日々愚案

還相の性と国家5

712jaTSy3xL__SL1500_ 神仏と恋愛の彼方へ!と言ってきた。存在するとは別の仕方そのものである内包存在。神仏と恋愛の彼方になにがあるのか。根源の性だ。そして根源の性を分有する性には往相の性と還相の性があるということになる。わたしちたちは性についてのこのふたつを取り違え諸妄に惑乱する。わたしたちが長い歴史の時間の中で慣れしたしんできた思考の型とは根本的に異なる内包という心の型がある。わたしたちが知る文明史は、存在(ある)ということの特異な了解のうえに築かれてきたものだと思う。存在了解は生の余儀なさから制約を被り、ある思考の型を選択してきた。それが同一性ということだった。その発見の驚きをわたしは内包と名づけ言葉にしてきた。張り裂けるようにしてそこを一心に走った。苛烈だった。

 あるいは、20歳のときに直感した、衣食足りて充ちぬことに、いつの時代もその時代のもっとも本質的なことがあるというリアル。そのことを手放したことはない。存在の彼方にしても、20歳のときのリアルにしても、この感受は時代に対していつも間に合わないという焦りを随伴する。意識を内面や社会として語るかぎり、それはそのとおりのことだ。間に合うわけがない。
 わたしは内包論で通念とまったく違うことを考えた。いつも間に合っているのだ。共同幻想の彼方といい、三人称のない世界といい、よく考えれば、なぜひとの関係は1と2と3として表象されるのか。なぜそのことがそのこととして了解されるのか。対や家族が自然史の時間で個人や共同性に先立つことをしりながら、なぜ1を前提として対や家族を扱うのか。1は3の写しであり、またその逆でもある。3には1が隠れている。ドゥルーズもレヴィナスもこの謎に接近し力尽きてつぶれた。

 この生きて流れている、流れが結び合う世界を私たちは抽象して、主語〔主体〕、目的語〔対象〕、述語、論理的諸関係からなる、生気を欠いた複製の世界をつくりあげた。私たちはそうやって審判〔判断〕のシステムを抽出してきたのだった。問題は社会と自然、人工的と自然的とを対立させることにあるのではない。人為かどうかなど大したことではない。自然の生身の関わり合いがただの論理的関係に翻訳され、象徴がただのイメージに、流れがただの線分に翻訳されるそのたびに、また生きたやりとりがただの「主-客」の関係に切り抜かれるそのたびに、世界は死ぬのだと、私たちは言わなければならないだろう。そしてそのたびに衆の心、集団の心もまた、民衆の自我のうちにせよ、専制君主の自我のうちにせよ、一個の〈自我〉のうちに閉じ込められてしまうのであると。(『情動の思考』鈴木訳)

 引用をコピペしようと読み返すといい文章だし、いい感覚をしているなとあらためて思う。そのとおりだとうなづきそうになって、いや違うと思う。わたしが長年考えてきたことでもあるし1(自我)と3(衆)が同型であることはよくわかる。でもドゥルーズさん、情動の思考は渦のはずではなかったのですか。はじまりがあって終わりがない渦が情動の思考ではなかったのですか。投身するとはいったいなにがおこったのですか。それはない。自と多を分別する他を、自と多の起源である他を、なぜもっと徹底して考えなかったか。「私が私を他者の分身として生きる」ことをなぜもっと掘り進まなかったのか、もっと行けたはずなのにという思いが残ってしまう。マルクス主義などどうでもいいことではないか。苦界にあえぐ衆生、おう、それがどうした、おれもそのひとりだ、となぜ言い切れなかった。ためらうその間隙に社会(衆)が雪崩れ込んでくる。対の内包で社会をめくり返せばよかった。

 レヴィナスもおなじ轍を踏んでいる。レヴィナスは言う。

 このエロス的な関係においては、そのなかで称揚される他者性を減少させるものはありません。他者性を取り除く認識、ヘーゲルの「絶対知」における、「同一性と非同一性との同一性」を称賛する認識とはまったく反対に、他者性と二元性とは愛情関係のなかで消滅することはないのです。二つの存在の間の混乱であるような愛の観念は、ロマンティックな誤った観念です。エロス的な関係の悲壮さは、二人であること、そして、他者がそこでは絶対的に他者である、という事実にあるのです。(レヴィナス『倫理と無限』原田佳彦訳87p)

 引用のこの箇所を叙述するときレヴィナスは思わず知らず自我を実有の根拠にしている。回想かどうかはともかく、レヴィナスのここでの発言は、おそらく1947年刊の『時間と他者』の頃を指していると思われる。その前年、収容所の中で構想を温めてきた、イリヤに憑かれた『実存から実存者へ』を出版している。ブランショがレヴィナスの奥さんをナチから匿ってくれたので、生きて再会し、翌年『時間と他者』を書いている。あなたとわたしは離折しているということをレヴィナスは言うが、他者は自己にとって絶対的他者であるということは彼の体験からきていると思う。「エロス的関係の悲壮さ」という言い回しは、およそレヴィナスにふさわしくない。「愛は悟性の解きえないとてつもない矛盾である」と鉄仮面のへーゲルも似たことを言っている。みなこのあたりではドングリの背比べ。

 プラトン以来、社会的なるものの理想は融合という理想のうちに求められるようになる。他者との関係において、主体は、ある集団的表象、ある共通の理想に身を投じることによって、他者と一体化しようとする傾向がある、と考えられるようになる。「われわれ」と言い、叡知的なる太陽の光へと、つまり真理へと顔を向け、自己の面前にではなく、自己の隣に他者を感じとることが、集団性ということである。それは、媒介者の役割を果たす第三項の周囲に、必然的に生じる集団性である。相互共同存在もまた、〈と共に〉という集団性にとどまっており、これが真正なかたちでその姿を現わす〔啓示される〕のは、まさに真理の間近でなのである。それは、共通の何ものかをめぐつての集団性である。したがって、あらゆる共同体の哲学においてと同様にハイデガーにおける社会性も結局は孤立した主体のうちに見出されるのであり、現存在の分析がその真正なかたちで遂行されるのは、孤独の言葉によってなのである。
 このような隣り合いの集団性に対して、私は「我-汝」の集団性を対置し、相互性が切り離された二つの自由の間の絆にとどまり、孤立した主観性の避けがたい性格が過小評価されているプーバ-の考え方に即してではなく、集団性というものを捉えようと試みたわけである。私は、未来の神秘へ向けての、現在の時間的超越を探し求めたのである。
 このような超越は、それが人格であれ、真理、仕事、職業であれ、何らかの第三項への融即といったものではない。それは、共同体ならざる集団性なのである。それは媒介者抜きの〈向かい合い〉であり、また、エロスにおいてわれわれにもたらされるものであるが、そこでは、他者の近さのうちにも隔たりが完全に維持されるのである。エロスの悲劇性は、このような近さと同時にこの二元性〔二重性〕から構成されているのである。
 愛における伝達の挫折として提示されるものは、まさしく、関係の積極性を構成するものであり、このような他者の不在は、まさに、他者の他者としての現前なのである。(『時間と他者』原田佳彦訳 97~98p)

 自己を集団性に一体化することで自己の安寧をはかるのが我が国特有のものではなく、あちらも似た傾向があると書いてある。エロスの関係は社会の相互共同存在と違うと至極当たり前のことをレヴィナスは言っている。ここでもまた「愛における伝達の挫折」が語られる。レヴィナスはエロスについて考え詰めることを断念し、一般化した他者論へ向かったと、ひそかにわたしは思っている。

 「それでは人間の複数性ということはどうなるのでしょうか。他者のかたわらにいる第三者は、そして三者と共にいる他のすべてのひとたちはどうなるのでしょうか。私と対面している他者へのこの責任、隣人の顔へのこの応答は、第三者を無視しうるのでしょうか。第三者もまた私の他者ではないでしょうか。第三者もまた私を見つめているのではないでしょうか」(『われわれのあいだで』合田正人・谷口博史訳)と自問したレヴィナスは、次のように自答する。「しかし第三者が出現するやいなや、判断と正義が必要になります。隣人に対する絶対的義務というまさにその名において、隣人が要請する絶対的臣従を放棄せねばならないのです。ここに新たな秩序の問題があります。この秩序のために、制度や政治が、すなわち国家の全骨格が必要なのです。(同前)

 なんと! 考えに考えて元の木阿弥。斯くして、イスラエルの情報機関モサドは容認される。この思考の範型はナチと同型ではないか、ということをわたしは長年考えてきた。この不可解さはどこから来るのか? ハイデガーに甚大な影響を受け、ナチの絶滅収容所で家族を失い、戦後をハイデガーと異なる存在論を思索することに生きたレヴィナスの堂々巡りは何に由来するのか? 欺瞞の塊だったハイデガーの巨大な知性を根底から批判し、同時代を知的なダンスに興じたサルトルらから遠く離れて、傍流を生きたレヴィナスがなぜぐるっと回って制度に着地する? それはないぜ。市民主義とおなじではないか。難解を装った知的なダンスではないか。言葉の背骨を抜かれたレヴィナスは、固有の体験を普遍化するに際して、戦後という時代の精神を批判することに性急なあまり、『時間と他者』の着想を突き詰めることができなかったのではないかとわたしは推測している。いやそう言ってしまうと存在するとは別の仕方で世界を憂えているレヴィナスが安堵する。かれのイリヤという概念が生の不全感の根を根本から抜き去ることができずに、他の出現を自と多のわかりやすさに一般化したことに由来するのだとわたしは考えている。

 ドゥルーズの痛ましさやレヴィナス倫理の窮屈さはなにに由来するのだろうか。当人たちにとってはどれだけ痛切なことであったとしても性を実体化して底のしれない穴に落ちこんだのではないか。わたしにはそうとしか思えない。わたしは親鸞の正定聚という考えにずいぶん助けられた。もし正定聚という浄土への媒介を知らなかったら、還相の性まで来ることができなかったような気がする。思うに西欧近代から現代にいたるまでヨーロッパの思想の諸家は知の往還という理念をつくりえていない。バタイユは至高性や非知の思考を言っているが、積み増しになった強力無比な知の岩盤の重畳する歴史にたいし、かれ独特の性の発見からたしかに至高性を語り、「ヨーロッパ的限定」を射返したが、かれの非知の思考はどこかにあいまいさとゆるみがある。熱い性の発見を叙述しながら生が冷えていったのは、かれの論述が外延表現に沿ったもので、意識の線形性をなぞるものでしかなかったからだ。西欧の思考は積み増しの知をさらに積み増すことに特化してきただけではないのか。斯くして書誌学はぶ厚い法規の判例集のようなものとなる。もともと知を相対化するという思考法の存在する余地はないのかもしれない。フーコーが知の考古学を着想したのはそれらのすべてに嫌悪感があったからにほかならない。かれはすっきりしたくて人間の意志というものをちゃらにした。すなわち人間の終焉だ。

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