日々愚案

歩く浄土201:情況論67-衆議院総選挙について

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2017年10月22日の衆議院総選挙についての態度を表明する。いずれの政党も支持しない。戦後72年の擬製の総敗北として現在がある。なにが戦後の総敗北なのか。転形期の世界に対するビジョンのまったくの欠如である。戦後72年の総敗北をもっと深く敗北せよ。かたちの上ではオカルトな独裁や立憲民主主義との闘いであるように仮象されている。わたしは独裁の側にもリベラルの側にも立たない。どちらもまるごと擬制である。戦後の総過程が擬制であったから今日の事態を招来している。国家が内面化すると共に個人の心性も内面化し、ともに精神の古代形象に憑依する。それがいま起こっていることだ。安倍や小池の独裁の志向も、立憲民主党の主張も、政治的構想力ということでは、極右独裁勢力であろうと、立憲政治であろうと、右派勢力の台頭であろうとリベラル左派であろうと、現在進行中のビットマシンによる意識の外延革命の中にあって枝葉末節のことにすぎないからだ。人工自然が天然自然を呑み込み、それを観念にとっての自然とみなすことになる文明史の転換期をわたしたちが思考停止して生きているからこの混乱がもたらされている。ビジョンを持たないもたない者たちは世界を善と悪に二分し、悪政が縁故主義や人治主義に走っていると可視化して語る。べつに世界は中世化しているわけではない。それらをはるかに上回る人類史の転換期の渦中をわたしたちが生きているということなのだ。ビットマシンの社会革命は人倫をまったく介することがない。人倫を透過してあたらしい生をつくりあげようとしている。個人が社会的な存在であるとするならばわたしたち個々の生は容易にビット化される。アマゾンはわたしよりわたしの好む商品の傾向を知っている。知らぬまにビットマシン社会に取り込まれることになる。生は経済的資源にすぎないものであり、生を経済へと還元し、健康を金で買うということになる。生はすでに商品なのである。心身の一片に至るまで商品化されるのは必至だと思う。そのとき人々はそのことを不自然だとは思わない。認識にとっての自然として受容し、そこで時代に見合った思考の慣性をつくりあげる。その急峻な過渡期をわたしたちは生きているということだ。

いまわたしたちが目の当たりにしていることは天然自然を中心とした文明が自然的な生から強制的に引きはがされべつの文明に組み込まれようとしているそういう事態だ。ビットマシンによる社会革命にたいして国家も個人も内面化する。リベラルだった人たちは事態を先取りし、日本的自然性に回帰し、天皇主義者となる。それで人類史的な地殻変動をまぬがれることができるか。国破れた山河ありという牧歌性はすでにどこにもない。まして反米自立右翼の天皇制主義など刺身のつまにもならない冗談だ。わたしはオウム真理教の再来と考えるのがいちばん正鵠を得ていると思う。この国がオウム真理教の愚劣に乗っ取られようとしているということ、そこに時代の本質がある。先端科学と土俗の結合をいま目の当たりにしている。もっと深く敗北せよ。一人で立て。投票行動は面々のはからいだが、わたしはいずれの政党も支持しない。選挙後に後出しじゃんけんみたいに文句を言うのが嫌なので選挙前に意見を公的に表明する。国民の味方のふりをしながら自らの野望を遂げようとする私性のほかにいったいなにがあるか。ここに人類史的な欺瞞の鍵が潜んでいる。その理由を内包論から書く。

かつてユーラシア大陸の大河の辺に帝国が興り、書記と国家と貨幣が発明され、それらが輻輳しいくつもの自然がつくられた。それらの大元にあるのは内包が可視化された同一性の自然であり、そこから派生した国家の自然であり、おなじように貨幣という自然がつくられた。いずれも数千年の時代を経てなお生き延びている。同一性の自然は、初期人類の身体を謂わば脊髄反射として巻き込みながら、内面と共同性という精神を連綿と重畳してきた。文明という薄い皮膜が剥がれるといきなりむきだしの自然が躍りでてくる。ふと埴谷雄高の言葉を思いだした。いまでも覚えている言葉がある。政治の幅はつねに生活の幅より狭い。政治の本質はただひとつ、奴は敵だ、奴を殺せ。これだけは至言だと思う。人間は、あるいは人類が他者についてつくった観念の自然。敵を抹殺せよ。意識の外延表現がこの自然を超えることは先験的にない。極右二政党とリベラルが相克しているのではない。反極右の政党は現実を直視せず、現実から目を背けて空念仏を唱えている。すでに現実は充分に壊れている。この現実の瓦解をリベラルな理念で復元することはできない。暮らしの底にはひびが入り、穴があいている。どう補修できるというのか。問題はトップダウンかボトムアップかではない。北朝鮮撃つべし、戦争に怯むなとボトムアップしてくるとき、リベラルな理念は対抗することができない。むきだしの自然が前景に躍りでる。奴は敵だ、奴を殺せ。強力な自然だと思う。これからは言葉で丘をつくり、傍らに塹壕を掘り、風雨を凌ぎ、天気のいいとき言葉の丘から世界をみはるかす、そのちいさな内包自然をつくることで、意識の外延革命を呑み込んでいく、そこが生の主戦場になると思っている。知識人と大衆という権力による生の分割統治ではなく、だれもが総表現者としてのひとりを生きるときはじめてそれぞれの生が固有のものとしてあらわれてくる。生を社会化し外延するかぎり、固有の生はどこにもない。認識にとってのあたらしい自然をつくり、それを思考の慣性とすることができれば、この世のしくみをつくるかえることは、いつでも、だれにでも、可能だと思う。いずれの政党も支持しないということはデタッチメントをまったく意味しない。深くコミットメントしているから人間の認識にたいするあたらしい自然を提起している。けっして共同化できない思考の慣性を生の現場で一人ひとりがつくり、生きること。総表現者のひとりとしてわたしはその現場を生きている。

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戦争をしたいだけのアベシンゾウという極めつけのうつけ者も、目立って威張りたいだけの小池のアベシンゾウを上回る独裁も、文化的雪かきで人心地をつきたいリベラルを装う枝野もやっていることは政治でわたしたちの生の根柢にはなにもとどかない。すでにがれきのような底のあいた日々を生きている。政党になにかを期待することも、なにかを乞うたこともない。保守思想とは適者生存をじかになぞるものであり、リベラルはソフトになったマルクス主義の残滓として遺存している。保守思想もリベラリズムも、ともに「社会」主義である。この淵源を根から断とうと思う。

『贈り合いの経済』を書いた佐川清和さんの「自己への配慮」というブログをいつもどきどきしながら読んでいる。まだ一度もお会いしたことはない。昨年8月に公式サイトを開設したとき佐川さんから励ましのメールをいただいた。偶然に見つけて読んでいますと書かれていて、とてもうれしかった。読みにくい文章なので読んでくれる人がいるとは思っていなかった。なにかやむにやまれぬものを抱え、半世紀のあいだ同一の主題を追いかけている表現者だと思う。その佐川さんが「自己への配慮」の「わが一体の家族考(88)」で次のように書いている。

たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。

しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。

〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。

引用のブログに先立って佐川さんは「わが一体の家族考(84)」で、ある気づきを述べている。

社会学者・真木悠介(見田宗介)さんの著書『自我の起源』の中の「補論2 性現象と宗教現象」で次のような事例が紹介されている。

1980年代後半ヴェトナムからの難民船の幾つかが日本にも漂着したことがあり、偶然そのうちの一つを見たことがある。小さな木の船に、考えられないくらい大勢の人が乗っている。しかも漂流の月日の中で、いちばんはじめに死んでいったのは、小さい子供をもつ若い母親たちだったという。
ベトナム難破船

つまり母親たちは乏しい食料を幼い子供たちに与え、自分たちは飢えて死んでいったのだと想像することができる。こうした難民船での出来事に心を動かされた真木悠介さんは次のように考察する。

“人間の個が、じぶんに固有の衝動に動かされながら、じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう”
つまりこういうことだ。“わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する”

性とは、自己解体の爆薬? どういうこと?
“自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している”からだ。そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだともいう。

以上のような難破船の話を知ったのは、森崎茂さんのブログ『日々愚案』の中の「歩く浄土182」からであった。そこで森崎さんは次のようにコメントされている。

“真木悠介はとてもいいことに気づいていながら、自己を裂開する背理をそれ自体として取りだすことができていないから、鋭利な気づきは外延論の背理として記述されるほかなかった。”

たしかに真木悠介さんはこの書の〝あとがき〟で、この仕事の中で問おうとしたことは、“どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか、他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか”というとても単純な問題だと記されていた。だとしたら、先の真木悠介さんの〝じぶんの欲望を透明に追い求めてゆく〟とか森崎さんのいう〝自己を裂開する背理をそれ自体として取りだす〟とは、どんな内実を伴うことなんだろうか?

何かすごく大切なことがいわれている気がするのだ。
“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?
〈性〉は自我を裂開する力を内包している!

佐川さんの気づきを「イェニーさん問題」(「歩く浄土200」)と呼んでみる。吉本さんは存在に「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」という刻み目を入れた。この認識を可能とする吉本隆明の観念の自然はどういうものか。マルクスの思想に対する信仰告白の書が『言語にとって美とはなにか』だとわたしは理解している。マルクスの交換価値を自己表出と読みかえたことをかれ自身が言っている。「ついでに申しあげますと、ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったかといいますと、おなじくマルクスの『資本論』から作りました。ぼくは、『価値形態』としての『商品』の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、かんがえたのです。そして、ぼくはどこに着目したかというと、『使用価値』という概念が、言語における指示性(ものを指す作用)、それから『交換価値』という概念が、『貨幣』と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえたんです。言語における『指示表出』と『自己表出』という概念を、『商品』が『使用価値』と『交換価値』の二重性を持つというところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました」(中沢新一編『吉本隆明の経済学』所収「経済の記述の立場」)吉本さんの発言の要は「『交換価値』という概念が、『貨幣』と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当する」と考えたことにある。交換価値が共同幻想であるように、自己表出を万人の意識に内在する共通の働きかけであるとするなら、自己表出という共同主観的な現実は共同幻想ということになる。マルクスが貨幣の謎を解いていないように、吉本隆明も言語の謎を解いていない。存在は、外延的な存在と内包的な存在として、複相的に存在している。マルクスも吉本隆明も意識の外延性から存在をなぞっているにすぎない。意識の外延性のはるか手前に根源のふたりが内包的に存在する。

マルクスは『資本論』の冒頭で「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる」と書き始めている。巨大な商品集積としてあらわれた富は共同主観的な現実という共同幻想である。この共同主観的現実を前提として商品の交換がある。マルクスが直感した「イェニーさん」問題は人間の人間のたいする関係と人間の自然にたいする関係に外延され、マルクスの思想のもっともおおきな可能性は社会化されてしまうことになった。神の代わりに類生活が導かれ、「個別的な現存において同時に共同的な存在」が思想として追求され『資本論』として結実する。マルクスは人間の営みを自然史に還元したかった。この性向は吉本隆明の思想のなかにも色濃く継承されている。経済の自然史と観念の自然史が可能であることの途方もない錯誤。女性の男性にたいする関係も、女性の男性にたいする関係も、人間の人間にたいする関係とも、人間の自然にたいする関係ともまったく違う出来事である。推移律が可能であるようにみえるのは同一性が統覚しているからである。意識の外延性からすれば、世界をそのように観察することは可能である。それは吉本隆明の「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」という観念の分別も私が私であるという同一性を暗黙の公理として始めて成立する。またこれらの一群の観念を意識の外延表現として括ることができる。マルクスや吉本隆明が観念の自然を可能とする認識の同一性をそれ自体として考えた気配はかけらもない。

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自己表出と指示表出を縦糸と横糸として編み上げられた言語表現の美が文学であると吉本隆明は言う。

ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、もっとも類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってもっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた時代性の殻をもつ。このようにして、ある時代、ある社会、ある支配形態の下でのひとつの作品は、たんに異った時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、おなじ支配の下での他の作品にたいして決定的に異質な中心をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったく異っている。言語の指示表出の中心がこれに対応する。言語の指示意識は外皮では対他的な関係にありながら中心で孤立している。しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったく相反する結論にたっすることもできる。つまり、あるひとつの作品は、たんにおなじ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてではなく、異った時代の異った社会の異った個性にたいして決定的な類似性や共通性の中心をもっているというように。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的な連続性をなすとかんがえられる。言語の自己表出は、外皮では対他関係を拒絶しながらその中心で連帯している。(『言語にとって美とはなにか』第Ⅳ章1「表出史の概念」)

文学作品の歴史を本質をうしなわずにあつかいうる方法は極端にいえばふたつに帰する。そのひとつは中心が社会そのものにくるような抽出であり、このばあいには個別的な環境や生活史がその環のなかにはいってくることが必須の条件である。もうひとつはその中心が作品そのものに来るような抽出であり、そのばあいには環境や人格や社会は想像力の根源として表出自体のなかに凝縮される。いまここでわたしがやろうとしているのは、ふつう文学史論があつかっている仕方とまったく逆向きのことである。
ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移を考えることができるかという問題である。いままで言語について考察してきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を自己表出としての言語から時間的にあつかうのである。・・・なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからである。(同前)

吉本隆明の思想が思わず背中をみせている。自己表出は、意識の連続性をなし、時間を折り重ねていると考えることができる。自己表出という概念は作家の個性や時代性や生活と無関係に意識の連続性をなしている。自己表出を万人の意識に内在する共通の働きかけであると理解するならば、プロレタリア文学理論とまったく異なる文学理論が可能ではないか、というのが吉本隆明の主張だった。わたしは吉本隆明の言語の表現理論は、マルクス主義がマルクスの思想に淵源をもつように、マルクス主義の片鱗がのこされていると思ってきた。時代の負荷する圧力があったにしても吉本隆明は無駄な力こぶをつくってしまった。内面というちいさな自然と外界のおおきな自然の範疇で言語の表現理論を扱ったのだった。時代の変遷と共に言語の指示表出性はおおきな変化をこうむる。たしかにそうだ。では自己表出性はどうか。万人の意識のなかにある共通の働きかけが共同的主観的な現実としてなければ機能しない。万人の意識にある共通の働きかけは共同幻想として想定するしかない。意識を内面と考えてもおなじことになる。内面が万人の共通の働きかけとなるには共同幻想が前提となる。吉本隆明の言語論の核心は自己表出は内面と共同性を往還するということである。そのつなぎ目が対幻想であるにすぎなかった。なぜ対の世界をそれ自体として取りださなかったのか。

共同主観的現実を前提としないで交換過程は生じない。個人の内面と共同性を往還する万人の意識にある共通の働きかけは内面と共同性を往還しながら同期する。初期人類が海をみて、〔う〕とうなり、〔海〕を〔うみ〕と象徴的に表現するとき意識が生まれたと吉本隆明は考えた。海を象徴的に表象しうることと万人の意識にある共通の働きかけはどうじに成立する。時代が推移するなかで言語の指示表出性は激変する。しかしそれにもかかわらず意識発生以来の自己表出性は内面を仮構しながらさまざまな共同幻想のかたちを取り遷移することになる。わたしは吉本隆明の自己表出という概念をそういうふうに理解するようになった。
吉本隆明の言語論でも言語の謎は隠蔽されている。存在の複相性という観点を挿入することによってしか言語の謎は解けない。「個人としての個人」と「家族の一員としての個人」と「社会的な個人」の観念の次元の違いを存在に刻むことは倫理を生みだすだけで、この倫理が同一性によって統覚されていることは秘匿されてきた。ほんとうはそれぞれの存在のありようを可能としている認識の枠組みを拡張すればよかった。マルクスもマルクスのおおきな影響をうけた吉本隆明もこの難所をスルーした。わたしは、生を引き裂く力のただなかで、出来事の当事者であることにこだわってきた。さまざまなひずみが負荷される。出来事の当事者であることを手放さずに体験の固有性を普遍性として語ることができる。わたしはなにも放下せず、おのずからなる世界を表現することが可能だと気づいた。吉本隆明の方法論と「まったく逆向きのこと」が可能である。よく似たことにフーコーも気づいた。人間の終焉を宣言し、生を放浪したフーコーは死の直前にある気づきにいたる。

理論的にみてみれば、サルトルは真性という道徳上の概念を通して、われわれはわれわれ自身でなければならない-ほんとうに本物の私でなければならない-という考えに戻っているようにみえます。ところが、サルトルの言ったことから引き出してくることのできる実践的な帰結は、反対に、サルトルの理論的思考を創造性の実践に結びつけることになるのであって、真正性の実践にじゃないでしょう。〈自己(わたし)〉はわれわれに与えられているのではないという考え方からは、ただ一つの実践的帰結しか引き出せないと思います。つまり、われわれは一個の芸術作品として自己を組み立て、制作し、規定していかなければならないという帰結ですね。サルトルがやったボードレールとかフローベルの分析で、サルトルが創作の仕事を自己-作者自身とのある種の関係のせいにしているのをみるのはおもしろい、自己との関係が真正性の形であれ、非真正性の形であれ、ともかく。私はこれとまさに反対のことは言えないのかどうかと考えているんです。つまり、誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです。(「ひとつのモラルとしての性」浜名訳・『現代思想』一九八四年十月号)

フーコーの人間の終焉に触発されて吉本隆明は世界視線という概念をつくり、『ハイ・イメージ論』を構想し、消費社会の全貌をつかもうとして空虚を手にした。フーコーは西欧近代由来の主体の概念に飽きたらないものを感じ、錯認の果てに、ある表現の概念をつかんだ。「倫理的活動の核」とは西欧由来の自然法爾である。自己を表現するのではない、自己は表現されるのだ。それがフーコーの言いたいことだった。こんなことを西欧の知性が言うのは始めてだった。この気づきは、主体は実体ではないことをつかんだフーコーの理念と精確に切り結んでいる。真理は他性によってもたらされる。最期のフーコーはここを生きた。最期のフーコーにマルクス主義の片鱗はない。吉本隆明は権力を禁止・抑圧・排除ととらえる古典性からのがれることはなかった。フーコーの倫理的活動の核にあるものという言葉をわたしの言葉で言い換える。倫理的活動の核とは、根源の二人称
のことだ。根源のふたりによぎられて、おのずからなる自己が表現されるということだった。この生のリアルをつかむことなく吉本隆明は生を閉じた。マルクスも吉本隆明もなにかを錯認していた。人間の個的な生存は社会的な存在ではなく根源的に内包的な存在として存在していることに気づくことはなかった。人間の存在は神や仏という超越に仲立ちされて存在しているのでもなく、曲率ゼロの意識の平面に存在しているのでもない。意識の外延性のなかで表現された経済論も幻想論も意識の外延性が穿ったちいさな自然という思考の慣性を生きるほかなかったと言えば言える。存在の複相性から人間の存在のありようを考えると世界は一変する。社会的に存在するとは別の仕方で、あるいは社会的に存在することの手前に内包存在がある。同一性が観念の自然とする認識は、個人としての個人があり、個人が個人と出会い自然的な性関係をもとに家族なし、そこで対幻想という思考の慣性をかたどる。この世界でわたしたちは三つの態様をとりうるわけだ。この思考の慣性はわたしたちの生に深く根ざし動かしがたいようなものにみえる。この世界では国家はいつまで経っても国家であり、交換はいつまで経っても交換の外延であり、富の独り占めが熄むことはない。同一性を担保とした意識の外延性はビットマシンが成し遂げつつある人倫とは無関係の世界システムに取って変わられようとしている。国家が内面化しメルトダウンを起こし、人々の心性が天皇親政に傾くのはほかに精神の退避する場所がないからであり、日本的自然生成としては不可避のものであると言える。

わたしは存在の複相性から、人の生は根源の二人称であるという内包論から、吉本隆明の対幻想を組み替えようと思う。わたしたちが認識の自然だとみなしている思考の慣性では家族は特殊な共同幻想であり、家族を媒介にして国家がつくられたことを識っている。家族をつなぎ目にしなくても、個人は共同幻想に同期する。なぜならば吉本隆明が自己表出という、万人の意識のなかにある共通の働きかけは共同幻想そのものだからだ。この共通の働きが内面として万人にあるとしても事態はなにも変わらない。その内面はすでに共同幻想であるからだ。プロレタリア文芸理論にたいして自立する芸術理論をつくろうとした吉本隆明がなぜこの罠にかかったか。マルクスも吉本隆明も本質的に「社会」思想家であったことに帰せられる。かれらの考えることのなかった未知の性や生がある。人間の個的な生存が社会的な存在であるまえに人は内包存在として存在している。その存在のありようが生の本来性だとわたしは思う。親鸞の他力の手前に根源のふたりが存在しているように。わたしたちはだれもが根源の性を分有することにおいて往相の性をなし、その往相の性の深奥に還相の性がある。おおまかには意識の外延性がかたどる対幻想と対応している。個人が個人と出会うときにつくられる対幻想と、意識の内包性の源基をなす根源の性の分有者はどこがちがうのか。対幻想は同一性の必然であるがそれ自体の概念のなかに奥行きがない。往相の性は固有名と共に始まり、固有名のままに実詞化できない還相の性へといたる。外延的な意識と内包的な意識を往還すると、外延的な意識の一人称と二人称が、還相の性では領域化され、意識の外延性の三人称が二人称を生きることとしてあらわれる。このとき社会的な外皮である人倫を介さずに、三人称はあたかも二人称であるかのように表現され、内包的な親族という喩がおのずから生まれることになる。ここにはどんな信の共同性もない。国家も貨幣も、政治も戦争もない。独り占めの貨幣欲は分与と贈与となる。ベトナムからの難民船が漂着したとき若い母親がいちばん始めに死に、南インドではお兄ちゃんが妹にバナナを食べさせる。飢餓がなぜ分有されるのか。人間の生が根源においてふたりであるからだ。意識の内包性がそれ自体として取りだされたことはわたしたちに人類史においてただの一度もない。根源の性を分有するということは個人と個人が出会って織りなす対幻想よりはるかな深さと広がりをもっている。意識の外延性は同一性が統覚し、意識の内包性は還相の性が統覚する。意識の内包性のなかには豊穣な生の未知があるが、意識の外延性は私性を第一義とする。意識の外延性をもってビットマシンの猛威に抗することはできない。

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悠遠の歴史のなかで適者生存は苦界にあえぐ衆生の条理だった。虫木草魚のように地を這いずる衆生の生をどう采配するかが統治の原理だった。有史をこのように素描してみる。人間の社会的な生存はこの世の無言の条理にいつも晒されてきた。弱肉強食という自然。おそらく歴史時代以降、王の自由を補弼する司祭階級が民の生を按分してきた。司祭階級を知識人と置き換えてみよう。この意識の範型は知識人と大衆という権力による生の分割支配としていまもなおしぶとく生き延びている。有史のある時代に根源のふたりから分岐した自然が神や仏という超越を疎外し、神や仏を仲立ちとして建前として衆生は互いに平等であることが表現され、長い年月を経て、人格を媒介に自由と平等と友愛という理念が建前として実現された。これらの理念と共に神や仏という超越は後景に退き、代わりに大衆という理念が前景に登場することになった。ニーチェの神は死んだという叫びをこのように比喩できる。なにが精神の古代形象として受け継がれたのか。知識人と大衆という生を分割する権力と、その権力を自然とみなす思考の慣性だ。この観念の型を同一性が担保している。もしわたしたちの生が二相性として存在しないとしたら、歴史は意識の外延性で終焉し、ビットマシンの自然生成に組み込まれることになる。その文明史の転換点にわたしたちは生きている。かつて人格を媒介に表現された自由と平等と友愛はビットマシンによってよりちいさなビットの素子へと急速に解体されつつある。わたしもあなたもビットのちいさな集合にすぎない。わたしたちの観念にとっての自然を内包自然とするべつのまなざしをつくること。ここではじめて人々は総表現者のひとりとしての生を固有のものとして生きることになる。フーコーは死を目前にしたときつぶやく。「私が驚いているのは、現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関係しないという事実です。技法が美術家という専門家だけが作るひとつの専門になっているということですね。しかしなぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作品にすることができないんだろうか? なぜこのランプとかこの家が一個の美術品であって、私の人生がそうではないのか?(「ひとつのモラルとしての性」浜名訳・『現代思想』一九八四年十月号)「作家というのは、自分の本や刊行するものの中にのみ作品を創るのではなく、彼の主要作品というのは、最終的には、本を書く彼自身である」(「レーモン・ルーセル論」)フーコーはここまで来ることができた。生を作品にすることは総表現者の考えと不即不離なものとしてある。根源のふたりという認識の自然を思考の慣性として生きるとき、そこに知識人と大衆という権力による生の分割支配はない。大地は革められ、新しい鳥たちが悠然と空を滑空する。

だからもっと深く絶望せよ。2017年10月22日の衆議院選挙で、わたしはいずれの政党も支持しない。各自がじぶんに言葉をとどけ、その言葉を性として生き、言葉の丘に塹壕を掘り風雨をしのぎ、天気がいいときに丘の上に立って世界をみはるかす。わたしはそういうことをやりたい。

コメント

2 件のコメント
  • 西村和俊 より:

    あなたのこの本文の「3」のはじめに、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』からの引用があります。その引用部分の終りの部分に次のような語句の脱落がありますので、お知らせします。

    「・・・なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては★時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからである。(同前)」

    脱落は、★の部分で、そこに「連続的に転化しながら、指示表出としては」が入っています。

    • guan より:

      西村和俊様
      ご指摘ありがとうございます。
      訂正をしました。
      森崎茂

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