する。わたしもアベシンゾウを嫌うことにかけてはみぞおちに良心をもつ人たちと変わらないが、アベシンゾウ的なものを嫌悪することで安倍晋三的なものとべつのまなざしをつくることはできない。存在を社会化するかぎり、奴は敵だ、奴を殺せという政治から抜けでることできないからだ。いま目にしたホットなことを書く。内田樹が「立憲民主党、共産党、社民党のどれにしようか迷いましたが、今回は立候補取り下げで野党共闘を成し遂げた共産党の『痩せ我慢』に一票を投じました。立憲民主党と社民党にはドネーションで協力します。(^_^;)”」(2017年10月18日)とツイートすると、即座に共産党の書記長の志位和夫が「心から感謝します」と応答する。この応答がアベシンゾウ的なものを下から支えることになっている。社会人間の善人ごっこが安倍的なものを存立させているということ。内田樹と志位和夫の応答は政治そのもので、アベシンゾウ的なものよりいくらかましであるということはない。まったくおなじだけ愚劣である。数少ない読者の皆さん、喉ごしのいいやりとりに騙されてはなりませぬぞ。アベシンゾウ的なものと、アベシンゾウ的なものを嫌悪する主観的心情は意識の型においてまったく同型である。悪政を指弾する者たちのみぞおちにある良心という文化的雪かきがこの国の崩壊を下から支える政治として機能している。どちらの政治に正義があるか。ふたつの共同幻想が激突するときどちらに信があるか。判定不能である。面々のはからいというしかない。わたしは政治のない世界の構想力だけが生を伸びやかな場所に誘うと思っている。

戦後の理念の総瓦解という状況に直面している。特別機密保護法から安保法制(戦争法)を経て共謀罪が成立し、改憲の緊急事態条項が現実的になってきた。三つの悪法に緊急事態条項が結びつけば独裁は完成する。なぜこんな無体が法となるのか。なぜ人々は自分の首を絞めることになる悪法に荷担するのか。人類史にひとしい思考の慣性が支配者の無体と人々の無体への荷担を駆動している。なにが思考の慣性を統覚しているのか。同一性である。同一性を前提としてあらゆる思考が、解けない主題を解けない方法で解こうとしてきた。個人としての個人と社会的な存在の一員である個人のあいだの矛盾は世界の無言の条理のなかに融解されてしまう。どんな思想もこの世のしくみをなぞってきただけだと言える。

善の勧めという病にとりつかれて、早々と生の意志を放棄し、社会のなかに逃げ込み、人々を喉ごしのいい言葉で誘導する啓蒙家の言説をあらためてあげる。「たとえばマルクスなら、二つの社会階級が競合しあってゆくなかで、生産手段が変化していくという歴史的分析をするわけですね。人類の歴史は階級闘争の歴史である、と。これは正しいんですよ。でも、その分析から導かれる最終的な目標が、『階級がなくなる社会を作らなくてはならない』という。これは僕から見ると間達っている。対立するものがお互いに対峠しあったり、競合しあったり、否定しあったりしながら共存する、というのが社会の自然であって、それを統合して階級なき社会、国家なき社会、全員が均等の社会こそが人類の到達しうる究極の理想社会であるというのはただの幻想ですよ。だって、そんなものこれまで人類はいちどだって見たことも作りだしたこともないんだし、それが『理想』だなんて、そんな社会が『住み心地がいい』なんて、誰に断言できるんですか。競合するさまざまなファクターが、共存しながらシステムとして安定しながら支え合い、刺激し合ってゆくというのが人間にとってというか、生物にとってはいちばん自然なあり方なんです。(略)社会矛盾というのは絶対になくならない。対立も続く。絶対に折り合わない多様性というものもある。それをなくそうとしても無理なんです。だから、それはそのままにしておいて、多様性のなかから引き出しうる最適性、利益の最大値を取り出すにはどうすればいいかということを考えることが、社会理論としてはいちばんたいせつな仕事だと思うんです」(『期間限定の思想』巻末ロングインタビュー)気楽なものだと思う。ここで述べられているのは内田樹の諦念である。世間の無言の条理をなぞる徹底した強者の理念が説かれている。シールズの民主主義を担ぎ上げた内田樹は風見鶏のように時代の趨勢を敏感に察知し天皇親政へと駆け込んだ。東北の地震と津波と原発事故の後、金のために生きていないのは皇室だけだと妙なことを言い、この天皇制のメリットを活かさない手はないと主張し、今春、『月刊日本』で「私が天皇主義者になったわけ」を書いたと思ったら、『街場の天皇論』も刊行された。機を見るに敏なもの書き文化人が商機をいかした本を書く。加藤典洋の『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』もそのたぐいとしてある。読者よ、おわかりか。この者たちの観察者としての傍観がこの世のしくみを存続させているということに。みぞおちにある良心を売りにする者らの言説から天皇制の謎についておおくのことを学ぶことができる。

この寄る辺なき世界で天皇を敬うとする。すると空虚な生にちいさな明かりが灯る。外界とつながりができるわけだ。ちいさな明かりを内面ということもできる。衆生が天皇を尊崇すると、天皇と赤子のあいだに貨幣には還元できない贈与の関係が自然に生成する。島嶼の国に特有の伝統的な心性のことだ。日本という社会に根づいている自然生成の粋である天皇制的心性は、もとよりイデオロギー的批判でどうかできるものではない。天皇制とはこの島嶼の国に棲まう人々に深く根づいたこの国の国柄である。先のサイトの記事で書いた、憲法第九条の戦争放棄はじつは天皇制であったという気づきが、戦後の総敗北と切り結ぶ。再度取りあげる。戦後民主主義が理念の根幹に天皇制的なものをおいていたという気づきにもつながる。無条件降伏で撃ち方止めとなるまでは、天皇の赤子として鬼畜米英を撃ちてし止まんという心性としてあった。一晩すぎると、戦争の永久放棄と民主主義が到来する。この過程のどこにも人々の意志は介在していない。ヘンではないか。無条件降伏を境に共同幻想が自然なものとして推移する。共同幻想の遷移のどこにも個々の人々の意志は反映されていない。これからは戦争ではなく平和だという心性が自然なものとしてあったとして、この思考の慣性そのものが天皇制的なものであったということではないか。だから時局ここに至れば平和から戦争への移行も自然となる。支配政党の国策と、反政府があるのではない。国家権力と反国家権力の主観的意識の襞が天皇制を媒介に密通しているということだと思う。わたしたちの知る人倫はこの根深い思考の矛盾を解くことができない。わたしは天皇制もまた意識の外延性がかたどったアジア的心性に融解することを自然とするひとつの「社会」思想だと考えている。この宗教は強制ではなくなにごとも自然に遷り変わることを旨とする。稚戯にひとしい天皇への尊崇がどれほどの酷さをもたらすのか、痛くも痒くもないもない者たちが事態を高見から傍観して賢しらなことを囀り回る。

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いつもなにかにたいして苛立っていると身近な人から言われてきた。苛立たずに日々をどうやれば過ごせるのか、どうか教えていただきたい。この苛立ちは親鸞や吉本隆明とも共有されている。煩悩解脱の術を解いた聖道門にたいしてあれほど激烈な批判をする暇があったら、他力のなかにも自力があるというあたりまえを説くより、他力のなかに他力ありというほうがましではなかったか。それほどみぞおちにある良心というものは目障りで厄介なのだ。吉本隆明には文化的雪かきを主張する者たちよりはるかに鋭敏な生のリアルがあった。吉本隆明は民主主義の人倫を解く者らを唾棄していた。深く共感する。好きな言葉を取りあげる。「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます。しかし、そこへの道程が、どんな倒錯と困難と殺伐さと奇怪さに充ちているか、は想像を絶するほどです」(『どこに思想の根拠をおくか』所収「思想の基準をめぐって」)そのとおりだと思う。親鸞の第十八願が吉本隆明の思想として生きている。その吉本隆明も解けない主題を解けない方法で解こうとして言葉の深みにはまっていく。

「人間は、他の動物のように、個人として恣意的に生きたいにもかかわらず、〈制度〉、〈権力〉、〈法〉など、つまり 共同幻想を不可避的に生みだしたため、人間の本質的な不幸は、個人と共同性のあいだの〈対立〉、〈矛盾〉、〈逆立〉として表出せざるを得ないという点です」(同前』)「共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉も〈種族の母〉も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした」(『共同幻想論』)「このような人間の歴史的な過程が、さまざまな時期に、さまざまな形でなされた抗議の表出にもかかわらず、不可避的に、現在の〈世界〉、〈制度〉をもたらした側面を認識するならば、この不可避性を止揚する過程もまた、普通、考えられているよりも、遙かに困難な、そして、過程をあやまりなく踏むことを必須とするはずです。つまり、すべての個人としての〈人間〉が、在る日、〈人間〉はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが〈実現〉するという性質のものではないということです。これらが人間の本質が〈不幸〉なものであるということの内容だとおもいます。ただ、この〈不幸〉は、〈不幸〉なことが識知された〈不幸〉であるために、究極的には解除可能な〈不幸〉ではないでしょうか」(『どこに思想の基準をおくか』)

なにが言われているのか。自己の観念は共同幻想へも、共同幻想は自己幻想へも還元不能である。共同幻想は人の営みのなかで不可避に累積されてきたが、共同幻想を不幸と識知することで解除可能だと吉本隆明は言う。体験のリアルを知らない思想家の言葉遊びだと思う。たしかに吉本隆明はあらゆる共同幻想は消滅すべきだと考えた。しかしどうやれば共同幻想のない世界をつくることができるか考えつかなかった。国家ができるしくみを吉本隆明は解明したが、国家から降りる構想力をもつことができなかった。それはかれの表現の必然だったと思う。吉本隆明の太い精神のうねりは市民主義の彼方を目指した。血煙を上げて疾走する吉本隆明の立ち姿にかつてわたしたちは鼓舞された。既知のある理念を使い回すのではなく未知の思想を吉本隆明は全力で立ち上げようとした。では自己幻想は共同幻想と逆立するとはどういうことか。なにも言っていない。個と共同性とが相互に還元不能なものとして存在していると言っているにすぎない。自己の観念を共同の観念に解消することはできない。ある行動をなしたとき、その心性の奥まで共同化されることはない。それはよくわかる。しかし生の現実は、人格や人倫を媒介にすれば、むしろ自己の観念は共同の観念に同期するように作用する。わたしの体験のリアルはそう告げる。ほんとうは自己の観念を共同の観念に解消することも、共同の観念を自己の観念に解消することもできず、ふたつの観念のありかたは相互に還元不能なものとして存在しているだけなのだ。相互に還元不能な観念とはなにか。社会や現実に還元不能な、ほかのだれでもなくわたしがわたしであるということ、それが固有名にほかならないのだが、わたしよりふかいわたしがたしかに存在する。すると固有名からもあふれたこのわたしはいったいなにものなのか? 音もなく桜が舞う夜、存在は秘めやかに内包化される。それはひそかにあるいはふいにやってくる。世界のもっともふかいものよりふかいものが存在するから、あふれるくるおしさがそのつどまったくあたらしい生として生きられる。「まわらぬ舌ではじめてあなたが『ふたり』と数えたとき私はもうあなたの夢の中に立っていた」(谷川俊太郎『女へ』)というその「私」はいったいだれなのか。名づけられることのないわたし。それにもかかわらず世界のどんな片隅にでも遍在する匿名の固有名。わたしはあなたである。この微妙なあわいに存在の内包がある。存在の内包によぎられたわたし。はたしてこの存在は個の内面にあるのだろうか。わたしはこの存在のありようを内包存在と名づけ、存在が分有されると考えた。理念ではなく生のリアルな知覚である。

この生の知覚からみると吉本隆明の対幻想の定義はつるんとしたものに感じられた。自己の観念や共同の観念に還元できない存在の基底から自己の観念も共同の観念も派生したものであることに吉本隆明が気づいた気配はない。わたしは吉本隆明と違って、性の世界は意識の外延性によって分割されたひとつの観念の次元ではなく、人間の観念にとっての猛烈な可能性をもつ、もっと壮大な、はるかな未知の領野だと思う。「自己という現象も社会という制度もこの〔性〕のなかに呑み込まれていく。〔性〕はそれほど広大なのだ。世界とは〔性〕のことにほかならない」(「歩く浄土」182)吉本隆明は対幻想を次のように意味づけしている。「心的な領域は、生物体の機構に還元できる領域では、自己自身または自己と他者の一対一の関係しか成り立たない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない」(吉本隆明『心的現象論序説』)なるほど、存在を自己が領有できるという確信に吉本隆明の思想は貫かれている。わたしは吉本隆明の意識の外延性は次のように拡張できると思う。できるだけ吉本隆明の対幻想の原義に沿って概念を拡げる。たしかに、心的な領域は、意識の外延性としては、生物体という観念の機構に還元できる領域では、自己自身または自己と他者の一対一の関係しか成り立たないようにみえる。また、生物体としての機構という観念に還元されない心的な領域は、根源のふたりを分有する分有者の幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実という観念と関係しえない。性的な自然を基盤として育まれた一対の観念が対幻想であるとみなすのは、吉本隆明の意識の襞にある主観的な心情にすぎない。あるいは同一性を宿命とする文明史的な必然というべきだろうか。性の関係は言葉が言葉を生きることとして究極には言葉の関係に行きつく。

内包論では吉本隆明の対幻想という観念は往相の性と還相の性に拡張されている。「歩く浄土204」で次のように書いた。「吉本さんの対幻想という考えはぼくの内包論では往相の性ということになります。まだ書いたことはないのですが、男女の関係は、性関係があるかないかに関係なく、究極は言葉の関係になるとぼくは考えています。最後は言葉の関係が性になると思うのです。この性のことをぼくは還相の性と言っています。けっして内面化も社会化もできないところに還相の性があります。意識の外延性ではその場所を指さすことはできません」「対幻想という考えはすでにだれにとってもあたりまえの思考の慣性となっていますが、窮屈で奥行きがないのです。性関係の自然からはぐくまれた観念を対幻想だとしても、対幻想は自己幻想とも共同幻想とも異なる位相をもつ観念だと言われるだけで、それ以上にふくらむことがありません。それぞれの観念のレベルがあることを意識の外延性は分別することはできますが、それだけです。そしてそれぞれの観念を統覚している同一性は微動もしません。生の不全感を招来するのはこの同一性です」「根源の性の分有者にはふたつの性が供与されます。往相の性と還相の性です。だれのなかにも往相の性と還相の性がある」「対幻想を可視化し、実体化すれば、対の関係は自己と共同性のつなぎ目にしかなりません」。偉大なマルクスや吉本隆明に宿った粗雑な観念で国家や天皇制を無化できるだろうか。貨幣の交換を贈与へと転換することができるだろうか。自己幻想を共同幻想に還元することも、共同幻想を自己幻想に還元することもできない意識の外延性のつなぎめに存在の内包性が存在している。自己幻想と共同幻想が逆立するということで、逆説的に可視化できない存在の可能性が背理として示唆される。それ自体として存在している内包存在を意識の外延性が指さすことができないそのありようが自己幻想と共同幻想が互いに還元することができないことのなかに表現されている。マルクスの上弦の思想でもなく、吉本隆明の下弦の思想でもなく、満月の思想が欲しいので、これからも内包の思想の探究をつづける。明日は衆議院総選挙の投票日だが、開票結果に左右されることはなにひとつ書いていない。(つづく)

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