日々愚案

歩く浄土186:交換の外延性と内包的な贈与17:吉本隆明の贈与論7

    1

マルクスの構想した、個即類という思想は、マルクスの主観的な意識の襞にある信の外延的な思想であって、意識の外延表現ではいかなる意味でも類と個はつながらない。外延的な類と個はかれマルクスの主観的な信によってつながると仮定されているが、個と類は断絶している。マルクスは目を瞑ってこの深淵を跳び越えた。人間という理念についてマルクスはまったく誤認していたというべきか。親鸞の人間の理解と比べるとあまりの落差にめまいがする。この根本的な錯誤のうえに資本論は書かれている。雄大な構想力をもつマルクスの世界は強い浸透力をもって広まり、この国でも二人の思想家が固有の方法でマルクスの世界を引き継いだ。ある意識のたどる必然を吉本隆明と柄谷行人は対蹠的な場所で生きた。この論理はマルクスを超えるものではなく、意識が外延的に表現されたものとしてまったく同型であると言える。吉本隆明は大衆の存在様式を思想の根幹に置き、柄谷行人はけっして内面化できない他者の絶対性を論理の根幹に据えている。もっと言えば、天皇の赤子万民平等も吉本隆明の理念としての大衆も柄谷行人の交換の非対称性も意識のありかたとして「社会」主義であるということにおいてまったくおなじである。意識を外延的に表現することは意識にとって不可避なことなのか。そうではない。人間という個々の現存を社会的なものであるとするかぎり意識の外延性は必然のようにわたしたち個々の生にあらわれるというにすぎない。

生の現存を社会的なものとするときその意識は社会的な存在のありようとある相関関係をもつということはありうるが、ただそれだけであり、社会的な存在が現存する生を未知の生の様式にひらくことはない。世界や生の根源的な了解の仕方が、意識の外延論と内包論ではまったく異なる。意識の外延論は世界の無言の条理をなぞることしかできない。どんな思想であっても外延表現は第三者性を必然として招き寄せ信の共同性をかたどることになる。そこにわたしたちの人類史の余儀なさと制約がある。ビットマシン社会は適者生存の条理を人格を媒介とせずに直接、生に介入するしくみをつくりあげている。いうまでもなくビットマシンの電子ノイズは身体性をもつわたしたちの思考の慣性をはるかに高次化している。いまマルクスが生きていたら資本論ではなくビット論を価値形態論として書くと思う。交換の中核をビットが為しているからである。人格を媒介としない淘汰は知らぬまにすでに始まっている。わたしたちの心身は最後の一片に至るまで商品となる。この世界システムの属躰としてしか生きることはできないのか。世界は背中に膝があるように殺気立っている。そうではない。神仏や往相の生の手前にある内包的な生を生きるとき、生は内包的な贈与としてはからいによらずふいに立ち上がる。内包論はこの世のありかたをおのずとつくりかえていくことになるだろう。

よく知られたマルクスの文言をこのひと月じっくり眺め、いくつかのことがみえてきた。親鸞の横超という理念を手がかりにマルクスが究尽することのできなかった思想の未然を解きほぐしてみたい。親鸞の書誌学的な事跡についてはなんの関心もない。煩悩にまみれた現存を解きほぐそうとするとき親鸞の言葉はいきなり立ち上がる。親鸞の言葉を愛好する多くの人にとって他力や自然法爾はそういうものではないかと思う。八百年の時空を隔てていてもそれは一瞬のことにすぎないからだ。時代の変遷と共に変わるだけ変わって変わらぬものがある。親鸞は言った。「誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし」(『教行信証』「信巻」)と言った。人間の私事(わたくしごと)は千年や万年ではなにも変わらない。それほど私性の根は深い。出来事を観察する理性は、わが身を襲っていることをいかようにも俯瞰しうる。いままさに起こっていることを鳥瞰する観念の場所が観察する理性という精神の退避を可能とする。このとき観察する理性はどう機能するか。衆生の生を采配する。そこで編み出された権力の視線が生身を生きる衆生と、秩序を維持する司祭階級である知識人という制度だった。人間がつくった強固な自然であり、精神の古代形象としていまもなお統治の原理をなしている。この視線の下で衆生の生は適者生存をなぞりながら統べられてきた。生を引き裂く権力は出来事を残骸のように遺棄し、なにごともなかったかのように通り過ぎていく。なにも西欧近代に由来する生の分割支配ではない。生の外延的な生存が引き寄せる必然であり、それが人類史でもあったと言えるだろう。在るのざわめきのなかに絶海の孤島のように存在するわたしたちの現存は権力によって絶えず分割支配されてきた。しかしそれはまた意識の外延的な表現がたどる文明史の必然とも言える。

ながいあいだ親鸞の遺した言葉に惹きつけられてきたが、他力や自然法爾とならぶ不思議な言葉のなかで横超という理念が際だって異色であり、そこに親鸞の思想を拡げるきっかけがあるのではないかと考えている。親鸞の他力を覚知するものが100人いたとして、その者らは他力という信の共同性を不可避的につくることになる。煩悩にまみれた生を他力はやわらかくほぐしてくれる。そのことはよく理解できるが、往相の生や歴史を帰りがけの知で描くことはできない。歴史を還相の知でつくることができるだろうか。親鸞の自然法爾にわずかなふくらみをつくることができたら、正定聚が還相の性に転位し、自然法爾は内包自然に置き換わり、その応力によって自己と社会を包み込むことができると内包論で考えてきた。親鸞の思想でいえば横超という概念が親鸞の思想をひらくバネになっている。問う者が問われる者となるときこの不思議が起こる。ここで往相の知も還相の知も一挙に崩壊する。「『健太郎』と声が追いかけてきた。/彼は振り向いた。/『お花を摘んできてくれるか』/無邪気にたずねている人は、おれよりも近くにいる」と片山さんは『なお、この星の上に』を結句した。人間の終焉を宣言したミシェル・フーコーが死の直前に言い遺した「主体は同一なるものではなく、真理は他性によってもたらされる」という言葉の緩みを、片山さんは「お花を摘んできてくれるか」という言葉でより精確に表現している。「お花を摘んできてくれるか」という言葉が、その言葉を生きることで、なにかほんとうのものがおのずとたちあらわれる。だから<たくさんのビスケット>が贈与されるのだ。なぜ「わたしはわたしだけ」なのに、半分っこしようという気持ちが起こるのか。それは堀江菜穂子さんがじぶんより近くにいる根源の二人称を生きているからだと思う。自己を実有とする同一性が内包の面影として彫像した、ここではないどこかを覚醒させる神仏という超越のはるか手前に、ここをどこかにする根源の二人称が存在している。なにも特別なことではない。だれのどんな生のなかにも人類史が内挿されていて、その根底を根源の二人称が支えている。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(『経済学批判』)

個々の人間の意志から独立した経済的機構とはなんだろうか。マルクスの意図に即して言えば社会の土台は経済という自然が形づくっていることになる。この自然の上に宗教や国家という観念の上部構造が経済という土台に規定されて被さっている。そういうことが言われている。数少ない読者よ、おわかりか、マルクスはなにも言ってない。自然の上に自然が乗っている、つまり経済という共同幻想の上に上部構造という共同幻想が重ね書きされているとマルクスは言っているのだ。自然に自然が重なっている。共同幻想のうえに共同幻想が上書きされている。自然が二重化しているとマルクスは言う。意識の外延性では貨幣の謎は解けないと思う。贈与がなぜ交換に転化したのか。マルクスの思想はなにも答えない。アダム・スミスの経済学を批判的に継承したマルクスの経済論と当のアダム・スミスの経済学との相違はどこにあるのか。しきりにそのことを考えた。アダム・スミスは経済という自然をありのままに叙述し、マルクスは意志の力によって貨幣のありかたを改変することができると考えた。この世の条理の近傍につくられた貨幣論がアダム・スミスの『国富論』であり、『資本論』を科学であると考えたマルクスの主観的な信は廃滅し、もう復古することはない。貨幣のふるまいをアダム・スミスは写実し、マルクスは貨幣の自然を人為的につくりかえることができることを貨幣の自動運動のなかに見いだそうとした。高貴なマルクスの精神は人類史の厄災となって実現した。なにがここにあるのか。なぜ野性のマルクスの試みは潰えたのか。男性の女性にたいする関係のなかに、人間にとってもっとも本質的で直接的なものがあらわれているという青年マルクスにやどった直観を社会化するのではなく、それ自体を領域として抽出し、贈与論を書けばよかった。

    2

人間の利己心や私欲についての触れ方がマルクスとアダム・スミスにおいて異なり思想の分水嶺をつくっている。アダム・スミスはこの世の条理をありのままに描写する。アダム・スミスの労働価値説や私性の肯定はおおらかで、マルクスにはアダム・スミスが解釈する世の摂理はゆがんでみえた。市場を支配するみえざる手を信頼するアダム・スミスには暗黙に神への信があり、宗教を人間の精神の夢が疎外されたものであるとマルクスは感受した。個人の生存と共同的な類生活は富の分配のしくみを変えればつながりうるはずであることをマルクスは希求し渇望した。この世のしくみを革めることができるという熱い情理がマルクスの胸裏に滾っていた。言葉の大きな弓で世界を革めようとする思考者はマルクス以降一人もいない。市場は利己心によって適者生存を可能とし、産業も労働者も淘汰されるが、「見えざる手」がそこに働くとアダム・スミスは考え、マルクスは人為によってこの条理をつくりかえることができると考えた。いずれにしても人倫の根源が問われたことは一度もない。マルクスの熱い人為は滅び、この世の条理をなぞったアダム・スミスの経済論は現在も生き、そしてそのアダム・スミスが公理とした市場を貫通する「見えざる手」の支配がビットマシンのアルゴリズムによっていまなし崩しに壊れようとしている。

織エまたはくつ屋のような独立の職人が、自分自身の仕事のための原料を購買したり、その所産が売りさばけるまで自分を扶養したりするために十分である以上の資財を獲得したばあいには、その仕事によって利潤をあげるために、かれはこの剰余で自然に一人またはそれ以上の渡り職人を使用する。この剰余が増加すればかれは自然に自分の渡り職人の数を増加させるであろう。(『諸国民の富』)

この件についてのユヴァルの解釈が面白い。

すなわち、地主にせよ、あるいは織工、靴職人にせよ、家族を養うために必要な分を超える利益を得た者は、そのお金を使って前より多くの下働きの使用人や職人を雇い、利益をさらに増やそうとする。利益が増えるほど、雇える人数も増える。したがって、個人起業家の利益が増すことが、全体の富の増加と繁栄の基本であるということになる。これがあまり独創的な発想には思えないとしたら、それは私たちがみな、スミスの主張が当然のものと見なされる、資本主義の世界で生きているからだ。毎日のニュースの中で、私たちはこのテーマをさまざまな形で耳にしている。だが、自分の利益を増やしたいと願う人間の利己的な衝動が全体の豊かさの基本になるというスミスの主張は、じつは人類史上屈指の画期的な思想なのだ。経済的な視点からだけでなく、むしろそれ以上に道徳と政治の視点から見て、従来の思想を根本的に覆すものだった。実際のところスミスはこう述べているのに等しい―強欲は善であり、個人がより裕福になることは当の本人だけでなく、他の全員のためになる。利己主義はすなわち利他主義である、というわけだ。(『サピエンス全史』)

人類の認知革命以降の7万年を通覧し、ユヴァルはいくつかの発見をする。書記と貨幣と国家の発明が同時期に起こっており、これらはすべて虚構であるが、共同主観的現実として時代と共に遷移する。虚構という神話のなかで最強の支配者が貨幣であるとユヴァルは言う。ハイパーリアルなむきだしの生存競争のただなかを生きているわたしたちの実感に適っていると思う。強烈な印象を残したユヴァルの発言を貼りつける。「私が超人的努力をして自分の個人的欲望を想像上の秩序から解放することに成功したとしても、それは私ただ一人のことでしかない。想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ」「誰かがタカラガイの貝殻やドル、あるいは電子データを信頼していれば、たとえ私たちがその人を憎んでいようと、軽蔑していようと、馬鹿にしていようと、それらに対する私たちの信頼も強まる。宗教的信仰に関して同意できないキリスト教徒とイスラム教徒も、貨幣に対する信頼に関しては同意できる。なぜなら、宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ。哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の問の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる」(『サピエンス全史』)

なんの衒いもなくここまで断言するユヴァル・ノア・ハラリとは何者か。不思議な魅力がユヴァルの考えにある。人類史においてもっとも巧みな詐術が貨幣である。それは想像された神話であり虚構であるが「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ」。すごいなこの洞察。確かにそのとおりだ。土台をなす経済の領域があり、そのうえに宗教や国家や法という観念の上部構造があるという思考の慣性がある。そうではなく貨幣こそが最強の虚構ではないかとユヴァルは言う。おそらくマルクスは強い共同幻想を弱い共同幻想で制御できると錯認した。煩悩にまみれた極悪深重な現存を深く究尽する機会がマルクスに訪れることはなかった。電脳社会から襲来されて国家もポリティカル・コレクトネスも衰退しつつある。ビットマシンの猛烈な自然に煽られ国家が内面化すれば、民主主義も天皇親政へと退化する。国家の内面化と民主主義理念が並んで退行する。いままさにわたしたちの身の回りで起こっていることだ。ユヴァルにとっては人倫も虚構にすぎないから、自由や平等を生物学的に定義し直す。「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる」(『サピエンス全史』)違うよ、ユヴァルさん。なにも定義されていない。万人の多様な生が快感を追求することはこの世の条理をなぞることであり、生物学的に還元された定義はそれ自体としてまったく空無なのだ。マルクスが個人と共同性を神ではなく類生活としてつなごうとした試みが、ユヴァルにおいておなじように外延されている。適者生存によって個々の人間は淘汰されると言っているに等しい。

    3

マルクスは『資本論』の序文で書いている。「私がこの著作で探究しなければならぬものは、資本主義的生産様式であり、これに相応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである」。マックス・ウェーバー(1864-1920)は資本主義社会の成立についてマルクスとおなじように「イギリス」に着目し、マルクスとは異なる見解を示す。わたしたちのちいさな自然という内面のなかにある私性、とりわけ私利と私欲のことについて考えていたとき、ふいにマックス・ウェーバーのことを思い出した。ある特殊な事情の下で資本主義が勃興したとマックス・ウェーバーは言う。宗教社会学者のマックス・ウェーバーはいったいなにを言おうとしたのだろうか。わたしの理解ではマックス・ウェーバーはマルクスを強烈に意識していた。ある共同幻想が資本のシステムに内挿されていなければ資本主義は成立しなかったとマックス・ウェーバーは言うのだ。マルクスが思想の前提とした土台がじつは共同幻想であるとマックス・ウェーバーは考え、マルクスの論理を逆倒したわけだ。マックス・ウェーバーは通俗的な貨幣欲や貪欲があって資本主義の精神が生まれたのではないと『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで繰りかえし主張する。大きな驚きをもってマックス・ウェーバーの古典的な著作を読み返した。印象に残った箇所を任意に引用する。

①経済生活の全面を支配するにいたった今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体-企業家と労働者-を教育し、作り出していく。しかしまた、ほかならぬこの点で、歴史的現象の説明の手段としては、この「淘汰」概念が限界をもつこともわれわれは確認することができる。資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が「淘汰」によって選び出される-すなわち、その他のものに対して勝利を占める-ことが可能であるためには、そうした生活態度や職業観念があらかじめ成立していなければならず、しかも、それが個々人の中にばらばらにではなく、人間の集団によって抱かれた物の見方として成立していなければならない、ということは明瞭だろう。だからこそ、そうした職業観念の成立がまずもって解明されねばならないのだ。そうした「理念」などといったものは経済的状況の「反映」あるいは「上部構造」として生まれてくるのだとする素朴な唯物史観の考え方については、後段で詳細に論ずるつもりだ。(略)因果関係は「唯物論」の立場から想定されるものとはともかく逆の関係になっている。

②ことに、こうした企業家には適度に冷静な謙虚さの認められることが少なくない、というよりも、きわめて多いのだ。こうした謙虚さはベンジャミン・フランクリンの推賞する巧智にたけた自制よりも、本質的に誠実なものだ。こういう企業家は、巨富を擁しながら、自分のためには「一物をも持たない」、-ただ良き「天職の遂行」という非合理的な感情をもっているだけなのだ。ところが、こうしたことは資本主義以前の人々には、不可解かつ不可思議であり、また不潔で軽蔑すべきものとしか思われないことがらだ。人間が生涯にわたる労働の目的として、莫大な貨幣と財貨を背負って墓に下ることをひたすら考えつづけるといったことは、彼らには倒錯した衝動、つまり「呪われた黄金の飢餓」の産物と考えるほかに、説明の方法がないからだ。

③辺境の小市民的な十八世紀のペンシルヴェニアで、しかもこの地方では貨幣の不足のためだけでややもすれば物々交換経済に逆転する恐れさえあり、大規模な産業経営はほとんど影さえなく、銀行といえば僅かにその萌芽しか見られなかったのに、利潤の追求が道徳上賞讃に値するに止まらず、義務であるような、そうした生活態度の内容と考えられえたという事実は、いったいどうすれば歴史的に説明しうるだろうか。-この場合「物質的」関係の「観念的上部構造」への「反映」を云々するのはまったくの無意味だろう。-外面的には利潤の獲得を指向するにすぎない活動が、個々人に義務として意識されるような、そうした「天職」という範疇にまで構成されるにいたったという事実は、どのような思想世界にその源泉をもったのだろうか。けだし、ほかならぬそうした思想こそが「新しいスタイル」の企業家の生活態度に倫理的下部構造と支柱を与えることになったのだからだ。

④プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。ピュウリタンをはじめとして、クェイカー派の偉大な護教者バークリーが明らかに証言しているように、肉の欲、外物への執着との戦いは、決して合理的営利との戦いではなく、所有物の非合理的使用に対する戦いなのだった。

⑤私経済的な富の生産の面では、禁欲は不正ばかりでなく、純粋に衝動的な物欲とも戦った。-というのは、この衝動的な物欲こそ禁欲が「貪欲」、「拝金主義」などとして排斥したもの、つまりは、富裕となることを究極目的として富を追求することにほかならなかったからであり、所有そのものが誘惑だったからだ。ところが、まさしくこの点において、禁欲は「つねに善を欲しつつ、つねに悪を」-禁欲の立場に立った意味での悪、つまり所有とその誘惑を-「作り出す」力だった。なぜかというと、禁欲は旧約聖書と同様、また「善き行為」の倫理的評価からの類推でもって、富を目的として追求することを邪悪の極致としながらも、〔天職である〕職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵だと考えたからだ。そればかりではない。これはもっと重要な点なのだが、たゆみない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲的手段として、また同時に、再生者とその信仰の正しさに関するもっとも確実かつ明白な証明として、宗教的に尊重することは、われわれがいままで資本主義の「精神」とよんできたあの人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆とならずにはいなかったのだ。そして、さきに述べた消費の圧殺とこうした営利の解放とを一つに結びつけてみるならば、その外面的結果はおのずから明らかとなる。すなわち、禁欲的節約強制による資本形成がそれだ。利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまりは投下資本としての使用を促さずにはいなかった。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の大要はこれらの引用からうかがい知ることができる。この本の中でマックス・ウェーバーは資本主義の成立した通説を覆している。人間の私利と私欲の追求として資本主義は生まれたと信じられてきたからだ。天職を奢侈や強欲でなく慎ましく労働することが神から与えられた義務であり、その責務を果たすことは善であるとピューリタンは信仰していた。資本主義の精神を可能とする生活態度や職業観念があらかじめ成立していなければ資本主義が興ることはなかった。古代中国や古代インドやアラビアでも商人の商業活動はあったが、その延長に資本主義が生まれることがなかったと資料を交えて金太郎飴のように語っている。イギリスのピューリタンの禁欲主義によって天職の職業観念が贅沢な生活を排することで、彼の地に資本主義社会が一回性として誕生したとマックス・ウェーバーは言う。だからマルクスの土台が上部構造を基底するという唯物史観は間違っていると大胆に主張する。マルクスの『資本論』が書かれたのは1867年であり、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が書かれたのは1904年である。ロシア革命の精神的な支柱はマルクスの『資本論』だった。マックス・ウェーバーの新説は、はじめはオカルト扱いだった。宗教を観察する学者と野性のマルクスを比較することはできないが、ある発見をマックス・ウェーバーがやってのけたことは事実だと思う。マックス・ウェーバーは土台と上部構造について言う。「この地方では貨幣の不足のためだけでややもすれば物々交換経済に逆転する恐れさえあり、大規模な産業経営はほとんど影さえなく、銀行といえば僅かにその萌芽しか見られなかったのに、利潤の追求が道徳上賞讃に値するに止まらず、義務であるような、そうした生活態度の内容と考えられえたという事実は、いったいどうすれば歴史的に説明しうるだろうか。-この場合『物質的』関係の『観念的上部構造』への『反映』を云々するのはまったくの無意味だろう」
禁欲は拝金主義を禁圧することこそが「旧約聖書と同様、また『善き行為』の倫理的評価からの類推でもって、富を目的として追求することを邪悪の極致としながらも、〔天職である〕職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵だと考えたからだ」。禁欲と拝金主義を排することが結果として資本の投下を促したというわけだ。マルクスは貨幣を土台とする経済過程を改変することでこの世のしくみを革めることができると考えたが、資本主義社会をはぐくんだ精神はピューリタンの禁欲主義から生まれた歴史の一回性にあることを知らなかった。天職に励みつつ慎ましく暮らすことは神の意に適うことだったのだ。ある共同幻想が介入することがなければ資本主義が興ることはなかったとマックス・ウェーバーは断言する。この意味で貨幣は神の意志が体現された共同幻想であった。そのことを経済という自然に上部構造という自然が被さっていると言ってきた。共同幻想に共同幻想が重ねられ共同幻想が二重構造になっているだけだった。その意味でマルクスの思想は徒労だったと思う。

ピューリタンの精神は親鸞の言い方に倣えば、聖道門の自力作善のはからいである。自分の資本を蓄積させることを自己目的と考えるのが各人の義務であるという思想がプロテスタンティズムの倫理だとして、それは自力作善の計らいではないか。ここでは自己は実体化され、神の命じる善き行為も貨幣へと可視化されている。往相の信を神という宗教と考え、さらに観察する理性として信の外側から解釈しているので、宗教についての本質的な理解にマックス・ウェーバーが至ることはなく、いつのまにか禁欲は強欲へと相転移し、人格を媒介とせずに生へ直接介入するビットマシンの世界システムに道をひらいている。往相の信は容易にビットマシンによって外延化することができる。
利己の追求は利他行為であり、市場は放任してもそこには見えざる手の働きが作用しているとアダム・スミスは考えた。神の慈悲が目に見えない形で人びとの生の営みに降り注いでいると脳天気なことをアダム・スミスは考えていた。宗教を社会学的に考察するマックス・ウェーバーも、信のなかにいてそこを生きることをせず、信を外側からさわり解釈しているので、清教徒の往相の信のなかに渦巻く煩悩を剔抉できていない。マルクスの世界を構想する精神は苛烈だった。ヘーゲルから思想の骨格をもらい、フォイエルバッハの宗教は人間の精神の夢が外化されたものであるという考えに感化され、無神論の立場で世界に挑んだ。かれが手にしたものは類生活への激しい渇望であり、イギリスで興隆する資本主義社会の資本の運動を究尽し、価値形態論を通じ、剰余価値を発見する。この剰余価値によって、ピューリタンの禁欲主義は精神の古代形象へと退行した。人びとの煩悩と極悪深重はアダム・スミスやマルクスやマックス・ウェーバーの想定したものよりははるかに手に負えないものだった。わたしたちのちいさな自然のなかにある内包という無限小のふくらみのなかに、往相の生を超えるきっかけが、だれのどんな生のなかにもある。

    4

ユヴァルは「ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」で人間の自然な共同体の規模について発言している。

生物学では、同時にホモ・サピエンスについて社会的な動物であるが、とても限られた範囲で社会的なのだと言います。人が親交を深められる範囲は150名程度が限度であるということは、人類に関する単なる事実です。自然にできる集団―ホモ・サピエンスの自然な共同体は150人を超えることはありません。それ以上の規模になるとそれこそ様々な想像や大規模な社会制度が基になっているのです。

人間は社会的な動物であるが自然な共同体は150人程度だという。その算出の根拠はわからないが、顔まで含めてよく知り得る範囲がそれぐらいの集団だとしてみる。そうするとすぐにエマニュエル・トッドの、人類は初期、核家族であったということを思い出す。歴史的には人類の初期の親族や氏族は小さいバンドであったと考えてもいい。ユヴァルの150名について考えてみる。べつに100名でも200名でもいい。人の自然なつながり、黙契の相互扶助性が無理なく自然に機能する集団の規模がおおよそそのあたりにあるとユヴァルは断言している。ユヴァルが言うように無理なくつながる人間の集団の臨界を設けてもいいような気がする。人類初期の複数の核家族の構成員が相互に想起される自然なつながりのことをユヴァルが言っていると理解した。書記と国家と貨幣はおそらく同時に発明されている。文字の発明と掟の規範化もまた軌を一にする。およそ1万年の文明がそののち必然とされ、その文明が転換する過渡期の混乱をいまわたしたちは生きている。1万年の人類の文明史があり、この文明が転形期を迎えつつあるとわたしは判断している。グローバリゼーションは人類史の文明史的な転換の指標にすぎない。水野和夫の「21世紀は政治的には地域帝国であり、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性を指摘することは可能だと思います。この二つの方向性をベースにして、あとはどういう社会システムを構築するかを考えるのが21世紀最大の課題です」(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)は近視眼的なグローバリズムへの意義申し立てて世界認識としては退行していると思う。いま起こっている文明史の地殻変動への効能なき対症療法にすぎない。わかりやすい虚偽であるとわたしは考える。世界認識の解像度が粗く、スケールがちいさすぎる。だれでもすぐに思いつく安直なものだ。いま世界で起こっていることはそういうことではまったくない。

なぜ150人が社会的な人間が親交を深められる範囲なのか。同一性的な生を生きる社会人間に内包の面影がとどく臨界がそのあたりにあるということではないか。規模の大きな集団になると共同主観的な虚構をつくることによってしか人間の社会の秩序を保つことができないとユヴァルはいつも口にする。想像された虚構のうちでもっとも成功した観念が貨幣だ。そのとおりだと思う。アダム・スミスにしてもマルクスにしてもマックス・ウェーバーにしても、ユヴァルにしても社会人間の交換を前提に貨幣を論じている。交換はどこまでいっても交換の派生態をもたらすだけで、贈与が生まれることはない。ビットマシンならば人格を媒介にせずにビックデータをはるかに高速に交換を演算できる。近い将来AIが交換過程を革新し雇用の大半はなくなるだろう。人間のはじまりと共に生まれた贈与が交易の範囲が拡大するにつれて貨幣が交換され金融工学によって取引されるようになった。ビットマシンのアルゴリズムは数学なので、数学によってシュミレートされる諸科学の産物はA=Aに漸近していくことになり、生きていることもその諸科学によって規定されることになる。この過程は不可避であるとわたしは思っている。
駆け抜けるように生きて夭逝した伊藤計劃の現代を暗示する黙示録的な『虐殺器官』と『ハーモニー』という作品がある。『虐殺器官』に登場する言語学者ジョン・ポールは妻をサラエボでテロリストの核兵器で殺され、多発する民族紛争地で民族浄化を起こすことで、母国へのテロを防ぐというグロテスクな虐殺の言語を開発する。次作は直後に書き上げられる。がんで生き急いでいたので、二作とも実質10日で書き上げたと解説にある。伊藤計画の基本的な感性とユヴァルのそれはよく似ていることを『サピエンス全史』を読んだとき直感した。むしろユヴァルの感じている世界の先まで伊藤計劃は行きついた。ユヴァルのなかにはこの百年のあいだに心と体が分離してしまったので、心と体を「苦しみ」を媒介にしてつなごうではないかと人びとに呼びかけている。一人ひとりがそれぞれに苦しんでも国家という虚構は苦しまないという。ニヒリズムの渦中でユヴァルのかすかな声が聞こえる唯一の場所だ。わたしはユヴァルの考えは楽感的すぎると思う。心と身体をつなぐ試みは心身の一片に至るまで編集されて商品になる。貨幣も分に応じて、らしく生きる生に分与される。それがハイパーリアルなむきだしの生存競争の現実であり、世界システムの属躰になることは自然だとして受容されることになる。伊藤計画はここをどう解決したか。『ハーモニー』の最後で苦しみや不安から逃れる究極の方法を生府が人類全体に施行する。自己幻想を共同幻想に一致させるのだ。「老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した」「社会と自己が完全に一致した存在への階梯を昇る」ことが究極のハーモニクスであると作品は最後に語る。

このブログで取りあげてきた思索家に共通するのは意識を外延的に表現しているということだ。意識を外延的に疎外するかぎり、解けない主題を解けない方法で解こうとする意識の牢獄に落ち込む。表現の未知は、ここではないどこかではなく、同一性の拘束衣を脱ぎさり、ここをどこかにすることのなかにある。これまでの人類史も、これから迎えるビットマシンによる人類史的な地殻変動を通じてなされる生の改変も、同一性という拘束衣の手前に豊穣な生の源泉があること跳び越している。わたしたちの奇妙な生は豊穣な生の源泉と〔共〕にある。適者生存によって淘汰される世界の無言の条理が同一性によってつくられている。人間の自然な共同体が150人にかぎられるから、掟という共同主観的な虚構を現実として付加するのではなく、共同幻想から折り返す生をつくればいいとわたしは考えてきた。交換から贈与がでてくることはない。人が社会的な存在であるかぎり交換を変形した贈与という仮象は可能でも、内包的な贈与が生まれることはない。贈与は内包的な存在論に属し、交換は社会的な存在のありかたに属している。煩悩にまみれた極悪深重な身が親鸞の他力や自然法爾の、然りという言葉で解きほぐされることがある。しかし親鸞の他力や自然法爾にも同一性の片鱗が残っている。生が親鸞の他力や自然法爾で柔らかくすることができるなら、この世の無言の条理の全体を軟らかい然然の自然とすることもできるはずだ。「お花を摘んできてくれるか」と問いかけられ、ふいに、言葉を投げかける者は「おれよりも近くにいる」と背後の一閃によぎられ、堀江菜穂子さんの、ビスケットは「ぜんぶあげちゃったけれど/ビスケットとおなじかずの/やさしさがのこっているよ」という不思議がなんのはからいもなく起こる。わたしは内包論によって、生きていることだけではなく、適者生存という歴史を還相論として表現することができることに気づいた。意識の外延性を内包的な表現で包めばそれはいつでも可能となる。ブログ文で信の共同性という言葉を何回書いたか検索したら98回あった。国家や貨幣や諸学の知を折り返すことと同一性の拘束衣を脱ぐことはおなじことを意味する。信の共同性の根を抜くことができなければ世界が革まることはない。

これまでだれのどんな思想も世界が観念の行き途でしか描かれたことがなかった。自己を実有とするわたしたちの思考の慣性がそれほど強固だったということだ。往相の生だけではなく還相の生というものがあることを内包論を書くなかで考えてきた。国家をビットマシンが相対化することはあっても、国家がそれ自体として国家を解消することはない。内省と遡行というわたしたちの意識よりも電脳社会の変化のほうがはるかに速い。わたしたちはその変化の速さに身の丈をあわせているだけのようにみえる。国家を折り返すとはどういうことか。貨幣の交換を贈与に転換するとはどういうことか。帰り道の知は同一性の拘束衣を脱ぐときはじめてその姿をあらわすように思えた。ビットマシンのエンジンは数学が要を成しているが、諸学の知も数学の抽象の水準を身体知におろすことによって成りっている。〔わたし〕が生きているということはそれらの知とはまったくちがう出来事だ。同一性によって明晰に語りうるものはなにもない。自己は自己に離反し逆接するものとしてしか存在しない。親鸞の非僧非俗の思想も矛盾に充ちている。僧に非ず俗に非ずとはどういうことか。言いたいことが親鸞のなかにリアルにあるのに、往相の信や生を否定することで、同一性の拘束衣を脱ぎ捨てようとしている。
行きがけの現実と帰りがけの現実があるのではないかと考えている。俗に非ずが俗とはどう違うのか。親鸞は行きがけの現実を相対化しようと帰りがけの現実を非僧・非俗の言葉で言おうとした。非僧・非俗と現実それ自体のあいだにはわずかなすきまがある。すきまがどういうものであるかを表現としてつかみだすのに800年余がかかったような気がする。わたしは内包論でこのすきまがなにに由来するのかを自覚的に取りだそうとしている。こういうことではないか。聖道門を親鸞は批判しつづけた。自力のはからいを捨て、他力に任せよ。そのことはよくわかる。自力を放任してもいいのではないか。わたしはわが事としてこのことを語っている。僧に非ずとは文化人に非ずということだ。身を以てそのことを生きてきた。いまは総表現者のひとりとして生きている。生の原像を還相の性として生きるとき、僧に非ず、しかも俗に非ずという言葉と総表現者のひとりの生が分別できるだろうか。わたしは俗と非俗は離接してるが判別できないと思う。俗であることがそのまま非俗であるとしても、往相の生の煩悩や極悪深重が還相の性で払拭されるわけではない。他力も内包の生もまた煩悩にまみれている。ここでしか存在が存在それ自体に重なることはないとわたしは思っている。じぶんをじぶんにとどけることはそのことにほかならない。生も性も本来贈与としてある。ひとりでいてもふたりであるこの場所でおのずと浄土が歩く。(この稿つづく)

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です