日々愚案

歩く浄土187:交換の外延性と内包的な贈与18:吉本隆明の贈与論8

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生は本質的には内包的な贈与として存在しているのに、なぜ贈与的な生が交換へと変質したのか。マリノウスキーやモースやレヴィ=ストロースらは女性を財貨とみなし、焦らすほどに価値が値上がりする交換であると考えた。女性は共同体間の交換の財貨なのか。吉本隆明は憮然とし、個人と共同性を媒介する特殊な共同幻想である対幻想に贈与の根拠を求め、マリノウスキーの未開社会の研究本を紐解き「贈与とは遅延された形而上学的な交換である」と考えた。財貨の交換と形而上学的交換に違いはあるか。ない、とわたしは考えた。交換は交換と言い直しているだけで観念の未知はなにもない。対幻想という観念が特殊な共同幻想であるとするかぎり、対幻想が共同幻想に呑み込まれることを避けることはできない。マリノウスキーやモース、レヴィ=ストロースの未開社会の生態観察の盲点とはなにか。かれらが未開社会とみなす社会のシステムはすでに高度に規範化されていて、どこをどうつついても贈与を見いだすことはできない。婚姻も親族関係も掟という共同幻想によって生の営みの隅々までシステム化されている。その社会が母系制であるか父系性であるかになんの意味もない。書記と国家と貨幣までもう一息というモダンな社会なのだ。未開社会の婚姻や親族関係や贈与のしくみを解明するという試みのなかにどんな意味でも生の未知はない。

吉本隆明の対幻想という理念は内包論では往相の性に対応している。あるときわたしは対幻想を微分することが可能なことに気づいた。根源の性を分有する分有者の存在のあり方は還相の性として引き受けられ、外延化されて往相の性となる。この往相の性のことを吉本隆明は対幻想と考えた。この性の世界では人間は部分的にしか登場できないと吉本隆明は考え、この対幻想を媒介に氏族から部族、部族の連合として国家が誕生することを解明した。若い頃、この考えに驚倒した。吉本隆明の共同幻想という思想がなかったら内包論を構想することもなかったと思う。あるときから吉本隆明の対幻想という考えに窮屈さを感じるようになった。理念としてではなくなにか実感的なことだった。対の原型が壊れる段階が氏族内婚性が外婚性へ移っていく過渡的な時期になぞらえられている。吉本さん、ぜんぜん違うよ、と思ったわけだ。氏族内婚性であるか、外婚性であるかはとてもモダンなことで、親族も婚姻関係も高度に輻輳化した現代までひとっ飛びのアジア的段階を対関係の現在に模写してどうなるのか。そんなことを憤激しながら〈関係が表現〉であることの可能性を模索しはじめた。
吉本さんは当時次のように発言していた。「ぼくは無意識のうちに、まずはじめに原型があると考えていて、それがどうにもモデルが存在する余地がなくなってしまったと言われれば、原型が先にあったんだが、いまはもう壊れていく段階に入ってしまったんだという考えをしています。(略)エロスの問題でも、対幻想の持続ということについては、もはや壊れる段階にきていてどうしようもないんじゃないか。・・・(「エロス・死・権力」/『オルガン4』吉本隆明・竹田)「婚姻制度といえども相手の男性は特定されない。そういう段階がまずはじめにくる。特定したら氏族内婚制が急速に崩れていくということになるので、はじめはそういうことではなくて、同じ氏族の男性との内婚がまずはじめに崩れていって、ほかの氏族の男が誰であるか特定しなくていいし、また特定されたら困るという段階がきて、そこのところの分かれ目が、共同幻想と対幻想とが、最初に同置性が崩れて矛盾が生じてくるか、あるいは分離が生じてくる岐路になります。(略)逆に、現在どうなっているかを終末点としておもい描きますと、対幻想の基盤である家族が、起源の時期と逆な意味で、全体社会の中の個にまで分解するか、それとも全体社会との明瞭な区別を失って家族としては解体しつつあるといえます。経済的意味からも対幻想の結びつきの意味からも、崩壊にさらされてその崩壊させる力は、ひとつは全体社会からの噴流する解体力であるし、もうひとつは個としての男が、個としての女を特定できないというところからきています。特定の女性が特定の男性を決定できないという、ちょうどアジア的な段階での氏族内婚制から外婚制へ移ってゆく過渡的な時期にあったのと同じ問題が、逆な意味でとても高度な形で、現在もう一度おこりつつあるみたいなことがあるのではないでしょうか」(〈アジア的ということ〉と〈対幻想〉」

わたしは変わるほどに変わらないことが人であることの根源に内挿されていると考えている。どんなに時代が遷移しても変わらないことが、一切のはからいを超えて、人であることの深奥に熱く息づいている。この驚異のことを人は生の根底において二人称であると名づけてきた。文化人類学者達の観察する理性のなかにある権力性と優者の優しさに堪えがたい嫌悪感をもった。学問の名を借りた生態観察ではないか。かれらの研究の手法には吉本隆明も異和を表明する。「ここまででぜひとも注釈しておきたいのは、マリノウスキーはトロブリアンド島の未開社会について、じぶんが住みついて体験し、見聞きし、考察したりしたことを、いわば部外から記述していることだ。その記述がどんなに如実で内在的にみえても、文明という外在から記述していることに変りはない。だが、これを読んでいるわたし(たち)はマリノウスキーほど外在的ではない。文明社会の眼をもっているという意味では外在的だが、わたし(たち)の習俗の経験や遺伝的、伝統的な感性は、あきらかにトロブリアンド島とおなじ『母』系優位の初期社会から発している。そのためあるところまでゆくと外在と内在との混融した、奇妙な感じをともなうことになる。わたしの感受性が正確だとすればこの奇妙な感じは、どこかで論理をあたえなくてはならない」(『母型論』所収「贈与論」)吉本隆明の異和は『アフリカ的段階』として結晶する。「ヘーゲルやマルクス、エンゲルス、人類学者のモルガンなどが十九世紀の後半に『野蛮』とか『未開』『原始』というように発展の梯子段をつくって考えた近代主義に偏執してた段階は、間違っている」と考え、アフリカ的段階を想定すればいいと考えた。「北米、南米、アフリカ、オセアニア、東南アジア、日本の弥生時代-神話でいえば初期の神話、沖縄とアイヌの自然宗教、それらをみんなデータとして出して、『アフリカ的段階』という人類史の母型を設定したいわけです」(『遺書』)吉本隆明の見解に頭半分は納得する。往相の知としてはということだ。

わたしの内包論は吉本隆明の対幻想理解にたいする実感的な異和に端を発している。この異和をないことにして吉本隆明の思想を追尋することに耐えられなくなった。傍らには吉本さんの消費社会論にたいする異議もあった。やがて、わたしたち個々の現存であるちいさな自然の窪みを内面とし、その内面を根拠に世界を表現する表現の方法全体の拡張を図るようになった。道行きは困難を極め悶絶する日々がつづいた。いまもなおその渦中にあるが、いくかの概念をつくることで、以前よりはすこしだけ見晴らしがよくなってきた。内面と外界という意識の表象のことを、わたしは意識の外延表現と名づけてきた。その閂をこじ開けようとしたわずかな思索家を除き、わたしたちに知るいかなる思想家の言説もこの外延表現に閉じられている。

    2

内包的な贈与が自然であった歴史の時代はなぜ共同体間の交換へと変質し、この交換を貨幣が代理することになったのか。だれも解いていないから解けないということはない。貨幣の謎を解く表現をつくればいい。トッドは言う。歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになるのだ。もう未開から漸次解明へと進化する構造主義的な思考から決別しようではないか。「あの本(『家族システムの起源』)は、純粋に歴史人類学の研究書です。この本の基本的な命題は、核家族というのが原始的な家族の形だということです。あらゆる共同体的モデルの複雑な家族システム、中国タイプであれ、ロシアタイプであれ、あるいはいとこ同士の結婚を認めるもっと複雑なタイプであれ、それらは、かつて家族の形としては遅れたタイプと見られていました。しかし、私はそれに対して『ノン』と言ったわけです。そうした形こそ、歴史を経て形作られてきたものなのです。最も自然な家族の形は核家族なのです。これは、歴史を理解する上で重要な結論をもたらします」エマニュエル・トッド『グローバリズム以後』)「現地バンドは、核家族なり独身の個人がいったん所属したらそれっきりというような、凝固した構造物ではない。息子ならびにその配偶者と子供を自動的に成員と定義する父方居住原則によって構造化されているわけでも、娘ならびにその夫と子供を成員として指名する母方居住原則によって構造化されているわけでもない、原初的現地バンドは、加入に関しては、選択と柔軟性を特徴とする。それこそがシステムの『未分化性』もしくは『双方性』の基本的な論理的帰結に他ならない。若い夫婦は、夫の家族の集団に加わることもできれば、妻の家族の集団に加わることもできる。選択の可能性があるということは、その見直しの可能性にも道を開く。選択の当然の帰結とは、柔軟性にほかならない。これこそが未分化の〔無差別化された〕システムの主要な様相の一つであり、父系であれ母系であれ、単系のシステムというものの硬直性と対照的な点なのである。家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的なものと見なされていた形態(不可分の大家族、直系家族)の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現われることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現われることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現われることになろう」(『家族システムの起源』)

エマニュエル・トッドの、人類の初期、家族の原型は核家族であったという発見には驚いた。歴史のもっとも奥深い奥底にある家族の原型をたどるわれわれは単に現在と出会うことになるという見解も面白い。わたしたちの思考の自然が慣性にすぎないことを思い知らされる。トッドの書誌学的な発見を内包論の表現の言葉に置きかえてみる。悠遠の太古を歌い踊った陽気な面々がわたしのなかの原風景としてある。楽しい空想だ。「はじまりの不明のはじまり。食と性が分有されていたということ。深雪の凍原で一緒に暖をとり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を怖れおののきながら一緒に食べ、いつも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された。ここに意識の起源があり、ここに表現としての精神の古代形象のはじまりがある」(『喩としての内包的な親族』連続討議「歩く浄土」第四回あとがき)あるいは谷川俊太郎が「まわらぬ舌で初めてあなたが『ふたり』と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた」と詩を書くとき、この機微を合理や理性は説明することはできない。手のひらの上にそれ自体を取りだすこともできない。それにもかかわずこの心性は実在する。この実在は同一性の手前にある。合理や理性で指さすことはできないが、いつもわたしたちがその上に立っているシンプルな情動。それを内包と呼んでみる。たおやかな道理はだれの、どんな生のなかにも内面よりはるかに深く根ざしている。

「わたしの知るかぎり心的な過程について吉本隆明はもっとも破綻のない言い方をしている。『そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく」(吉本隆明『心的現象論・本論』所収「眼の知覚論」)しかし吉本隆明の心的な過程の定義にも矛盾がある。生理的な過程を記述する論理と心的な過程の記述を可能にする原型となる観念を想定しないと、生理的な過程の緩衝域を心的な過程と定義することはできない。あるものがそのものにひとしいという観念の刻み方を同一性と名づけるとき、同一性に先立つ観念というものがなければ、あるものとそのものはたんなる電子ノイズとして相関するだけではないかという根底的な疑問が残される。ノイズを有意味化するあるものがそのものにひとしいことを統覚する原型の観念があるはずだ。わたしたちは同一性という公理によって同一性を説明している。自己意識の無限性を自己意識を前提にして語るとき、はじまりはいつも不明である。偉大なヘーゲルもこの罠にかかっている。マルクスの資本論もだ。あらかじめ同一性という観念を暗黙に想定し、その公理を使って同一性を定義する。これは決定的な矛盾を引き起こすことになるとゲーデルは不完全性定理として示した。公理に根拠はないということだった。そこで個的な存在を社会的な存在であると言い換え、解けない主題を解けない方法で延命しようとした。人間の精神の夢はつねにここに閉じられている」(「歩く浄土155」)

断じて、生理的過程の矛盾を緩衝するものとして心的な過程が生まれたのではない。この説明の仕方はすでに同一性を前提としている。同一性原理では「私」が「私」であることを説明することはできない。同一性が可能となる思考の原型がなければ「私」が「私」となることはできない。あのハイデガーでさえこう言っている。

「同一性の命題が一般に表わされる仕方A=Aという型式は何を言い表わしているのであるか? この型式はAとAとが相等しいこと〔相等性〕を表わす。等しいということには少なくとも二つのものが属している。一つのAが一つの他のAと等しいのである。同一性の命題はそのようなことを言い表わそうと欲するのであるか? 明らかにそうではない。(略)それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである」(『同一性と差異性』)ハイデガーのいう同一性を担保するものが西欧の神という超越であり、わが東洋の無が仏という超越になったことは言うを俟たない。わたしたちの思考の慣性は同一性を自然だとしているが、ことほど斯様に同一性という観念は奥深いのだ。わたしの知るかぎり、この事実に驚倒したのはエックハルトと親鸞だけである。神と人は離接しているが、エックハルトは神はわたしよりわたしの近くにいると覚知し、親鸞はおなじことを他力といった。同一性に先立つ一元がなければ、同一性がそれ自体として存在することはない。それほど不思議なことなのだ。あるものがそのものに重なる神秘を捨象して数学のA=Aという論理式が成り立っている。わたしたちの生は記号的な生に漸近しつつある。それがグローバリゼーションの本態だ。ある潜勢力がなければ同一性がそれ自体として立ち上がることはない。無定型の混沌とした存在を一閃したのは性である。内包論では世界とは性にほかならないと考える。性によって世界は分別されることになった。

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国家はなぜ生まれたのかということを吉本隆明は観念の往相の過程として見事に記述したが、ではどうやれば国家をなくすことができるのかということについてはなにも言わなかった。国家から折り返すことができないことはかれの思想の本質を成している。吉本隆明は書いている。「共同幻想のうち男性または女性としての人間が生みだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした」。男性と女性という観念がすでに同一性を前提としている。この思想の方法では共同幻想のない世界をつくることはできない。
ずいぶん前に笠井潔の「むきあい」「ならびみ」「わたしみ」を検討したことがある。もちろん「むきあい」は対幻想を、「ならびみ」が共同幻想を、「わたしみ」が自己幻想を含意している。

笠井は人間に可能な関係性には原理的に異なる三つのタイプがあるという。並び見るという意味で〈ならびみ〉の関係、向き合うという意味で〈むきあい〉の関係、私を見るという意味で〈わたしみ〉と彼は名づけている。これらはそれぞれ吉本隆明の共同幻想、対幻想、自己幻想に対応しているとかんがえてよい。笠井はくり返し「むきあい」の経験はそれ自体に必然的な挫折をはらんでいるというのだが、それはほんとうにそうだろうか。わたしは笠井の主張を深読みしているだけはないのか。べつの箇所で彼はいう。「異性の官能的な肉体という外部に直面するのではなく、その背後に仮構される超越的な『恋愛』という理念にのみ視線を集中していく恋愛者は、既に『むきあい』の関係を生きてはいない。彼は彼女に、彼女は彼にむきあっているのではなく、二人の頭上に君臨する超越的理念を『ならびみ』ているに過ぎない」。なぜ「異性の官能的な肉体」が外部なのか。「むきあい」の関係にある男と女が非対称的なのではない。また、対称性の破れとしてある個々の男と女が、関係を欺瞞的に維持しようとして、男と女の二項対立を宙で吊る超越的第三項を疎外するのでもない。ましてそこに観念の共同性を擬制的に累積する淵源があるわけでもない。ここに偉大な近代の解きがたく超えがたい袋小路の背理がある。

「『ならびみ』の共同性をモデル化すれば、水平線に沈む夕日を浜辺で眺めている複数の人間の関係として、たとえばそれを想定することができる。彼らはこの場合、『夕日』を『並んで見て』いる。つまり、『ならびみ』の関係において相互に関係している。このタイプの関係で最大の特徴をなすのは、そこで関係しうる構成員の数が、原理的に無限大であり得るという点だろう。(略)これに対して『むきあい』の関係は、むきあって互いに表情を見つめあう二人の人間の共同性として、たとえばモデル化しうる。この場合、直接的には人間の視覚の構造に規定されて、この世界の構成員は最大でも、常に二名である以外にない。吉本による『対』概念は、多くの点で、『ならびみ』とは範疇的に区別されざるをえない『むきあい』の関係に照応するものである。吉本が強調しているように、対幻想とは『一対のペアになった幻想性』に他ならない。しかし重要なのは、『むきあい』の関係(さしあたり『ペアになった幻想性』と理解しておいても、とくに問題はない)が、本質的に非対称的な構造をなすという点にある。もしも『むきあい』の関係を、個体(第一項)と個体(第二項)の対称関係であると見なすならば、それはこの両項のメタ・レヴェルとしての第三項的視点が、暗黙のうちに前提にされているといわざるをえない。『むきあい』という関係世界の固有性は、このような第三の項を原理的に排除するところに求められる。『むきあい』という固有の関係世界=観念空間に作為的に導入される、第三項的に特権化されたこのような視点こそが、逆に観念の共同性(共同幻想)の発生的な構造を暴露している。それはまた、同時に、原理的な意味での『権力』の発生構造を暴露するものでもある。非対称的関係としての『むきあい』を対称的関係に転化する特権的第三項とは、『ならびみ』の関係において並び見られる対称性に他ならない。第三項の君臨のもとに組み入れられた個体と個体は、互いに『むきあう』という関係世界から既に離脱して、同じ対象を『ならびみ』る観念の共同性に移行しているのだ」(『外部の思考』)

笠井潔の主張の核心部分は次のことに尽きるとおもう。
①「〈むきあい〉において見る経験から〈ならびみ〉と〈わたしみ〉が同時に、しかも茎から双葉の芽が分かれるようにして派生する」
②「〈むきあい〉において不可解で異様なもの、一人称的な私を根底から脅かす二人称的な他者の深淵に直面した私は、そのような外部、そのような他者を理解可能なものに置き換えてしまわなければならない。自己崩壊を避けるため、自己保身的に外部を隠蔽するために。だから人間において本源的な経験である〈むきあい〉は、それ自体に必然的な挫折をはらんでいます」。
③「〈ならびみ〉において他者なる謎に直面し戦慄している私は、もはや自己循環的で自己同一的な私ではありえない。譬たとえていえば底の抜けた実存、主体ならざる無底性としての実存だろうか」〈むきあい〉がそれ自体に必然的な挫折をはらんでいるということを、わたしは神仏ではなく恋愛の彼方へという言い方でくるんでしまうことができるとかんがえている。自己同一性の秘儀や権力の始源を剔抉するのに彼がどれだけ荒涼とした風景を経てきたことか。問題のありかをはっきり指し示すことができているのに、彼もまた同一性の罠から最終的には逃れえていない囚われ人だとおもう。超越という出来事に遭遇して、入り口の主体と出口の主体がまるで違うことに気がついていない。彼だけがそうだというのではない。わたしには彼が言いたいことはよくわかるから、引用文に即してこまかいことをいうひつようはすでにない。ヒトという生命形態は性に内在する自然によって人となるのであって、自己が他者と関係して性になるのではない。この内包原理が存しないならば母子の〈むきあい〉が生まれることもまたない。それがあることによって人が人となった性という根源が共軛的にくびれて自己の自己性が生じたのである。このとき自己の自己性は渾然一体となって他者をふくみもっていることになる。自己と他者はもともと同一であり、同一であるからこそ自己の自己性がそこからあらわれるのだといっていい。自己の陶冶と他者への配慮はべつものではなく同一のものなのだ。根源の性を分有するとはそういうことなのだ。自己同一性を基点として他者を語るとき自己と他者は離折する。自己と離折した第三者の共同性は互いに矛盾し対立し背反するものとして相克するほかない。これがわたしたちの人類史なのだ。

わたしには若いころから吉本隆明が思想としてくり返し説いた、人間は世界と対座するとき自己意識として世界に向き合っているのではなく、自己観念、対の観念、共同の観念という混同してならない次元を異にする観念の層を節目として互いに関係しているとする幻想論にたいして疑問があった。そうすると位相の違う三層になった観念があるということを統覚する観念はどの観念に属するのだろうか。それぞれの観念を俯瞰する意識抜きに幻想論は可能とならない。敗戦の体験から立ち上がるのに渾身の力をふりしぼっていた吉本隆明はそれがどういうことであるかかんがえる余裕がなかった。吉本隆明がかんがえずにすんだこの難所こそがバタイユやブランショやレヴィナスを捉えたものであり、フーコーやドゥルーズがひきうけた問いだった。すでに世界史は地域的・文化的な偏差をふくみながら同時性としてもあらわれていた。一九六六年、フーコーの『言葉と物』が発表され、吉本隆明の『共同幻想論』が雑誌『文芸』に掲載された。一九七〇年代末に吉本隆明が思想の大転換をなしたとき、フーコーは来日公演「政治の分析哲学」で「人間の精神的変革が国家の変革の条件なのか結果なのかという古くからの議論についても、そもそも、個人が〈主観性〉〔自己についての自己の意識〕という形で自己と保つ関係は、実は権力の関係ではないのかと問うてみる必要がある」と語った。沈黙の八年間を経て『性の歴史1』(知への意志)を刊行し、インタビューで「つまり、誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです」(『ひとつのモラルとしての性』)と主題を転調して語っている。鳥肌が立つようなおもいがしたのをおぼえている。その直後にフーコーは病に斃れた。吉本隆明はこの間に『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』を出版した。世界史的な同時性ということについていえば、『言葉と物』が『共同幻想論』に、『哲学の舞台』が『空虚としての主題』に、『性の歴史』が『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』に対応しているとみなしてよい。わたしの読みでは、『言葉と物』でフーコーは意志論を抜き去ることで人間の終焉を語り、その心残りを、関与的な存在である「倫理的活動の核にあるような創造的活動」という概念として結び直した。吉本隆明は逆のことをやった。『共同幻想論』は赫奕とした意志論の書であり、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』で時代を作者とすることで意志論を括弧に入れた。吉本隆明がフーコーの思想の甚大な影響を被ったのはあきらかだといってよいが、読み違えたとわたしはおもう。本領である文学を自己幻想と見立て、対幻想をフロイトに拠り、共同幻想をマルクスの「支配される階級にとってはまったく幻想的な共同體だったばかりでなく、また一つのあたらしい桎梏であった」(『ドイツ・イデオロギー』)から着想を得て構築された幻想論を幻想論として成り立たせしめているその全円性の根拠をこそ知の大転換として彼は問うべきだった。それが思想が問うべき現在的な課題であるとわたしにはおもわれた。マルクス主義という人類史の厄災もファシズムによる世界大戦も、近代を近代として成立させた同一性原理から必然的に流れくだってきたものだからだ。

笠井のいう男女の非対称性はそういうものだが、男にとって女が、女にとって男が非対称的なものとしてあらわれるのは性差の故ではなく、ほかならぬこの〈わたし〉を男や女とみ、、なす意識の同一性が、自体に対して非対称的であるからにほかならない。ほんとうは私たちはここでとんでもないことにぶちあたっているのだ。あるものがそのものに等しいという自己相等の原理は、つねに対称性の破れを内包している。ひとのふるまいにとって、あるものがそのものに相等しいことはありえない。あるものは、つねに、そのものをはみだし、そのものはあるものを覆うように関係する。笠井潔がいうように「むきあい」にある男女はたしかにたがいに非対称的なものであるかのようにあらわれる。それは実感にかなっている。そして「むきあい」にある超越の経験はいつのまにか「ならびみ」という共同的なものへと転化していく。吉本隆明の全幻想領域という観念は、同一性原理を暗黙のうちに前提としているからこそ成り立つ観念のありようなのだが、そこに欺瞞を感じとる笠井は非対称的なものである「むきあい」が対称的な「ならびみ」へと変質していく過程に権力の起源があるとくり返し説く。吉本隆明にあっては近親婚の忌避があれば、兄弟姉妹間の性的な幻想によって、氏族共同体は部族共同体へと飛躍することが可能だとされ、『共同幻想論』は間然するところのない共同性についての原理の書とされる。
(『Guan02』「内包世界論Ⅰ」)

引用の箇所を書いていた頃、遡れば吉本隆明の思想に惹き込まれた若い頃から、「位相の違う三層になった観念があるということを統覚する観念はどの観念に属する」のかということがわからなかった。だいたいでいいんじゃないと吉本さんは考えたが、わたしは納得しなかった。おなじような思いを抱いた者たちがいたと思う。その点はフーコーは鋭敏だった。「わたしみ」という自己関係は権力であると気づいていた。かれは主体という空隙を埋めようと必死だった。人間という概念の終焉を宣言し、死を目前としたときに、主体は実体ではなく、真理は他性によってもたらされると言い遺した。この思想をつかんだときフーコーは空虚な存在ではなかったと思う。吉本さんは消費社会を分析して空虚を手にした。この違いはおおきなものだと思う。笠井潔も柄谷行人も同一性では触れることのできない語りえぬものがあることに気づきながら、意識の外延表現でそのことを言いあらわそうとした。レヴィナスもおなじだった。ハイデガーの存在論を根底から覆そうとして、自己は起源に先立って他者へと結びつけられていると言いながら、存在するとは別の仕方で、存在の彼方へ、とまでは言い切ったが、それがどういうことであるかつかむことができなかった。だから第三者性が登場するやいなや、国家の正義を懇願し、同一性の罠にかかった。意識の外延表現は解けない主題を解けない方法で解こうとする。だれがやっても内省と遡行にしかならない。意識の牢獄に掛けられた閂はどうやればひらかれるのか。

レヴィナスは『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方で』の扉に「国家社会主義によって虐殺された六百万の者たち/そればかりか、信仰や国籍の如何に関わらず、/他人に対する同じ憎悪、同じ反ユダヤ主義の犠牲になった数限りない人々/これらの犠牲者のうちで、もっとも近しい者たちのおもいでに」と献辞を捧げている。ユヴァルは「私が歴史家として知り得たことの1つ 、人間の愚かさを過小評価してはいけないということです」と言う。文明と野蛮が相克するとき人びとは容易に野蛮の側に回る。おそらく昏い記憶がかれにそのことを言わせている。ビットマシン社会のもたらす新しい文明が、文明と野蛮が対立を仮構しているのだとしたらどうする。それがいまわたしたちの直面していることの核心にある。

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笠井潔の「むきあい」「ならびみ」「わたしみ」を内包論によって組み換え、自己幻想と対幻想と共同幻想を位相転換する。この位相転換によって意識の外延は内包表現へと拡張されることになる。この試みが妥当であれば内包的な贈与の位相を確定できる。神や仏の原型である〔むきあい〕は先ず固有名として始まる。〔わたし〕は〔わたしより近いあなたによって〕〔わたし〕となる。これが存在の第一義性である。この存在は外延化され同一性となる。この態様を存在の第二義性とする。根源の性を分有する分有者の意識の外延性はこうやって始まる。〔わたしより近い〕という知覚は生の内部に内挿されているもので、個人と個人の「あいだ」にあるのではない。個人と個人のあいだにあると知覚されるとき、わたしたちはその観念を対幻想や往相の性と呼んでいる。この観念は吉本隆明のいうように特殊な共同幻想と言うこともできるかもしれない。対の観念を吉本隆明のように考えれば確かに国家を形成することはできる。この弁証の過程はゆるぎないものとみえた。わたしたちの贈与としての生は社会のなかでいつのまにか交換の過程として生きられている。引用の文章を書いたときには内包論の要である根源の性を分有する分有者ということは、なによりリアルな生の知覚だったが、それがいったいどういう構造をもっているか、その頃はうまく言いあらわすことができなかった。Guan02以降の15年、悶絶しながら過酷な作業をとおしていくらか解明できたと思う。
意識の起源についてさらに踏み込んでみる。意識の外延的な表現としては、あたかも生理過程の矛盾を緩衝するようにして心的な過程が生まれたと考えることができる。意識の起源についてさまざまな解釈があるが、わたしは吉本隆明の意識の発生についての考察がもっとも優れていて破綻がないと思う。ほかのどんな解釈も機能主義的ではぐらかされたような気分になる。なぜそうなるかというと意識を解明しようとする者たちの頭のしくみがAI並みだからだ。太古の原人が広い海を眺めおろし、反射としてうなり声を出したとする。眼前の光景を見る経験が原人に意識のさわりをうみ、それ以上意識のうちに止めおくことができず、意識のさわりが〈海〉を象徴する水準を獲得したとき、たとえばそれが〈う〉として表出される。それが吉本隆明の言語表現論である。うそではないがなにも言い得ていないとながいあいだわたしは考えてきた。吉本隆明のなかでは無意識のうちに自己というものが前提とされていて、その自己をなぞるように意識が解明されている。吉本隆明の表現論はいくつかの根底的な矛盾を必然的に生みだすことになる。あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという吉本隆明の思想は意識の外延性では第三者性を疎外する。三人称が消えることはないのだ。位相のちがう三相になった観念のそれぞれの観念を統覚する観念はどの観念に属するのかということに吉本隆明の思想は答えることができない。国家ができあがるしくみについて吉本隆明は独自の考察をなしたが、ではどうやれば国家のない世界を遠望できるのかということについて、こういう手順を踏めば国家は解消できるとは言わなかった。未開社会では贈与は遅延された形而上学的交換であると言い、変形された交換が贈与であると言っている。贈与が交換になることはあるが、意識の外延性のもとで交換から贈与が出てくることは原理的にない。いくらか比喩を交えて吉本隆明の思想を言えば、ビックバンからこの宇宙が始まったことは確からしいが、ではそのビックバンはどうして始まったのかということにビックバンは答えることができない。ビックバンを引き起こす潜力なしにビッグバンが起こることない。内包存在の潜熱なしに同一性が起こることはない。おなじようなことが吉本隆明の言語論にも国家論にも言える。

以前は神仏と往相の性の彼方へという言い方をよくしていたが、この言い方だと、ここではないどこかに存在の彼方を暗喩するようで、同一性のはるか手前にここをどこかにする意識の内包性があると考えるようになってきた。神仏や往相の性の手前に内包自然がもともとわたしたちの生に内属しているということだった。わたしたちが自明のものとして生きている同一性はとてもモダンな思考の慣性なのだ。もっとやわらかい意識の呼吸法が、野の花や鳥が匂い立つ豊穣な性の源泉が、だれの、どんな生のなかにも内挿されている。わたしたちはだれもが人類史の一万年を生きており、生の深奥にはからいとは無関係に根源の二人称が内属している。だから、〔わたしより近いあなた〕が内包的に存在する。この驚異は同一性よりもはるかに太い精神のうねりをなしている。
遙かな太古に陽気な面々は名状しがたい熱いかたまりとして存在していた。いつも一緒、どこでも一緒、たくさんのビスケットを半分っこしようね。ぜんぶあげるよ。なぜかある種の霊長類のなかでそういう神秘が一回性として起こった。深海のアルカリ熱水孔でプロトン勾配によりただ一回性として無機物から生命が誕生したように。神仏や往相の性の手前に灼熱の熱いひとかたまりが名づけようもなく名をもたぬものとしてあった。存在の第一義性をなす内包存在という原型だ。あまりに熱いので、おもわず身を起こし、灼熱の塊から身を引きはがし、心身一如の存在が白熱する塊を分有した。いったいこれはなんなのだと覗きこもうとして、引きうけた心身一如のなかに同一性が芽生えた。これが存在の第二義性だ。あるものが他なるものに重なるという信じがたい驚異がなければ同一性が立ち上がることもなかった。わたしたちの歴史では同一性として引きうけられたことのなかにある内包の面影を神や仏という太陽感情と名づけてきた。陽光が注がれ肥えた土のなかにある植物の種子が発芽する。芽が出て、茎となり、茎から螺旋にからまった双葉の芽が分かれる。この分かれた双葉のひとつが自己幻想、もうひとつが共同幻想と比喩できる。内包のあまりの熱さに驚いて内包存在から飛び出したそれぞれが、自己幻想であり共同幻想ということができる。もともと双葉としてひとつのものである。もとより種子の発芽する場所のことが内包自然であると寓喩されている。自己幻想と共同幻想が同期する歴史的な起源は表現としていえばここにあると言えるだろう。自己同一性を実有の根拠と認識した思考の慣性がどういう命運をたどったかわたしたちはよく知っている。同一性をかたどって以降の一万年の人類史は一瞬だったと思う。

世界構想を持たない者たちが現代を中世化、帝国化、縁故主義と精神を退行させているが、AIのアルゴリズムは血も涙もないが公平である。諸国家の内面化はアルゴリズムによって淘汰される。諸国家の支配者はなぜ国家を護持するのか。新しい文明によって国家が淘汰され平定されることを感じ取っているからだ。世界システムの属躰となることでしか国家を維持することはできない。そうすると最後に外延表現が彫像した最強の共同幻想がのこる。貨幣だ。ユヴァルは言う。「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ」。これからは富はアルゴリズムが采配することになるが、この共同幻想を超えることができるか。意識の外延表現は世界システムに順伏すると思う。ここであらためて贈与の可能性について考える。もしもわたしたちの心性が同一性によって隅々までおおわれているならば、ビットマシン社会が巻き上げる強いアルゴリズムに抗することができるとは思えない。その趨勢のなかで世界システムが供与する身の丈に合った自然を受容するしかないからだ。

〔むきあい〕は固有名と共に始まる。意識の内包性として言えば〔むきあい〕のなかに〔わたしみ〕と〔ならびみ〕は含まれているのだが、自己をモナドとみなす自己意識は〔むきあい〕を〔わたしみ〕によって反照し、相手もまた〔わたしみ〕によってじぶんを反照する。〔むきあい〕という神秘は同一性によって可視化され実体となり、特殊な共同幻想である対幻想が成立する。対幻想がそれ自体の領域として抽出されることはなく、対幻想は自己幻想と共同幻想の媒介となることによって、国家へと至る。ほんとうは〔むきあい〕を実詞化することはできないのだ。〔むきあい〕を領有化することはできない。ここに観念の猛烈な可能性がある。〔むきあい〕には〔わたしみ〕や〔ならびみ〕という同一性では指さすことのできない精神の動きがある。同一性では〔むきあい〕の全体を措定することができない。〔むきあい〕が同一性の手前にあるからだ。けっして内面化しえない「他者」を手がかりに、交換の非対称性を「売る-買う」、「教える-教えられる」関係に比喩し独我論から単独者へ至ろうとした柄谷行人の試みも、男女の関係が非対称性であるために引き裂かれ、〔わたしみ〕のなかに〔ならびみ〕が融解するという笠井潔の考えも、同一性では指し示すことのできない出来事を意識の外延性で措定する矛盾を生んでしまう。
意識の内包性から〔むきあい〕をみたらどうなるか。意識の外延性が実詞化した固有名が固有名のまま還相の過程に入ることになる。〔むきあい〕によって、〔わたし〕が〔わたしより近いあなた〕を表現として現成させるわけだ。この〔わたしより近いあなた〕のことを還相の性と呼んできた。わたしは還相の性は、仏と対座する親鸞の煩悩を断ち切る正定聚を拡張した観念だと理解している。還相の性によって神仏という同一性の片鱗をのこした観念は大幅に拡張されることになる。そしてこの観念の拡張の可能性のなかで、人間の生が社会的であるという意識の外延性が内包化され、応力として交換が内包的な贈与なる。その要を還相の性がなしている。いかなる意味でも意識の外延性を前提とした交換から贈与が生まれることはない。還相の性が可能となるとき、交換はおのずと贈与に転換される。この過程のどこにも倫理が介在することはない。ユヴァルの言う、他の人びとが特定のものを信じていることを信じるように求める貨幣は、貨幣という共同幻想の輪郭を消失し、おのずからなる贈与が可能となる。「お花を摘んできてくれるか」と追尋されるとき、同一性は背後を一閃され、問う者を問われる者とする。このときたくさんのビスケットが分有されることになる。(この稿つづく)

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