日々愚案

歩く浄土185:交換の外延性と内包的な贈与16:吉本隆明の贈与論6

思考をインスパイアされる言説に出会うことはほとんどないが、ネットで見つけたユヴァルの動画には引き込まれた。なんだほぼわたしとおなじ世界認識をしている。以前読んだ『サピエンス全史』は刺激的だった。市民主義の人たちはユヴァルの言説の毒に耐えられないと思う。この本には、紀元前1776年のハンムラビの、目には目を、歯には歯をの法典と、アメリカ合衆国の独立宣言が、意識のしくみとしては変わるところがないと断言的に豊富な例をあげながら書いてあった。神経を逆なでするような発言に『サピエンス全史』は満ちていた。わたしはユヴァルの逆毛だつような発言の真意を直ちに理解した。宗教も国家も貨幣も虚構だと繰りかえしユヴァルは主張する。日本語訳では虚構のことを間主観的構造と書いてある。共同幻想のことだ。ユヴァルが吉本隆明の共同幻想という考えを知っていたとは思えない。独自に洞察したのだと思う。ユヴァルには未開から漸次社会が進歩していくという歴史観はない。読者は読むことによって心の安寧を手にすることができない。この毒が逆説的に読者を獲得したことにつながっている。ユヴァルは歴史に善悪を持ち込まず、世界は時代と共に遷移するとだけ言う。『言葉と物』で人間の終焉を宣言したフーコーに似ているし、フーコーの思考の系譜の正統的な継承者だと思う。斬新な思考はフーコーで終わりかと思っていたら、イスラエルから若いユヴァルが登場した。いまのところユヴァルの思想の核心はニヒリズムである。人間の終焉を宣明したフーコーが死の直前に主体は実体ではなく、真理は他性によってもたらされると言ったこともあるから、ユヴァルがこれからどういう思想の変遷をたどるかまだわからない。市民主義の善悪や倫理を一蹴するユヴァルの思考が、伊藤計劃の『虐殺器官』や『ハーモニー』の系譜に連なる新奇なものであることはまちがいない。

転形期の世界の混乱をビットマシンを核とする電脳社会が引き起こしているのは確実で、グローバリゼーションの真っ只中をわたしたちは生きている。この新しい世界システムに惑乱されて諸国家は一斉に内面化を始めた。国家は私物化され安倍一統がネポティズムに奔る。それはビットマシン社会に擾乱された精神的な退行だが、尋常でない安倍オカルトを批判する者らも追い詰められて天皇親政へとなだれ込む。どちらもおなじだけ後ろ向きになっている。法治から人治へだとか、世界の中世化と言われる。その理念的な錯誤についてはブログでたびたび指摘してきた。なぜこういうことが起きるのか。簡単だ。世界に対するビジョンがないからだ。いま世界で起こっていることの核心を見通せないと過去に桃源郷を求めるしかなくなる。そんなアホなことあるかいとイスラエルの歴史学者である若いユヴァルが発言する。世界の現状認識についてわたしと恐ろしいほど一致する。『サピエンス全史』につづく新作『Homo Deus』の一般向け公開インタビューで ユヴァルは思考の慣性を無視して無慈悲なことを言いまくる。インタビュアーも聴衆も顔を引きつらせる。とても痛快だ。

柄谷行人にもユヴァルと似た側面がある。意識の外延性にすぎぬとしても事態の核心を柄谷もつかんでいる。かれもまた思考の慣性を転倒しようと試みた。「イエスは、神や超越者や物自体といったものではない。彼は眼にみえ実在する、むしろみすぼらしく卑小な他者なのであり、そして、われわれにとって彼がキリストだと知ることが理論的には不可能であるような他者である」(『探求』Ⅰ)「キリスト=神人とは、超越者(無限なるもの)であると同時に人間(有限なるもの)である。この事実を受けいれたとたんに、″世界″は変容する。たとえば、平行線が無限遠点で交わると考えたときに、非ユークリッド幾何学が生じるのだが、平行性(交わらないこと)と交わりは字義上の矛盾である。しかし、非ユークリッド的世界では、平行性/交わりという対立がすでに意味をうしなっている。また、無限遠点で交わるということは、無限(限りないこと)/有限の対立が通用しないことを意味している。キリストが出現したこと、あるいはキリストを認めることは、いわば世界がユークリッド的な時空間から非ユークリッド的な時空間に変容することに類似している。この類推は私だけの思いつきではない。次章でのべるように、ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学に震撼させられたドストエフスキーは、平行線が交わるという無限遠点をキリスト教的な『終末』と対比させるのではなく、イエスという他者にこそそれを見出そうとしている(『カラマゾフの兄弟』)。また、彼は、『悪霊』のキリーロフに『入神』の思想を語らせ、入神によって世界は物理的に変容するといわせている。これは『神人』の裏返しにはかならない。キリストと同時に、世界は物理的に変容するといえば、奇妙にきこえる。しかし、無限遠点がヴィジブルであるような世界は、空想ではない。実際、非ユークリッド幾何学(リーマン空間)を導入したアインシュタイン以後の世界は、すくなくとも物理学的に変容したではないか。そして、この変容は、観察と帰納によってではなく、『無限』を実在としてみようとする十九世紀後半の数学者によって先導されたのである。ところで、キリストが実在するとすれば、世界は変容する。キリストを歴史上の人物としてみるかぎり、それは過去の話である。つまり、ユークリッド的な時空間においては、キリストはたんに『偉大な人間』にすぎない。しかし、まさにキリストの実在によって、この世界がいわば非ユークリッド的となるのだとしたら、キリスト(無限遠点)をユークリッド的な時空間(歴史)で考えることはできないだろう」(同前)

いま世界で起きていることについてユヴァルは語る。「ユヴァル・ノア・ハラリ:ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」(yahooニュース2017年7月18日配信)の見応えと読み応えのある下手な日本語訳から、その発言をわたしの関心に引き寄せて恣意的に切り貼りする。「基本的に何が起きたかというと、模範となるストーリーを失ったということです」というところからユヴァルの発言は始まる。「今世界では経済がグローバル化し、政治の自由主義化が進んでいる。これらが融合すれば 地上の楽園が生まれる。それには、とにかく、経済のグローバル化と政治システムの自由主義化を進めるべし。それで全て上手くいく」というものだったが、人びとはこの神話を信じなくなった。「今は人類史上最高の時代です。現在、人類史上初めて飽食による死が飢餓による死を上回っています。これは素晴らしい成果です。(笑)また人類史上初めて高齢による死が感染症による死を上回り暴力も低下しています。そして人類史上初めて自殺による死者の数が犯罪、テロ、戦争による死者の合計を上回っています。統計上は我々の最悪の敵は自分自身であるといえます。少なくとも世界中の人間の中であなたを殺す可能性が最も高いのはあなた自身であるということです。(笑)繰り返しますがこれはとても良いニュースです。(笑)前の時代に我々が目にした暴力のひどさに比べればです」。

「おそらく全く新しい政治モデルと政治に対する完全に新しい考え方が必要とされています」「この不均衡状態に対する基本的な解決策は2つあり、経済のグローバル化を停止し、国家経済に回帰するか、それとも政治システムをグローバル化するかのいずれかです」「我々は人間の『脊髄反射』を目の当たりにしている―つまり何かが上手くいかないと昔に戻ろうとするのです。世界中のどこを見渡してみてもこんにち政治体制側の人はほとんど誰も人類が進むべき道に関する将来を見据えたビジョンを持っていません」「人類史で初めて国が興された頃にさかのぼりましょう。それは数千年前のこと、中国の黄河沿いに住む人々は、実に多くの部族から成り、誰もが生存と繁栄を、川に依存していましたが、どの部族も周期的に起こる洪水や干ばつの被害を被っていました。どの部族にもそれを防ぐ手立てなどありませんでした。各部族はそれぞれほんのわずかな流域にしか手が及ばなかったからです。その後、長く複雑な過程を経て部族たちは合体して中国という国を建国し、黄河の全流域を制御するに至り、何十万という人々を集結させる力を備えダムや運河の建設や治水を行い、最悪の洪水や干ばつを防いで全ての人々にとっての繁栄のレベルを高めていったのです。同じようなやり方が 世界の多くの場所で成功しました。しかし21世紀に入り、技術によって全てが根本から変わりつつあります。現在では世界中の人々はネットという名の共通の河川沿いに住み、どの国をとってみても自らの力ではこの河川を制御できません」。

「世界で起きている主だった問題は全てが本質的に世界全体の問題であり、世界規模の協力が何らかの形でなければ解決することはできないのです。気候変動が直ぐに思いつく問題ですが、それだけでなく、私は『技術的破壊』の問題のほうが重大だと思っています。例えば人工知能は今後20~30年の内に数千万人の雇用を奪い、世界規模での問題となります。あらゆる国の経済に混乱をきたします。生物工学なんかも同様です」「農業革命で何が起きたかというと、飛躍的な技術革命と経済革命により人類全体が新たな力を得たわけです。しかし個々の人々の生活を見てみると、ごく少数のエリートたちの暮らし向きはとても良くなったの対し、大半の人々の生活は著しく悪化しました。同じようなことが21世紀にも起こり得ます。新しい技術が、人類全体に力を与えるのは間違いありません。しかし、またもやほんの少数のエリートたちが全ての利益や成果を享受し大多数の一般大衆の生活は悪化するのです。ごく少数のエリートよりずっと悪いのは確かなことです」。

「今の世の中では権限が人間からアルゴリズムに移されつつあり、より多くの意思決定―個人の生活に関するものや経済的なものや 政治的なものがアルゴリズムに取って代わられつつあります。銀行ローンの申し込みをすればその審査を行うのは人間ではなくおそらくアルゴリズムでしょう。一般的な印象からいえば、おそらくホモサピエンスは権限自体を失ったのです」「今現在良く耳にするアイデアは、『普遍的基礎所得』です。これには問題があります。取っ掛かりとしては良い考え方ですが問題点は『普遍』の定義も『基礎』の定義も不明確であることです。『普遍的基礎所得』と言うとき多くの人の頭にあるのは『国民の基礎所得』なのです。しかし問題は世界規模です」「例えば人工知能や3Dプリンターがバングラデッシュで我々のシャツや靴を作っている人たちの何百万という雇用を奪っています。では何が起こるのでしょう? アメリカ政府がカリフォルニアのグーグルやアップルに課税し、それを職を失ったバングラデッシュ人の基礎所得に充てるのでしょうか? そんなことを信じるのはサンタクロースがやって来て問題を解決してくれると信じるようなことでしょう。『国民の』ではなく真に『世界的』な基礎所得を設定しなければこの根深い問題は解決しません」「まだ誰も世界政府のモデルを持っていないのです」「2040年、2050年の雇用市場がどうなっているか、誰も本当のところは知りません。新しいタイプの仕事が創出される可能性だってありますがそれは確かではありません。たとえ新たな仕事が現れても自動運転車のせいで失業していた―50歳の元トラック運転手に簡単にできる仕事とは限りません。例えば失業中のトラック運転手が仮想世界のデザイナーとして再起を図るのは困難でしょう」。

「現代の科学において最も興味深い疑問は意識とは何か、心とは何かということです。脳と知能に関する我々人間の理解はどんどん深まっています。しかし心と意識に対する理解は進んでいません。人々は知能と意識を混同しがちです。特にシリコンバレーの人たちはそうです。無理もありません。この2つは人間の精神内に共存するものだからです。知能とは基本的に問題を解く能力であり、意識とはものを感じる力―喜び、悲しみ、倦怠、痛みなどを感じる能力のことです。ホモ・サピエンスも他の哺乳類も―人類に限ったことではなく―全ての哺乳類、鳥類と幾種かの動物は知能と意識を併せ持っています。しばしば我々は物事を感じることで問題を解決するので、この2つを混同しがちですが、異なるものなのです。こんにち我々はシリコンバレーのような場所で人工知能を作っていますが、人工意識を作っていはいません。過去50年にコンピュータ知能の分野は目覚ましい進歩を遂げてきましたが、コンピュータ意識の進歩は全くのゼロです。近い将来コンピュータが意識を持つようになるという気配は一向にありません」。

「真に重要なことは苦悩から自らを解放することです。知覚力をもった生き物を、ロボットや石、その他のものから際立たせているのは知覚力を持った生き物は苦しみを感じ得ることです。そのような生き物が力を注ぐべきなのは神秘的な宇宙のドラマに自分たちの居場所を探すことではなく、苦しみとは何かを理解し、そしてその原因とそこから解放される方法を考えることなのです」「科学者として、また一個人として、私にとっておそらく最も重要な問題は、虚構と現実をどう見分けるかということです。現実はそこにあるのですから。私も全てが虚構とは言いません。人類にとって虚構と現実を見分けることはとても難しく、歴史を積み重ねるほどに難しくなる一方です。なぜなら 我々が作り上げた虚構―つまり国家、神、貨幣や会社が今や世界を支配しているからです。だから『この世は全て我々が作り出した虚構に過ぎないのだ』と考えることさえとても難しいのです。しかし現実はそこにあります」。

「私にとって最善の虚構と現実の違いを見分ける方法はいくつかあります。もっとも簡単で最善の方法は一言でいえば『苦しみ』を使った検証です。苦しみがあれば実在するもので、苦しみがなければ実在しません。国家は苦しまないので実在しないことは明らかです。国家が戦争に敗れて『ドイツは第一次大戦での敗戦で苦しんだ』と言ってもそれは比喩に過ぎません。ドイツは苦しむことはできません。心がなく意識もないからです。ドイツ人が苦しむことはあってもドイツにはあり得ないことです。同様に銀行が破産しても銀行は苦しみません。ドルの価値が低下してもドルは苦しみません。人間も動物も苦しむので実在するものだと言えます。ですから現実を見たい場合、まずは『苦しみ』を入り口にすると良いと思います。苦しみとは何なのか。真に理解できればそれは現実とは何かを理解するためのヒントにもなるでしょう」「繰り返しになりますがホモ・サピエンスの生物学的な真実を起点にすべきだと思います。生物学の視点で見ればこの問題に非常に関係の深い2つのことが分かります。まず我々は周囲を取り巻く地球のエコシステムに完全に依存していて、今日、この場では地球規模のシステムの話をしています。この話題は避けられません」。

「もっと詳しく言えば体そのものから始めることです」「過去数百年で人々は力を失ってきています。それは体との繋がりを保ち、感覚も働かせて聴き、嗅ぎ、感じる能力です。人類はますます画面の中、つまり別の時間に、別の場所で起きたことに気を取られる一方です。このことが疎外感や孤独感といったことの深層にある原因であり、それゆえに 解決方法の1つは大衆の国家主義を取り戻すことではなく、我々の意識を体と再び繋げることであり、体に再び繋がりさえすれば、グローバルな世界に置かれてもずっと心地よくいられるでしょう」「歴史というものはひどく不公平です。我々が認識すべきことです。過去2百年の間にグローバリゼーションや帝国主義、産業化により最も苦しんだ国の多くはまさに次なる変化の波によっておそらく最も苦しむ国となる―確率が最も高い国です。このことをはっきりと理解しておかなければなりません。もしグローバル・ガバナンスがないまま気候変動や技術革新が問題を起こした場合最大の影響を被るのはアメリカではありません。最大の影響を被るのはガーナ、スーダン、シリア バングラデッシュといった国となるでしょう」「それが環境要因であれ技術的要因であってでもです。今一度 技術的破壊の話をすると、人工知能、3Dプリンターやロボットが数十億人の人々から仕事を奪うことについてはスウェーデンへの影響よりもガーナやバングラデッシュへの影響のほうがずっと懸念されます。ですから歴史とはとても不公平であり、大惨禍の被害も全ての人に等しく起こるわけではないので、いつものように 気候変動の最悪の結果を金持ちは逃れられますが、一方貧しい人々は同じ方法で避けることはできないのです」。

「次のステップは内なる世界に目を向けることです。外的環境の制御では自分は満足できないことをまずは認めるのです。そして内なる世界の制御を試してみましょう。これは21世紀の 科学、技術と産業にとっての壮大なプロジェクトとなります。体と脳と心をエンジニアリングし作り上げていく方法を学んで内なる世界の制御を得ようとすることです。それが21世紀の経済の主な生産物となることでしょう。人は未来への希望を語るときこんな考え方をしがちです。『自分の体と脳を自由に制御したい』これはとても危険な考えです」

もうこれくらいでいいだろう。ユヴァルの発言を5分の1に圧縮して貼りつけた。ああ疲れた。おおよそ発言の要旨は網羅していると思う。解決を望まれるほとんどすべてのことがユヴァルによって言われている。貼りつけた引用の最後で天然自然である人間の身体は21世紀の産業として商品になることが言われている。生物学的な身体の加工だ。ユヴァルの方法で心身を最後のひとかけらまで商品にするグローバリズムを拒むことはできるだろうか。ユニクロの世界同一労働同一賃金をおかしいということはできるだろうか。かれ自身が普遍的基礎所得と国民の基礎所得には乖離があり、論理そのものの定義ができていないと発言している。そのとおりだ。ではユヴァルの理念によって、現実と虚構を判別することはできるだろうか。ユヴァルの思想全体を現実と虚構という二元論が貫いている。かれの主観としては「苦しみ」を媒介にして心と身体のバランスがとれるのではないかという希望がある。ユヴァルのこの理念はマルクスの人間の営みを自然史に還元するという思想にも通じる。「対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的な存在であり、自分の苦悩を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。・・・歴史は人間の真の自然史である」(『経済学・哲学草稿』)マルクスとおなじようにユヴァルもまた、解けない主題を解けない方法で論じているように思える。なぜこういうことがくり返されるのか。ユヴァルが歴史の進歩史観を突き崩そうとしていることは充分に理解している。虚構と現実の違いを見分ける最善の方法は「苦しみを」使った検証だとユヴァルは言う。「苦しみがあれば実在するもので、苦しみがなければ実在しません。国家は苦しまないので実在しないことは明らかです」。確かにそのとおりだ。わたしは、現実と虚構の乖離を観察する理性は解くことができないというところから内包論を始めている。苦しみを入り口とした現実の復権そのものが虚構なのだ。意識の外延性はどうしてもそうなる。主観的な意識の襞にある信が共同化されるからだ。どうやればこの隘路からまぬがれるのか。わたしはふたつあると考えている。ひとつは意識の外延性によらず、存在をひらく方法だ。意識の内包的な表出で外延的な意識を包んでしまうということだと思っている。総表現者のひとりとしてじぶんを生きることになる。なにを生きるのか。根源の二人称を生の原像として生きるのだ。内包はユヴァルが主張する「ホモ・サピエンスの生物学的な真理」とはなんの関係もない。心も意識もまったく解明されていない。然り。この心と意識を体という手触りのあるものに結びつけて、苦しみを入り口にして生物学的な事実を取りだそうではないか。ユヴァルはこのように提言する。

ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根差していると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は二つの性と三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けられている。それぞれの性と階級の成員の価値はみな違う。女性の一般自由人の命は銀三〇シェケルに、女奴隷の命は銀二〇シェケルに相当するのに対して、男性の一般自由人の目は銀六〇シェケルの価値を持つ。この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完壁に公正に思えた。ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の一〇〇万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。

ハンムラビの死の約三五〇〇年後、北アメリカにあった一三のイギリス植民地の住民が、イギリス王に不当な扱いを受けていると感じた。彼らの代表がフィラデルフィアの町に集まり、一七七六年七月四日、これらの植民地はその住民がもはやイギリス国王の臣民ではないと宣言した。彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの神によって定められた最も重要な原理は、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」。アメリカの礎となるこの文書は、ハンムラビ法典と同じで、もし人間がこの文書に定められた神聖な原理に即して行動すれば、厖大な数の人民が効果的に協力して、公正で繁栄する社会で安全かつ平和に暮らせることを約束している。ハンムラビ法典と同様、アメリカの独立宣言も書かれた時と場所だけに限られた文書ではなく、後に続く世代にも受け容れられた。アメリカの児童生徒は二〇〇年以上にわたって、この文書を書き写し、そらんじてきた。これら二つの文書は私たちに明らかな矛盾を突きつける。ハンムラビ法典とアメリカの独立宣言はともに、普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしているものの、アメリカ人によれば、すべての人は平等なのに対して、バビロニア人によれば、人々は明らかに同等ではないことになる。もちろん、アメリカ人は自分が正しく、ハンムラビが間違っていると言うだろう。当然ながらハンムラビは、自分が正しくアメリカ人が間違っていると言い返すだろう。じつは、両者はともに間違っている。ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない。私たちにとって、「上層自由人」と「一般自由人」という人々の分割が想像の産物であることを受け容れるのはたやすい。とはいえ、あらゆる人間が平等であるという考え方も、やはり神話だ。いったいどういう意味合いにおいて、あらゆる人間は互いに同等なのだろう? 人間の想像の中を除けば、いったいどこに、私たちが真に平等であるという客観的現実がわずかでもあるだろうか?(『サピエンス全史』)

奴隷と自由人を貨幣によって分別する法理が古代バビロニアの時代を生きた人たちの基本的人権であり、生存権であったのだ。おそらく人びとはこの法理を、近代の人権の理念とおなじように、自然として受け入れていたと思う。意識のありようとしてはまったく同型である。明晰さと迷妄の時代はいつの時代も変わらない。変わるだけ変わって変わらないものがあるか。根源の二人称は存在の普遍としてある。強いAIがどれほど強靱になろうと、意識の謎を解くことはない。そのことは「心と意識に対する理解は進んでいない」とユヴァル自身が認めている。生物としての人間に苦しみがあることも認めている。苦しみを媒介に心と体をつなごうではないか、と。どんなにあがいても意識の外延性はこの矛盾を解くことができず、一気に精神の古代形象に憑くことになる。「我々は人間の『脊髄反射』を目の当たりにしている―つまり何かが上手くいかないと昔に戻ろうとするのです」。脊髄反射とは生体の防御反応のことである。この身体性の起源はそれが人類史と言っていいほどにとても古い。わたしはユヴァルの思想の方法である生物学的真実の追究は、現実と虚構を腑分けする新しい虚構として現実を追認することにしならないと思う。それこそが内省と遡行という意識の外延表現なのだ。外延表現によって新しい現実をつくることは先験的にできない。ユヴァルの思考法が機能主義的なのは表現という概念が欠落しているからだと思う。機能主義的に歴史を記述しようとすれば共同幻想のさまざまな層は、生物学的には平等も権利などというものはないものとされ、どこにも実在しない虚構ということになる。どうして人間という驚異の出来事が生物学に還元されなければならないのか。ユヴァルはアメリカ合衆国の独立宣言を生物学的に読みかえる。「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる」(同前)これもまた共同幻想にすぎないではないか。

ユヴァルが生物学的に読みかえた独立宣言は人類史発祥以来の適者生存という世界の無言の条理をそのままなぞったものである。万人は異なった形で進化し、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、進化と特徴のなかに生命と快感の追求が含まれる。人間には出来不出来があるから万人はそれに応じて快感を実現することになるとユヴァルは言う。いままでの人類史となにも変わらないではないか。ハンムラビ法典の時代はバビロニアの王と王を補弼する司祭階級が衆生の生を分割統治し、歴史の近代以降も知識階級が衆生の自由と平等を差配することになる。西欧近代は人格を媒介に自由と平等を人びとに付与したが、ビットマシン社会の世界システムは人格を媒介にせずに一人ひとりの生に直接介入するしくみを
摑取した。人類は意図せずに新しい時代に突入したということだ。欲望はいつも他者の欲望の投影であるから、「自分の体と脳を自由に制御したい」という欲望は世界システムが開発する欲望で、人びとはこの欲望を自己の欲望であるように欲望する。見事な共同幻想である。この自然を受け入れることで自発的に人びとは世界システムの属躰となるわけだ。薄ら寒いシステムが商品として提供する自然のはるか手前に根源の二人称という内包存在ある。

ユヴァルの胸裏に人類はさまざまな虚構をねつ造し、さまざまな虚構が遷移していくだけであり、人間の真をいうものはなにもないというニヒリズムが潜んでいる。ほんとうはユヴァルの生の当事者性の問題が解明されていないことだと思う。科学者としての発言は観察する理性によるお節介で、このお節介はこの世の条理を追認することにしかならない。この手の知はもうふるすぎる。総表現者のひとりとして固有の生を生きるなかにしか未知はない。なぜこの世はこうでしかありえないのか。同一性に身を寄せたわたしたちの生が生を苛んでいるからだ。神仏や往相の生のすぐ手前に豊穣な生がリアルなものとして存在している。この未知はビットマシン社会が改造する生のなかにはない。ユヴァルの思想は意識の外延性が必然的に招来する矛盾を内省と遡行という意識の形式で順延するだけである。〔ことば〕を生きている稀な詩人がいる。彼女の詩は内面を突きぬけてこの世の果てにある未知へと到達している。人間という現象を生物学的事実に還元して得られる快感の追求という条理を鮮やかに拡張する珠玉の生がある。

<たくさんのビスケット>

たくさんあるから はんぶんあげるね
はんぶんになっても まだたくさん
まだあるから はんぶんあげるね
すこしへったけど まだあるから
そのまたはんぶんあげるね
とうとうあとひとつになってしまったけど
それでもはんぶんにわってあげるね
つぎにきたこには もうわけてあげられないからのこったはんぶんの ビスケットをあげるね
ぜんぶあげちゃったけれど
ビスケットとおなじかずの
やさしさがのこっているよ
(堀江菜穂子『いきていてこそ』)

ユヴァルさん、あなたの寒いりくつは若い詩人の詩に完全に負けとるよ。堀江菜穂子さんの詩は果てのないなぜを超えて〔ことば〕が生として屹立している。同一性の手前にある〔ことば〕が言葉が言葉を生きるということであり、ここで生はおのずと浄土を歩く。もういちど言うけど、ユヴァルさんの完敗です。

    2

<たくさんのビスケット>を半分子どもにあげるとき、ビスケットよりチョコレートがいいと言われたらどうする。ビスケットをチョコレートに交換してもらい、そのチョコレートを子どもにあげる。贈与は交換に変形される。そこで「贈与とは遅延された形而上的な交換」であるを考えてみる。言葉遊びだと思う。交換はべつの交換に変形できるとしか言われていない。個人があり、たくさん集まって社会ができるというとき、人間は社会的な存在になるが、そこでは使用価値と交換価値が価値の基軸となる。この価値判断の世界で贈与が贈与として、あるいは贈与が変形された交換が生じることはない。人間の私性をそういうものだと考えても世界はひろがらない。人はなぜ財貨や糧食をめぐって殺戮や愚考をくり返すのだろうか。二十歳の頃そんなことを考え、あっという間に50年近くがすぎた。いまも変わらずこの問いはわたしのなかにある。なぜ人は奪い合うのか。万感の書のどこにもなにも書かれていない。ここに一個のパンがあり、大半の者が飢えているとする。そのときさまざまな事情でそのパンを獲ろうとする。わたしたちがつくってきた自然の、あるいは思考の慣性の根深さがここにある。飢えを充たすために個人の行為を否定することはできない。聖道門の宗派が我執を捨てよ、脱自と空念仏を唱えるだけである。念仏が人間の極悪深重を前提としている。できもしないことを心がけでなくせという。ところがここに<いけないことをしてみたい>という不思議な詩がある。「わたし/いままでのじんせいでいちども/じぶんのいしで/いけないことをしたことがない/つみのいしきにさいなまれる/けいけんがしてみたい/いけないことをいけないと/わかってやるとは/どういうことだろうか?/してみたいけど かなわない/しかたがない」おのずから善であるしかない生が描かれている。内心の咎を経験してみたいと作者は書く。往相の生ではその逆のことばかりだ。ありのままを作者は書いていると思う。<たくさんのビスケット>もそうだが、半分あげて、その半分をまたあげたら、一枚になり、その半分のかけらがなくなったら、なくなってしまう。なぜこういう心ばえが若い女性の詩人に起こるのだろうか。詩を読むかぎりはからいはない。そうなってしまうとしか読めない。「<せかいのなかで>」も面白い。「このひろいせかいのなかで/わたしはたったひとり/たくさんの人のなかで/わたしとおなじ人げんは/ひとりもいない/わたしはわたしだけ/それがどんなに ふじゆうだとしても/わたしのかわりは だれもいないのだから/わたしはわたしのじんせいを/どうどうといきる」

「わたしはわたしだけ」なのに少しも窮屈ではない。「わたし」がその「わたし」であることのなかに、一切のなぜが消える不思議が作者の生に起こっている。生の不全感のかけらもない。「それがどんなに ふじゆうだとしても」のなかに百億の夜が千の閂を掛け、その果てに彼女の生に不思議が忽然と生じた。他力が彼女をよぎったのだと思う。だれかひとりでもこの世に自力のはからいで生を承けた者がいるか。こう問うてもいい。自力のはからいではなく承けた生があるとしてその生が自己のものであるとだれが言ったのか。生誕のありようを意志によって選択することができたか。わたしたちはだれもが意志とは関係なく名づけられる。このすべての過程に自力も意志も関与できない。それにもかかわずなぜ自己を自己を所有することができるのか。人類史がねつ造した神話である。精神の古代形象としていえば、人類の初期、名状しがたいなにか熱いひとかたまりがあって、いくつかのかけらにわかれ、ひとかけらの心身一如が熱いひとかたまりを分有することになった。それが「わたし」という同一性だ。同一性はあまりの熱さに身を焼かれ、生を言祝ぐように受動として引きうけられた出来事だと思う。生誕がそうであるように、生もまた一方的に受動性としてある。そのことを親鸞は他力と言っている。ほんとうはとてもかんたんなことなのだ。わたしたちの知る歴史によれば「私」が「私」に回帰するには神仏のはからいという媒介がいる。この媒介なしに「私」が「私」であることはできない。「私」は神仏のはからいによって「私」になることしかできない。神は死んだとニーチェは言ったが、どうなるか。生の不全感を埋めるものはなにもないようにみえる。「人間はおのれの日常の暮らしを、それが消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている。それが消えると、生から突然あらゆる価値、意味、あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、が奪われる。単なる生存-と人の呼びたくなるもの-がそれだけではまったく空疎で荒涼としたものであることを人は突然悟る。まるですべての事物から輝きが拭い去られてしまったかのようになる。すべてが死んでしまう」(ヴィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』)自己という現象の手前に自己に先立つ超越がないとしたら、わたしたちのちいさな自然は在るのざわめきのなかに絶海の孤島のよう浮かぶことしかできない。そこにはなにもない。この精神の延長系をユヴァルは生きている。若い詩人はどうだろうか。彼女は自分の人生を堂々と生きている。なぜそういうことか可能なのか。彼女は彼女の譲渡不能で固有の生に掛けられた閂を外したからだ。なぜそのことが可能となったのか。生の根柢にある根源の二人称を「わたしはわたしだけ」として生きているからだと思う。だから堀江菜穂子さんはひとりでいてもふたりである。生はいつも贈与として生きられる。そのほかではない。若い詩人はそれと知らずに内包存在の深奥にある還相の性を生きているのだと思う。(この稿つづく)

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