日々愚案

還相の性と国家1

 ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證ひさしくすたれ、浄土の眞宗は證道いまさかんなり。しかるに諸寺の釋門、教にくらくして眞假の門戸をしらず。・・・これによりて眞宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に處す。余はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす。(「化身土巻」『教行信証』)

 愚禿親鸞と非僧非俗の由来。興福寺より専修念仏の停止を訴えられたいわゆる承元の法難と呼ばれるもので、親鸞は僧籍を剥奪され5年の流罪に処せられる。33 歳ぐらいのときではないかと思う。享年90 をもって入滅するまで生涯に渡って非僧非俗の思想を貫く。(「根づくこと」2008より)

 内包の由来を語ろうと、わたしは遠い記憶を呼び起こしてこれを書いている。内包をふり返るということは、一身にて三生を経るに等しいということではないかと思う。いま、わたしは、内包の三願転入の場所に立っている。

 内包という概念を構想したのは1980年代の初頭だった。1960年代後半の社会騒乱を我がこととして身に浴び、その負債によって精神はいよいよ危機に瀕していた。日々はひしひしと傾き、「明日のことを思い煩うなかれ。・・・一日の労苦は一日にて足れり」として日々をつないだ。深い霧のなかで、ここがどこであるのかも、わたしがだれであるのかも定かでなく、しずかに狂っていた。わたしが潜った胸の悪くなるバイオレンスについて語りたいとは思わぬ。

 わたしの荷は軽いという聖句がある。だれでもそうなのだろうが、わたしの荷は重かった。なぜこの世はこうでしかないのか、なぜ人は人を切り裂き、切り刻むのか、なぜこの世のしばりをひらくことができないのか。日々を防戦しながら、思考の根源にかかわることをひたすらに考え続けた。わたしの日常はうすくなり、世界の根源をにらみながら思考そのものになっていた。狂気だったと思う。わたしはひとりで世界の淵に立っていた。

 1970年代の末期、世の中は一斉に白い闇の領域へと移動を開始した。過ぎる時代の過ぎぬことという言葉がわたしのなかで渦巻いていた。フーコーの『言葉と物』が翻訳され、吉本隆明は『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』で表現の舵を切りかえ、村上春樹の小説が登場した。なにか一気に世の中が明るくなって、わたしは明るさと軽さで窒息しそうだった。明るさとはずっしりした軽やかさなのだと、だれに通じることもなくひとり胸のうちでつぶやいていた。

 自業自得で抱え込んだやっかいな日常をしのぎながら、吉本隆明が思想の大転換を為したという『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』、「情況への発言」を読み進めた。世界視線というあたらしい概念は切れ味がよくすぐにピンときた。ああ、これはクラフトワークの「アウトバーン」だ。「情況への発言」の左翼批判や政治屋批判はくどくてうんざりしたことを覚えている。

 わたしのなかで吉本思想にたいしてふたつの疑念が兆しはじめた。はじめはためらいながら、しだいに吉本思想への疑義はふくらんでいった。
 ひとつは、これからの日本は大半が中流になっているので、欠如や貧困を土台にした思想は無効であり、思想が生きながらえることがあるとすれば、思想を最高綱領と最低綱領の領域としてとらえることにしかないと断じた。この領域としての思想に立つならば、一点に内圧を高めて他者を否定する者はスターリニストである。この典型例として「いま吉本隆明25時」で中上健次が公衆の面前で罵倒された。夜更けに控え室を訪れ、中上健次に、なぜあのとき反論しなかったのかと激しく詰め寄った。かれが凄んだので、こちらも凄み返し、悶着したことを覚えている。
 もうひとつは、対幻想は解体と崩壊の時期にきているという吉本発言への苛立ちと異和だった。かれは性の当事者から身を引いて、世の中と若者を分析し俯瞰し、思想を窮めた。

 吉本思想への異議をじぶんのなかにもうこれ以上、止め置くことができないと思い、稚拙なワープロ文を吉本さんへ送り、対談をしたいと申し出た。1990年6月、「対幻想の現在―疎外論の根源」としてながい対談が成った。吉本さんは、内包のモチーフをわたしはこういう理解をしましたが、それでよろしゅうございますか、となんども訊かれた。なかなか話の接点がなく、対話は終始、まったくのすれ違いだった。それでもそれぞれの仕事が少し進んだところでまたやりましょうと吉本さんは言い、ついに2回目の対談は未了のまま逝かれた。対談後、新橋の郷土料理の有薫で博多料理をたらふく食べながら、いやあ、あなたみたいな人ははじめてだと機嫌良く言われていた。この対談についてはさまざまな思いが去来する。吉本さんの世界認識とどこでずれたのだろうか。できるだけ普遍的にそのことを語ろうと思う。

 あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという吉本さんの根本思想がある。どのようにしてそれを果たすのか。かれは大衆の原象を繰りこむことで思想を実現すると宣明し、だれより愚直に世界を問い、血煙をあげながらひとり世界を疾走した。わたしは若い頃この畏るべき思想に震撼され鷲づかみにされた。
 対談からやがて25年になる。対談でわたしは、吉本さんの思想と異なる意識の呼吸法があると申し述べ、領域の思想に対して奥行きのある点という概念を、大衆の原象にたいしては対の原像があると言うことを申し述べた。「あのう、そのう、あなたはいったいなにをおっしゃりたいのですか」ということを吉本さんはくり返し問うた。そのときよりはいくらか吉本さんの問いに答えることができる。

 すんなりとここまで来たのではない。2002年に「guan02」を公刊し、前書きを書いて以降一言も言葉がでなくなった。思わずじぶんが書いたことに自縄呪縛されたのだ。ながく悶絶した。

  つまり、内包と分有の世界では人称がひとつずつずれて繰りあがり、繰りあがることで同一性が事後的に分節した三人称が、内包と分有に上書きされて消えてしまうのだ。それは分有者が直接に性であるからにほかならない。内包の世界では、分有者は二者にして一者であるから、あるいは他なるものが自らにひとしいものであるから、さらにひとりのままふたりが可能になるものとして生きられるから、三人称が存在しえないことになる。

 まるで呪文のような言い回し。理屈としてはいくらでも言い逃れができる。わたしはじぶんの生存感覚を貫かないことに信をおかない。じぶんを括弧に入れて世界を俯瞰する知になじむことがどうしてもできない。じぶんの固有の体験を普遍的に語ること、またそのことによってしか、ないものをつくるという表現は可能でないと真底思っている。わたしは当時者性にしか信をおかない。それ以外はかならず過ぎていくという抜きがたい生の偏りがある。ここから吉本思想を語るとかれの願望はわかるが、あらゆる共同幻想が消滅するということは、かれの企図に反してどう考えてもありそうになかった。かれもまた一挙にそこに到達しないので、「国家を開く」とか「段階」という媒介の概念で手当てした。じつは自己幻想も対幻想も共同幻想も、つまり観念の位相構造は自己同一性によって担保されている。わたしは、状況が煮つまってくると、願望とはべつに、自己幻想と共同幻想は逆立せず同期するのが自然だと、じぶんの痛切な体験を経て考えた。

 剛胆で分け隔てがなく、はにかみが満身に充ちている吉本さんは魅力的なのだが、世界の底の底で出来事はいつも遺棄されるということを識ることなく生きてきた。逆立はかれの生存感覚を貫くものではなく弁舌だった。戦中、天皇を賛美する愛国詩を書いた皇国少年(かれがそう言っている)が戦後の価値の転換になじむことができず自裁を試みたとどこかで読んだことがあるが、思いつめてなにかのはずみで死ぬことはあっても、あの透徹した強靱な精神の持ち主が、死を死ぬことはできなかったと思う。わたしはそのことについてのかれの話を信じていない。

 観念の位相構造を時代の転変に合わせてどれだけ精緻に加工しても、自己同一性に監禁された生をひらくことはできなかった。もしあらたな世界認識が可能なら、大衆の原象ではなく、生の原像が語られるべきであり、対幻想の解体ではなく、還相の性が主張されるべきであると思う。さらに大衆の原象を拡張した生の原像は根底で還相の性によって支えられている。わたしは還相の性の可能性を言いたくてたまらない。それよりほかにもう生きることができない。そしてそれはおそらく万人のこととしてある。

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