日々愚案

歩く浄土200:親鸞・マルクスとの架空座談

親鸞 今度はわたしがおまえに会いに来た。わたしのことについてあることないこといろいろ言っておるな。だからといって、わざわざわたしがおまえに会いに来たことを気にすることはないぞ。それにしてもおまえはわたしの考えたことをよく考えているな。感心するよ。わたし親鸞の考えたことにケチをつけたのはおまえが初めてだ。横着そうにみえるがなかなかわたしの他力についてよく考えているな。いろんな事を考えさせられたよ。おまえの言いたいことは聞かずともわかる。わたしがいまの時代を生きていたら自力作善の聖道門の批判などやらずにストーンズみたいなロックンロールをやっていたと思うな。マルクスなんかも辛気臭い資本論とか書かずにビット論を書いたと思うよ。こっちにいてもそれぐらいはわかる。ただ大したことはないな。変わるだけ変わって変わらないことがなんであるかおまえたちは考えたことがあるかい。めずらしくおまえはよく考えているようだが、おまえたちの時代の世界を見るまなざしはせこいな。近視眼的だと思わんか。なにが言いたいのか簡潔にいえ。あれやこれや忙しいからな。
森崎 わざわざおいでいただき恐縮です。親鸞さんにお断りしていないのですが、今日はマルクスさんを特別ゲストとしてお招きしています。よろしいですか。
親鸞 べつにかまわんよ。あちらの世界でマルクスさんのことはよく聞いていたし。わたしなどとは違って世界を変革しようとしたのですね。
マルクス 森崎さんに声をかけていただき、おかげでこうして親鸞さんにお目にかかることができました。宜しくお願いします。それからあなたが森崎さんですね。あなたとも話したいと思っていました。とても面白いことを考えている現代人がいると言うことは聞いていました。親鸞さんが言うことは過大評価です。内心忸怩たることが 多々ありました。せっかくの機会ですから縷々申し上げたいと思います。実は『資本論』を書き上げてまもなくお迎えが来ました。『資本論』のつづきをずっと書いていたのです。つづきというより全面的な改訂ですが。ビット論など書く気はないです。ビット論書いても『資本論』のようなものにしかなりませんから。もうすぐ書き終わります。『贈与論』です。便利ですね、こちらにもアマゾンはあるから電子書籍で出すつもりです。書き上がったら親鸞さんと森崎さんに送ります。わたしの書いた『資本論』はわたしが生きていた頃は社会主義の時代の空気感が色濃くあったので、そのおおきなうねりの指標になったことはあちらで聞き知っていました。おれの考えたことがねじ曲がって実践され、結果として人類史の規模の厄災を為してしまった。なぜそうなったか深刻に考えました。わたしの思想と実践のあいだの乖離の原因はなんだろうか。死ぬほど考えました。もうあちらにいるので、ほかに生きようがないのですが、考えるだけ考えました。『資本論』には考えが足らなかったように思います。もうひとつあります。わたしは『資本論』を書いて貨幣の謎は解けたと思ったのですが、その後の世界の動きをみていくと貨幣の力まったく衰えていず、むしろグローバリズムとして国家を超える力を持つようになっています。世界を革めるものとして構想した『資本論』にどこか根本的な欠陥があるからだと思うようになりました。それで存在の複論理性や内包表現という森崎さんの考えに関心を持ったのです。まだあります。西欧的な思考が親鸞さんの言われた自力廻向のような気がしてきて、還相廻向に関心を持つようになったこともあります。西欧人にとって神という観念はなじみがありますが、他力という考えはとても異質で理解しがたいところがあります。ただ還相廻向の他力という思想は東洋や西欧に先立つ思考として有効であるような気がしています。親鸞さんや森崎さんの声による説明を聞きたいと思って今日この場に参加しました。
森崎 マルクスさんが『贈与論』をお書きになっていることはびっくりです。わたしも内包贈与論をずっと考えて、少しずつ書いています。今日はまたとない機会なので、親鸞さんにもマルクスさんにもいろんなことをお聞きしたいと思います。わたしより130歳年長の方に申し上げるのは気が引けますが、一言でいうとマルクスさんの人間理解は浅いと思います。どうかご無礼をお許しください。親鸞さんの煩悩理解や極悪深重、悪人正機のような人間についての洞察が『資本論』にはありません。
親鸞 ちょっと待てよ、おれはマルクスさんみたいに立派な人間ではなく、やることなすこと虚仮だらけの恥多い人生だったぞ。自然法爾だから起こったことはすべて善しだったがな。失敗の連続だったな。やり残したことがあるとおまえが書くから気になってな、今回はわたしからおまえのところに出向いたわけだ。こうやってマルクスさんにもお会いしているし、なにか面白い話になりそうな気がするよ。
森崎 はじめに圧倒的な善ということについてお話しができたらいいと考えています。親鸞さんの思想の肝は如来の第十八願ですね。「四十八願」の解説にある「第十八願」は仏法をなぞっているだけで退屈ですが、「末燈鈔」の自然法爾(じねんほうに)の言葉には親鸞さんの思想があります。
親鸞さんは「末燈鈔」でつぎのようにいっておられます。「自然(じねん)といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆへに、おほよす行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆへにしからしむといふなり。すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とす、としるべしとなり。自然(じねん)といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然(じねん)とはまふすぞ、とききてさふらふ。ちかひのやうは、无上仏にならしめんとちかひたまへるなり。无上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然(じねん)とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせんれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然(じねん)のことはつねにきたすべきにはあらざるなり。つねに自然(じねん)をさたせば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。 正嘉弐年十二月十四日愚禿親巒八十六歳」。とても不思議で大事なことが言われています。南無阿弥陀仏と一念すれば浄土に行くことができるようにもともと決まっていて、どんなはからいもそこにはない。如来は浄土が必定であると言っている。自然法爾とはそういうことである。この道理がわかったら自然法爾について理屈は言うな、と親鸞さんは言われます。そのとおりです。念仏者がみな浄土に行けないならわたしは仏とはならないという如来の誓いにどんな意識の明証性もありません。それは絶対的な善である他力が存在するということです。もうひとつ親鸞さんはぎょっとすることを言っておられます。念仏者が浄土に行くのは如来が誓っているのだから疑いなく浄土に行けるのだが、「无上仏(むじょうぶち)にはかたちがないと言います。石田瑞麿はその部分をわかりやすく現代訳にしています。「如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります」。かたちのない仏とはなにか。たんてきに〔ことば〕だと思います。親鸞さんはそう言っておられます。如来の誓いも言葉です。一切の手続きなしに衆生は仏のはからいにより救われるといきなり宣明されています。ヨハネによる福音書にもおなじ言い方があります。「初めに言(ことば)」があったと書かれています。親鸞さんの他力は、はからいによらずこの世の無言の条理を突きぬけています。ヴェイユも似たことを言っています。「二つの善がある、どちらも同じ名称をもつが、根本的に相異なっている。悪の反対としての善と、絶対としての善と。絶対というものにはその反対がない。相対は絶対の反対ではない。相対は絶対から派生したものであり、両者の関係を交換することはできない。われわれが欲しているのは絶対的な善である。われわれが到達できるのは、悪と相関関係にある善である。われわれはそれをわれわれが欲している善であると思いあやまり、そこにおもむく」(『重力と恩寵』)。ヴェイユは夭折したので、絶対的な善と相対的な善と悪がどういうしくみになっているか、それを詳しく言ってはいませんが、親鸞さんの他力に近いものを直感していたと思います。
「歩く浄土166」で一度、親鸞さんとお話をしましたが、今日はその続きをしたいと思います。今回の親鸞さんとの話は、一言でいえば、「言葉と性」ということになると思います。
親鸞 なにが言いたいのかいまひとつ分からんが、おまえの話をつづけていいよ。しっかり聞いているぞ。
森崎 親鸞さんは浄土教の教義を解体しようとしましたね。浄土教の大才のある念仏者のだれも言っていないことです。天親も曇鸞も法然も、もちろん釈迦も言っていません。釈迦の功績はただひとつ、輪廻転生を仏という観念によって切断したことだと思います。還相廻向を構想しえたのは親鸞さんだけです。苦界に沈むこの世の無言の条理を深々と貫通しました。凄まじい思想です。親鸞さんは他力によってこの世の条理を突きぬけています。おそろしい光景だと思います。他力という言葉がこの世の条理を超え、この世のしくみとべつのまなざしによってもうひとつの現実をつくることができます。言葉が現実をつくるのです。
前回もお話ししたことですが、ここからが膝をつき合わせてお訊きしたいことになります。親鸞さんの世界は、仏と衆生という視線によってつくられています。煩悩にまみれ極悪深重である衆生を、仏の慈悲が照らすようになっています。この慈悲は面々のはからいとは無関係に衆生にとっては一方的な受動性としてあります。そのことはよく理解しています。仏は衆生に内在しているのですか。それとも外在としてあるのですか。お訊きしたいと思います。
親鸞 そのことは最期まで分からなかったし迷ったよ。ただわたしより近くにいる仏をわたしとして生きたような気がする。だから内在だな。最期は仏が親鸞なのか、親鸞が仏なのか、判然としなかったよ。ほかの他力の念仏者がどうであったかは、面々のはからいであるからそれはわからない。
森崎 親鸞さんは最期は仏と懇ろになったのではないですか。
親鸞 たしかにそうなったと思う。仏は親鸞であり親鸞は仏であったからな。
森崎 さらにお訊きします。如来は姿も形もないとおっしゃっていますね。そうすると親鸞さんより近くにいる仏を親鸞として生きることは親鸞さんが親鸞さんに仏という言葉をとどけていることになりませんか。無形の仏という言葉を親鸞として生きるということは、言葉が言葉を生きることになりませんか。
親鸞 そうなるな。
森崎 お訊きしにくいことをさらにお尋ねします。仏という言葉を親鸞として生きるとき親鸞さんは親鸞さんでありながら仏ですから、親鸞さんは一人称と二人称をどうじに生きていることになりますね。仏という言葉は無形のものだから、仏を実詞化することはできないですよね。親鸞さんより近い仏を親鸞として生きるとき、そして仏にかたちがないのであれば、親鸞である仏は還相の性ということになりませんか。最期の親鸞さんにとって仏という観念はなかったように思えてならないのです。仏を親鸞として生きるとき、親鸞である仏も、仏である親鸞も〔性〕ではないのですか。〔ことば〕が〔性〕であるとはそういうことです。信の共同性を解体し尽くすにはそこまで行く必要があったのではないですか。そこまでいったように思えるのですが。
親鸞 生きているときは考えるだけ考えたが、じつはお迎えが来て向こうでも考えつづけたよ。他力本願という自力の巨大な教団もできたし、なぜそうなったのか真剣に考えた。だからマルクスさんが『資本論』でやり損ねたという気持ちは分かるね。「末燈鈔」となっておまえたちの時代にまとめられている書簡をだれに書いたかもう忘れたが、たしかに「他力のなかには自力とまふすことは候とききさふらひき。他力のなかにまた他力とまふすことはききさふらはず」と書いたことは覚えている。おまえは他力のなかに他力があると言うているらしいな。他力の手前の他力という言い方もしておるらしい。そのあたりが気になってこちらから出向いた。それはどういうことか。
森崎 遠流の刑から赦免されたときに、僧籍を剥奪され俗名を与えられ、心境を僧に非ず・俗に非ずと言っておられます。僧に非ずはわたしの生き方でもありますから直ちに理解できます。俗にあらずと俗はどう違うのか気になってきました。他力のなかの他力や、他力の手前の他力が俗にあらずと切り結ぶのです。
親鸞 なにが言いたいのだ。
森崎 親鸞より近い仏を親鸞として生きるとき、非俗は破られているということを言いたいのです。いきなり俗ということはないですから、俗にあらずと僧にあらずをセットにするのは凜とした佇まいがあって、すごくすきですが、ちょっとかっこよすぎると思ってきました。俗に非ずを生き切ってしまうと非俗を突きぬけて俗そのものとなるのではないでしょうか。親鸞さんは女性が好きで説法をするのも好きだったので、仏を得ることができなかったと言われていますが、それは謙遜やはにかみではないですか。女性と説法が好きでなにが悪いのですか。仏と懇ろになったことの方がばちあたりで極悪ではないですか。親鸞さんは仏法という思考の慣性を突き破りました。無上の仏を親鸞として生きるとき、親鸞さんは自然法爾を超えて親鸞が親鸞のままに仏であるという、わたしの言葉で言えば、内包自然を生きておられるような気がするのです。もうひとつ。親鸞さんは意識されていないかもしれませんが、親鸞が仏であると、親鸞さんが領域化されたときに、正定聚は還相の性へと転位しているはずです。最期の親鸞さんは仏ではなく根源の性まで到達しているはずです。他力のなかの他力として、他力の手前に、根源のふたりが存在しています。もう一度言います。親鸞さんより近くにいる仏を親鸞として生きるとき、仏が無形の言葉だから、仏は他なるものとして親鸞さんにとって〔性〕となっています。いつのまにか仏が他性になっているのです。だから親鸞さんという仏を生きる親鸞さんは無形の言葉として〔性〕になっているのです。つまり仏という性に親鸞さんはよぎられたことになります。このとき自然法爾はわずかにふくらみ内包自然となり、その深奥に実詞化できない還相の性が棲まっているのです。有情をふくみもつ有縁を度すべきと『歎異抄』でも説かれています。有縁は宗教的信ではなく内包的な親族となります。他力のなかの他力や他力の手前の他力がないとしたら、信の共同性の根はのこりつづけます。こういうことです。親鸞さんより近い仏を親鸞として生きるとき親鸞さんは仏という無形の言葉を生きています。いつのまにか仏が他なるものとなったのです。仏ではなく他なるものによぎられて親鸞さんは自己をなまなましく生きています。このありようを実詞化することはできません。実詞化はできないが固有名としてありつづける性のことを還相の性と呼んでいます。すると他力のなかの他力と言っても、他力の手前にある他力と言ってもいいのですが、他力とはべつの不思議が起こります。他力とはべつのまなざしによぎられるのです。わずかにふくらんだ自然法爾のふくらみのところに還相の性が棲まうのです。そうすると内包自然を生きるとき、親鸞さんが切々と説かれた有縁は、信の共同性ではなく内包的な親族となります。ここで交換は贈与に転換します。マルクスさんは人間の個的な存在は社会的な存在であるとして『資本論』をつくりましたが、内包的に存在しているということに人間のもっとも本質的で本源的な生存があります。根源のふたりという内包的な生の上に社会的な存在が虚構として被さっています。
マルクス 呪文みたいな問答を聞いていてしびれが切れてきた。わたしにもしゃべらせてくれ。祝詞みたいな話だが、わたしに理解できることもある。どうも『贈与論』と関係している。なにかびんびん響くものがあるよ。
森崎 そのとおりです。マルクスさんは悪人正機の『資本論』を書くべきだったのです。親鸞さんは仏教という共同幻想の言葉を使い、この世の無言の条理を脱臼させて自力廻向ではなく還相廻向を発明しました。マルクスさんの『資本論』は自力廻向の人倫で書かれています。だから無言の条理に呑み込まれてしまったのです。悪悪人正機の『資本論』は『贈与論』になります。自力廻向は適者生存の条理を外側からなぞるだけです。この世の条理を還相で組み替えようとしたのです。しかし親鸞さんの膂力をもってしても、信の共同性を解体することはできなかったのです。仏と衆生の関係において他力は実現されます。それでも傍らの人との関係は変わりません。いっこうにこの世の条理は立ち去ってくれないのです。マルクスさんはこの世のしくみを変えようとだれよりも果敢に戦いました。お疲れになったでしょう。
マルクス わたしの構想した『資本論』がなぜこの世のしくみを変えることができなかったのか。お迎えが来て向こうで延々と考えました。ロシア革命はなぜスターリニズムに変質したのか。毛沢東の革命はなぜ文化革命という惨劇を生んだのか。どこの国の社会主義でもおなじです。クメールルージュもそうです。各国の社会主義運動も似たようなものでした。社会主義はなぜ人類史的な厄災を招いたのか。どん底まで落ち込んで考えました。森崎さんの話を聞いていて、親鸞さんがドイツ中世の神秘思想家エックハルトに似ていることも分かりました。どうもわたしは〔と共に〕ということを考え違いしていたのではないかと思うようになったのです。それはわたしの思想のなかにあるニヒリズムとも関係していると思います。ニヒリズムが社会的に発露されるとスターリニズムになることにも気づきました。おおまかには森崎さんが指摘していることは妥当です。
森崎 せっかくの機会なので、マルクスさんの思想と内包論の間合いを詰めたいと思います。わたしのほうからは一言で、「贈与と性」ということでマルクスさんの思想と接触することができます。『経済学・哲学手稿』のなかに美しい言葉が記されています。
「人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間にたいする〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されているのである」。
匂い立つような文章ですが、マルクスさんが生きた時代の思考の慣性が二重に表現されています。なぜこの気づきを『贈与論』としてマルクスさんは書かなかったのかと不思議でならないのです。マルクスさんの思想のなかでもっとも可能性があるのは、男性の女性に対する関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係があらわられると言っておられるところです。マルクスさんのこの直感のことを「イェニーさん」問題と呼んできました。『経済学・哲学手稿』のなかでもっとも音色のいい言葉はここです。イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。それにもかかわらずこの大いなる気づきをマルクスさんは部分化し外延化してしまいました。男性の女性にたいする関係、あるいは女性の男性にたいするる関係と、人間の人間に対する関係はまったくちがいます。ちがうにもかかわらわず、マルクスさんは性の関係を社会関係に外延しています。そしてその外延関係を人間と自然の関係までさらに外延しています。「個別的な現存において同時に共同的存在」であるはマルクス主義そのものです。この思考から殺戮までは一足飛びです。ここにある曖昧さがマルクスさんの『資本論』におおきなゆがみをもたらしたのではないかと考えてきました。そのことを自覚したことがマルクスさんにはありますか。
マルクス おっしゃっていることがいまひとつの理解できないのでもう少し説明していただけませんか。私の頭の中は資本の運動を解析することに熱中していて、人間の自然史に資本の運動を還元したかったのです。類生活から乖離し 疎外された資本の運動は資本の自己運動がそれ自体の中に、資本のシステムがアポトーシスを起こすとわたしは考えて資本論を書きました。
森崎 個的な現存がどうじに共同的存在であるとマルクスさんが考えるとき人間は社会的な存在であることが思考の慣性となっています。『資本論』の「序」で『資本論』は科学であると宣言しています。なぜ経済論が科学なのかが究尽された気配はないと思います。この『資本論』は私マルクスの主観ではなく科学という客観であると言いたかった気持ちは分かります。そしてマルクスさんも心底そう思いこんでいました。マルクスさんにとっての観念の自然は当時の時代の思考の慣性そのものです。社会主義が到来するという時代の空気感を強く感じます。マルクスさんが渇望した時代から遠く隔たった時代をわたしたちは生きています。「私以外は私じゃない」という感性が時代の気分ですが、その「私」がさらにビットマシンによって細切れにされようとしています。
『資本論』の価値形態論のなかで貨幣の謎が解けたと興奮しておられましたね。まったく解けていないのです。貨幣の謎が解けていないことをべつの言い方で言ってみます。マルクスさんはフォイエルバッハから唯物論を貰い、資本論の記述の論理式はヘーゲルの弁証法に負っています。フォイエルバッハもヘーゲルもキリスト教批判をやっていて、マルクスさんもそっくりそれを受け継いでいますね。かれらの宗教批判は一面的なのです。人間が存在しているということは内面と外界という意識の外延性で表現し尽くすことはできません。外界を精神的に統べる権力が神という超越ですが、神は人間という存在の複論理性が、同一性を淵源としておおきな自然と内面というちいさな自然に疎外されて表現されたものにすぎないのです。わたしたちの生は複論理として存在しています。同一性を粗視化したものが神であり、神を媒介としてわたしたちの外延的な生が表現されたのです。フォイエルバッハやヘーゲルは意識の外延性にすぎない神を批判して神の代わりに大衆という概念を導きました。『資本論』では資本家を経済的な範疇として扱っていると慎重に書いていますが、エンゲルスとの共作の『共産党宣言』では鎖以外失うもののない万国の労働者よ蹶起せよと煽ってますね。概念と概念の可視化が混濁しています。資本家も労働者も社会的な存在として実体化されていますね。人間の個的な生存は断じて共同体的存在に還元できません。
もうひとつマルクスさんのおおきな錯認があります。『経済学批判』で「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(引用①)と書かれています。
あなたの存在と意識についての考えは素朴で粗雑です。ついでに貨幣の謎についてのあなたの考えを引用します。どうか真剣に聞いてください。『資本論』の冒頭にあるあまりに有名なくだりです。「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる」(引用②)「人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純な、もっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる」(引用③)
マルクスさんも言われていますが、『資本論』で難しいのは価値形態論だけです。わたしの理解では難解であるというよりはいくつものあいまいさが探究されないまま思考の慣性として発露されていると思えてなりません。マルクスさん、お聞きになられていますか。引用①の下部構造は共同幻想です。上部構造も共同幻想です。下部構造という共同幻想が上部構造という共同幻想を批判しているだけです。社会的存在という共同幻想から精神の内面性を批判しています。社会主義という妄想がはやり熱のように猖獗を極めていたその時代の空気感としては理解できます。『資本論』は商品の分析から始まっていますが、分析の対象である商品が貨幣という共同幻想に支えられていることをマルクスさんは考慮しませんでした。『資本論』の最大の誤算がここにあります。「もっとも単純な、もっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったか」を共同幻想の遷移として徹底して追求すべきだったのです。貨幣の謎を解こうとしてアダム・スミスの労働価値説を精密化したにもかかわらず、最大の謎である貨幣の共同主観的現実には一切手をつけていません。共同幻想の分析を抜きに商品の解析はできません。『資本論』冒頭で、「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる」と書かれていますが、富の成素形態として商品があらわれるとしたら、富という共同幻想そのものの分析から始めるべきだったのです。商品は富という共同幻想のあらわれにすぎないのですから。商品という共同幻想がどう解析されるのか期待すると、いきなり、商品は使用価値と交換価値という両面性をもちながら貨幣形態としてあらわれると書かれています。貨幣は共同主観的な現実ですから、貨幣という共同幻想の表象である商品はなぜ贈与ではなく交換としてあらわれるのかと問うべきだったのです。『資本論』は問いの立て方が逆になっています。『資本論』は貨幣という共同幻想の分析を通じて商品が交換から贈与へと転換するしかけとしくみこそ書かれるべきだったのです。追尋し追い詰め解いたと思った貨幣の謎がこの世の条理を説明することにしかならなかったのです。理念として根本的に倒錯しています。『資本論』では共同幻想がさまざまに遷移するとしか言われていません。すべてがあいまいなままです。マルクスさん、交換過程をどれだけ精密に分析しても交換過程からはさまざまな交換という共同幻想が派生するだけです。いったいどうしたのですか。革まったものはなにもないではないですか。この錯誤はマルクスさんのつるんとした自然哲学から出てきているように思います。わたしが「イェニーさん」問題と呼んできたところのものをそれ自体としてつかみださずに、性の世界を社会への媒介とみなしたからです。

歴史は人間の真の自然史である。これがあなたの自然哲学の核心にあります。経済学的範疇は自然史の延長であると考えています。なにが人間を人間たらしめるのか。人間が自然に働きかけ生の恒常性を維持していることは明らかです。自然との絶えざる交流過程のなかに人間の自然もあります。人間の身体性は自然との代謝関係のなかにあり、自然から生を贈与されています。もっとも根源的な代謝関係は贈与です。人間という自然は起源として言えば贈与の関係にあります。その有用性が使用価値として前景化し分業と交易の拡大にともなって交換価値が派生したのです。その交換価値でさえも贈与という有用性から分岐したもので、いつでも贈与へと変換されます。
吉本隆明さんは使用価値を言語の指示表出、交換価値を言語の自己表出と読みかえて言語の表現理論をつくりました。「ついでに申しあげますと、ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったかといいますと、おなじくマルクスの『資本論』から作りました。ぼくは、『価値形態』としての『商品』の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、かんがえたのです。そして、ぼくはどこに着目したかというと、『使用価値』という概念が、言語における指示性(ものを指す作用)、それから『交換価値』という概念が、『貨幣』と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえたんです。言語における『指示表出』と『自己表出』という概念を、『商品』が『使用価値』と『交換価値』の二重性を持つというところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました」(中沢新一編『吉本隆明の経済学』所収「経済の記述の立場」)重要なのは「『交換価値』という概念が、『貨幣』と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえた」というところです。このくだりを読んではっとしました。万人の意識のなかにある共通の働きかけは共同幻想です。
ここで、入眠状態のぼんやりした共同幻想の水準を想定してみます。精霊信仰がやや高度になった意識の水準といってもいい。自然との代謝関係の相互作用が分業を生んだときに観念は身体の延長である貨幣を粗視化し交換が始まります。それが交換という共同幻想の始まりではなかったかと思うのです。度量衡などないからかなり恣意的なものであったようにも思われます。自然との代謝関係が有意味なものとしてあり、有意味性が価値化され、ある使用価値をもち、この使用価値からゆるやかな交換価値が析出する。交換という共同幻想がしだいに輪郭を持ち始めました。親族の展開が氏族制へと転化していく、ある段階に交換という共同幻想が発生したと推測されます。もともとは精神の古代形象である身体性が粗視化された身体の代償態に貨幣の起源があるのです。マルクスさんは商品の価値形態論から『資本論』を構想しましたが、思考の慣性のうちにある外延自然は個的な生存と社会的な生存を引き裂くものとして機能したように思います。マルクスさんの自然哲学を内包化すれば外延自然とはべつのまなざしをつくることができます。そしてそれは資本の分析ではなく『贈与論』として書かれることになります。マルクスさんはいまそのことを書きつつあるのではないでしょうか。
「たくさんのビスケット」という詩があります。
「たくさんあるから はんぶんあげるね/はんぶんになっても まだたくさん/まだあるから はんぶんあげるね/すこしへったけど まだあるから/そのまたはんぶんあげるね/とうとうあとひとつになってしまったけど/それでもはんぶんにわってあげるね/つぎにきたこには もうわけてあげられないからのこったはんぶんの ビスケットをあげるね/ぜんぶあげちゃったけれど/ビスケットとおなじかずの/やさしさがのこっているよ」(堀江菜穂子)いや、私はビスケットよりチョコレートのほうがいいと言われたら、ビスケットをチョコレートと交換し、その子にチョコレートをあげればいい。贈与はいつでも交換できるけど、贈与が根幹にないと、交換はいつまで経っても交換なのです。マルクスさんは富の分配のしくみを公平にするといい世の中になると考えましたよね。その気分はよくわかります。では、腹を減らした多くの者がいて、そこにパンが一個放り込まれたとします。奪い合いますね。とても自然です。
この幼い兄妹の話はどうですか。「南インドの小さい都市の鉄道の駅で、乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に、飢えた少年や少女が群がって奪い合っている。一歳くらいの妹を片脇にかかえた少年も負けることなく奪い合っている。乗客のひとりがこの少年にバナナを与えると、わたしたちがふつう食用にするまん中のやわらかい部分はすべて、たぶんまだ歯のそろっていない妹に食べさせている。その長い間、少年は法悦のような目つきで、女の子を見つづけている。陽射しの強さもあるかもしれないが、わたしはこんなに幸福な人間の顔を、これまでに何回かしか見たことがない。おしまいの根元の部分を女の子の口におしこむと、少年は皮だけを食べて、またあの容赦のない争奪戦に、仲間をおしのけ蹴たぐりながら走りこんで行く。餓鬼は餓鬼として即菩薩であり菩薩は菩薩として即餓鬼である。もっと「文明的」な世界では幾重ものシステムと観念装置に覆われている関係の真理のようなものが、仮借ない直接性の陽射しにさらされて裸出している」(真木悠介『自我の起源』所収「補論 性現象と宗教現象」)
マルクス あなたの考えは面白いな。完成間近の『贈与論』を書き換えたくなったよ。
森崎 もう終わりますから、あと少ししゃべらせてください。「たくさんのビスケット」もお兄ちゃんが妹にバナナをあげる場面も人の生が根源においてふたりであることの喩になっています。これがマルクスさんの「イェニーさん」問題です。人間の生は社会的な存在である以前に内包的な存在なのです。自分がいて、家族がいて、社会があります。それぞれがちがう意識によって成り立っています。このそれぞれを統覚するのが同一性です。同一性を担保にすることで意識の外延表現が成立します。だから人間は社会的な存在であるということもできます。貨幣は身体や食の延長された代償態です。親族が拡大して氏族制が登場したとき貨幣は共同幻想に転化したはずです。商品を使用価値と交換価値から解明しようとしても貨幣という共同幻想にであうだけで貨幣の謎は解けません。意識にしても貨幣にしても意識の外延性に起源をもちます。意識の外延性がかたどる自然より意識の内包性が巻き取った自然のほうがはるかな淵源をなしています。「深雪の凍原で一緒に暖とり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を怖れおののきながら一緒に食べ、いつでも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された」(『喩としての内包的な親族』)マルクスさんの『贈与論』のモチーフをお聞きせずに一方的にしゃべってきましたが、存在が複論理を為していることから自然哲学をつくり、その内包自然を基にして『贈与論』をお書きになると、貨幣の謎がひらかれると思います。ただ厄介なのは精神の古代形象が身体の延長を粗視化して貨幣をつくったということです。内包的な意識の初源で意識の外延性をひらくしかほかに方法はないのです。意識の外延性は同一性が統覚していますが、意識の内包性が表現する往相の性と内包親族は還相の性が統覚するのです。この観念によって国家のない世界も政治のない世界も喩としての内包的な親族も内包贈与論も可能となります。存在がバイロジカルであることを認識するとビットマシンによる意識の外延革命をつつんでしまうことができます。
マルクス わたしの出る幕はなかったね。かなりめげてるよ。
森崎 親鸞さんとは「言葉と性」、マルクスさんとは「贈与と性」について少しお話しすることができたので、次は「世界は性である」ことにつながっていくのではないかと思っています。親鸞さんは「化身土巻」で愛欲の海に沈みと書かれています。マルクスさんもいろいろとご苦労されたと伝え聞いています。そのあたりのことをお伺いしたいと思っていましたが、そうですか。お疲れですね。次回は博多駅に隣接するkittebills福岡10階の叙々苑で焼き肉を食べながら、この話のつづきをしませんか。

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