日々愚案

歩く浄土162:情況論49-外延知と内包知2:天皇制をめぐって-内田樹の転向1

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どんな大義も私性から派生する。私性は近代的な私利や私欲を意味しない。精神の古代形象に淵源をもつ自己保存の衝動だと思う。私性は是非や倫理を超えたものとしてある。いまこにある危機。これからこの存在のありようを目の当たりにすることになるだろう。遥か前からわたしは政治と文学という意識の区分をまったく信じていない。この意識の分別によって生が損なわれる。あるいはこういう意識の類別によっていつもなにかが覆い隠されてきた。自己についての自己の観念と共同の観念は同期する。このとき自己の観念と共同の観念は同値の関係にある。かんたんにその理由を言うことができる。わたしたちの生がちいさな自然に属するとしたら、わたしたちの生を抽象化した一般性がそこにおおきな自然として昇華しているからだ。この生のありようを内包論で私性という自然と呼んできた。なにが起こるかわからない日々のなかで私性について真剣に考えている。アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』や網野善彦の『無縁・公界・楽』、『異形の王権』を読み返しながら、凡庸な悪や、隷従関係と無縁である、ということについて考えている。おなじ疑問が湧いてくる。アーレントは悪の凡庸さを、網野善彦は無縁にある自由を指摘している。わかる、よくわかる。ではアーレントに問う。なぜ悪は凡庸なものとしてあらわれるのか。網野善彦に問う。娑婆から縁切りされ疎外されることのなかにある自由はなぜ制度に回収されたのか。アーレントも網野善彦もこの問いには答えてくれぬ。だからわたしは自問自答する。

悪の凡庸さが、無縁の自由が、私性だとしたらどうする。自己保存の衝動が個々の生に内属するとき、人は私性以外の生を生きられるか。ある縁で俗世と縁を切り、苦界を公界の楽とし、無縁で生きるとき、この生もまた私性ではないか。そうすると世界は私性でまみれることになる。是非を問いたいのではない。それ以外の生が可能かと問うている。もっと実感に即して言う。富める者がますます富み、貧困な者がますます貧困化する。事実としてそうである。超格差社会を推進する動力はグローバル経済と、ハイテクノロジーである。論争の余地なく事実である。やがてAIは大半の人の雇用を奪うだろう。なぜ世界はこうでしかないのか。私性以外の自然をわたしたちがつくりえていないからだ。なにか邪悪な意思に導かれ、カルトでサイコな安倍晋三という極めつきのうつけ者がやりたい放題やっている、ということですむことか。1%の富と権力をもつ者が、99%の弱者と貧困者を意図的に痛めつけているのか。そういうことではない。

この問いの投げかけは意図的な挑発だから、おおいに立腹されればよろしい。この世界のイメージではじぶんをじぶんにとどけることはできないと、わたしは言っている。じぶんをじぶんにとどけ、ふたりとしてひらく自然をつくることができなければ、地に湧く怨嗟の声が熄むことはない。おおくの者が苦界で貧に喘いるではないかと言う者たちが、喰うに事欠くのない勝者であることは、いつも世の常である。かれらのふるまいは小さな親切おおきなお節介で、知識人と大衆という生の分割統治をなぞっているだけだ。地を這いずり虫木草魚として生きる衆生は私性に拠って生きるほかない。共同幻想が燃えさかるとき、昭和天皇も共同幻想の属躰である。汝ら臣民、朕のために死ね、も共に私性である。これがいまわたしたちが当面している世界の現実だ。内省という禁止はいつも侵犯される。それが道理ではないか。なぜべつの道理をみつけようとしない。適者生存をなぞる道理を批判するかぎり、わたしたちはいつも世界の属躰であり、敗者であるほかない。じぶんをじぶんにとどけ、ふたりとしてひらくこと、それ以外に浄土はない。ただそこでだけ浄土が歩く。この浄土は内面化することも共同化することもできない。だから生の可能性なのだ。またここでしか戦争を無化することはできない。わたしは歩く浄土から世界に反撃する。

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いつまで民主主義という学級会ごっこをするのか。民主主義という擬制とカルトでサイコな安倍晋三の戦後レジームからの脱却という擬制の抱き合い心中。このふたつの擬制を断ち割り、真芯で道理を革めること、内包論でこのことをめざしている。困難なことにちがいないが歩く浄土を考えていると楽しい。内包論はとてもシンプルなことを考えている。思考の慣性を切り替えるにはどうすればいいか。体制は共同幻想である。反体制も共同幻想である。かんたんではないか。共同幻想のない世界をつくればいいではないか。これほどかんたんなことがあるだろうか。共同幻想のない世界はとてもシンプルだが、思考の慣性がこの世界をつくることを妨げる。わたしが国家や戦争のない世界を構想するときその射程を人類史と定めている。まだだれも考えたことのない世界にはちがいない。扇状地のようにかたどられてきた人類史はふたつの自然をつくった。おおきな自然とちいさな自然。これしかない。たったこのふたつの自然で人類史は積みあげられてきた。すごい! この自然のなかには国家も経済も科学も入っている。

民主主義の底はとうに抜けている。僕らの民主主義なんだぜ、がどこまで堕落するかその見本を取りあげる。民主主義の信奉者者たちがあっというまに天皇を尊崇するようになった。この個人の意識の変容は国家が内面化し、臨界を超えて私性のなかにメルトダウンを起こしている状況の変化と対応している。安倍晋三は天皇より自らは上位にあるとつけあがっている。それは安倍晋三が完璧にアホであることに起因する。この意見についてわたしと内田に異なるところはないと思う。平成天皇は猛ることも暴威をふるうこともなく温厚な性格であるように見える。退位についてのビデオメッセージを見たときもそう感じた。その折々の感想をブログで書いてきた。わたしは平成天皇夫婦とつきあいはないが、日本国憲法に記される国民統合の象徴であることは知っている。天皇のおかげで今日まで生きてきたという実感はどこにもない。母の容態が急変し、在所している施設にタクシーで駆けつけたことがある。幹線道路の信号が赤のままなので、脇道にそれて行くが、どこへ入り込んでも、信号は赤だった。平成天皇夫婦が熊本空港に移動するので、信号規制をしていたということをあとで知った。おかげで迷惑した。ただ体験として、聖なる観念の真芯に賎なる観念が居座っていることは実感してきた。聖なる観念と賎なる観念は不可分のものとして一体化している。この分離できない観念を意識の外延性が消去することはできない。世を統べる治者は民を公平に処遇せよと訓戒を垂れる。なぜならば治者は世を睥睨するものであるからだ。文化人は世の縛りがきつくなると先を競ってこの精神の場所に退避する。転向であると自覚することも、身過ぎ世過ぎであると居心地の悪さを感じることもない。強制されたわけでもないのに自発的に天皇制を礼賛する。平成天皇の退位に関する安倍晋三の冷淡な態度に内田樹は義憤を感じ、天皇を奉戴することがこの国の民主主義の核心であるという転向を表明する。この意識の変容はすでに広範に起こっていて、ある自然さを獲得している。この自然の上に立ち公共的な意見が表明される。虚言の自覚なく意見が公共的に表明されることが恐ろしい。これは言論の自由を圧殺する権力の行使で、安倍晋三の独裁よりおぞましいかもしれない。稚気にひとしい天子さまへの尊念に潜むすさまじい暴力。民主主義を人間の身体に置き換えるとすでに多臓器不全に陥っているとわたしは現状を判断している。システムの延命のために天皇制が招き寄せられる。

言葉が根づくとはどういうことかとよく考える。『月刊日本』の「私が天皇主義者になったわけ」(内田樹)の発言には異議がある。この異議を取りあげる。内田樹の発言に、国家が内面化しメルトダウンするなかで、わたしたちの生のなかに亀裂をもたらしつつある明確な兆候がある。転向の表明であるとわたしは理解した。ここで保守の定義をする。保守とは、分に応じて、らしく生きる社会を健全であるとする生活の知恵のことである。イデオロギーは仮象されていないようにみえる。この思想は生を引き裂く権力であるとわたしは思う。この思想は世を睥睨する治者の視線であるということを申し上げたい。戦後生まれなので、統帥権をもった現人神の天皇を肉感的にはしらない。ご真影の前に直立したと風聞で聞くだけである。戦争は親から聞かされた歴史であった。体験していないのでそのことは如何ともしがたい。玉音放送で、悩みに悩んで戦争を終結させることにした。結びで「爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」と呼びかけている。朕は国家であるので、昭和天皇に個人という概念はない。私は即ち国家なのだから。お迎えのときも現人神のままであったように思う。おそらく平成天皇は違う。民主主義の洗礼を受けている。国の象徴としての自分と、個人としての自分のなかに意識の乖離があるはずだ。ないはずがない。日本国の象徴としての自分と個人としての自分の分裂をどう案配してきたのだろうか。内田樹は「私が天皇主義者になったわけ」のなかで、象徴と象徴行為をわけて考えている。天皇制の歴史では初めてのことだったと言っている。

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なにか不穏なことを言いたいのだろうか。違う。天皇制の彼方にある内包のことを言いたい。彼方は此処であり、歴史でもある。天皇制では言葉が根づくことはない。わたしたちの歴史がつくってきた天皇制という自然は、この国の風土では聖なるもので至純なものであるとされる。わたしたちの国では精神風土の意識が外延化され、その精粋が天皇制と言われるものとして、歴史のなかで連綿と受け継がれてきた。それは聖なる観念の歴史の伝統としてある。退位についての天皇のメッセージで、天皇はみずからの天職である国民統合の象徴行為を身体の衰えもあり全身全霊をあげてできなくなりつつある、この努めを果たすことが困難であれば退位するしかない、と述べていた。政府官邸の意向は皇居の奥に天子様として鎮座していればいいというかつての統帥権の侵犯を澎湃とさせるきわめて機能的なものであった。辞めたければ辞めさせてやるよ、と天皇より上位にあるカルトでサイコな安倍晋三というきわめつきの虚け者は考え、息のかかった有識者に安倍の意向を反映させた。義憤に駆られた内田樹は『月刊日本』で自分が天皇主義者になった理由を開陳する。天皇の退位についての国民へのメッセージと、内田樹の天皇制擁護の発言には考え尽くされていないおおくの課題がある。内田樹の天皇制を賛美する発言に承服できないものがある。

内包論から天皇のメッセージと内田樹の発言を追っていく。内田樹は天皇制を称揚することでかつて極左であった不如意を免責している。体験を封印し民主主義の使い回しへと逃亡した。面々の計らいであるから、それはかれの生き方であるが、あるものを使い回すかれの民主主義は追い詰められて詭弁を思いつく。状況の推移を内田樹は敏感に察知する。国家が内面化し私性へとメルトダウンを起こすとき有効なのは天皇制しかない。機を見るに敏な行動である。安倍晋三らが天皇の処遇について真情がないと悲憤し、天皇制のメリットを活かすべきだと機能主義的な判断をする。小さな善を人知れず積み増すことに意義があると考える内田樹の思想は一方で村上春樹を絶賛し、片方で天皇制を賛美する。公共化された思想の薄さ、浅さ。じつに軽い。若い頃、親友が内ゲバで太ももに五寸釘を打ち込まれ死んだと、平川克美との対談で書いていた。止めましょ、そんなくらい話。と内田樹は言っていた。内田樹はなにかを封印することで民主主義の信奉者になり、毛沢東やクメール・ルージュの所業を激烈に批判してきた。そのことには異論の余地なく同意する。

一昨年の秋に戦争法案が国会で強行採決された。内田樹はシールズの学生と共にこの法案に反対し精力的に駆け回った。若者だけがいまは希望だ、この夏になにか起こるかもしれない、とかれは期待した。あっというまにシールズは消滅し、日本会議が前景に躍り出た。内田樹の心中で「それにしても日々『史上最低の内閣』ぶりを露呈していますが、それでも支持率50%近いというのですから、日本の有権者が何を基準に政治家の良否を判断しているのか、僕にはもうわからなくなってきました」(内田樹ツイート2017年4月17日)という気持ちが醸成されてくる。こうなれば天皇親政民主主義でいくしかないな、かれはそう考えた。わたしは内田樹が体験から目を背けて封印したことのなかに極左体験から民主主義に移行したことと、さらに民主主義から天皇親政民主主義に転向した機縁が隠されていると思う。もうけっして思い出したくないかれの過去に天皇制を称揚する淵源がある。内田樹の天皇親政と辺見庸の『1★9★3★7』を、内包論が手放すことのない当事者性の思想から批判する。天皇制の機能的な使い回しを提言する内田樹も、天皇制を激烈に批判する辺見庸もなにが天皇制の核心であるかをつかんでいない。肯定するのも否定するのも空虚ではないか。安倍晋三の独裁ももの書き文化人たちの天皇親政民主主義も共に擬制である。ただ主観的な意識の襞のなかにしかその根拠はない。思考の慣性をひろげること。(この稿つづく)

〔付記〕
伊勢崎賢治ツイート
軍事的抑圧、不当逮捕/殺人だけの環境で生まれ育ってきたティーンエイジャーたちは、もはや政治闘争に何の希望も見出せず、ただ怒りと焦燥感で、そして死を恐れずに重武装の政府当局に立ち向かう。カシミール・ムスリムの抵抗運動に地殻変動が。(2017年4月25日)
http://www.firstpost.com/india/kashmir-unrest-alienated-and-resentful-the-youth-and-women-of-the-valley-are-a-ticking-timebomb-3402494.html

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