日々愚案

還相の性と国家3

41RMJHDB68L わたしたちはあまりに性を無造作に考えてきた。その壮大な取り違えをあげてみる。吉本隆明は近親相姦の禁止を節目に氏族性は部族性に転化し、そこに国家の発生があると独特の思想を展開した。文化人類学や柳田国男や折口信夫の知見を援用し透徹した視線で言葉をつむいだ。いまのわたしからすればかれの思想もまた性の素朴な実体化を前提につくられた第一次の自然表現をなす自己意識の外延表現の枠内に収まるものとしてある。
 一対の自然な性関係を基盤にしてそこから疎外される観念を吉本隆明は対幻想と名づけた。かれは、性の関係は全円的なものではなくひとの関係はそのなかで部分的にしかあらわれないと考えた。それは性もまた特殊な共同性であるという認識がかれにあるからだ。

guan02からそこに触れたところを再掲する。

 人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。(『共同幻想論』の序から)

 対幻想は共同幻想なのか。同一律の支配する世界ではそうとでも呼ぶほかないだろう。吉本の定義によればどんな共同幻想であれ、それは存在を圧殺するものであり、負担となるものである。そうすると「しばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら」人はだれかある人を好きになるのか。そしてそれは「どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだす」ことになるのか。関係がうまくいかないということはよくある。いやうまくいかないことのほうが多い。しかしそれは体験知に属する。普遍の真理ではないはずだ。吉本思想という比類のない全円的な幻想論にとって性がつじつま合わせのために犠牲とされている気がしてならない。

 吉本隆明には共同性のなかでは人間は部分的にしかあらわれることができないという認識がまずはじめにある。「人間の集団的な共同性の最小の単位は、三人から成るものとかんがえることができる。(略)そしてこの集団的な共同性のなかでは、個々の成員はかならず全人間的に登場することはできない。共同性であるという特質は、そのなかの個々の成員にとっては、人間的な〈行動〉をいつも部分化されてしまうものとしてあらわれる。(略)ところで、二人からなる集団をかんがえても、この集団のなかで、個々の成員は部分的にしか登場することができない」(『情況』所収「機能的論理の位相」)

 わたしはこの認識の型のことを同一性原理とよんでいる。吉本隆明の定義によればふたりの関係も共同性であるから、個々にとって相手は部分的にしか登場できないことになる。そしてこの部分性を彼は〈性〉と呼んでいる。もちろんこの共同性は互いの心身の状態に還元しうるということにおいて三人以上の共同性と違った特質をもち、対幻想と名づけられた。彼が「存在を圧殺する」とか「負担をつくりだす」というとき、生きたいように生きることに第一義的な生の価値がおかれている。簡単にいうとひとりのときがいちばんのびのびすると彼は言っているのだ。

 実感としてもかんがえを究尽することにおいても、それは違う。「わたし」になんの挨拶もなくいきなり「わたし」のど真ん中を真っすぐに貫通し、「わたし」のなかのなにか硬いものを破壊して、「わたし」という存在を根こそぎさらっていき、理不尽に「わたし」を簒奪するもの、それが〈性〉だ。この〈性〉によぎられることなくしてわたしがわたしであることの自己性はけっしてあらわれない。謂うならば、充たされていっぱいになりあふれてこぼれでたもの、それが〈わたし〉だ。こうなるとわたしはわたしであってわたしでなく(非わたし)、あなたはあなたであってあなたでなく(非あなた)、生存の形式としてはわたしはわたしであり続けるのに、表現としては〈非わたし〉となって、なにより驚くべきことに、ここにおいて、〈非わたし〉が〈非あなた〉となる絶対矛盾的自己同一があらわれいずることになる。これより不思議な超越はありえない。わたしの内包論では〈性〉はこういうものとしてある。

 あるものがそのものにひとしいというわたしたちが自明のものとみなしてきた在り方にはじつはこういう驚異が内包されている。つまり、あるものを往相廻向とすれば、あるものは、神仏ではなく恋愛の彼方の根源の性にやどられて、還相廻向としてそのものに重なるのだ。そしてこの奇天烈な不思議は根源の性によってのみ可能となる出来事である。吉本隆明が恣意的に生きることを価値の源泉とするとき、じぶんという存在が自己によって領有されることを前提としている。この確信抜きに吉本の思想の明晰はありえない。わたしは吉本の明晰が古典的であるとかんがえた。はたして存在は自己が領有するものか。ここに思想の根源的な価値をおくことはかんがえられているよりはるかにおそろしいことである。親鸞をこよなく愛好する吉本は自然法爾にじぶんを重ねてみている。しかし彼のたましいはどうしてもそこに安息をみいだすことができない。そのぶれが一方でヴェイユにこだわる由縁だとわたしはおもう。わたしは根源の性が分有されることにおいてはじめて自己が自己として現象するとかんがえた。

吉本の文理(同一性)に即していうなら、吉本のかんがえとは逆に、人間は性的でないときは全人間的にはあらわれることができないのだ。わたしは内包論で、吉本思想の古典性を拡張することが近代がはらむ逆理を解くことに等しいとかんがえた。そしてそこにしか自己の陶冶が他者への配慮を現成する根拠はありえないとおもっている。吉本隆明のかんがえに沿っていえば、自己と群を観念で繋ごうとすれば、節目に対や家族を挿入しないかぎり国家は生まれない。わたしの知見の範囲では吉本の国家論の他は機能的なものであり、それらはいずれも血縁共同体をどれだけ拡大してもそのままでは国家に至ることはないことに頬被りしている。吉本隆明のかんがえでは、性という特殊な共同性を節目として、そこに近親婚の禁止が挿入されれば、家族の外延は、氏族共同体が内婚制から外婚制を経ることで、部族共同体へと拡大され、起源の国家が誕生することになる。理屈は理解できるのだが、導きたい論理の筋目から対幻想の役割が演繹されている気がして仕方ない。そのためには対幻想は共同幻想でないと矛盾する。(237~238p)

 吉本隆明の思想を生の根底で価値づける生存の最小与件という自然思想も共同幻想論もかれの戦中の軍国少年の体験から由来している。かれにとって解決を迫られた生死に関わる思想の負債は自己幻想と共同幻想の矛盾・対立・背反をどう解くかということであり、自殺をするか心中するかと迫られた深刻な三角関係もまたかれのつくりたい社会思想の媒介にすぎぬことだった。そのことは思想の大きな節目ではあってもそれ自体が表現の基底ではなかった。わたしは吉本隆明と真反対に、わたしとあなたの関係が表現であり、この対の原像にこそ同一性に監禁された生をひらく鍵があり、そこにしか思想の可能性はないと、対談当時考えた。

 1990年の狂騒。軽くて明るいことが価値だとされ、とても息苦しい時期があった。1980年代に日本の社会は総中流化され浮かれた。ジャパン・アズ・ナンバー1。そしてバブルは弾けた。こういう時代を背景として吉本さんは対の関係についても発言しつづけた。いまは多角関係の時代です。互いに特定の個を見いだすことができず、社会から噴流する力の煽りをうけ家族も対も解体しつつある、と性を俯瞰した。

この問題では、「アジア的」ということが、とてもひっかかってくるとおもえます。「アジア的」、すくなくとも人類の歴史が未開、原始、アジア的という段階までたどってきたところで、その起源を理解するかぎりは、対幻想あるいは家族形成に歴史の主体があって、それが根幹で、むしろ国家も個人も、そのあとからでてきた概念みたいにおもうのです。アジア的な社会では、すくなくとも共同体しかないところからだんだん家族というものは形成されてくる。そのアジア的という考え方を固執する限りは、どうしてもドゥルーズ=ガタリがいうように、家族さえなければ人間は、男または女にさせられるということはありえないで、平等にn個の性をもち、n個の組みをつくる可能性のある存在だ、それを求めるのが女性解放のほんとの姿なんだという主張は疑問符にさらされます。そしてこの疑問符の起源はアジア的段階のところにあります(「エロス・死・権力」/『オルガン4』吉本隆明・竹田青嗣)

 対幻想や家族の形成が根幹であって国家や個人もそのあとから出てきたという吉本さんの考察はいま読み返しても秀逸だと思う。かれは同一性を自明の公理として記述している。自同律はそれほど確乎としたものか。わたしはそうは思わない。きわめて危ういのだ。自己に所有される生をじぶんだと前提とするかぎり、国家も個人も事後的なあらわれとするかれの主張は外延化されるほかない。

 ではn個の性を主張したドゥルーズはどうか。吉本隆明ほど性の感受は素朴ではない。

 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは〈一つ〉を二分することではなく、〈他者〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ。それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。(『フーコー』宇野邦一訳)

 たしかに〈僕自身の一部〉としてあらわれる〈わたし〉はまだ「内部の投影」にすぎない。ゆくりなく関係は暴走し、〈僕自身の一部〉は反転する。「私が、私を他者の分身として生きる」ということがそれにあたる。このこころの状態を「わたしはあなたであり、あなたはわたしである」と金太郎飴みたいに言ってきた。しかし、ドゥルーズの「分身」にはどこかマルクス主義が影を落としている。彼の「外」や「〈他者〉」や「〈異なるもの〉」にもそれがある。『情動の思考』をファニーとともに生きながら、外への目配りが彼にあるのがわたしには不可解で不満でもあった。彼の死のわかりにくさはおそらくそのことと関係があるように思う。ドゥルーズも内包まで行けばよかったのに。内包は、もし孤独や絶望が可能なら生きることはどんなに楽だろうかというのだから。

 彼にあっても「外」という超越が意識の外延的な形式で語られているのだ。同一性をふりきろうとしてふりきれないもどかしさが彼のなかにもある。ポストモダンの思想の諸家の「主体の解体」はみなおなじ顔つきをしている。言葉だけが勇ましくて考えが貫通していない。メインストリームからはずれて考えることを独行したレヴィナスにもそれはある。「他者とは、どんなかたちであれ、ある共通の実存に私と共に関与するもうひとりの私自身ではない」(『時間と他者』)と彼が言う「他者」は、ドゥルーズのあいまいな「他者」と一脈相通じるものがある。柄谷行人の「けっして内面化しえない関係」もそうである。同一性の論理では他者は語りえないのだ。分有(分け持つこと)を自己意識の外延論理で取りだすことができないのとおなじだ。

 あるものがそのものにひとしいというとき、あるものと、そのもののあいだに根源の一人称をおくとどうなるか。あるものとそのものは内包の関係にあるから、厳密には同一とは言えない。わたしがあなたであるということをつきぬけてしまうのだ。往相のわたしは、名づけようもなく名をもたぬこの根源的な出来事によぎられて還相のわたしとなり、あなたもまた還相のあなたになるのだ。同一性の論理からはこのことは神秘としてあらわれる。ここにおいて還相のわたしと還相のあなたは絶対矛盾的同一をなす。これはただならぬことなのだ。同一性はかろうじて形式を保存するだけで内容としてはすでに包越されているのだ。即ち同一性の彼方!(『guan02』191~192p)

 吉本さんの性についての発言は普遍を語るときは緻密で、自身を語るときは純朴な古代倫理を身にまとい、いつもなにかはぐらかされる感じがしていた。ドゥルーズはもてたんでしょうね、ぼくはもてないしと言い、フーコーの思想の世界性は賞賛しながら、同性愛については想像するだに身の毛がよだつと言い放ってきた。若い頃の結婚に至る三角関係については実直に語り、女性はふたりの男性に挟まれると特定の男性を撰べない。そこから自己幻想か共同幻想を対象として撰ぶものを女性の本質と規定し、上野千鶴子の顰蹙を買った。もしかすると吉本さんの性差や性の規定の窮屈さはかれのはにかみからきているのかもしれない。論の精緻さと性の素朴さの奇妙なまじりぐあいはいまもよくわからない。
 性の感受は吉本さんよりドゥルーズのほうがやわらかいという気がする。ファニーと『情動の思考』を書いたとき、おそらくドゥルーズはそこにいてそこを生きていたのに違いない。はじまりがあって終わりがない深くなる渦が『情動の思考』ではなかったのか。ドゥルーズの70歳での生の終わり方は不明である。

 ドゥルーズがここで言う「外の外部化」は日本という精神風土では天皇制的なものとしていまもあらわれている(かれの『ニーチェ』を読んだときも同じことを感じた)。「私が、私を他者の分身として生きる」ことを異なるものの反復と言いながら、自(みずから)と他と多の区別とつながりに隙間がありあいまいなところがある。ドゥルーズの分身論はしだいにかれが忌み嫌った自我論の深い穴に没し、ドゥルーズは生を終えたのではないかという気がしてならない。レヴィナスのごく初期の『時間と他者』もおなじ轍を踏んでいるように見える。かれらは非知の生と思考があることを外延論理で記述してしまった。

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