日々愚案

歩く浄土198:Live「片山恭一vs森崎茂」往復書簡7

第七信・森崎茂様(2017年9月20日)

 メキシコから一週間ぶりに帰ってくると、メディアは民進党の女性議員の不倫問題と皇室の娘さんの婚約発表で沸き立っていて、なんだ、なんだ、この国はいったいどうなっているんだ、とにわかに状況に順応できない気分になりました。それに追い討ちをかけるように北朝鮮のミサイル発射に備えた自治体の避難訓練……メキシコと日本の時差は14時間くらいですが、この時差ボケはすごいというか、軽く70年くらいはボケてるんじゃないかって感じです。
  皇室の娘さんの婚約はめでたいことには違いないけど、ぼくたちとはなんの関係もない。メキシコシティの立ち飲みスタンドでテキーラを飲んでいるおっさんとぼくのあいだにある関係と同じくらい、な~んの関係もない。あるいは大人の男女交際が、なぜ政治家としての資質に結びつくのか。わからん。男女の関係があったかどうかか、そんなことは皇室の娘さんの婚約と同じように、ぼくたちにとってはどうでもいいことです。でも本人は、誤解を生むような行動で多くの人に迷惑をかけたと言って離党届を出す。党内にも「けじめをつけるべきだ」として離党を求める声が出ていたといいます。
  馬鹿だなと思うのは、前原が一言、「個人のプライベートな問題は、政治家としての資質とはまったく関係がない。彼女は有能な政治家だから、予定通り幹事長に起用する」と言えば、おお、民進党やるじゃないか、とぼくらだってちょっとだけ見直しますよ。でも、やっぱりシナリオどおりの謝罪と離党でしょう。なんて古臭い党なんだ。どこにも新鮮味はない。こんな時代遅れの感覚で、弱肉強食のグローバル世界を渡り歩いていけるわけがない。だったら同じ時代遅れでも安倍政権がやっているように、アメリカに隷属するほうがましだ。たとえ尻の毛一本まで抜かれることになっても、と多くの日本人が思っているかどうかはわかりませんが、とりあえずこれまでそうやってきたんだからということでしょう。アメリカのご機嫌をとることにかけては自民党のほうが年季は入っているわけだから、選挙をすれば票はそっちへ流れますよ。
  意味のない避難訓練に至っては、古臭いというよりも迷妄そのものじゃないかと思います。森崎さんも言われていたけど、竹槍でB29を迎え撃つような感覚ですよね。スマホを持ってメールをやったり、グーグルで調べものをしたり、アマゾンでお買い物をしている人たちが、平気でそんなことをやっている。やれてしまう。これはいったいなんなんだ? インターネットが人を開明的にするってことについて、ぼくはきわめて懐疑的で、本当にそういうことってあるんだろうか? コンピュータやインターネットや、その他のテクノロジーによって人間の精神性というか、観念の部分がひらかれることってあるんだろうか。ISの人たちだってスマホは使っているわけだし、その彼らはアッラーアクバルで自爆テロで、ぼくたちから見ると全然開明的じゃない。
  結論から言うと、人を開明的にするのは「あなた」だと思います。「あなた」という二人称の場所においてのみ、人はおのずと蒙を啓かれる。ささやかな聡明さとともにあることができる。なぜなら「あなた」との関係においてのみ、森崎さんの言葉を使わせてもらうと「根源の二人称」という場所においてのみ、ぼくたちはどんな共同幻想からも自由になることができるからだ、という先走った直感のもとに、この往復書簡をつづけています。

 このところ森崎さんはブログのなかで天皇制の問題や、部落差別をはじめとする日本独特の貴賎観念について何度か論じられています。ぼくの知らないことも多く、細かい事情はよくわからないのですが、皇室の慶事にたいする祝賀ムードといい、政治家の不倫問題といい、時代錯誤の避難訓練といい、たまたまメディアを賑わせている三つの事柄、いずれも根っこには天皇制の問題があると思います。そこで顕著になっているのは「個人」の欠如と言ってもいいし、日本独特の強い同調圧力と言ってもいいし、それらがもたらす忖度社会と言ってもいいし、他にもいろんな言い方ができると思いますが、こうした日本的な自然を根っこで支えているのは、やはり天皇制だと思うんです。
  なぜ日本人はいつまで経っても個人になれないのかというと、個人になる前に「天皇の赤子」であればいいからです。それが日本人にとっての自然であり、この自然のなかで個人である必要はありません。むしろ個人として振舞おうとすると排除されてしまう。同調圧力に逆らわず、空気を読みながら生きることが自然になる。こうした日本的な自然を統覚しているのが天皇制だと思うのです。天皇を崇拝し、皇室を賛美し、慶事の際には祝賀ムードに浸り、誰か亡くなれば国民で喪の気分を共有する、そのことでなんとなくつながっていると感じられる。
  本当は全然つながっていないのに、同じ日本国民のなかでも常に差別と排除が起こっているのに、つながっていると錯覚することができる。まさに他力としてつながってしまう。本人は何もしていないのに、彼自身はどこも何も変わっていないのに、天皇制という他力による信の共同性が生まれ、そこで慰安の場所が担保される。あるがままの自分が「天皇の赤子」として慰撫される。ものすごい技だと思います。そういう意味では、白川静かが亡くなる前に言ったように「東洋の叡智」かもしれません。
  内包論は国家のない世界をめざしています。あらゆる共同幻想の根を抜くということです。あらゆる共同幻想のなかには、もちろん天皇制も含まれています。ぼくたちにとって天皇制は、国家よりもはるかに手ごわくわかりにくい、自分たちが直に足を置いている自然だと思います。そういうものとしてありつづけている、戦前・戦中・戦後を貫いて大きな問題として残りつづけていることを、先般の森崎さんとの議論と、いま日本の社会で起こっていることをとおして、あらためて感じました。
  それともう一つ、ここは非常に重要なところだと思うのですが、この日本で独自に発達をとげた天皇制というか天皇制的なものが、いま惑星規模で敷衍されようとしているのではないか。天皇制的な心性といいますか、日本的な自然への融即という、ぼくたちにとって馴染み深いことが、グローバルに電脳化した空間のなかで起ころうとしているのではないか。
  少し前にいただいた書簡(第四信)のなかで、森崎さんは「思考の慣性としてある内面と外界という世界認識がビットマシンによって浸食され、内面を外界に同期することが自然であるような思考の慣性がつくられつつある。そこでは世界システムの属躰であることが自然であるとされます。この自然を自然として認識することが内面であることになります。この過程は不可避です」と書かれています。ここですね。
  これはまさに、ぼくたちが天皇制のなかに見てきた自然への融即ということだと思います。「内面を外界に同期することが自然であるような思考の慣性」とは、日本人がいつもやっている天皇崇拝や皇室賛美そのものです。つまり自分とはなんの関係もない赤の他人の婚姻や逝去を慶んだり悲しんだりするってことです。「天皇の赤子」は易々と「世界システムの属躰」に組み換えられると思います。これがいま起こっていること、これから起ころうとしていることではないでしょうか。

 何が変わろうとしているのでしょう。日本的な自然への融即という場合、天皇制にしても国家にしても、あるいは「世間」と呼ばれる同調圧力にしても、森崎さんの言われる天然自然(自然発生的な自然)だったと思います。これがコンピュータ・サイエンスと結びついた生命科学や遺伝子工学を中核とする人工的な自然に置き換えられていくということではないでしょうか。こうした人工自然に同期することが自然になる。
  このとき人間の内面はかぎりなく「合理」に近づいていくと思います。貨幣と健康という合理。それは人間がつくり上げた最大の共同幻想です。この共同幻想に同期することが内面になる。合理に同期して生きることが生そのものになり、そこで唯一の慰安がもたらされる。生きることが安定する。貨幣や健康を獲得するためにパフォーマンスを向上させるという生のあり方も、強いものが勝つという世界のあり方も、そのまま合理として受容される。まさに「世界システムの属躰であることが自然」になる。ここで世界が、人間が平定されます。意志の介入する余地はまったくありません。
  なぜこういうことが起こっているのか。私と世界、内面と外界という言い方をすれば、世界がグローバルに電脳化した結果、そのなかを生きる「私」は経済的カテゴリーとして粗視化され、70億のアスリートの一人として登録されることになりました。森崎さんの言われる「総アスリート化」の過程に強制参入させられるということですね。ぼくたちの討議のなかに、この言葉がはじめて登場したのは2015年12月25日、熊本でのことです。なぜ細かな日付までわかるかというと、ぼくは討議の内容を全部録音していて、その都度文字起こししたものを保存しているからです。そのときの森崎さんの発言は、ほぼ忠実に電子書籍に収録されていますので、該当箇所をちょっと抜き出してみます。

森崎 もう少し状況論的なことをお話しすると、日本でもどこでもそうだけれど、ある国の状況を一国的につかむことができなくなっていて、国際社会のなかに強制的に位置付けられているということがあると思うんです。そういう意味では是非を抜きにすれば、戦争法制は時期にかなっているということができるかもしれません。流動化する国際社会のなかに、日本も投げ出されているということです。いちばん大きな要因は言うまでもなくグローバル経済の浸潤ですが、この猛烈な圧力に曝されて、人々の生が強制的に表現の過程へ参入させられたということだと思うんです。それも否応なしの強制加入ですよ。ネットを介しての強制加入。このことをよくよく考えると、全員がアスリートになったってことだと思うんです。これが電脳社会なんだなと。スマホやパソコンが日々のなかに入り込むことによって、ぼくたちの生はそうした変化を被っている。誰もアスリートであることから逃れられない。世界中が巻き込まれている。すでにそういうところまで来ている。
 片山 七十億の人類の総アスリート化ですね。
 森崎 迂闊だったなと思うんです。最近までこのことを考えたことはなかった。電脳社会のあり方は全員をアスリートにする。だって全員がインターネットをしているわけでしょう。メールでコミュケーションするわけでしょう。ある意味、表現ですよ。全員が表現、表出の過程に参加しているんです。
(連続討議『歩く浄土』第三回「喩としての内包的な親族」2016年3月刊行)

 アスリート化ということをさらに追っていくと、「世界は人格を媒介にせずに生に遡及する方法を獲得しつつあるのではないかと思える」(『歩く浄土』181)、あるいは「ビットマシン社会は適者生存の条理を人格を媒介とせずに直接、生に介入するしくみをつくりあげている」(『歩く浄土』186)という認識に至ります。ブログの日付は最初のものが2017年7月5日、もうひとつが8月13日ですから、一年半のあいだに着実に状況は進んでいる、それに森崎さんの思考がちゃんと付いていっているということだと思います。
  ユヴァル・ノア・ハラリも最近のインタビュー(「ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」)のなかで同じ認識を述べていますね。彼はどういう言い方をしているかというと、とにかくあまりにも世の中が複雑化し、多くのデータで溢れかえり、物事はめまぐるしく変化しているがために、生身の人間が現実の問題を処理することができなくなった。人間に代わってやりこなす能力があるのはビッグデータ処理のアルゴリズムだけになった。たとえば銀行ローンの申し込みをすれば、その審査を行うのは人間ではなくアルゴリズムになるだろう。こうして多くの意思決定や権限が、人間からアルゴリズムに移っていくということですね。
  ここで起こるのが、適者生存の条理がぼくたちの生に直接介入してくる、という森崎さんが指摘されている事態です。アルゴリズムは一人ひとりの人格に配慮しませんからね。忖度のないすっきりした世界にはなるかもしれません。いまさらながら思い起こされるのが新自由主義です。先日、森崎さんも言われていたように、いま起こっていることの前段階として新自由主義があった、ということだと思います。新自由主義とはどういうことかというと、人間の生を経済的なカテゴリーに粗視化するということです。人であることは経済的にどれだけのパフォーマンスを示せるか。そのための機会は公平に与える。すると生きていることは競争になり、人間は経済的なカテゴリーですべて説明されてしまう。
  つまり人類総アスリート化ですね。人間を経済的な領域にカテゴライズすることで、「アスリート」という新しい粗視化領域がつくり出される。すると人格という面倒な手続きを経なくても、経済的な指標だけで一人ひとりを評価できる。70億の人類を経済的な範疇だけで実体化し、可視化することができる。まさにアルゴリズム向けというか、コンピュータの発達によって飛躍的に向上した二進法の技術ときわめて相性がよかったということだと思います。
  最近の毎日新聞の特集で、ITと金融を融合した「フィンテック」のことが取り上げられていました。たとえば中国のIT大手アリババは、スマホ決済の利用情報、車や家などの保有資産、学歴、友人などの情報からAIが個人の「信用スコア」をはじき出し、スコアが高いほど優待されるというサービスをはじめているそうです。先にユヴァルが言っていたように、個人情報をもとに信用力を点数化して融資する「スコア・レンディング」も、この9月からソフトバンクとみずほ銀行が共同出資した会社によって本格展開されるようです。面白いのは質問のなかに「過去のスポーツ経験」といったものがあることで、AIが膨大なデータから性格や消費との関連を分析し、返済能力を点数化する判断材料として信用力と関連付けられるらしいのです。こういうことがAIの得意なパターン認識を使えば簡単にやれてしまうわけですね。
  ぼくたちの生の隅から隅まで可視化され、計測・計量されていく。そこに森崎さんの言われる「適者生存の条理」が直接的に介入してくる。ぼくたちの生のど真ん中を貫徹していく。これは一種の革命だと思います。「人間」という概念が変わろうとしている。そのことは仕方ない、現在進行している人類史規模での激変に適応していくしかない、と多くの人が思っている。適応できない人は振り落とされて、市民社会の外部、森崎さんの言われる「例外社会」の住人になる。人格を媒介としない適者生存の条理の下ではどうしてもそうなる。それにたいする人びとの絶望は非常に大きくて深いと思います。
  一方、アリババの優待サービスを受けている中国人の富裕層にしても、不安は不安なのだと思います。ビッグデータに蓄えられていく買い物や移動履歴などの個人情報が、将来どんなふうに利用されるかわからない。とくに中国のような国では政府に流れて政治的に利用される可能性もある。日本にも共謀罪があるから変わりませんけどね。ユヴァルも言っているように、ぼくたちは世界を理解するための規範となる物語を失っています。この世界がどこに向かっているのか誰にもわからない。非常に大きな変動が起こっていることは間違いなのですが、世界規模で進行する変化の速さに多くの人がついていけなくなっている。変貌する世界についてのヴィジョンを、誰ももちえなくなっている。
  富者か貧者かは関係ないと思います。大金持ちも権力者も同じです。だからビル・ゲイツなどはさかんにAIの脅威を訴えている。ホーキングもそうですね。自分たちの生きている世界がどのようなものになるかわからないために、一人ひとりが行き先不安なものとして日々を生きるしかなくなっている。こうした不安が人々の内面に強い負荷をかけ、耐え切れなくなった内面が外界に同期することを促しているのではないでしょうか。森崎さんが早くから「危機的な状況になれば自己幻想は共同幻想に同期する」と言ってこられたところですね。先のインタビューでユヴァルが、「我々は人間の『脊髄反射』を目の当たりにしている」と言っているのも同じことだと思います。ビットマシンによって平定されつつある電脳社会において、人びとの内面が同期しようとしている共同幻想が「合理」なのだと思います。そこで外界との融即が起こりつつある。
  ここでも強いて悪をなそうとする者はいません。ガンの早期発見・早期治療と同じですね。病気は悪、治療は善という共同幻想が前提とされているだけです。先の毎日新聞の記事では、加入者に端末を貸し出し、一日平均8000歩の目標が達成されると、二年後に保険の一部が還付される「あるく保険」とか、約160万人の健康診断結果などのビッグデータを分析し、血圧や尿検査などの検診結果に基づいて「健康年齢」割り出し、加入者の実年齢より健康年齢が若いほど保険料が安くなる保険などが紹介されていました。
  なんだか暗澹とした気分になってきます。この世界を生きることに、いいものは何もないじゃないか。自分が自分でしかないなら、生きることが自分をはみ出さずに自分を生きることでしかないなら、ぼくたちは来るべき世界にたいして「否」ということはできません。世界システムの属躰として生きることを拒むことはできません。そのことがいま、肌身に感じられる現実として一人ひとりに迫ってきているのだと思います。

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