日々愚案

歩く浄土163:情況論50-外延知と内包知3:天皇制をめぐって-内田樹の転向2

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天皇にとって国民という第三者問題はどのようにあらわれるか。だれも書いたことのない天皇論を書く。天皇にとって当事者性とはなにか。天皇が自己を内面化することはないのか。そこに天皇制の謎が深々と沈黙している。天皇制の謎は私性の謎である。自己の観念はなぜ共同の観念に同期するのか。なぜ人びとは天皇を嬉々として称揚するのか。かつてペシャワールで医療のボランティア活動をしていた中村哲についてつぎのように書いたことがある。神は世界を睥睨できても自分の眼のなかの塵がみえない。それはどういうことなのか。出来事の当事者に第三者がなり替わることはできない。そのようなことを書いた。遺棄される当事者を語り尽くすことは天皇制の謎を解くことにひとしい。天皇制は観察する理性で解くことはできない。そのなかにいてそこを生きることが引き寄せるさまざまなひずみをその根柢でひらくよりほかに天皇制を消滅させることはできない。

ケララ村の惨劇について中村哲が書いた文章の一部と、それへのわたしの意見の一部を抜き出し、貼りつける。

ケララ村の惨劇
ケララ村の惨劇―生きるもの驕るなかれ

◆一五〇〇名を殺戮

ダラエ・ヌール診療所から、ダラエ・ピーチ―ヌーリスタンのワマに向かうには、クナールの州都・チャガサライを通過する。「州都」と言っても、農家を除けば、たかだか一千名前後の人口で、ひなびたバザールが約数十軒連なるだけである。最近内戦の痛手から少しずつ立ち直り、平和になってきた。戦乱の面影は一見うすれ、心地よいバザールの人混みの喧噪が広がっている。その外れに六〇坪ほどの大きな共同墓地が、高さ二メートル程の日干しレンガの、質素な塀に囲まれ、ひっそりとおかれている。しかし、これにまつわる恐ろしい過去の出来事が、見る人の気を重くする。私自身、やっと最近になって、このことについて触れる気持ちのゆとりが持てるようになった気がする。ここで述べても、死者に失礼にはなるまい。この墓地はケララ村の一五〇〇名の犠牲者を地下に眠らせている。内戦の初期、クナールは、共産政権に対して真っ先に反旗をひるがえした地域として、徹底的な攻撃を受けた。一九八〇年四月、州都チャガサライの北側に隣接するケララ村は、「ゲリラをかくまっている」とされてソ連=政府軍に包囲された。当時この師団を指揮していたのはアフガン政府軍のタナイ将軍で、「匪賊討伐」と称してジャララバードを基地とする機械化部隊が進出していた。同年五月、「匪賊討伐」で、ケララ村の虐殺が始まった。殺戮は二回に分けて行われた。第一回が八〇〇名、第二回が七〇〇名、それぞれ広場に集められ、老若男女を問わず、無差別に銃弾が浴びせられた。村民の多くは確かに反政府ゲリラに同情的ではあった。しかし、自分の故郷を廃虚にしてまで戦う意志はなかった。殺戮と略奪は付近の村落にも及び、実に二千名以上の無抵抗の村人が数日で屠られたのである。人口の少ないアフガニスタンの村落で、いかなる惨事であったか想像に難くない。当然、生き残った者はいっせいにパキスタン側の国境地帯に退避した。この村人たちの退避先が、五年後の一九八六年、私たちが初めて訪れたバジョウルの「ケララ・キャンプ」である。当時これら難民たちの、一種異様な、敵意と暗さを感じたのは、理由のないことではなかった訳である。タナイ将軍は、「匪賊討伐の大戦果」をソ連軍に評価されて昇進したと云われる。だがクナールの住民は彼の名を長く忘れることはないだろう。彼らは政府軍に抵抗する「ゲリラ活動」を以てその復讐にかけたが、十年後の一九九〇年四月、味方であるはずの反政府党派に煮え湯を飲まされることになる。すなわち、政府軍のタナイ将軍と或る反政府イスラム党派の結託によるクーデター未遂事件である。権力奪取に手段を選ばぬ行為は、多数の住民を、決定的な政治党派不信に陥れた。アラブ系団体に押される軍事組織は、この無節操をなじり、クナールにおける党派抗争の一因となった(タナイ自身は、この事件後、ペシャワールに逃れ、その後イスラマバードで手厚い保護を受けて生活している。おそらく、彼がまともに外出することはできないだろう。生き残りの村民たちの手によって、いつかは制裁が行われるにちがいない)。

◆血で血を洗う抗争

以上は、アフガン全土で起きた、ごく一例にすぎない。内戦中は、数百・数千の「ケララ村」が存在した。しかし、ここで単に内戦の悲劇、特に被害者の惨状のみを語るのは事態を正確に伝えることにならない。伝える価値があるのは、むしろその後の地元アフガン人たちの反応である。活動地クナールで私が見聞きしたものは、当時の大部分の庶民(旧難民かつゲリラたる農民たち)に共通する出来事であったと思う。おそらく表面には決して知られることがなかろう。クナールとダラエ・ヌールが地元民の手に帰するまで、血で血を洗う抗争がくりひろげられた。復讐は伝統的な掟である。わが地元ゲリラたちも、旧ソ連=政府軍に対して、過酷な報復を行った。政府軍に協力する村落を襲撃し、一挙に数十名を殺戮した例も珍しくなかった。捕らえられた政府軍兵士は、彼らが行ったと同様に、鼻や耳をそがれ、恐怖の極限で処刑された。公衆の面前で、ナイフで生きながら捕虜の首をはねる光景も、普通に見られた。さらに、この「見せしめ処刑」は住民の恐怖心を倍加させ、暗い闘争心に油を注ぐ悪循環を作った。この私的制裁に比べればカブールで行われた政治犯の逮捕や投獄・処刑は紳士的にすら思える。農村地帯の出来事は生易しいものではなかった。人間がいかに残虐たり得るかという実験場の観を呈した。そこには確固たる「死の力」が支配していた。彼らは―殺された者も殺した者も―地獄を見たのである。

◆死者のまなざし

ケララ村の墓標は、さりげないたたずまいである。だが、平和を回復しつつあるバザールの賑わいと対照に、そこには死者の沈黙が冷然と生者の営みを眺め、両者を隔てる壁が厳として存在する。人々は、その重さのゆえに口を閉ざして語らない。しかし、「アフガニスタン」に関わった全ての者―武器を与えて戦争をあおった者はもちろん、自覚なきアフガン人たち、人道的支援で喝采を受けた外国人、アフガニスタンを語ったジャーナリスト・評論家―死者を踏み台にして生きた者は、等しく、この「死者のまなざし」に戦慄すべきである。私自身はすでに部外者でありえなかった。私もまた、死者のまなざしに脅える者のひとりである。少なくとも目前で展開されたこれらの事実を、軽々と器用に総括することができなかった。しかし今、生者の破局的な営み、死の力の跳梁を全世界に見るとき、犠牲者になり代わって、「自覚なき生者の驕り」を伝えずにはおれない。同時に、内戦で逝った二〇〇万の魂を鎮める祈りは、人が根底で共有できる希望を分かちあうことで、真実となると信じうるからである。(「ペシャワール会報」一九九四年十月二六日) NO41●ヌーリスタンの渓谷(2)JAMS顧問医師中村哲)

中村哲にたいしてわたしはつぎのように異議を唱えた。

中村哲が「私自身はすでに部外者でありえなかった」と書くことに二年間拘泥してきた。彼のアフガニスタンでの仕事のすべてが、ある意味でここに集約されているとわたしは思う。深みにはまった部落解放運動が雪崩をうって敗退していくとき、わたしもまたすでに部外者ではありえなかった。一九七三年の春だった。「ケララ村の惨劇」が出現した。ここに至る愚劣とその後の十数年のあいだに遭遇した惨劇は百億の夜のように、今でもまだなまなましく、思いだすと血の気がひいて意識がこわばる。言いようのない、痛切な、一人の戦争だった。まだわたしはそこに立ちつくしている。
「ケララ村の惨劇」に喉元が凍りつく。「復讐は伝統的な掟である。わが地元ゲリラたちも、旧ソ連=政府軍に対して、過酷な報復を行った。政府軍に協力する村落を襲撃し、一挙に数十名を殺戮した例も珍しくなかった。捕らえられた政府軍兵士は、彼らが行ったと同様に、鼻や耳をそがれ、恐怖の極限で処刑された。公衆の面前で、ナイフで生きながら捕虜の首をはねる光景も、普通に見られた」。復讐と生は分かちがたく結びついている。なんどか…、命のやりとりがあった。内包表現論は、Jumping Jack Flash! 、おう、嵐のなかから生まれた。
「私自身はすでに部外者でありえなかった」と中村哲は書くが、そうであるとしても、彼は凄惨な地獄の傍観者でしかない。彼の立場からはそれ以外の態度をとることができなかっただろう。だからそのことはどうでもよい。そういうことが言いたいのではない。しかし部外者ではありえなかったということと、復讐の実行者のあいだには千里の径庭がある。見聞することと、殺ることとはまったく違う体験の世界に属する。「ハリマ」の仮面のような顔…。地獄を網膜の奥にやきつけた者と、地獄を目撃した者とのあいだのなにが世界を隔てるのか。「ムーサー」の凍りついた灼熱…。わたしがこだわるのはそこだ。中村哲のペシャワールからの現地報告に感じる紙一重の欺瞞がそこにある。中村哲の実践を貶めたいのではない。目前で展開されたことがどれほどの凄惨な地獄であったとしても、見聞するは我が事にあらず。この格率はゆずれない。網膜の奥にやきついた修羅は他者の代理を不能にする。言葉はここからしか始まらない。「しかし今、生者の破局的な営み、死の力の跳梁を全世界に見るとき、犠牲者になり代わって、「自覚なき生者の驕り」を伝えずにはおれない」という代理が絶対に不可能な、じかに世界に触れるところ、体験の固有とはそういうものだとわたしは思う。そこが、「ハリマ」や「ムーサー」が、そしてもしかすると「ケララ村の惨劇」がこわばりをときはじめる場所だ。〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕というのがここだ。それはだれにとどくとも知れない。そしてここから、気が遠くなるような、ほんとうの闘いが始まる。貧血や空虚を喩とする現在にあっても、なお。
何を、どう、中村哲にいえばいいのかわたしにはわからない。他人事を我が事に代理する自覚なきすり替えと、「神聖な空白」という人倫の根源の由来への不徹底が交錯し、その隙間に消費社会批判の言説が呼び込まれる。そこに中村哲は立っている。中村哲が眼のなかの塵に気がつくことがあるだろうか。
中村哲の躓きの彼方へ歩を進めたい。そこにフーコーらが思い焦がれた未踏の生がある。ながいあいだ、〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕を格率として日を繋けた。そこがたしかなじぶんの根拠だと思えたからだ。そう思うよりほかに一人の戦争を続けることはできなかった。当時65㎏ほどあったこのリアルが、比喩としていうが、「ケララ村の惨劇」の渦中で不意打ちをくらった。〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕が色あせたのだ。〔おれは〈性〉である〕というリアルが心臓を貫いた。ふいの一閃だった。

不可侵・不可被侵の思想の内包化

人はなぜ、殺し合い、略奪し、奢り、懲りずに愚劣を重ねるのか。万巻の書物は単純なこの問いに、なにひとつ答えないし、なにひとつ教えない。なぜ考えるということは現実に遅れてしか到達できないのか。思考は内省にすぎないのか。〔思考〕はいつもここで音をあげてきた。偉大なマルクスの思想もこの逆理を覆すことができなかった。わたしたちは残骸のような知に囲繞されている。生が貧血するのはそのせいだ。
「ダラエ・ヌールの戦闘が終息した直後、まずは燃えるような敵意に続いて、一種の虚脱感が現地住民を支配した。それは空白感とも呼びうるもので、敵意のかたまりになった自分の存在感が失われたことによるものであった」と中村哲は見聞を記す。『夜と霧』のフランクルも『望郷と海』の石原吉郎もおなじことを言う。生々しい敵意や復讐の殺戮の意志は戦争の終結とともに一挙に根拠を喪失し、ゆきくれてとまどい、生はむなしく、虚脱感や空白感が襲う。やがてなにごとかがむくむくと身をもたげ、おのずと生の再建にむかう。食うしかないからだが、そこに中村哲は希望を見いだす。「日々の糧を得るのに忙しかったからだけではなかった。それは、健全な生きる意志であり、希望という灯を介して、生命の意味を「死の力」に対置させたのであった。自己に内在する矛盾(彼ら自身の言葉を借りれば「彼らもまたアダムの子」)を、被造物としての低さ・謙虚さにおいて、確かにとらえていた。それこそが復讐という血なまぐさい掟を緩和したのである」と。

美しい言葉だが、言わせてくれ、美しすぎる。自他未分の無音の風圧のように息づくなにものかがこう中村哲に言わしめているのは、むろんよく承知している。嘘を中村哲が言っているというのではない。しかし中村哲が、凍りつき打ちのめされ、生身を引き裂かれ背筋を喪った、そのただなかで心の底の底から彼の身をよぎったことではないにもかかわらず、そのことを書けてしまうことができすぎなのだ。彼は人の深みで息づくなにものかをたしかに知っている。しかしほんとうには鷲掴みにされたことがない。凍りつくこともなく、心臓を貫かれることもなく、言葉ではないそれにどうして触ることができるのか。原始キリスト教の伝承されるイエスは、聖句として遺されているわけではないが、この苛烈と逆理を身をもって生きたのではないかとわたしは思う。それは言葉で記すことではない。『歎異抄』の親鸞においてもなお。書かれぬ、苛烈が、そして言葉が、ある。それは文字としては、けっして書かれてはいない。聖句や経文が心を打つのはそのためだ。
何が「健全な生きる意志」であり、「希望の灯」とは何のことか。危うい罠だ。知者の見聞は出来事を一般化し俯瞰を可能にする。中村哲のからだのどこからこの言葉が生えてきているのかがわたしには見えない。わたしの老眼のせいではない。度重なる復讐と殺戮の応酬に疲れ果て、やむなく生の再建に向かったというのが実状だろうと思う。「復讐という血なまぐさい掟を緩和した」のはおのずからなるひとびとの生活の智恵にほかならない。
敵に屠られ、歓喜のうちに敵を屠り、やがて為すすべもなく生をたどりなおすという「自己に内在する矛盾」を、「被造物としての低さ・謙虚さにおいて、確かにとらえていた」と感受するのは、まぎれもなく中村哲がそうするのであって、復讐の殺戮を担い、むなしさに襲われた彼らがどうであったか訊く理由を持たない。まして内戦で逝った二〇〇万の犠牲者になり代わることはできぬ。
矛盾したことをいうが、「復讐という血なまぐさい掟を緩和した」のは言葉だ。言葉が現実を癒やしたいのだ。現実というものも言葉が抽象した観念だから、言葉が言葉を癒やしたいのだといってもよい。復讐という血の掟を緩和したのが生活の智恵であるなら、その智恵をなぞるのも言葉だ。ここに、知を所有する者と、知をふるまわれる者とのあいだの深い亀裂がある。世界はいつもここに閉じられている。どんなに熱い「不可侵」の思想もこの亀裂に触ることはできないし、その亀裂を埋めることもできない。
わたしは考えるという思考の力を信じるから、言葉によって中村哲が自身を癒やしたいという気持ちはよくわかる。しかし、復讐や殺戮に明け暮れた者らが「被造物」の低みを確かにとらえることで集団の狂気を緩和し、そこに信頼に足る人間の希望が潜んでいるという彼の物言いはありふれていて、じつは権力をはらんだ関係なのだ。それはほんとうに彼の身に起こったことか。このかすかな欺瞞を「神の眼のなかの塵」と比喩した。神は自分の眼のなかの塵を見ることができない。症例の「ハリマ」の悲が、剛毅な「ムーサー」の昏い意志が、そして「ケララ村の惨劇」が行きくれているのがここなのだ。思考はまだ一度もここをこじあけたことがない。
いうならば、歴史は〔1〕があまねく行き渡っていく自己愛の軌跡に比喩される。王の自己愛の物語、それが古代の歴史であり、貴族の自己愛の物語、それが中世の歴史であり、ブルジョアジーの自己愛の物語、それが近代の歴史である。そして現代を大衆の自己愛の物語の時代というべきか。〔1〕の実現の過程はまた〔3〕(群あるいは共同体)の離散する過程でもある。それが現在までわたしたちがつくりえた人類史の概念だといってよい。その極まったところにいくばくかの豊かさを享受しながら情報の洪水にあらわれてつくねんと立っているわたしたちがいる。そういいあらわすのがいちばんいつわりがないことだと思う。
自己意識の外延表現とか第一次の自然表現とわたしが呼ぶ、〔ここではないどこか〕を思念し祈念する意識のうねりがこういう歴史を象ってきた。なぜ「ハリマ」は中村哲ではないのか。「ムーサー」との関係が一途な信義で結びつくにも関わらず、関係が傾くのはなぜなのか。なぜ彼はいつも見る者であるのか。もっと率直に言おう。自と他(多)のあいだで、施し、傾斜する関係が権力なのだ。なぜ流れるように舞いあがる関係ができないのか。なぜ施すことが施されることに等しい一義的な関係がありえないのか。これを綺麗事や空論にすぎぬとして嗤う者は去れ。
中村哲の思想に熱い「不可侵」はあるが、昂然と雁首をかかげた「不可被侵」の、ふてぶてしい面構えがない。わたしにはそのことが手に取るようにありありとわかる。〔深さ〕は「不可被侵」から生まれる。熱い「不可侵」をふるまう者が、その余りの熱さに身を灼かれ、見えない糸にたぐりよせられるようにして「不可被侵」へとなだれこむのは必定ではないか。寄り添う余裕すらないことの激しさ。〔固有〕を生きることの狂おしい戦慄。それが道理だ。「不可侵」がたぐりよせた「不可被侵」は、やがて一切の計らいを超えて傲然とした「不可被侵」の声を轟かせ、再び「不可侵」へとひるがえる。これが思想のダイナミズムであり思想の器量というものだ。わたしたちが言葉や関係や我が事に出会うのはそこだ。そこではじめて〔熱さ〕が〔深さ〕と出会う。悲に憑かれて空を睨む「ハリマ」と鬱然とした昏い意志を秘める剛毅の「ムーサー」はいつもここにいる。おはよう、今日は風が冷たいね。ささやかということの激しい夢。老齢の親鸞がつぶやく「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきことにはあらざるなり」(「末燈鈔」)という赫奕とした言葉と、渾然一体となった不可侵・不可被侵の思想がおのずと響きあうのもここだ。何度でも言う。不可侵と不可被侵が渾然一体となった満月の思想が根づかないと世界は革まらない。
わたしはつまらぬ倫理を語っているのだろうか。今更さかしらなことを言う必要がどこにあろう。自然や道理について思うとおりのことを言っているにすぎない。知を所有する者と知をふるまわれる者とが見えない力で引き裂かれ、衆生の救済を祈念する者が司祭になるのは、知と非知のあいだの亀裂を三日月のような「不可侵」の表現で埋めようとするからだ。常に「不可侵」の思想は〔1〕の外延表現に閉じられている。ここがわたしたちが知っている世界の限界だ。闇夜の新月が思想だとしたら、そんなものが欲しいと思うものか。そんなものはいらんと、The Jon Spencer Blues Explosion がロックする。上弦の思想も下弦の思想もいらない。わたしが欲しいのは満月の思想だ。不可侵・不可被侵の思想が、知るかぎりもっとも気骨に溢れる一言で言い尽くされた満月の思想だとして、いや、もっと遙か彼方までゆける。
いずれにしても不可侵の思想は〔1〕の回路に閉じられ、劫火となっていつも現実は過ぎる。それにも関わらず世界はひとりでに拓かれてきた。それは人の深みで息づく絆の応答があるからにほかならないのだが、〔1〕の回路が実体でも果てでもない。「神聖な空白」という根源に先立つ一閃が存在する。ここがこのメモのひとつの眼目でもあり主張でもある。世界のもっとも深いものより深いもののおのずからなるあらわれが、人の背後で息づくなにものかなのだ。このなにものかを〔1〕の回路でなぞるとき、それをわたしたちは古来より神や仏と称してきた。これもまた幾千年ものあいだ絶えることなく人を打つ、練りに練られた満天の煌々とした満月の思想だ。それが中村哲の「神聖な空白」という根源のことにほかならないのだが、〔根源の性〕のあらわれが、人の背後で息づく「神聖な空白」だということに、中村哲は気がついていない。このわずかな隙間に彼の倫理的言説ときわどい他人事性がしのびこんでいる。・・・ジグソーパズルの断片をひとつずつうめてきたが、できあがる絵は中村哲のものとは少しちがうものになるだろう。最後の断片がピタッとはめこまれると、そこに一枚の絵が浮かびあがってくる。よく見ると、あら不思議、〔わたしは〈性〉である〕と描かれているはずだ。(『Guan02』「熱くて深い夢―中村哲論」1996年)

当事者性ということはわたしの内包論の核心をなしている。譲ることができない。そのとき、そこを生きたということは残骸のように遺棄される。遺棄されることは内面化することも共同化することもできない。中村哲は始めから天皇への親和を表明している。天皇夫婦に進講し天皇夫婦から愛好されていると伝え聞く。平成天皇が胎児性水俣病の患者を見舞い、中村哲の話を聞くということは何事かである。安倍晋三が水銀中毒で苦難な生を生きる者の声を聞き、ペシャワールの惨禍に耳を傾けるということはない。現人神を生きた昭和天皇と平成天皇のあいだには時代性がある。戦後を余生として生きる者と、戦後をあたらしい時代として生きる者とのあいだに落差がないはずがない。

    2

聖なる天子から衆生へ天子の赤子であるということが分与される。皇国はそのことにほかならないが、稚気のなかに潜むおぞましさのことが脳裏からはなれない。内田樹の転向声明を読みながらしきりにそのことを考えた。精神はここまで退行することができるのだ。その驚きがある。内田樹の「私が天皇主義者になったわけ」(『月刊日『』2017年5月号)は不可解さに満ちている。なにごともいい加減にしか考えてこなかった内田樹がもの書きとして無惨な様をさらしている。内田樹は、国民の象徴というありかたを、現天皇は戦地や被災地、施設を訪れる「象徴行為」に変化させたという。かれは象徴行為の本質は慰霊と慰藉であると発言している。

内田 昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてこられました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰籍」です。
 ここでの「鎮魂」とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるための祈りのことです。陛下は実際に死者がそこで息絶えた現場まで足を運び、その土に膝をついて祈りを捧げてきました。もう一つの「慰籍」とは「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」と「お言葉」では表現されていますが、さまざまな災害の被災者を訪れ、同じように床に膝をついて、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけることを指しています。
 死者たち、傷ついた人たちのかたわらにあること、つまり「共苦すること(コンパッション)」を陛下は象徴天皇の果たすべき「象徴的行為」と定義したわけです。
 憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証、外国大便公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことである、と。

 天皇の第一義的な役割は祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変わりません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむものの慰籍であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。何より天皇陛下ご自身が天皇制の果たすべき本質的な役割について明確な定義を行ったというのは、前代未聞のことです。私が「画期的」と言うのはその意味においてです。

-象徴的行為では、天皇の象徴性(記号性)と人間性(個人性)という二つの側面が問題になると思います。
内田 昭和天皇もそのような葛藤に苦しまれたと思います。大日本帝国憲法下の天皇はあまりに巨大な権限を賦与されていたために、人間的な感情の発露を許されなかった。だから、昭和天皇には余人の計り知れない、底知れないところがありました。開戦のとき、終戦のとき、天皇がほんとうは何を考え、何を望んでおられたのか、誰も決定的なことは知らない。
 けれども、日本国憲法下での象徴天皇制70年間の経験は、今の陛下に「自分の気持ち」をある程度はっきりと告げることが必要だという確信をもたらした。

 しかし、国民が議論を怠っている間にも、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「お言葉」にある「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果すのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。

 かといって、「四海同胞」なのだから人類誕生以来の死者全てを同時に平等に鎮魂慰霊すればいいという話にはならない。それでは「国民統合」の働きは果たせない。象徴的行為の目的はあくまでも国民の霊的統合ですから。どこかで、ここからここまでくらいが「われわれの『死者』」という、範囲について国民的合意を形成する必要がある。
 だからこそ、陛下は戦地を訪れておられるのだと思います。宮中にとどまったまま祈ることももちろんできます。けれども、それでは誰を慰霊しているのか判然としなくなる。戦地にまで足を運び、敵も味方も現地の非戦陶員も亡くなった現場に立つのは、「ここで亡くなった人たち」というかたちで慰霊の対象を限定するためです。日本人死者たちのためだけに祈るわけではもちろんありません。アメリカ兵のためにも、フィリピン市民のためにも祈るけれど、「人類全体」のために祈っているわけでもない。そのような無限定性は祈りの霊的な意味をむしろ損なってしまう。死者はただの記号になってしまう。だから、「敵味方の区別なく」であり、かつ「まったく無限定ではない」という条件を満たすためには、どうしても「現場」に立つしかない。これは鎮魂慰霊のために各地を旅してきた陛下の経験的実感だと私は思います。

 鎮魂慰霊というのは生きている人間の実利にはかかわりがありません。そんなことをしてもらっても現実には何一つ「いいこと」があるわけではない。けれども、恨みを抱えて死んだ同胞の慰霊を十分に果たさなければ「何か悪いこと」が起きるということは世界のどの国でも、人々は実感している。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、その感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという点では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。
 ですから、「死者をして安らかに眠らせる」ということが近代国家にとってもきわめて重要な政治的行為となりうるのです。死者のことなんかどうでもいいじゃないかと思っていると、死者は蘇って、「崇り」をなす。死者の切迫をつねに身近に感じて、その怒りや恨みや悲しみを鎮めようと必死で祈り続ければ、死者はしだいに遠ざかり、その影響力も消えてゆく。そういう仕組みなんです。そのことはわれわれ現代人も実際には熟知している。だからこそ、陛下は旅を止めることができないのです。(56~60p)

日本の平均的男性の一人であると自称する内田樹がこの世を睥睨する治者の視線で天皇親政を語っている。現天皇が国民統合の象徴というありかたを鎮魂と慰藉という象徴行為としてなしていて、「私はこの解釈を支持します」と明言する。統治として優れたシステムであるという評価をしている。天皇制はおおいに活用するメリットがるというのだ。すごいなあ、この上から目線。解せない。内田樹は天皇制を統治のシステムとして考える。治者以外だれが言うというのだ。金まみれのこの日本で金のために生きていないのは皇室だけであると。「そう、これはある種の対抗命題としてさ、みんなで考えてほしいと思う。だって、天皇制の意義を正面から議論することって、ほんとにないじゃない? そういうシステムを持たない国と日本を比べたときの日本の優位性はどこにあるのかを考えたときに、はじめて天皇制のメリットは見えてくると思うんだ。今のこの日本で『現実主義とは金の話のことだ』というイデオロギーに『それは違います』って言えるのは天皇だけだよ」(『SIGHT』2011 VOL.49 内田樹×高橋源一郎)極左が連合赤軍の粛清事件で一瞬のうちに消滅したとき、わたしと同世代のもの書きが一斉に民主主義を唱え始め、理想を追い求めるのは羊のロマン主義であると見過ぎ世過ぎの世渡りをした。国家が内面化するやいなや天皇親政に退避する。見事な処世術だが信の深さがない。
鎮魂とは戦渦で斃れた人びとの霊を弔うことであり、慰藉とは災難に遭った人に寄り添う行為である。内田樹は天皇の象徴行為である鎮魂と慰藉に寄り添うことが日本的なシステムの運用にとって有効であるとプラグマティックに考える。もっと天皇制を使い回そうではないかと呼びかけている。意図はわかるが機能的な感じがして好かない。昭和天皇の皇太子として育ち、無条件降伏を迎え、父親の玉音放送を聞き、マッカーサーが占領政策として天皇制を政治的に活用し、統治をしたことは知られている。戦後、民主主義が布置された。そのなかで育ち、庶民と結婚し、一家をなした。民主主義の洗礼を受けていると思う。昭和天皇にはなかった個人という概念をまちがいなく生きている。皇太子の意思によらず天皇家の長男に生まれたという理由によって天皇に即位する。あらかじめ決められたとおりに生きるしかない。昭和天皇は人間宣言をしたわけだから息子も人間として生きている。それはわたしたちも皇族もわかっている。しかし聖なる者は聖なるものであった、ではその聖なるものはどういうことかと問われることはない。天皇の霊的なありかたを称揚する内田樹と戦争は人を霊的に深化させるという根暗な稲田というおばさんとどこが違うのだろうか。だれとでも仲良くなるのが内田樹の本領だから、石破とも和がもてるかもしれない。天皇主義者になることによってすべての人びとと唱和できる。天皇の赤子万民平等を地で行くことができる。これこそが日本的自然生成の粋である。分に応じてらしく生きることより健全な社会があろうか。内田樹はそういうことを言っている。

ケララ村の殺戮を傍観するしかなかった第三者の中村哲がアフガン戦争の200万の死者を代理して言う。「犠牲者になり代わって、『自覚なき生者の驕り』を伝えずにはおれない」と。中村哲は死者になり代わって死者を鎮魂する。そんなことは絶対にできないことを、中村哲論としてむかし書いた。天皇という聖なる位を自明の所与とすれば、形式的に天子が衆生の苦境を鎮撫することは可能となる。アフガン戦争で死んだ200万の死者を中村哲が代理することはできない。死は近しい者にとって哀惜される。そのほかではない。天皇の眼のなかに衆生はどう映るか。神であれば、衆生は神の子である。どんな衆生にも神の愛が分与される。王侯貴族であるか平民であるかを問わない。では天皇は神仏が習合した超越神の化身であるか。天皇は神ではなくまぎれもなく人である。国民の象徴としての天皇が、戦渦に斃れた者たちを鎮魂し、災禍に見舞われた者たちへ大変ですねと励ましの声をかけることのどこにも不自然さはない。おおきな災害があると駆けつけ、またさまざまな施設を訪れ、苦界を生きる者たちと共苦する。分け隔ても驕りもない。安倍晋三とはなにもかもが違う。そのことは実感している。象徴としての天皇を役割として振る舞うことと、個人としての自分とのあいだに乖離する意識が生じることはないのだろうか。天皇である自分と個人である自分のあいだに意識のずれが生まれるとわたしは思う。このずれはなにが補填するのだろうか。共同幻想がこの空隙を埋めるのではないかと推測している。ではこの共同幻想はどこから備給されるのか。国民の天皇への尊崇の念からである。国民の一人ひとりが天皇へ尊念を送ることへの自然な応答が天皇の鎮魂と慰藉の本質をなしている。そうすると奇妙なことが起こる。聖なる存在が聖なる存在として一方的に一義的に存在することは原義的にありえない。聖なるものは賤なるものと一対のものとしてしか存在しない。聖なる存在の赤子が国民に分与されているのであれば、理の当然として、賤なる存在は社会の隅々に分与されることになる。わたしの理解では天皇制という宗教はたかだか2000年ほど遡ると起源の闇へと消えてしまうモダンな観念である。このモダンのことを自己意識の外延性とわたしは呼んできた。長くてたかだか数千年しか遡ることのできない一統がなぜ聖なるものとなるのか。ひとが根源においてふたりであることは、ビッグスピリットという精神の産物より遥かにはるかにふるい精神の古代形象としてある。

この国に西欧近代由来の個人という概念が国民の規模で生まれることはないと思う。渇望しても希求しても到来することはない。なにより衆生を睥睨するもの書き文化人が身を以て体現している。吾こそがいちばん陛下を尊崇するものであるとこぞって競い合う。転向であるというのも洒落臭い。西欧近代に由来しようと、アジア的専制の属躰であろうと、どちらに理があるわけでもない。トッドの家族システムの起源を想起せよ。未分化な双方向性をもっていた、父系性でも母系制でもないたんじゅんな家族のありよう。身勝手な父ちゃん、口やかましい母ちゃん、言うことを聞かない子たち。内包の面影を色濃く残していた家族の初源。ここに天皇制はあったか。あるはずもない。天皇制はわたしたちの精神風土が練り上げた文明の生態的な自然である。天皇制もまた一群のモダンな感性のひとつにすぎない。

かつての大戦で東京が大空襲をうけ一晩で10万人が焼死したとき、軍服を着た昭和天皇が現地の視察に来て、それをしった天皇の赤子である国民が、土下座をして、陛下にご迷惑をおかけして申し訳ないと、泣き叫んだと辺見庸の『1★9★3★7』に書いてあった。ほんとうのような気がした。戦後、この国のかたちは変わったが、精神のありようはなにも変わっていないように思う。それにもかかわらず、皇国思想が復活することはないとわたしは判断している。無知な邪悪でやりたい放題の安倍晋三のサイコな心性が戦争を煽り、カルトな独裁が気炎をあげることはあるかもしれない。市民主義の理念を手本として生きてきた内田樹が安倍のなかにあるクメール・ルージュのような気配を敏感に察知し、底のぬけた民主主義に不安になり、いち早く天皇親政に逃げ込んだのは、かれの見過ぎ世過ぎの処世術のように思えてきた。かれはいちども自力作善の虚偽について考えたことがない。考えなくても済むように生きてきたかれの虚言にこれ以上つきあう謂われはない。かれは真性の保守だと思う。なぜ自分が天皇主義者になったのかというインタビューは全体が虚偽である。保守の心性が先ず始めにあり、天皇制を知識として後づけのりくつで語っている。天皇制は使い勝手がいいから使い回そうではないか、と。表現を舐めていると思う。村上春樹を絶賛することも、天皇への尊念をもつことも、内田樹のなかではまったく矛盾しない。もう、かれには考えることはなにもない。おそらく始めからなかったのだと思う。内田樹の天皇制賛美は世俗的な消費の概念だと思う。カラスの勝手で適当なことを囀り散らせばいい。それだけのことだ。天皇制の謎を解いたいまわたしは内田樹やほかの天皇制を賛美するあらゆる人に寛容である。天皇制にあたらしい生の様式をもたらす力がないことは先験的だからである。できれば内田樹を褒めたかった。内田樹とわたしはおなじぐらい安倍晋三を唾棄している。そこにずれはないが、内田樹は頭が悪すぎる。俗すぎる。鵺のアエラの寄稿者ぐらいがちょうど間尺にあっている。合気道に邁進すればいい。

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わたしが天皇制の謎として考えてきたことは、国民統合の象徴を生きる天皇本人と、個人としての自分のあいだに亀裂が生じないのだろうか、もしずれが生じないとすればそれはなぜかというものだった。平成天皇は戦後を長く生きたので、個人の概念を理解していると思う。わたしにとって天皇制のいちばんの謎は、天皇個人の内面はなぜ表白されないのだろうかということだった。重度の身障者を見舞い、寄り添うとき、天皇が内心の咎を感じることはないのだろうか。個人としての天皇は、苦界を生きる人びとを前にしてさまざまな心の風が吹き、波風が立つと思う。このとき天皇はどこで心の安寧を保つのだろうか。憲法では天皇にできることは国事行為である。国家元首でも統帥権をもつわけでもない。苦界に喘ぐ国民に寄り添ったとしてなにができるだろうか。なにもできない。ただ被災地や施設で、膝をつき、肩に手を置き、大変でしょうね、と声をかけるだけである。そのことを国民は皆知っている。パラオ訪問のとき、海の彼方に深く腰を折り長く鎮魂した。あの姿に偽善も欺瞞も虚偽もない。全身全霊をあげての答礼だった。なぜ答礼か。無数の死者からの視線にたいする拝礼だ。天皇の鎮魂という象徴行為によってなにかが慰撫される。なにかが成就される。平成天皇の鎮魂と慰藉によってなにかが一体となる。それはなにか。ここでなにが起こっているのか。わたしは天皇と国民のあいだに贈与的な交換が自然に生成しているのだと思う。国民が天皇を尊崇することにたいして、天皇は市井を生きる、おおくは被災者であり、遺族であり、障害をもつものであるが、その一人ひとりが天皇に親愛をむけるとき、天皇は鎮魂と慰藉として応答する。そのとき天皇に近代由来の私利と私欲はない。それは断言してもいいと思う。天皇と国民は無形の贈与の関係にある。それが天皇制の本質ではないのか。無形の贈与によって一体感が醸成される。このありようは朕は国家なりを生きた現人神として衆生を威圧した昭和天皇とは明らかに違う。それにもかかわらず天皇の鎮魂と慰藉のすべての象徴行為が私性なのだ。私性よりほかの自然をわたしたちはもったことも生きたこともないという単純な理由による。

平和憲法護持をゆずらない天皇は国民主権も民主主義も熟知している。言わずとも安倍晋三のふるまいを唾棄していると思う。天皇夫婦が胎児性水俣病の患者を見舞い、深々と拝礼した場面は印象的だった。なにをすることもできないが、国の親である天皇は苦界を生きる者たちが愛おしいのだと思う。人びとに善をふるまう天皇の内面の波風はどうなっているのか。国民と天皇の贈与交換はどうなっているのか。なぜ心は内面化されないのか。天皇の内心で受苦のしくみはどうなっているのか。ニーチェは正直に生き神は死んだと言い内面の空白を睨みながら狂死した。だれもがそこまで激しく生きることはないが、ある徹底性がある。そしていまはだれもがいくらかニーチェの境涯をふつうに生きている。天皇制という謎の中心に近づきつつある。

世界の片隅で生きる人びとを天皇は訪うような印象がある。政治家にとって不遇を生きるものであっても選挙の集票として有用ではある。けっしてそのようなものでない。だから内田の言い分にも一理ある。象徴としてのつとめと個人としての自分は分裂しないのだろうか。齟齬を起こさないのだろうか。ここに天皇制の秘密がある。天皇制は空虚な中心ではない。同一性がそのまま顕現したものでもない。意識の外延性を引き延ばすだけ引き延ばして、わたしはあなたがたであると天皇は言い、国民はそれに応えているのだと思う。天皇制の根づきは深い。ちょこざいなイデオロギーでどうかなるものではない。なにが天皇の心の内面化を押しとどめるのだろうか。天皇としての自分と、個人としての自分にはずれがあるはずだ。推測だが、象徴天皇という共同幻想と個人としての自分のあいだの分裂を国民の天皇への敬愛が充填し穴を埋めているのだと思う。内面の亀裂を共同幻想が補填する。天皇は国民からの尊念を贈り物として貰い、そのことによって天皇である自分と個人としての自分の空隙を埋めているのだと思う。国民から尊崇の念にたいして天皇は国民の受苦を慈愛として贈り返す。この途切れることのない循環が天皇制だと思う。この果てしない円環によって象徴天皇と国民の一体感が生まれる。国民の親愛の情と天皇の国民への配慮が一体となり、国民から天皇へ、天皇から国民へと贈与が途切れることなく円環する。ここに天皇制の神髄がある。しかし天皇は聖なるものであり、第三者の国民は聖なるものではない。天皇と国民は歴然と隔たる。この空隙は天皇を聖なるものとする観念によっても埋めることはできない。わたしたちが天皇制に関与できるのは赤子という抽象化された一般性、共同幻想としてである。国民統合の象徴という共同幻想は、天皇と国民はあらゆる意味において離接しているにもかかわらず、つながっているように仮構される。天皇への信を表明する信の共同体を奉戴する迷妄にすぎない。

天皇と国民はいかなる意味でも平等ではない。天皇の赤子という考えは、神の下に人は平等であるという観念の遺制を引きずっている。近代では法の下に平等であるという人間の関係が水平であることを理念として立ち上げた。天皇と国民は垂直の関係であり、垂直の関係であるにもかかわらず、垂直の関係であるが故に赤子として平等であるという独特の心性を、共同幻想の連続性として自然なものとして生成してきた。私は垂直な関係よりも水平な関係のほうを好む。天皇制に収斂する人間の関係よりも、水平である人間の関係のほうがゆるやかであるとわたしは思う。しかし、どちらの関係も変わるところはない。天皇制というおおきな自然に収斂するとき、生の個別性は捨象され形骸化した赤子だけが分与される。現実の秩序がどうであるか勘考されることはない。天皇の赤子は平等であるという観念は個別的な生のありようの徹底した捨象によってしか成り立たない。赤子という観念は個人に属するのではなく共同幻想そのものである。翻って水平である人間の平等はどうあらわれるか。平等であるという観念は規範であってそこにどんな根拠もない。自由と平等は人格に付与されたものであった、それ自体の根拠をもたない。法の下に平等であることは人が自由で平等であることの内在的な根拠をもたない。精神の古代性と近代性は相克するがどちらにも確乎とした理はない。問題は精神の古代性に理があるか、精神の近代性に理があるかではない。アジア的心性と言い、西欧的心性と言い、共にモダンであるにすぎない。わたしは西欧近代由来の人権の理念も、この国に深く根ざしている天皇への敬愛も、意識が外延性に閉じられたモダンな心性だと思う。

国民統合の象徴としての天皇の観念のなかでは、国民はあなたがたであり、象徴の家族なのだと思う。他者への配慮が空間化している。固有の他者とのつながりをぬきに、この固有のつながりを生きることなく、他者への配慮が現成することはない。天皇という共同幻想や自己の観念をもろともすっぽり包み込むとき、人びとはおのずから友愛でつながる。鎮魂と慰藉は皇国というおぞましい信の共同性をつくるだけである。すぐに親鸞の法話の場面を思いだした。親鸞は聴衆に呼びかけた。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々」(『歎異抄』)この法話で親鸞はこの世に奇蹟を起こそうとしている。有情は山川草木悉有仏性であり、みないつも父母兄弟である。過去を想起し未来を追憶するように浄土をつくることができる。有縁を言祝ごうではないか。親鸞は教団の信を解体したくてたまらなかった。有縁のなかに血縁もある。有縁の規模は血縁の規模よりはるかにおおきいものだ。しかもそれは共同体ではない。自然法爾を道理とした親鸞はそのことを言おうとしている。仏は親鸞一人がためにありを生きた親鸞は皇国思想を一蹴したと思う。信の深さが違いすぎる。血縁を含み血縁を超える人間の関係のありようを仏を媒介に深く深く掘ろうとした。しかもそれは信の共同体ではないというのだ。仏は我と共にありという生の知覚は内面化も共同化もできない。他力という表現と呼ぶほかない。それが親鸞の信である。内包論は、親鸞の自然法爾を内包自然へ、他力を根源の〔ふたり〕として拡張しつつある。意識を外延化して練り上げられた生態の自然としてあるこの国の天皇制的なものの命運はすでに尽きている。(この稿つづく)

 

 

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