日々愚案

還相の性と国家2

816CyNiNKIL__SL1425_ 吉本思想はその全体においてニヒリズムが底流している。敏感に辺見庸は察知した。まだ元気だった頃の辺見庸が、『夜と女と毛沢東』で言う。

 「吉本さんは、ときにこのまま消尽してしまうのではないかと思われるほど熱して弁じ、ときに長く沈黙した。樹皮に耳をあて、樹心のようすを窺うようにして音を聴いた。耳を澄ますと、この大樹の中ではごうごうと凄まじい風が吹いているのだった。幻聴ではない」とまえがきで書いている。吉本隆明という大樹のなかでごうごうと吹いている風はニヒリズムだとわたしは考えている。それはかれの特異な生存感覚からきている。「生存の最小与件」がそのことを暗示している。

 そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、その想定のなかに何があるのかといえば、ほんとうは生活という概念よりも、〈生存〉という概念のほうがいいように思います。つまり、ある人間が死んでなくて生きて生活しているばあいの最小条件といいますか、その中からいろんなものを全部排除してしまって、ともかく〈生存〉だけはしていて、それはまさに〈生存〉しないことと対応しているとかんがえられるものです。そういう原点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日食べて明日食べて、そして今日欲望し明日煩悩し、という次元で理解するよりも、むしろ〈生存〉の最小条件を保持しているもの、というところでかんがえられると思います。だからそれは、まさに生活しないことと対応するよりも、〈生存〉しないことと対応していると云ったほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけたのではありませんが、最小限度、〈生存〉しているばあいに、それはだれにでも普遍的にある状態ということになります。〈生存〉しているかぎりはだれにでもある状態という意味合いまでいけば、その重さはすごく重いという考え方が、ぼくにはあると思います。それは、自力以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みたいな原点になると思います。
 それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、全き生命をうるということにおいては万人平等であるという、わりあい宗教的な考え方にたいしても、〈生存〉ということと〈生存〉しないという概念は、すこしちがうような気がします。ぼくは、〈生存〉という概念を、人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物それ自体であるというところでかんがえていて、それにたいして、〈生存〉そのものを再び概念に、反省的に取り出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え方は、ぼくにはないように思います。まったく物質的になくなっちゃうというところが行き止まりのような気がします。(『最後の親鸞』別冊付録「歎異鈔の現代的意味」より

 大衆の原象よりよほどすっきりしているが、生存の最小与件という考えはそれ自体としては空無だと思う。往相の知は生存の最小与件を反省的にとりだすが、自分の原点となる生活はもっと即物的だということを強調する(1973年秋に、はじめてお会いして暗い話を聞いてもらい、あなたの世界をつくりなさいと慰撫してもらった。その折のわたしのかれの印象は、唯物的、科学的、現実的だった)。「転向論」を経てつくられた大衆の原象というとほうもない理念は、大衆に学ぶという左翼の擬制を否定することに力点がおかれている。それらを一切括弧に入れ、生存の最小与件が概念として成り立ちうるかと問えば、たしかに大きな思想ではあるが、言われている言葉が言葉自体を支えきれていないと思う。ことばの大きな弓を引きながら生存の最小与件という言葉がそれ自体として匂い立つことがない(カザルスが「the song of birds」を奏でるとかれはその音のなかにいてそこを生きているのがわかる)。吉本隆明の思想にはなにかおおきな欠落がある。

 吉本隆明はこの空無そのものを底でささえる理念を「正定聚」と言いたくてたまらなかった。くり返し「死から照らされる生」と多くの著書のなかで述べてきた。わたしたち読者は読むたびに烟にまかれたような気持ちになり、それはどういうことだと途方にくれた。

 『開店休業』でハルノ宵子さんのあとがきをよんで、なるほどこういうことだったのかと得心した。blog「日々愚案」で書いた「進撃の内包2」を再掲する。

 『開店休業』(吉本隆明)を読んだ。ひさしぶりにいい本を読んだなあという満足感があった。娘のハルノ宵子さんのあとがきがよかった。「氷の入った水」を何度も何度も読み返した。

 父が亡くなる三、四ケ月ほど前、冬に入る頃だった。流しで洗い物をしていると、夜食の後ぼんやりとキッチンの椅子に座っていた父が、「さわちゃん、そこにいるか?」と尋ねた。「そこまでひどくなったのか」と思う。父と私の間には食器棚があるとはいえ、一メートルほどの距離だ。耳も遠くはなっていたが、水を流したり食器を〝音〟は聞こえているはずだ。しかし父にとってそれは単なる〝音〟であり、(水音→洗い物→そに私がいる)と、認識できていない。脳の回路が途切れているのだ。
  「いるよ。何だい?」と、手を拭きながら父の日の前に立つと、「すまないが氷の入った水を一杯くれないか」と、父は言った。その言い方が、これまでの父とは違って、あまりにも〝ニュートラル〟だったので私は驚き、限りなくやさしい気持ちになって、あわてて水を入れに行った。〝水〟じゃサービスのしょうも無いので、せめて、ミネラルウオーターにロックアイスを入れ、父に差し出した。父は「ああ……うまい! うまいなぁ」と、本当に美味しそうに飲み干すと、奥の客間へと這って寝に行った。
         

 そんなことが二、三度あっただろうか。私は人間のこれほどまでに〝含み〟の無い言い方を聞いたことがない。歩き疲れた旅の僧が村に差しかかり、初めて出会った村人に「すまんが水を一杯所望したい」と言う。時には気味悪がられ、目の前でピシャリと戸を立てられることもあるだろう。しかし僧は落胆するでもなく、恨み言を浮かべるでもなく、また再び歩き出す ― そんな言い方なのだ。そこには懇願も媚(こび)も威圧も取り引きも無い。ただそのままそこに〝有る〟だけの言葉だった。
 父がどれほどの高みにまで達したのかは、私は知らない。ただもう家族のもとには帰って来ないのだという予感だけがあった。
 父は一介の僧となって旅に出てしまったのだ。
         
 ―なので、今も仏壇に供える水には氷を1個入れる。

 娘へと受け継がれた一子相伝の世界。
 すぐにピンときて、なにかが氷解した。
 「そこには懇願も媚(こび)も威圧も取り引きも無い」と書いてあるが、正定聚のことをさしているのではないか。いや、まちがいなく、たぶん、そうである。
   

 「ただそのままそこに〝有る〟だけの言葉」を吉本隆明は生き切ったのだと思う。彼が数多くの著作で幾たびも述べてきた「死から照らされる生」、つまり正定聚のことだ。
 吉本隆明の最深の思想の根っこには呪文のような言葉がいくつかある。正定聚もそのひとつだ。じつにわかりにくい。
   
 言い出しっぺの親鸞でさえうまく言えなかったのだとずっと思ってきた。

まづ善信が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は、うたがひなければ、正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりめでたく候へ(『末燈鈔』)

 正定聚のわかりにくさについて吉本隆明は言っている。

  『教行信証』を見れば解りますけど、『教行信証』の最後のところに、自分がとうとう浄土宗のほんとうの信者になれなかったという。どこかっていうとひとつには、自分は妻帯するっていうか、女性との関係ということで言えば自分が最後まで浄土宗の教典がいう意味での禁欲っていうか、僧侶らしさというものを、とうとう守れなかったということ。もうひとつは他人(ひと)の先生みたいな顔、人士というか、他人(ひと)の師みたいな顔をして説くことをやめてない、このふたつが決定的で、自分がとうとう浄土教の本筋にいけなかったということ。・・・
       
 それからいろんなことを言われてますけど、念仏も一念って言って一回やればたくさんなんだって言ったっていわれてますけど。そこは僕は知りませんけど、法然がそういう手紙を出してますね。親鸞に宛ててるわけじゃないけれど、越後庄に集まった人たちに宛てている。お前たちは、勝手に一念、南無阿弥陀仏で一生に一度でいいんだとか、無念義って言ってそんなものはいらないんだって言ったりしているけど、直接自分が行って膝を交えて説きたいけれど、それは間違いだって『一念義停止起請文』っていうのを書いてますけど。いい文章ですけど。もう親鸞のほうは、そんなこと問題にしないって、ただ自分に懺悔するだけって言ったんですけど。
       
 どうしても先生づらして千葉県の民衆に説くことと、妻帯して女性と関係することだけはやめられなかった。そのふたつで浄土宗を失格しているという懺悔を、法然に対してだけじゃなく、誰にともなく懺悔をしている。そのために俺は正定聚にどうしてもなれなかったっていう。
       
 僕は最後のところがよく解らなくって、去年か一昨年、やっと、一昨年くらいに自分なりの解釈を『太陽』っていう平凡社から出ているものの中に書いている。要するに浄土の真宗と親鸞が言っているものは、自分が宗教でもって民衆に近づこうっていうふうに試みてきたけれど、とうとう最後まで近づけないで残った。親鸞は最後まで近づけないで残っている、その残っているというところが浄土の真宗だ、というふうに親鸞は考えているというふうに僕は………。もう時間がないし、何に対して時間がないかというのは曰く言い難いんですけど、これが親鸞の最後の結論であるというふうにして、僕は『太陽』に書いているんですけど。
       

 僕は、これで親鸞の結論はこうだったっていうふうにしちゃえっていう、自分を急かせるものがあってそういうふうに解釈したのですが、それが最後だっていう、意味があると思うんですね。(「菅原則生のブログ」吉本隆明さんを囲んで2)

   
 教理上の親鸞も「正定聚」についてもどかしい言い方しかできていない。吉本隆明も最晩年までわからなかったと言っている。だれにとっても、万言をついやしても言い当てられないのだと思う。なぜか? それは正定聚が同一性の彼方にあるからだ。

 もうひとつつけ加えたいことがある。おなじblogからの再録。

    進撃の内包4
   
 吉本さんの思想を最深のところから超えたいと思っている。それができると思わないならこの文章を書くこともない。
 吉本さんの思想の最深のありかを訪ねてみる。吉本さんは言っている。

 いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね」(「菅原則生のブログ」吉本隆明さんを囲んで1)

 こういう吉本隆明さんの言葉に出会うとうれしい。知らなかった発言をとりあげてくれた菅原則生さんありがとう。吉本隆明さんが言うとおりだという気がする。知るかぎり、吉本ファン諸子のもの書きは吉本さんの思想をかすりもしていない。ずしんと堪える批判を目にしたこともない。孤独な吉本隆明さんが笑っている。

 事態は複雑に入りくんでいるように見える。じつはシンプルなことなのだと思う。ここまでくると若い頃わたしに大きな影響を与えた滝沢思想に触れるしかない。かれはこの世の成り立ちについて、超越(神)と人との関係は、不可逆、不可分、不可同であると終生主張した。それ以外に彼はなにも言わなかった。徹底してそれだけ言い続けた。かれが言うことはもともとわたしに根づいていることだったからいちいち引用することもない。インマヌエルという単純な人間の基底をかれは生涯、逍遙遊した。

 若い頃の流行(はやり)熱に駆られ錯誤の果てにのっぴきならぬ事態を抱え込んだ。わたしは孤立無援のひとりの行動者だった。書かぬことも書けぬこともある。吉本隆明の思想も滝沢克己の思想もわたしの生存感覚のリアルの糧とはならなかった。
 あるときわたしは地獄の底板を踏み抜くようにして熱い自然にさわった。ひとの生存のありようを徹底して自然に解消しようとする吉本隆明の生存の最小与件とも、と共にをインマヌエルとして生きた滝沢克己の思想とも、わたしがつかんだリアルは違うもののように思えた。この頃にわたしは内包自然や内包存在や内包表現という考えのいちばん根っこになるものをつかんだような気がする。この思想をふくらませたらもっと遠くまで、もっと深いところまで行けるぞとひそかに興奮した。

 戦時に軍国少年として生き、生きにくい戦後を生きることで吉本隆明の思想がつくられてきた。その吉本隆明の思想を二言で言おうとしている。ひとつは、あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという宣明。吉本思想をどれだけふかく読み込んでも無理だと思う。自己幻想は共同幻想と逆立せず、同期する。それはなぜか。
 もうひとつ。大衆の原象を繰りこむという理念は結局のところ、左翼の「大衆に学ぶ」のヴァリエーションに過ぎないとわたしは思った。この意識の呼吸法ではじぶんの生の居場所がなくなる。みずからの意志ではなくこの世に生をうけ、お迎えがくるまでは生きているという生の奇妙さは、繰りこむのではなく、だれにも内在する、喰い、寝て、念ずる生の原像(生の恒常性)であるとわたしは考えた。このシンプルな考えで足りると思う。

 なぜ内包なのか、しつこくたどってみる。いつのころからか、もうずいぶん昔のことだが、共同幻想を生まない、人と人の関係はないのだろうかと、自分の痛切な体験を経て考えるようになった。別の言い方をすると三人称のない世界は可能かと考えるようになった。あるいは同一性に監禁された生をひらくことにしか世界の可能性はないと考えてきた。熱い自然にふれたとき一気に世界がひろがった。その驚きを根源の性と名づけ、表現の態度変更を内包表現論や内包存在論として考えてきた。根源の性を分有する分有者という自己よりもはやく性であるというリアルは決定的だった。このずっしりした性をつかまえようと自己意識の外延表現(第一次の自然表現)や内包表現という概念を造語した。いくらかまとまったとき吉本さんと対談した。この時期は同一性に監禁された生のことをよく考えた。ここで世界が閉じられているという実感があった。

 いまもわたしを襲った背後の一閃の衝撃を訂正しようとは思わぬ。ここにもまただれも解きえぬ大きな罠があった。それでは分有者の連結は外延表現の共同性とどこが、どう違うのか。レヴィナスは苦し紛れに、「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」と言い、ヴェイユは不在の神に自己をさしだした(このあたりの機微を吉本隆明はまったく解さない)。分有者の相互のつながりに言及しようとするやその瞬間、外延論理にからめとられるという背理がやってくる。わたしの実感と構想する考えはこの思考の限界の前でどうどう巡りをくり返し、しだいに言葉の表情が硬くなり余裕を失っていった。神仏と恋愛の彼方は、どこにも着地できず、連戦挫敗の10年を重ねた。