日々愚案

散乱する思考1

51AKpBoDw4L__AC_UL160_SR160,160_ この一年余、週日はわりにゆっくりできる時間があるので、あれこれよくかんがえる。
 ミシェル・フーコーの『コレージュ・ド・フランス講義13』がアマゾンから届いた。食事をしながらパラパラめくっていて、ふと気づいた。

 かれは晩年、天皇制の由来について研究していた!

 たとえばつぎの発言。

  天皇陛下のお仕事とお言葉
中沢 天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
内田  今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。
周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
中沢 なさっていることがいちいちご立派です。
平川 今回、祈祷をなさっていたっていうんでしょ?
内田 お仕事ですからね。
平川 ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
内田 震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
中沢 そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
平川 そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
内田 まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。(『大津波と原発』内田×中沢新一×平川克美)

内田 「震災が起きても、なんで掠奪が起きないのか」ってよく言われるけど、海外と日本で一番事情が違うのは天皇がいるってことだよね。
高橋 うん。これは大政奉還するしかないんじゃないの。
内田 いや、ジョークじゃなくて、大きなスパンで今の日本の政治構造を改善しようとしたら、それくらいのスケールにもっていかないと話が見えてこないよ。「革命」とか「大政奉還」とか。それくらい大きな枠組をとって考えないと、どこに向かうべきか、わからないよ。
高橋 もっともリアルな革命は、そっちだよね。
内田 ほんとに「議論の結果、大政を奉還しようという結論になりました」って言っても 、おおかたの日本人は文句言わないよ。
 - 今の高橋・内田言語を、SIGHT言語に翻訳しますと
内田 (笑)いや、このまま載っけてよ。
 - 載せるけどさ、要するに天皇という存在は、人格的なありようと、国家の本来的な ありようが、統一的に実現していて。だから、統治者としての理想を実現せざるを得ないというポジションが、もうシステムとしてでき上がってるわけだよね。
内田 そうそう。
高橋 なにより、リベラルだからね。
― そうだね。だから、そういう装置によって、政治的な権力者を作っていかないと、日本というシステムそのもののOSの書き換えは不可能かもしれない。ということを、おっしゃっているわけですね。
(中略)
内田 「現実とは金のことである」っていうイデオロギーからいいかげん脱却しなきやダメだよ。そのイデオロギーがこんな事態を生み出したんだから。
高橋 だから、天皇親政だ(笑)。
内田 そう、これはある種の対抗命題としてさ、みんなで考えてほしいと思う。だって、天皇制の意義を正面から議論することって、ほんとにないじゃない? そういうシステムを持たない国と日本を比べたときの日本の優位性はどこにあるのかを考えたときに、はじめて天皇制のメリットは見えてくると思うんだ。今のこの日本で「現実主義とは金の話のことだ」というイデオロギーに「それは違います」って言えるのは天皇だけだよ。
高橋 天皇だけはね。
内田 ねえ? こうして現に、批評的に生き生きと機能してるわけだし。
高橋 そうなんだよ。でも、天皇制はそうだったんだよね、実は。この2000年間ずっと存在していて。
内田 で、500年に1回ぐらい「いざ!」って出番がある。
高橋 そう。国難のときになると、「出番ですね」ってさ。そういうシステムだったんだ。
内田 戦後66年経って、天皇制の政治的な意味を、これまでの右左の因習的な枠組みから離れて、自由な言葉づかいで考察するとしたら、今だよね。(『SIGHT』2011 VOL.49 内田樹×高橋源一郎)

 この人たちの頭の中で、なにが起こって、このような言説が生じているのであろうか? いったいいかなる力が相互作用してこの奇怪なパレーシア(「率直な語り」、「すべてを語ること」、と翻訳者は訳している)が告白されるのであろうか?  わたしは古代ギリシャの人々が自己を陶冶した真理と権力の関係を、主体内部の問題群として解明したいのです、というようなことが『講義13』で書かれています。わたしがやったことはあなたの国で言えば折口信夫の『古代研究』なのです。
 辺境の国、日本とはもともとそういう国柄ですから、とフーコーは分析する。わたしの国はキリスト教だから、ギリシャに遡り、主体に働くさまざまな力を解き明かします。そういう意味で『講義13』は天皇制についての研究です。

 個人が主観という形で自己と取り結ぶ関係はじつは権力の関係に他ならないことを喝破したフーコーらしい考えだ。自然界に働く四つの力を解明しようとする『宇宙になぜ我々が存在するのか』の村山斉の手法とすごく似ています。
 自己と対立する社会の諸制度があるのではなく、自己を制度ととらえ、そこに働く力の相互作用を極めようとしています。フーコーがやったことはそういうことです。

 『同性愛と生存の美学』で、しきりにゲイを奨めるフーコーは、性のマイノリティとしてではなく、この世のつながりをこえる生の様式をそこに見ていた。
 わたしは根源の性とその分有者たちの連結がどのような過程を経て生のあたらしいつながりをつくりうるかを遠望している。自己同一性を拡張することができれば、あたかもゆるやかな親族構造とでもよびうる生のありかたが国家という慣わしを上書きしてしまうことになるのだと考えている。そこまで想像力を伸ばすときはじめて国家(頭)と市民社会(身体)と、そこを循環する資本(血液)という、わたしたちの歴史が到達した普遍を超えることができる。

 そびえ立つ緻密な知の思考者ミシェル・フーコーがなにかの本でつぶやいていた。
 「わたしの嫉妬はシベリアの大河に勝ります」。
 素敵な言葉だと思う。

コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    こんばんは。「根源の性」が、当事者を生きる現場の〈内包論〉から照射すると、フーコーの「主体性」が、下記のように深く読まれるのですね。「わたしは根源の性とその分有者たちの連結がどのような過程を経て生のあたらしいつながりをつくりうるかを遠望している。(自己同一性を拡張することができれば、あたかもゆるやかな親族構造とでもよびうる生のありかたが国家という慣わしを上書きしてしまうことになるのだと考えている。)そこまで想像力を伸ばすときはじめて国家(頭)と市民社会(身体)と、そこを循環する資本(血液)という、わたしたちの歴史が到達した普遍を超えることができる。」〈内包論〉から「普遍」を超えていく、貴兄の「身体」と「血液」が、当事者として現場を生きている総表現者の貴兄が、語っているように、小生には、感じられます。
    生身の血が滴り、たぎりながら熱く深く夢のように、寡聞な小生などにも、その想いの深く永い射程が、失礼ながら伝わってくるようです。
    (5月10日、2021年)紀州・富田にて 倉田 昌紀 拝

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