日々愚案

還相の性と国家4

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①わたしがほかならぬわたしとしてあなたと出会う対関係の世界を意識の第一層とします(吉本隆明の幻想論はこの領域に属します)。わたしがあなたをわたしの分身として生きる対関係の世界を意識の第二層とします。ドナが生きる特別な絆の世界です。分身を生きることで同から他へと過ぎ越そうとしたドゥルーズの困難があります。彼は貫通できませんでした。ぼくたちの知る哲学や思想、文学や芸術の大半はここまでしか到達していません。同一性の彼方は意識の第三層にあります。(guan02 140p)

②みずからなるわたしの果てのなさに人びとはさまざまな機微を読み込んできた。神や仏という大洋感情との絆が薄れていくにしたがって、人びとはこの超越を精神の至上物や外化されたものとみなすようになってきた。この時期に先カンブリア紀の進化の大爆発ならぬ思考の大爆発がおこった。それはあまりに多種多様で一言では言えない。総覧して、わたしは人間の知性は意識の第二層まではこじあけることができたと考えている。しかし、どういう精妙煩瑣なしかけをもってきても同一性の堅固がゆらぐことはなかった。それは人類史というに等しいほどの規模をもっている。そしてその果てに豊かさの裏に貼りついた空虚という境涯を手にしたのだ。人びとがみずからの意識の無限性を内包のきりのなさのあらわれと考えることはけっしてなかった。(guan02 189p)

 guan02で書いたことだが、近親相姦の禁止から国家の初源への観念の道筋をたどりながら、わたしの思考の停滞がどこにあったのかとりだすことになると思う。わたしのくぐった体験では、自己幻想と共同幻想は事態がきわまったとき、けっして逆立することはなく東洋の自然という共同幻想に同期する。人々の生を馴致する権力の狡猾さはここにある。そして三つの観念の位相論は事態のありようをふるいにかけることはできても起こった出来事を突きぬけることはできない。わたしたちの生きている自然は語られ論じられるよりもはるかにむごく強靱である。自己の体験を通してわたしは共同幻想の彼方をめざした。そのような考えはどこにもなかったので、じぶんでそれをつくろうとしてきた。わたしが手にしたいのは未知の考えだった。

 吉本隆明は「バタイユ論」で近親相姦の禁止について次のように言っています。

 〈氏族〉共同体からの個々の〈家族〉共同体の脱落、孤立、内閉こそが、〈氏族〉の〈部族〉への飛躍と、〈近親相姦〉の〈禁止〉を促した、とわたしにはおもわれる。なぜならば〈家族〉共同体の、上位共同体からの孤立は、いわば、意識的に〈性〉的な対象としての〈近親〉の異性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素直に(自然に)従えば、〈家族〉共同体は、崩壊の危機に見舞われただろうからである。ところで、〈家族〉共同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流浪することでもなければ、〈氏族〉共同体の直接のメンバーに転化することでもない。〈家族〉共同体の内部で自閉した対(ペア)に分裂することであり、それ以外の現実的な行き場所はないのである。つまり、〈家族〉の〈自滅〉そのものであり、どこにも、転化の契機をもたないのである。これを免れるためには〈近親相姦〉を自ら〈禁止〉するほかはない。(『書物の解体学』所収「ジョルジュ・バタイユ」)

 暗号文に見えませんか。祝詞よりわかりにくいし、まるで呪文。この文面を何年も何年もくる日もくる日もじっと眺めたのです。よく友人にこれどういう意味だと思う、と尋ねましたが、答えは決まって、わからん、です。
 脱落・孤立・内閉の反力として氏族制は部族制への飛躍と近親姦の禁止をもたらしたと吉本は考えます。性の自然は家族の自滅に向かってもよいのだが、そうはならなかったことの根拠として近親相姦の禁止をもちだすのは、結果から特定の原因が探られているような不自然さをともないます。性という根源は硬直した因果論で説明されることではないように思えてなりません。この不自然さは吉本の性の定義の硬さと同根であるような気がします。
 たとえば、最初の性的な拘束が同性であった心性を吉本が「女性」と定義するとき、あるいは、「あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ」(『共同幻想論』)と規定するとき、なにものかを定義しようとする心性はすでに男性と女性を分割することを知っています。これでは二点を結ぶ最短距離を直線と定義するとき生じるトートロジーと同じことになってしまいます。定義されるべきなにものかを定義によって知られるものによって定義しては身も蓋もありません。未知のなにかを手にしたければ概念そのものをあたらしくつくるほかありません。なにより性が真っ先に問われねばならないのです。

 性は、ぼくたちの知っている(自己意識の用語法による)男性や女性という名付けと相関はしますが、男や女という言葉によっては言い表しえない何かのように思います。吉本の性についての言説はいつもこの矛盾をあいまいなままやりすごしています。内包存在はそれ自身の内部に禁止や忌避という観念を、つまり倫理をもちません。だからそこには侵犯という観念もありません。内包存在は自意識と異なるしくみをもっています。そのことはとりもなおさず〈根源の性〉という出来事において意識=存在という対称性が破れていることを意味しており、言い換えれば、内包存在がそれ自体のなかに対自―対他構造をもたないということであり、そのためにそこには対自―対他意識のあらわれである禁止と侵犯が存在しないのです。

 しかし内包存在は分有することでしか個体化されません。比喩としていえば、内包存在という手足が8本の存在は4本ずつの存在に分節されることで、個体となるのです。そうやって個体としてあらわれた人が、同じように分節された他の一人と向き合ってつくる磁場をぼくたちは事後的に「性」(対幻想)と呼んでいるのです。灼熱の光球であり、混沌としたエネルギーの塊は、喰い、寝て、念ずるひとびとの生活の知恵として秩序(安定)をめざしました。荒々しい驚異の湧出が狂おしさのあまり我が身を焼き尽くさないように、太古の面々は生存を維持しようとしてあるかたちに就くほかなかったのだと思います。それが家族だとぼくは考えます。つまり〈根源の性〉は、おのずと「性」と「家族」とを表現したことになるのです。

 ぼくたちはここで家族という秩序を維持するために近親姦の禁止が導かれたと錯覚します。そうではないと思います。逆に、〈根源の性〉が家族に投射され痕跡として焼きつけられたことのゆらぎだと考えるべきです。〈根源の性〉はわたしたちの知る「性」と、性が営む「家族」に分節されたのですが、家族のなかに、倫理をもたない〈根源の性〉がおだやかなかたちで生きながらえたのではないでしょうか。対の内包には禁止や侵犯という概念はありません。その状態を同一性原理が禁止や侵犯と読み込んだわけです。近親姦がないということを自己意識の思考の習慣が「禁止されている」と認識するのです。むしろ近親姦の禁止という観念は、時代をはるかにくだった歴史の詐術だと考えたほうがいいように思います。自己意識のはじまりを宇宙に投影するとビックバンモデルが考案され、自己意識のきりのなさが宇宙の果てのなさに写像されるように、近親相姦タブーの謎は同一性の謎に重なり、同一性に由来します。

 ほんとうは同一性という意識の結び目こそがほどかれるべきことなのです。ぼくはそのように考えます。 未開の種族が近親姦を禁止し、侵犯したものに咎を科すとします。掟破りの咎がどのようなものであるかは、〈根源の性〉の痕跡の度合いに比例していると考えられます。痕跡が、強ければ、禁圧は強く、痕跡がかすかなら禁圧が弱く、というようにぼくたちには映ると思えます。事実ぼくたちがつくり叙述した歴史はそういうものです。ひとびとは、ある事態をまったく逆向きに見て解釈の体系をこしらえてきたのです。文化人類学の知見は眉唾ものと考えた方がいいように思います。ぼくの考えはそれらのことごとくと対立し、対立を包括し、ひとの関係のありようについてまったく新しい地平を切り拓くことになると思います。なんとなれば共同幻想の彼方をわたしたちは意欲しているのですから。

 ありえたけれどもなかったものの未遂は、ないものをあるかのようにかたどったのです。ないものをあるかのように錯覚したとき、禁止と侵犯という規範が息づいてくるのです。禁止されるから、近親相姦を忌避するのではありません。血縁のしくみを維持するために近親相姦を禁圧したのでもありません。〈根源の性〉というひとつながりの全体をなす内包存在にもともと禁止という倫理はないのです。つまり近親相姦の禁止という観念が自己同一性を前提としているにもかかわらず、同一性の彼方の〈根源の性〉を記述しようとして、ひとびとは近親姦が禁止されていると理解したのです。

 近親相姦の禁止は、女性を財貨とみなし互酬性という経済の効用から解釈しようと、ヘーゲル由来の兄弟姉妹間の性的親和感に糸口を求めようと、内包存在という根源の性を同一性で刻むかぎり、永遠に謎であり続けます。逆にいえば、同一性原理さえあれば、理路はどうであれ、国家は形成できるということです。現に国家が存在し、近親相姦が世の大勢になっていないのですから。内包存在を獲取したことがヒトの画期的な転換点だったと思います。この内包存在をひとであることに埋め込まれた潜勢力であると考えています。「もともとあるもの」という言い回しをそういう意味で使用しています。

 吉本隆明はひとの本来的なあり方を渉猟し、共同幻想の消滅を遠望しましたが、その兆しは見えてきません。かといって意志論を放棄したわけではありません。彼の歴史観を天動説だとすると、一方には地動説の歴史観もあります。すべて成るようになるものだし、(裏返せば)成るようにしか成らないという、ぼくたちの実感によくなじむ考えです。人間の歴史は、炎熱に炙られたトタン屋根の上をあっちち、あっちちと片足を跳ね上げながら歩く猫のようなものだといえばそれまでですが、意志を現実や社会に体現できないなら、人間は現実のとるにたらぬ相関物です。事物の秩序と人倫は異なるはずだというおもいがぼくには依然として抜きがたくあります。

 フーコーなんかは倦み疲れて、そうじゃないんだと考えました。人間は事物の秩序に差し込まれたささやかな影にすぎないんだ、彼はそう思いなしました。彼はたぎるあついものをきっとそうやって精算したのです。死の直前にもしかしたら違うかもしれないと思い直したようにも感じられますが、ともかくそう考えて真理と性と権力がかたどる三角形のまんなかにあるくろぐろとした虚を抱えたまま彼は逝きました。吉本隆明にとって同世代のフーコーが最大の思想のライバルでしたが、彼は意志論を手放してはいないと思います。かといって一挙にあらゆる共同幻想を消滅させる展望は開けてきませんから、過程として国家を開くというプログラムを提起してきました。

 彼は市民主義のイデオロギーを嫌悪しています。ここが肝心なところですが、彼の社会思想と市民主義との理念上の違いを語ることは可能ですが、総じて近代的であるということにおいて、意識の型は似ているように思います。彼と彼の思想の信奉者はオウム事件の麻原評価をめぐって決裂しました。ぼくの世代にとって吉本隆明の思想は巨大だったので、その重量に押しひしがれていた文化人はここぞとばかりに離反しました。吉本の神通力が甚大なときはかれの虎の威を借り、威力が廃れればさっさと見限る、機を見るに敏な卑しい連中です。

 ぼくは吉本と同じく市民主義が嫌いですが、自己を実有の根拠とした外延論理で世界を記述するかぎり、自己幻想と共同幻想は互いに相補的で、永遠に逆立するだけのことのような気がしています。なにか決定的な知の転回がありうるはずだと思いながら、考えることを考えるような日々を送ってきました。共同幻想が問題なのではなく、共同幻想を可能とする思考の型を組み替えることが幻想の革命ではないかと考えたのです。それはひどく困難な道行きだったし、今もそうであることに変わりはありませんが、どの一点を衝けば世界がぐるりと旋回するか、そのへそのようなものが見えてきました。

 そのことにはじめて気づいたときの印象はいまなお新鮮です。ぼくにとって世界はそれまでとまったくちがって立ち現れました。それは消費することも薄れることもない、始まりがあって終わりのないあついものです。この驚きをぼくは内包という言葉で言ってきました。しかし内包存在の歴史としての展開は、わたしたちのこの人類史にあっては同一性という存在論的な制約にからめ取られ、ありえたけれどもなかったものとして前史を刻みつけたにすぎません。(guan02 119~122p)

 固有の体験を普遍的に語るという方法で、還りの性について書く。つまり吉本さんの共同幻想・国家論はあるものをなぞっているだけなのだ。ありえたけれどもなかったものをあらしめるには、人間の観念史を初源からたどり直すしかないとguan02で考えた。なにが足りなかったのか。そこを取りだしたいと思うごとに底なしの穴に落ちこむようだった。言葉も思考も停滞した。レヴィナスのはぐらかしともドゥルーズの呻きとも違う方法でひらくことができると思うようになるのに10年余を要した。

 二十歳の頃に吉本隆明の観念の自然過程という考えに出会ったときにビクンとした。観念の積み増しはほっておいてもそうなるだけのことで、それ自体になんの価値もないとかれは言った。千年にひとりのマルクスの思想も巷間の人の生もまったくおなじ価値を持つとの断言にふるえた。生まれ、育ち、婚姻し、子を産み、子に背かれて、老いて死ぬ、このことを畏れよ、大衆の原象に価値の源泉がある、と。なにか大事なことが言われているようで、わけもわからず衝撃をうけた。音色のよい、いまでも好きなかれの言葉がある。「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます」(『どこに思想の根拠をおくか』所収「思想の基準をめぐって」)。そしてすぐそのあとにこうつづく。「しかし、そこへの道程が、どんな倒錯と困難と殺伐さと奇怪さに充ちているか、は想像を絶するほどです」と。

 たしかにいつであれそこに至る道筋は倒錯と困難と殺伐さの極みである。1980年に吉本さんの自宅で話を伺ったとき、話の途中で、「もしも、フーコーさんの言うとおりなるなら人間の意志というものはどうなるのでしょうか。たまりませんね」と大音声を発した。吉本さんのこの生の声は鮮烈だった。
 そのときからさらに長い年月が過ぎた。中流を基盤にした思想をつくるしかないと、戦後二番目の思考の大転換をやったのです、と対面するなかで吉本さんは言明した、これから日本はハイパーリアルな剥き出しの生存競争になると思いますとわたしは言った。そして時代は論争の余地なくわたしが言明した通りになった。

 この国の全体を巻き込んだかつての大戦で内攻した重力の総体に拮抗するように出現した応力としての吉本隆明の思想は、ながい黄金期を経て時代の激変とともにその大半がすでにすぎたように思う。吉本隆明の思想が不明だと言いたいのではない。吉本さんが励んだ思想の研鑽より、時代の転変する速度の方が速かったのだ。バブルの頃、日米構造協議での規制緩和は当然でいいことだと言っていた。対談時、無意識の大衆が一般大衆として登場してきた、これからは消費主体が主人公です、と自信をもって話をされた。吉本さんの予想に反し時代はグローバリゼーションに席巻されまくっている。それが今だ。

 わたしはguan02以降の10年余の固有の体験を経てある場所にたどりついた。大きな間合いをとることにした。大衆の原象といい、生存の最小与件といい、あらゆる事象を徹底して自然に解消しようとし、解消できない残余を芸術言語論として遺した吉本さんの思想をやっと本格的に拡張できる手応えがある。わたしは吉本隆明の思想を動態化しようといくつかの概念をつくり言葉を象ってきた。ことばは、本来、同一性の彼方にある出来事で、同一性に監禁したとき、家族や国家や貨幣や、生と死という一群の観念を疎外した。わたしたちの知る人類史はそのことにほかならない。

 人の生を自然そのものに還そうとして親鸞の正定聚を生涯説きつづけた吉本さんは言葉ではなく最期には、そこにいてそのことを生きたのだと思う。親鸞もまた内奥に渺々と風の吹く人だったから、同一性の彼方があることを、固有の生を生きるなかで、他力や自然法爾や横超や正定聚という言葉を遺した。
 原始キリスト教の伝承されるイエスの言行録や親鸞の教行信証や唯円の歎異抄、そして吉本隆明の言行録をとおしてかれらの遣り残したことをひろげることができるのではないか。内包論の肝心要のなにかが見つかった気がしている。根源の性の分有者は1が2であるから「わたし」は性としてあらわれるとかつてあちこちで書いてきた。ここを丁寧に敷衍していけば三人称のない世界が可能となり、共同幻想の彼方に行くことができると構想していた。

 思わず指が動いて書いてしまった「三人称のない世界」という言葉にしっぺ返しをされるような10年余があり、いま、やっと還相の性という考えがわたしのなかで輪郭を描き根づきつつある。わたしがながく関心をもってきた思想家も、けっして文字として遺されているわけではないが、おなじように自と他と多の区別とつながりに惑乱したのではないかと思っている。

 内包論の全体についてもおなじことだが、還相の性もまた表現論としてなされている。沈黙の有意味性も、『言語にとって美とはなにか』のなかの古代の人類が「海」を見た意識のさわりを「う」と表出したという吉本原人説も言語の表現論として構想されたもので、晩年それは芸術言語論として結実した。いまわたしは吉本隆明の、近親相姦の禁止によって氏族内婚制は氏族外婚制から部族制へと至ったという国家の起源について、表現論から論じている。レヴィ=ストロースの『構造人類学』に模していえば内包親族論というものが可能だと思う。私の構想のうちでは自然人類学も文化人類学も意識の線形性のなかにひとくくりすることができるからだ。

伝承されるイエスの逸話がある。荒野で40日、40夜断食をして腹が減っているときサタンがあらわれ、おまえが神の子ならこの石をパンに変えてみよ、と言う。イエスは「人はパンのみにて生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きるのである」と答える。サタンよ去れと言ったとされるこの場面をめぐる応答は深い。放浪しながら一心に神の信仰を説いたイエスは、ローマ帝国の反乱者として処刑されることを感得し、弟子に、明日の夜明けに鶏が鳴くまでにお前たちはおれを裏切るだろうといい、そのとおりになる。処刑の瞬間(とき)、神よ、なんでおれがこんな目に遭わないといけないのかと叫んだとされる。

 イエスの言葉には尽きぬ謎がある。文化・民族・宗教・風土の違いを超えて迫ってくるものがここにある。イエスがパリサイ人を糾問するとき、ユダヤの神がすでに伝承されていた。イエスがやったことはユダヤの神を換骨奪胎することだった。口碑される神を使い回し、おなじ言葉で違うことを言おうとした。意図をもって聖書を編纂したイエスの伝記作家たちはこの玄妙な道理を秘匿した。イエスがいう神とはなにものか。ほんとうは伝承されるユダヤの神よりはるかにシンプルでふるいなにかではなかったのか。

 わたしはこそっとイエスに耳打ちしたい。生のすべてを神に捧げ、神を信心し、と共に神の国(天国)に行こう人々を誘うとき、あなたのもくろみと現実のあいだに隙間があることをあなたは知っているでしょう。あなたを迫害し、誅殺しようとしているローマの国と神の国はどこが違うのですか。この世のどこにもあなたの安息の地がないことはよくわかります。そしてあなたに従う信徒たちもあなたと気持をおなじくしています。でもあなたとあなたの信徒たちとのつながり、また信徒たちそれぞれのつながりはどうなっているのですか。一途に神の言葉を信じなさいとはぐらかしてすむことではないのです。この世の在り方とおなじになるのではないですか。そのことについてあなたはなんと答えますか。やり損ねた、と本心では思っていますね。おそらくそのすべてをイエスは知っていた。そうでないなら自己啓発セミナーのやり手のアホとかわらない。イエスが言ったとされる言葉に尽きぬ謎があるとはそういうことだ。かれが神というリアルで言おうとしたことはもっとべつのこと、神という言葉でさえ言い得ぬことではなかったのか。

 おなじことが親鸞にも言えるのではないかと思う。この国は世界規模の鎌倉時代に直面しているというわたしの切迫した現状認識がここで前提とされる。
 絶え間なく襲いかかる飢餓と戦乱と天変地異のただなかで、国家仏教となり既得権益を手にした文化坊主たちを向こうに回し、親鸞、道元、日蓮が世直しの謀反を貫いた。衆生は虫木草魚のような東洋的無をそれ自体として生きていたと思われる。当時のことを『教行信証』の終わりで、愚禿親鸞はすでにして僧に非ず、俗に非ずと述懐している。関東をうろつきまわって遊説した。吉本さんはこの間の親鸞のありようを次のように書いている。

 親鸞は、独特の言い方で妻帯について語っています。たとえば「自分は人に教えることが好きだった。それに、女の人が好きだった」と公然と語り、「そのふたつの要素があったから、自分はふつうの人にはなれなかったし、それが自分の弱点だ」と言っています。ふつうの人というのは、土地を耕したり、工事をしたりする人ということですが、自分は人にお説教をすることが好きで、生涯やめられなかった。その一方で、戒律を設けて独身を守れなかった。行く先々で奥さんを見つけて、一緒に生活をしていた。そのふたつの点において、自分はふつうの人にもなれなかったし、本格的な坊さんにもなれなかった、と言っています」(『吉本隆明が語る 親鸞』)

 親鸞はなにが言いたかったのだろうか。この世は地獄だ、生きていていいことはなにもないし、どこにも浄土はない、というのが日々の衆生のおおかたの暮らしぶりだったと思う。法然の門閥に入り、法然を否定し、自力作善の念仏行を否定した親鸞は、ひとびとになにを説きつづけたのだろうか。生涯いちどでいい、心を込めて念仏を唱えたらかならず浄土へ行ける、浄土はここにあると言った。そんなことがあるのだろうか。

 気が通うひとと語らうとき、親鸞から一切のなぜがふっと消えた。なんの媒介もなしに、いきなりふいに世界が深くなり、ここがどこかになっていく。親鸞の触ったこのリアルをかれは正定聚と名づけた。ここまで来れば往生は必定。それはつねにあるのだが、わたしたちの生のありようとしては一瞬なのだ。いつもたのしくて日々が充ちているのではない。「念仏まふしさふらえども、踊躍歓喜(ゆやくくわんぎ)のこゝろおろそかにさふらうこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじよう)とおもいたまふなり。よろこぶべきこゝろをおさえて、よろこばざるは煩悩の所為なり」と親鸞が『歎異抄』で言っている。喜べないからいよいよ往生が近いとは、うまい言い方だなあ。

 この世のどんな悲しみより深い悲しみがあることを親鸞はよく識っていたし、そのただなかを生き切ったのだと思う。かれは出来事を存知していた。その悲しみが深ければ深いだけ、その悲しみの深さがそのまま浄土であると言ったのだという気がしている。悲嘆に暮れ天を仰ぐしかないことがある。これ以上の悲しみがどこにあるというのか。そういうことが訪れるときが生にはある。親鸞は言った。然り、この世の無惨が深いほど、その想いの深さがそのままに浄土なのだ、と。そこが行き止まりではないぞ。まだある。そこですべての出来事はひらかれている。然り。親鸞は奇妙な生を生き切り、浄土を生きた。

 言葉にならぬかなしみそのものが、つながりのあらわれなのだ。かなしいと思うそのものは、つながりによぎられるから、そのものではないものにやどられるから、かなしみがかなしみとしてあらわれてくるのだ。最期の親鸞の生きた場所、正定聚はそこだった。衣食足りて充ちぬことに、いつの時代もその時代のもっとも根本的なものがあるというのはそういうことなのだ。わたしではない出来事をふくみもつからわたしがあらわれるのである。浄土はけっしてこころの内面ではなく、しかも世辞でもない。まして自力作善の果てに訪れることでもない。それらと深淵をもって隔てられているものだ。この理がわかったら理屈は言うな、自然法爾とはそういうことなのだ。だからおれは他力と言うておる、わかるかいと親鸞はつぶやく。

 正定聚はすでに他力に包まれており、それこそが根源の性の場所ではないのか。わたしはそう思うようになってきた。行く先々でつい女性を好きになり、一緒に所帯をもち、ああここが浄土だと親鸞は思った。極悪深重とはこのことにほかならない。実刑も受けたし、おまけに坊主の免許も召し上がられ、寺ももたず、明日食う米もないし、極楽なんかあるはずもない、おれはいったいなにをしているのだと思ったに違いない。おれの言うこと為すことうそだらけ、虚仮のかたまり、ああなげかわし、と還暦の頃言った。最期のイエスは最後の親鸞でもあったと思う。このおれが往生できないとすればいったいだれが往生できるのかという吐息が悪人正機説だった。悲しみが深いほどその深さがそのままに浄土なのだ、起こったことはすべて善し、とかれは真底思った。わたしたちに近い世代ではヴェイユがだれよりもそこを生き切った。ニーチェがマイスター・エックハルトを尊崇し、ヴェイユもアーレントもフーコーもニーチェを経てギリシャに憧れた。わかるような気がする。みな、人類史の自然時間ではなく、ことばの始まる場所を手にしかったのだ。わたしはイエスや親鸞の見果てぬ夢をいまも追いかけている。

 根源の性にやどられることによってヒトから人へとなった分有者は、あるものが他なるものに重なるから、はじめてあるものがそのものに等しいということが現象したにもかかわらず、余儀なさとしてこの各自性を我が身のなかに封じ込めることになった。そしてわたしたちを宿痾のように絶え間なく生老病死の煩悩が襲った。わたしたちの人類史として知るところである。この倒錯のうちに人類史は象られた。

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