日々愚案

歩く浄土166:情況論53-外延知と内包知5:親鸞との架空対談

親鸞 送ってきたこの文章はパソコンのワープロで書かれたものか。
森崎 どうしてご存じですか。
親鸞 パソコンくらいはこちらにもあるぞ。ブラインドタッチは下手だけどな。ところでおまえはニーチェという西欧人の子分か。
森崎 いえ、ニーチェはわたしの子分のようなものです。親鸞さんとおなじ日本人の吉本隆明という人の親鸞論をよく読みました。
親鸞 評判はこちらにもとどいておるぞ。ところでおまえはわたしの考えに不満があるらしいな。読んではみたがわかりにくい。なにが言いたいのだ。もうすこしわかりやすく話をしてくれ。
森崎 おなじことを吉本隆明さんにもむかし言われました。いつか親鸞さんとお話ししたいと思ってきましたが、向こうにおられるのでなかなかその機会がありませんでした。こちらには親鸞さんの書いたことやしゃべったことは少ししかのこっていません。マルクス・エンゲルス全集とか吉本隆明全集は多くありすぎるのです。以前からいつかお会いする機会があればお訊きしたいことがいくつかありました。自力と他力を隔てる契機について歎異抄で言っておられますね。
親鸞 ああ、あの唯円房か。かなりはしょって書いてあるようだな。
森崎 そこです。人はきっかけがあれば千人でも殺しうる、きっかけがなければ一人も殺せぬ、とおっしゃっています。あれは殺す側の理屈を言ったもので、殺される側のりくつではないですね。非僧非俗を理解することのできない青びょうたんの文化人向けに言ったことなのですか。
親鸞 そうだ。おれは殺される側についても言っておるぞ。伝わっていないのか。
森崎 歎異抄には書いてありません。なぜ殺す側のへりくつばかり言うのか不満でした。そのことはいまは脇に置いておきます。正定聚とか悪人正機とか自然法爾とかお訊きしたいことはありますが、他力という親鸞さんの思想の神髄についていちばんお訊きしたいです。この国ではいまも親鸞さんの考えをすきな人がたくさんいます。親鸞さんはご承知でしょうが、他力を身につけるのは難しいですね。たいていは他力という自力になります。こっちでもの書きをしている五木寛之さんは親鸞さんについて幾冊もの本を書いてますが、他力をなぞりながら自力になっています。親鸞さんの時代でもなかなか伝わりにくかったのではないですか。
親鸞 たしかに他力を覚知するものはすくなかった。わたしはかんたんなことしか言うてないが、かんたんすぎてみな心許なくなったんではないかな。善人は修行をするのがすきで身をやつしていないと安心せんのだろう。自力廻向はおまえの時代では民主主義に励むということになっておるな。どうでもいいことなのにな。非僧非俗もかんたんなことだが、わかるやつはすくなかったな。なにも特別なことをいっているわけではない。おまえの時代では文化人と呼ばれているものにいちばん伝わらんな。そう、そう、わたしの他力のどこに不満があるのか。きかせてくれんか。じつは他力について考えのこしたことがあるとわたしも思っている。まだつづきがあったけど、お迎えがきたのでそのままになっておる。
森崎 他力では他力の信をぬくことができないと思うのです。他力も他力という信ですから。自力廻向でないのはよくわかります。でも他力の信をぬく信がないと他力は成就しないのではないですか。親鸞さんはそのことを承知していますよね。他力には字余りがあって結句していないように思います。そのあたりどうですか。
親鸞 いきなりそこにきたか。たしかに他力の念仏者の集団は他力の信による共同性をつくることになるな。他力の覚者はそれぞれが他力を生きているので、群れておるわけではない。ばらばらで生きている。他力は非僧非俗であるから、世俗になることはない。しかしな、他力というても他力の信だから、内ゲバも権力争いもある。わたしも苦労したぞ、他力を売り物にするあほうばかりで。往相廻向がうそだと言うことはいちいちいうことはないだろう。そのことはいいな。
森崎 それは充分とどいています。そういうやつらと50年喧嘩してきました。文化人はアホばかりです。
親鸞 わたしの時代も変わらなかったよ。ワープロ文で書かれたわたしへの不満はそういうことではない。それはわかる。だからそれがどういうことかおまえの声による説明を聞きたいのだ。わたしが暮らしているところはおまえたちの時代や国の彼岸にあるが、暇そうにみえておまえたちの国や世界のことを眺めていてはらはらしておる。安倍晋三というきわめつきのうつけ者がいるな。大丈夫か。
森崎 大丈夫です。親鸞さんの考えから元気をもらっていますから。わたしが親鸞さんに直接お話しをしたいと思ったのは他力の信をぬくことについて親鸞さんの考えを聞きたかったからです。浄土教の教義をほんとうに解体するには他力という信を解体しないと、宗教の解体は成就しないのではないですか。親鸞さんの他力では自力廻向を解体することはできますが、他力を解体することはできないとわたしは思います。
親鸞 おお若いの、言うてくれるな。痛いところを突いておる。そういうことを言うたものはだれもいないぞ。聞かれたことがないので、だれにも言わずそのままにしておいたが、おれも気にはなっていた。他力という言い回しを変えることはないが、もうすこし他力に懐の深さをつけくわえたいと、このワープロ文を読むまで考えていた。なにかを指摘されていることはわかる。だからわざわざおれより800歳も若いおまえと話をしておる。他力についてやりのこしたことがあることに気づいてはいたよ、でもお迎えがきたから。。。刺されて死んだのではないぞ。わたしはこちらで、非僧非俗を総表現者のひとりとして味わい深く生きておる。果てがないけど楽しいな。総表現者というのはおまえのつくった言葉だったかな。
森崎 非僧非俗を総表現者と読みかえました。でもそのこともいまはいいのです。時間があれば触れたいと思います。
親鸞 時間ならいくらでもあるから、どれだけしゃべってもいいぞ。なぜ他力に不満なのか教えてくれ。言葉の使い回し方は違ってもおなじあたりに気づいているような気がするのでな。
森崎 では申し上げます。自力と他力は対になっていて他力が自力より自然(じねん)です。向こう側から一方的にくるもので、自力とはまったく無関係です。そのことはよくわかります。それを他力というほかないこともわかります。理屈としてわかるというしゃらくさいことではありません。他力は知識ではなく生の知覚としてよくわかります。そのうえで他力にもうひとつ懐の深さをもたせることができないかということを考えてきました。自力に対比される他力ではなく、他力という思想を単独で自存させることができないか。できるように思います。他力を覚知した妙好人たちがいます。ご存じですよね。そのものたちはどんな関係をもつのでしょうか。それぞれをそれぞれがすきに生きるだけで、かれらが信の共同体をつくるはずがありません。それにもかかわらず信の共同性の芯はのこります。他力という信の根をぬかないと浄土は顕現しないし、浄土が歩かないのです。他力は一人ひとりに浄土の契機を与えることができます。それで充分だということもできます。でもこの世のしくみは変わらないのです。変わらないにもかかわらず浄土を他力として生きることはできます。なにか他力に加えることはできないのでしょうか。
親鸞 若いの、ようしゃべるな、名はなんという。
森崎 森崎といいます。もうすぐ終わる平成の時代に熊本で、親鸞さんにお迎えが来たときより長生きしている母の見守りをしています。唯円房さんがまとめた歎異抄では、親鸞さんは有情は道理だから、親孝行より有縁を度すべきだと話をしています。
親鸞 ほんとにわたしが言ったのか。唯円房の脚色ではないのか。もう忘れた。たいていのことは忘れてしまったが、わたしが考えてしゃべったとされることを読み返すと思いだしてくる。そうか、他力か、やりのこしたことがある。他力では信の根がぬけないとわたしもつねづね思っていた。信の根をぬくことが他力なのに、なにかがのこってしまう、たしかにな。どうしてそのことに気づいたのか。
森崎 それは個人情報に属することなので面々の計らいにて候ということにしてください。親鸞さんは「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」(「信巻」)でおっしゃってます。もう歳月を経て時効になっているので、愛欲や名利について、いや愛欲ですね、浄土と他力はここに関係しているでしょう。煩悩一般には解消されないはずです。ご承知だと思います。一念義を唱えたとき浄土教も仏も、どうでもよかったでしょう。仏はただ親鸞一人がためにあり、というその仏とはなんですか。
親鸞 聞かれたことに答えずに問いを返すのか。厭なことを聞くな、おまえは。800年経ってもそのことは言いにくいぞ。言いたくないね。おれも話をそらすぞ。もうこっちに来て長いが、いろんな人と話をした。あのエックハルトも当時はしらなかったが、よく話した。いまも話をする。あの男はおれに似たところがある。ヘーゲルとかマルクスともいっぱい話をした。スティーブ・ジョブズというMacをつくったやつもよく知っている。いまがおまえたちの世界がどういう時代かもしっている。なにがあっても手出しはしないがな。ああ、ペンローズも面白い。ストーンズとか最高じゃないか。ああ、それからヴェイユにはもっと長生きして欲しかったな。
森崎 では違った聞き方をします。親鸞さんの他力が人びとに浄土をもたらすことはりくつではなくわかります。わたしは他力を生きると三人称はどうなるか考えました。他力でも三人称は消えないのです。共同性は他力では消えずにのこります。のこるということは信の共同性はありつづけるということになります。だから浄土真宗はおおきな教団としてあります。親鸞さんの他力ではこの世のしくみは変わらないのです。マルクスの考えを擁護しているのではありません。マルクスの考えはすぎました。他力ほど深い思想ではなかったからです。この世のしくみを外側からなぞったのがマルクスという人の思想でした。他力と三人称の問題について親鸞さんはどうお考えですか。
親鸞 まずおまえの考えを言え。
森崎 親鸞さんがお気づきかどうかわかりませんが、仏の慈悲という他力が衆生にたいして可視化されています。すべての衆生を照らす慈悲が脚下にあることを親鸞さんは言っておられますが、仏の慈悲を外在性とするかぎり、その外在性を内化しても、じぶんをじぶんにとどけ、ふたりとしてひらくことができないのです。依然として宗教性はのこります。親鸞さんは主観としては浄土教の教義を解体しました。それは親鸞さんが仏と対座して他力を語ったからではないかとわたしは考えました。ほんとうはすべての衆生に仏は内在しているのではないですか。内在しているから、わたしは仏であるとなり、わたしが仏になることは、わたしがわたしでありながら仏でもあるというふうにわたしが領域化されますよね。そうすると、わたしと赤の他人は仏であるわたしと二人称の関係になりませんか。わたしが仏であるならそうなるしかないのです。仏を衆生のあいだにある慈悲とするかぎり、仏の慈悲は人びとを照らすことはあっても、人びとの相互の関係はなにも変わりません。他力にもうひとつの引き込み、深さ、奥行きというものがあればいいとわたしは思いました。親鸞さんと仏が対座して他力を語るとき、対座を可能とするものが同一性です。同一性はあるものがそのものにひとしいというあたりまえですが、この自然はものすごく強力で他力をもすっぽり包んでしまいます。このことに親鸞さんはお気づきになっていないような気がするのです。それがわたしの親鸞さんの考えにたいする不満としてあります。
親鸞 そちらの世界のりくつ好きの者たちの考えはみなしっているがだれもそういうことは言っていない。耳を澄まして聞いている。はじめて聞く考えだ。もう少し先を続けてくれ。
森崎 親鸞さんが仏であるとしますね。そのとき親鸞さんは親鸞という一人称であると共に仏でもあるわけだから、仏という親鸞さんの元気の素は親鸞さんに二重化されて、親鸞さんと仏が親鸞さんのなかに同在するのではないですか。他力は本来、一人称と二人称が一人の人になかにあるという生存の仕方を可能とするはずです。だれもがその生き方をすることができます。Aという人がその生き方を生きたとします。またBという人も、Cという人も・・・・はてなくつづきます。衆生すべてのこととなります。このとき、AさんとBさんとCさんはそれぞれが一人称であると共に二人称の生を生きているから、この世の三人称の関係はこの世の二人称の関係になるほかないのです。それが親鸞さんの自然法爾ということではないのですか。他力を覚知した念仏者は家族となるほかないのです。親鸞さんが村人に、有情は道理だから、血縁よりも有縁を度すべきであるといわれたことはこういうことではないのですか。
親鸞 面白い。よく考えたな。どんどん先を聞かせてくれ。わたしの他力をどうすればいいというのだ。
森崎 他力にほんの少し奥行きをつくり、その奥行きのところに仏をもってくればいいのです。浄土は歩くことになります。教団も国家も戦争もなくなります。いまこの世で万能の金は分有され交換から贈与へと転換します。浄土が歩くこととこの世のしくみが変わることがどうじに起こります。親鸞さんのことだからもうご存じだと思いますが、4月25日に伊勢崎賢治さんが「軍事的抑圧、不当逮捕/殺人だけの環境で生まれ育ってきたティーンエイジャーたちは、もはや政治闘争に何の希望も見出せず、ただ怒りと焦燥感で、そして死を恐れずに重武装の政府当局に立ち向かう。カシミール・ムスリムの抵抗運動に地殻変動が」(2017年)とツイートし写真を添えていました。心に刺さりました。あどけない女性が民族衣装を着てさらに顔を覆い重武装の兵士に投石をしています。彼女らは逮捕・拷問・処刑されると思います。なにが彼女らを突き動かしているのか。おそらくムスリムの教義だと思います。1989年の天安門事件のときもおなじです。人民解放軍によって武装鎮圧されるとき、「お母さん、死んできます」と言って母親を振り切り、射殺される。こんなことは、むかしから、いまも、そしてこれからも起こります。親鸞さん、かれらのなにが行動に向かわせるのでしょうか。可視化されたときは宗教的信や自由を求める理念となります。わたしは共同幻想ではなく、意識することはなくても、ひとが生の根柢において〔ふたり〕であるという驚異が人びとを突き動かしているのだと思います。神や仏という同一性がつくった観念が人びとの根柢を支えているのではありません。親鸞さんの他力をわずかに膨らませたときその深奥に還相の性という人であることの根源が潜んでいます。それがあることによってヒトが人となった由縁です。
親鸞 このワープロ文を読むまで内包論のことは知らんかった。おれの考えは読み込まれているから、どんどん話しをつづけてくれ。
森崎 親鸞さんの他力はワープロ文で書いたように、わたしの考えでは還相の性となります。親鸞さんの仏に還相の性が対応しているのです。親鸞さんの正定聚という考えは根源の性の分有者になると思っています。ここまでくれば浄土は目前という場所です。わたしは根源の性の分有者は可視化されると往相の性となり、世間ではこの性のことを対幻想と呼び慣わしています。では非僧非俗は内包論ではどうなるのか。非僧非俗に生の原像を総表現者のひとりとして生きるということが対応します。自然法爾は内包論ではどうなるか。内包自然となります。わたしは考えの骨格となるものを親鸞さんの考えからもらいました。たくさんの元気を親鸞さんの考えから頂戴しました。親鸞さんの800年後を偶然わたしは生きていますが、親鸞さんはもとよりわたしですから、仏の他力があるように還相の性の他力もあることをご理解されると思います。広義の性の部分的な表現として神や仏、あるいは往相の性があるのです。そうすると親鸞さんの他力を拡張する機縁は、わたしたちの時代に伝聞されることはありませんが、「愛欲の広海に沈没した」というところにあるはずです。煩悩という世間向けの喉ごしのいい言葉では言い得ない苛烈があったとわたしは推測しています。ほんとうはそのあたりのことを他力との兼ね合いでお訊きしたかったのです。たしかどこかで女性と説教が好きだったからおれは浄土に行くことができなかったといっておられましたよね。名利や説教はどうでもいいのです。でもそれをお訊きするのはまたの機会にします。これからも折に触れて対談ができたらと思います。親鸞さんのことはブログでも延々と触れます。ときどきブログを覗いてください。また遊びに来ていいですか。
親鸞 おれの出る幕はなかったけど、また会って話がしたいね。いつでもいいよ。こっちで会ってもいいけど。わたしの印象ではおまえは書き屋より喋り屋に向いとる。文章は呪文のようでわかりにくいけど喋りのほうがわかりやすい。おまえから訊かれたことは今度話すよ。またおいで。(この稿つづく)

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