日々愚案

歩く浄土188:交換の外延性と内包的な贈与19:吉本隆明の贈与論9

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信から迷いがなくなるときその信を自力廻向と言い、信が迷いに埋め尽くされるときその信を他力廻向と言う。信が脱落し迷いそのものになるとき自力は果てている。その迷いの心性を他力というのだと思う。比喩としての仏の慈悲。比喩としての他力。俗とはなにか。非俗とはなにか。いったいなにが俗と非俗を隔てるのか。俗と非俗の垣根こそが信の胚胎する場所であるが、親鸞はこの最期の場所を解体したのだろうか。
俗そのものであるような非俗が世界として描かれたことはない。世界の無言の条理というものはある。知と非知のすきまについては観察する理性でも表現できる。端的に俗そのものであるような非俗。すでにして親鸞は僧に非ず、しかも俗に非ずと言うとき、親鸞にとって僧であることはどうでもいいことだった。ただ、ただ、俗そのものである非俗を渇望したに違いない。他力の信を得れば煩悩はなくなるのか。極悪深重からまぬがれるのか。いよいよ煩悩は深まり極悪深重は重篤になるのではないか。最期の親鸞はその場所を生きたように思う。他力は解脱とはまったくちがう心性である。もし最期の親鸞がここに居たとすれば、俗そのものであるような非俗をそのまま歴史の概念としてもえがくことはできるのではないか。自力より他力のほうが浄土は遠く、他力より自力のほうが浄土に近い。それが他力の真意ではないかと思う。いったい浄土とはなにか。涅槃ではあるまい。自力と他力を截然と別けることはできない。自力のなかにも他力があり、他力のなかにも煩悩がある。自力であれ他力であれ煩悩にまみれているということはなにも変わらない。

親鸞は流罪から赦免されたときの心境を語っている。

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證ひさしくすたれ、浄土の眞宗は證道いまさかんなり。しかるに諸寺の釋門、教にくらくして眞假の門戸をしらず。・・・これによりて眞宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に處す。余はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす。(「化身土巻」『教行信証』)

親鸞の思想は聖道門の自力作善を批判することに全力が傾けられ、他力が究尽されていないのではないかとながく考えてきた。非僧非俗もそのひとつである。非僧非俗という言葉は凜としてかっこいい。かっこよすぎる。でもどこか知的なんだなあ。非僧非俗の知的な佇まいをもっと解体したい。そんなことをときおり考えてきた。俗そのものと俗に非ずのあいだにわずかなすきまがある。言い換えれば、すでに僧に非ず、しかも俗に非ずという思想は、どこか自力作善の片鱗を残しているということだ。もし言葉が言葉を生き切ることができたら、僧に非ずは俗そのものとしてあらわれるはずだ。引き裂かれた生を生きるとき、神や仏の慈悲にすがるしか生の意味をみいだすことはできない。適者生存を余儀なくされるながい人類一万年の歴史がある。そこでは出来事はすべて自然である。天変地異による災禍も戦争による災禍も飢饉による餓死も自然である。わたしたちの生というちいさな自然はおおきな自然によって絶えず苛まれてきた。地を這う虫木草魚の生に、自力の果てるところに忽然と神や仏があらわれる。内面化されたちいさな自然をどう感受するか面々のはからいだが、わたしたちのちいさな自然に宿る慰めだ。語りえぬ出来事は内面化によって語り尽くすことはできない。ここに贈与が交換へと変質した秘儀がある。なぜ贈与は交換へと変化したのか。親鸞の非僧非俗という思想でも解きえなかった未然がここにあると思う。

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大雨で堤が決壊し、村を守るために土嚢を積もうとして村人が山津波に呑まれ亡くなる。赤紙で徴兵され、戦地に送り込まれ、親兄弟や国を護るため死守せよとの軍命が下される。闘い、壊滅し、敗残の兵となる。盆をすぎた頃、スマホで戦争のフィルムを15本くらい見た。スマホの小さな画面でよかった。なんともいえない気持ちが押し寄せてくる。ガダルカナル、サイパン、インパール、フィリピン、満蒙国境を進攻するソ連軍、・・・。戦史に残る激戦と壊滅のフィルムを食い入るように見入った。沖縄地上戦のフィルムも見た。存命であれば97歳の知花カマドさんはチリチリガマで5歳の長男を喪う。ガマ(洞穴)の前まで米軍が迫ったとき、少年たちは竹槍を持ち外にでて「鬼畜米」軍に対抗した。ガマのなかに100名近くの高齢者と女性と子供がいる。生きて虜囚の辱めを受けずとして自決。「天皇陛下の赤子として死ぬほかなかった」と彼女は語る。天を仰ぐ気持ちになる。そうやって生き延びたものは戦後を生きた。今年はネットで沖縄戦の兵士による上官殺しの証言記事を偶然目にした。軍の指揮系統が壊滅し悪のかぎりをつくす軍曹がいて、部下の兵隊が蛮行を目撃し、知らぬふりができず、射殺する。だれにも言ったことはないし、だれにも言わないままに死のうと思っていたが、98歳になり、上官を殺したと証言していた。記憶はねつ造されることもあるから真偽についてはわからないが、事実だという気がする。

スマホでみた編集されたフィルムのなかでテニアン島の生き残りの証言がいちばん堪えた。バンザイクリフ(スーサイドクリフ)として知られるテニアン島の悲劇だ。「楽園の島は地獄になった/テニアン島・NHK・証言記録2016年9月7日」。日本から南へ2500キロ。日本の支配下にあったこの島に、昭和19年米軍が上陸。軍人と民間人併せて一万人以上が犠牲となる。米軍の砲火にさらされ、敗走する日本軍と共に住民達もカロリナス大地に追い詰められていく。生きて虜囚の辱めをうけずという戦陣訓によって、赤ちゃんを抱いた女性達がつぎつぎと絶壁からはるかな海面に身投げをする。居留民の死者は3500名余とある。島でサトウキビ栽培を営んでいた当時18歳の青年を襲った地獄を83歳になった男性が遠い目をしながら語る。ふかく印象に残った。迫り来る敵軍から逃れ、洞窟から洞窟へと絶望的な逃避をし、鬼畜米軍に殺されるよりいいと決断し多くの邦人が自決する。酷い目に遭う前に、日本兵がのこしていったこの銃で殺して欲しいと母親から懇願され、「おふくろ長い間ありがとう」といって母を撃つ。妹がこんどはわたしの番と言い、喉が渇いたという妹に溜まり水を飲ませ、撃つ。「もう撃って、お母ちゃんのところに行くから」と妹は言い遺す。その後、手榴弾で自決しようとしたが、不発。直後に捕虜となる。このテニアン島からB29が広島原爆投下にむけて出撃した。お爺さん。おれのいうことを聞け。あなたが母親と妹を手に掛けたのは事実だと思う。では、なぜ殺した母親と妹の浄土をつくらずにあなたは戦後を生きて来れたのか。非業の死を遂げたおっかさんと妹が生き返ることを考えずに生きたのか。そうではあるまい。あなたが仕方なかったとみなす自然は人為による不自然なのだ。なぜああいうことになったのか、あなたは考え尽くしたか。あなたが大衆であるか知的な人であるか、そんなことはなんの関係もない。わたしは、わたしの生存感覚を貫く体験から、知識人と大衆という権力の視線ではなく、総表現者としてのひとりを生きる場所から、あなたに根源的な問いを発している。あなたが軍に生殺与奪をにぎられ翻弄されたことは事実だとしても、そしてそのことを万遍悔いても事態はなにも変わらない。なにもかもが自然であるとみなすほかに戦後はなかったはずだ。深く深く諒解する。しかしあなたの戦争の被害者という主観はじつは統帥権を干犯した軍の指導者とおなじく自身にたいして権力としてふるまっている。この逆説に、この問いに、あなたは、それがどんなに困難であるとしても答えなくてはならない。そこにだけまぎれもなくあなたの固有の生があり、その固有の生をあなたが生きるとき、天意を覆すようにあなたの母親と妹の浄土が現成する。だれのどんな生にあっても歩く浄土を生きることができる。二瓶寅𠮷さん。生を撃断されても浄土は向こう側から来ます。根源の二人称からのうながしだとわたしは思います。

地獄の体験を証言する人たちは、語りえぬことを言おうとするとき、皆おなじ表情をする。言葉にならなくてもどかしいのだ。語りえぬことを表現するとき人は皆、出来事を風景のように見ることしかできない。兵隊に取られ、行けと言われて戦地に赴き、死守せよと命令されて命を賭す。この自然よりほかの自然を人はつくりえたか。つくることができなかった。生き地獄もなにもかもが自然であるが、体験の自然が体験自体にたいして異和をなす。それがもどかしさの根っこにある。出来事のまぎれもない当事者でありながら、出来事を傍観する。出来事を自然災害の風景のように語ることしかできない。出来事から身を引きはがし出来事を風景のように見ること。人為の厄災を自然とみなす感性は人びとが長く生きてきた生活の知恵だと思う。天変地異による厄災として人為の出来事を感得することで、それ以上、心が壊れなくする知恵が、あたかも生得的なものであるかのように埋め込まれている。この自然をわたしは思考の慣性と呼んでいる。台風や地震による災禍があるように戦争もある。自然に翻弄されるようにしてわたしたちのちいさな自然もある。おおきな自然にちいさな内面が重ねられてわたしたちの生がある。出来事を風景のように見ることしかできないわたしたちの心性は、生を分割する観察する理性という知と、東洋的な無という共同性を疎外する。斯くして観察する理性も、生々しい生を生きるおおくの者も、出来事の根にある地獄を隠蔽する。出来事は、起こった出来事を言葉では語りえぬものとして語ることで解消できるだろうか。歴史の必然の恐ろしさを自然現象として語ることができるだろうか。わたしはそうは思わない。生と死を統治する権力者も、命令に付き従うほかない大半の者らも、ある思考の慣性に閉じられている。総力戦として戦われた日中-太平洋戦争の狂気はある思考の慣性を前提として必然とされた。雨が降り風が吹くように戦争があるのではない。私は私であることしかできないという同一性の拘束衣が思考の慣性として前提とされている。生きていることの根底が二人称であるとすれば、戦争はなくなるし、交換は贈与へと転位する。そこが言葉の始まる場所だ。わたしが、わたしより近いあなたをわたしとして生きるとき、国家や貨幣は共同幻想という観念をつくることができない。内包論の要だが、ここにはどんな倫理もない。

フィルムには編集が入るから生還者が話したことのどれだけが再現されているのかほんとうはわからないが、わたしは極限の体験をした人たちの証言を聞きながら、体験を体験として語るだけで、だれひとりとして戦争のない世界の可能性について言及していないことが気になった。きわめて不満だった。インタビュアーになんとか体験を伝えようとするのだが、伝えようとする姿勢に思考の慣性を感じた。体験を底の底までかれらは生き切っていないような感じがした。なぜこういうことになったのか、個々の生還者が地獄について固有な語りをもちえないからだ。自然の猛威に翻弄されたとしか言っていない。言葉にならぬ体験が言葉の始まる場所をつかむことができず、体験を社会化し第三者に伝えようとしている。伝わるわけがない。出来事を語ろうとして目が彷徨い、遠いまなざしになっているが、軽いと思った。社会化できる体験などなにほどのこともない。話し手と聞き手がもたれ合っているように感じられて仕方なかった。歴史の必然を固有の生で語るには媒介となるいくつかの概念が要請されているとわたしは思った。戦後の歴史を民主主義の外延の歴史として語ろうと、出来事の当事者性を外延化して語ろうと、戦後の72年が総敗北したということは事実だ。地獄のただなかを生き、偶然に生還した人たちの語りのどこにも歴史の必然を固有のものとして引きうけ、戦争のない世界を構想する試みはなかった。観察する知を得意とする者たちは戦争の悪を傍観者の位置からすらすらと語り、地獄を体験した生還者は出来事を社会化して文化人達と同期する。そこにはどんな未知もない。

このあたりの機微について盲目のブルースマンを手がかりに片山恭一さんは述べている。読んでいて気持ちがよかった。なにが思考の慣性をひらくのか。思考の慣性はひらく媒介になる概念とはなにか。片山さんは明快に言い切る。「たしかに盲目のブルース・マンたちの境涯は『なぜ』に満ちている。だが、そうした『なぜ』をいくら連ねたところでどうなるわけでもない、ということを彼らは身にしみて知っているのだろう。それほど彼らの生は、・・・『世界の無言の条理』にさらされている。まさに内面化も社会化もできない出来事として一人ひとりの生がある。だから『残骸のように打ち捨てられ』た場所で、誰にも寄りかからずに自分の生を表現するしかなかった。粗末なギター一本で『なぜ』を消す方法を見つけ出すしかなかったのだ。人は『なぜ』によってつながることはできない。誰かの『なぜ』に善意や同情や寄せることはできるけれど、それはつながることではない。まったく違う」(片山恭一公式サイト「小説のために 第十話」)盲目のブルースマンたちはじぶんより近くにある音を、と共に生きたのだと思う。かれらの境涯がどうであれ、かれらは音と共に浄土を生きた。そのありようがいまを生きるわたしに響いてくる。ロビー・ロバートソンが丘の上にある老ブルースマンの小屋を訪ねる。若い頃は大変だったでしょうと挨拶すると、かれは言う。いろいろあったさ。ボーイ、一曲やろう。老ブルースマンが拍子を取り、ロビー・ロバートソンのギターと共に歌い出した。かっこよかった。

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片山さんのなぜによって人はつながることはできないという気づきはとても大事なことだと思う。なぜによって人はつながりうるという思考の慣性にたいしてそれは「まったく違う」と断言する。この断言が気持ちいい。ニューギニア戦線で敗残兵として密林を彷徨い、30数キロになって偶然生還した佐藤俊男さんは次のように書いている。佐藤さんの文章はわたしが編集を担当した。非僧非俗を、生還以降、生涯貫いた、無名の稀な表現者だった。

私は渓谷の奥深く探検家の気分で上流へ上流へと一人で探ねる。その谷の流れに快く足を浸し、そこの小さな貝(たにしに類する貝が多かった)をハンゴウに拾った。そして少し渕になっているところで、用意した防蚊網を棒の先にくくりつけ、みみずをえさに、そこにいる10センチほどの川えびをすくう。20匹から30匹は楽にとれた。秘術があった。時にやまめのような小魚やうなぎまでとれることがあった。
 全然、人間というもののいない場所で、そんなことに熱中している自分が奇妙な存在に思えてきた。むろん、軍隊にいるということも、戦争のことも全く頭になくなる。しかし、森閑とした秘境に私はいるらしい。私は生きているのか、何か長い夢を見ているのかぼんやりしてさだかでなかった。
 気がつけば、そこは静寂なのではなかった。せせらぎの音、そよふぐ風の音、それに何より実にたくさんの種類の鳥の啼き声、更にとりどりの虫の音も交ざっていた。そこは鳥や虫たちの奏する交響・協奏の調べが絶えずこだましていたのだ。この高い響きはこのしじまをこわすものではない。静寂を静寂たらしめているだけだ。私は戦争を忘れ、飢餓を忘れ、人間を忘れた。
 ふと我に帰った。屋根もろくにない掘っ立て屋で寝ている病友に、貝のむき身と一匹つつでもこのえびを焼いてふるまってやろう。足らなければ路々蛙でもつかまえて添えてやろうかなどと考えることは楽しかった。つまりこれは私にとってはただの遊びであったのだ。愛に溢れていたのではなかった。(佐藤俊男「残余の生」)

晩年の佐藤さんとはよく話をした。印象深くのこっている言葉がある。ぼくは滝沢さんのインマヌエルということはわからないし、関心もないけど、人間にはこれ以上堕ちることのできない場所があると思う。ジャングルで爆撃や機銃掃射で死ぬ者もいたけど、大半は飢えとマラリアで死んだ。悪辣なやつが生き延びると戦争の極限を知らない者は思いがちでしょう。違うのです。暴力でその場を支配する者も熱病にかかる。そのときは人の手助けがなければ生き延びられない。それがぼくの原点やね。たくさんの話をじかにお聞きした。迷いのない信心はなく、迷いが信心だと思うということもよく口にされた。引用した佐藤さんの遺文は、たくさんのビスケットとして読むことも、内包的な親族の可能性として読むこともできる。かれは密林の静寂のなかで、鬼気迫る地獄のなかで、「戦争を忘れ、飢餓を忘れ、人間を忘れた」。人間を忘れたかれは病友にタニシとエビをふるまおうと考えた。生の極限下でなぜそういうことが可能となるのか。キリスト教の信を嫌い、親鸞を愛好した佐藤俊男さんは、おそらくそれとは知らずに領域としての自己を生きていた。人間を忘れても、生が根源において二人称であることは変わらない。ここでだけ、言葉が始まるこの場所で、交換はおのずと贈与となる。(この稿つづく)

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