日々愚案

歩く浄土167:情況論54-Live in FUKUOKA 2017.4.14 (Part 3)

3 総アスリートという自然

片山 以前に森崎さんが、現在の世界のありようを「総アスリート化」という言い方で粗視化されたことがあって、ぼくたちのあいだではすっかり定着した言いまわしになっているのですが、確認の意味で初出の森崎さんの発言部分を引用しておきます。

 世界の富の偏在や格差を問題にする際に、ぼくらはよく一パーセントと九十九パーセントという言い方をするけれど、プロのアスリートや芸能人の世界はとっくにそうなっているわけじゃないですか。そして社会の実態もそうなりつつある。国家という枠組みのなかで保障されてきた諸権利がすべて弱肉強食によって淘汰されていき、社会全体が一パーセントの富裕層と九十九パーセントの貧困層に分離しつつある。大多数の人は貧困で非正規雇用というのが常態になる。(連続討議『歩く浄土』第三回「喩としての内包的な親族」)

 いま読んでも鋭い指摘です。この本が電子出版されたのは2016年3月ですが、実際にぼくたちが話をしたのは2015年の秋だったと思います。そのあと森崎さんは「総表現者」という概念を出してこられて、世界の趨勢が総アスリートへと向かうのなら、ぼくたちは総表現者で迎え撃とうということで現在に至っています。総表現者というのは非常に大きな可能性をもつ概念だと思っているのですが、その話へ行く前に、総アスリート化ということを、もう少し補足して説明しておきます。
 繰り返しになりますが、サッカーでも野球でも、プロのアスリートの世界では年俸数億という高額な所得を得る人がいる一方で、数百万の選手たちもいる。そっちのほうが数としては圧倒的に多い。芸能人の世界などもそうですね。つまり一%の富裕層と九九%の貧困層、彼らの世界ではとっくにそうなっている。これが誰にとっても現実になる、というのが人類総アスリート化ということです。70億の人類が半ば強制的に、否応なしにアスリートとして編成されつつある。インフラとしてのインターネットの普及が大きいわけですが、たとえばワインメーカーが新しいワインを出すので、そのラベルのデザインを発注したい。そこでインターネットでデザインを募集する。いろんな人がエントリーしてきます。海外のデザイナーも参入してくるでしょう。こんなふうにネットを介して一つの仕事を世界中の人たちに発注できる。あらゆる業種で同じようなことが起こってくる。ユニクロの柳井正などが言っている世界同一労働・同一賃金ですね。インターネットというインフラを装備したグローバル経済は、世界中の人々を競争相手にしてしまう。
 ある意味では公平です。イチロー選手や錦織選手が超一流の野球選手やテニスプレーヤーになれたのは、彼らの身体的な能力が傑出していたからで、それ以外の理由はありません。ボルトやロナウドもそうです。力がすべて、能力がすべてで、性格や人格は関係ない。また、どんなハンディもアドバンテージもない。パフォーマンスだけで評定され、成績だけで世界何位というふうに序列化される。問題は、アスリートの世界で勝ち組になれるのはほんのわずかだということです。多額の年俸や賞金を手にすることのできる人たちは70億の人類からするとごく一部で、大部分は貧困化する。最新の報告では、世界でもっとも豊かな8人が、世界の貧しいほう半分の36億人に匹敵する資産を所有しているそうです。すさまじい格差と言うしかありません。グローバル経済の下では適者生存の原則が冷酷に貫徹していくので、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなることが避けられません。
 こうした状況のなかに、国家もまた投げ込まれている。国債の格付けなんかあからさまですが、様々な指標によって各国がアスリートのように序列化される。国際社会のなかで位置づけられる。それにたいして国を閉ざすという内面化が起こり、さらには国家自体がメルトダウンしつつある、というのがぼくらの見立てです。
森崎 帰趨は明らかだと思うんです。ぼくはビットマシン社会と呼んでいますが、あらゆるものをオンとオフの二進法によって計測計量する社会システムですね。スマホに国境がないように、二進法は易々と国家を超えてしまいます。存在感を奪われていく国家は、身を屈めて内面化することで耐えようとしている。しかしビットマシン社会は人間の観念の遠隔対象性によって実現されたものですから、人為によって押しとどめることはできません。グローバリストはこの流れに乗って蓄財します。超富豪にはなり得ない富豪のトランプは、自らの私利と私欲に駆られて落ちぶれた白人を人質にとり、ビットマシンのもたらした世界交通に挑んでいる、というのが現在の世界の構図だと思います。もちろんトランプや安倍の側に勝ち目はありません。それはそれで結構なことですが、一方で世界の大半は窮乏し人々の生活は逼迫する。先ほど片山さんが言われた、8人による36億人分の富の収奪みたいなことが起こってくる。ビットマシン社会の適者生存の条理は人々をCEOと非正規雇用に分別します。この世界図式では、人々は総アスリートとして生を曝されることになります。生の牧歌性はどこにもありません。ハイパーリアルな生存競争のなかで、システムの属躰となるほかない。
片山 「属躰」というのも、ぼくたちの討議ではかなり頻繁に使われるタームですね。出典はアン・レッキーの『叛逆航路』(創元SF文庫)です。小説のなかでは、一人の司令官の人格を転写された何千体もの生体兵器が「属躰」と呼ばれています。いま話している文脈で言うと、グローバル経済の価値観や倫理観をそっくり転写された「自己」を万人が生きるようになるってことですね。
森崎 心の不調があると病院で診察を受けていろんな薬をもらいます。健康診断や人間ドックで精密検査をすれば病気はいくらでも見つかります。脅迫と一体化した善意によって患者は易々と命を預ける。この強度はアスリート化が進むことでさらに強まるでしょう。生誕から死までが生権力のシステムとして制度化されていくと思います。
片山 先日の新聞に、三歳児検診で肥満予防のため病院へ行くように言われたという話が出ていました。体脂肪率と相関するBMI(体格指数)が上昇したということで、「肥満ハイリスク群」として引っかかったらしいのですが、こんなふうに生活習慣病予防という名目で医療が子どもや幼児に介入する例はさらに増えそうですね。
森崎 小学校ではガンの早期発見・早期治療を子どもたちに教えているそうです。
片山 ぼくもネットの記事で読んだことがあります。市の保険課みたいなところが小学校へ出向いて、年に一回はガン検診を受けましょうと啓蒙啓発する。
森崎 雇用を破壊するAIとの熾烈な競争を勝ち抜こうとしてゲノムも編集されるでしょう。人類の強制的な総アスリート化という現実があり、這い上がるためにはレースに出走するしかない。この流れのなかで人々はコストパフォーマンスのいい身体への改変を望みます。剥き出しの生存競争のなかでは他に選択肢がないからです。
片山 先ほどから名前が出ているミシェル・フーコーは、1966年に刊行された『言葉と物』の末尾で、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」と、人間の終焉をセンセーショナルに唱えましたが、それが現実になろうとしている。文字通り「人間」という概念は終わりかけている気がするんです。近代のもたらした自由な主体としての「人間」が終わりかけている。この世界に個人の自由な意志が入り込む余地がなくなっている。自由気儘に自分の人生を生きるということが、どの国においても難しくなっている。
森崎 ぼくは世界が地殻変動を起こして液状化していると理解しています。世界の地殻変動のなかで、一人ひとりの生が総アスリートして再編成される。抜け道はありません。こうした現実のなかで日本を近代化できるかどうか問うても不毛です。いま、この国は急速に戦時下に突入しています。リベラルな人たちは思考停止して事態を座視することになります。彼らにはなんの世界構想もないからです。少し前まで民主主義の使いまわしを言っていた人たちが、いまは天皇親政へと内面を退避させています。教育勅語を批判している人たちが平成天皇を敬愛し、生前退位の問題に心を痛めている。それが日本という国です。この国は近代にはなれないのです。なれないままグローバル経済やテクノロジーに制圧される。そう考えたほうがいい。国破れて山河ありという牧歌はすでにないにもかかわらず、それを補うものとして天皇親政のようなものが残りつづける。この国に固有のアジア的な心性は、生権力が生を管理することを花鳥風月のように受けいれるでしょう。総アスリートという現実は、新しい自然として受容されていくことになると思います。
片山 とは言っても、この現実の息苦しさ、閉塞感は相当なものです。擦れっ枯らしのぼくらでも鬱屈した気分になるのですから、若い人たちの絶望感はさらい深いはずです。
森崎 結局、構想力がないことが人々を絶望に陥らせていると思うんです。どうすればいいのか。誰も処方箋を持ち合わせていない。だから現実に合わせていくしかない。現にある世界のなかで生き延びるしかない。他にやりようがない。そのことの絶望感だと思います。民主主義を使いまわすことで太刀打ちできるようなことではありません。民主主義とアスリートの世界は相性がいいんです。すんなり移行できる。「ぼくらの民主主義なんだぜ」と言った時点で、すでに現実に負けている。負けても勝っている思想をつくることによってしか、いま進行している事態に対抗することはできないと思います。
片山 構想力がないというのは、グローバリズムにかわる新しい理念がないってことですね。
森崎 そうです。いま現実を動かしているのはグローバリズムですからね。そしてグローバリズムを支えているのは貨幣とテクノロジーです。民主主義は貨幣とテクノロジーの属躰として、いくらでも延命していくことができます。だから民主主義を擁護しても現実をなぞることにしかならないのです。現実をなぞっても現実に勝てるわけがない。グローバリズムの猛威に曝されて国家は内面化し、さらに私物としてメルトダウンしようとしている。同様に、貨幣とテクノロジーという現実に引っ張られて、生きていることが平板になっている。生に厚みや膨らみ、余韻がなくなっている。生そのものが貨幣とテクノロジーの属躰になり、さらに記号化されて自然そのものへと還元されようとしている。なぜこうなってしまうのか。人間がそういう自然しかつくり得ていないからです。貨幣とテクノロジーという現実のなかで身の丈を合わせて生きるようにしか、人間という概念はつくられていないのです。
片山 たしかに貨幣とテクノロジーは、その汎用性や普遍性において目下のところ地上最強です。レンジでチンするとお酒の燗がつくという圧倒的な説得力の前には、イスラム教徒だって平伏するしかない。まあ、彼らはお酒を飲まないから、燗がつくぐらいでは平伏しないかな。
森崎 貨幣も国家と同様に共同の幻想ですが、貨幣の価値のほうが生の自然的な基底としては普遍性があります。国家という精神風土には貨幣ほどの汎用性がない。
片山 ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』のなかで書いているように、貨幣は人類が生み出した最大最強のフィクションと言ってもよさそうですね。ユヴァルは「共同主観的現実」という言い方をしています。「物質的現実」ではなく「心理的概念」であると。過去の歴史において様々な時代に様々な場所で生み出された貨幣は、石や貝殻や金属など様々な物質を素材としていました。つまり貨幣の価値はほとんど物質には依存していないってことですね。紙幣を使うことは、ぼくたちを辛うじて紙という物質的現実につなぎとめてくれますが、電子マネーになると要するにデータであり、もはや貨幣は物質でさえない。ユヴァルによると、2006年に全世界の貨幣は合計約473兆ドルで、そのうち硬貨と紙幣の総額は47兆ドルに満たないそうです。なんと9割以上の貨幣は、コンピュータのサーバー上にだけ存在したことになる。なぜ、こんなことが起こるのかというと、この惑星で生きている大半の人たちが貨幣というフィクションを信じているからです。貨幣にたいする信仰は、どんな宗教よりも強力で普遍的である。宗教的信仰にかんして同意できないキリスト教徒とイスラム教徒も、貨幣にたいする信頼という点では同意できる……といった具合に、ユヴァルは身も蓋もないことを言っているわけですが、とても面白い本でしたね。
森崎 人類にとって最大の共同幻想が貨幣であることは間違いありません。アメリカ、日本、北朝鮮はそれぞれ別個の共同幻想ですが、ドルはアメリカ人も日本人も北朝鮮の人たちも欲しがる。
片山 星条旗を信奉しているアメリカ人も、金正恩を信奉している北朝鮮の人も、お金には弱い。
森崎 国家という共同幻想よりも貨幣という共同幻想のほうが強烈なことは明白です。それにテクノロジーですね。ISのテロリストたちもスマホやインターネットの恩恵を受けている。テクノロジーの説得力は宗派や民族を超えてグローバルです。貨幣とテクノロジーが結びついて地球規模の共同幻想をつくり上げている。これが現在の世界のあり方だとすれば、それを超えるものを構想できるかどうか。
片山 ぼくたちは可能だと思っているわけですね。つまり負けても勝っている。(Part4につづく)

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