日々愚案

歩く浄土157:交換の外延性と内包的な贈与8:中沢新一の贈与論2

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ある特定の時代のかぎられた生涯を生きるとき、人びとが生きている時代ともつ明晰と迷妄の度合いはいつも時代も変わらないとこれまで書いてきた。この認識を統覚する思考の慣性が同一性という認識だとも言ってきた。同一性という論理式で解けないことがある。DNAは化学物質であるが、その化学物質に意識が宿るとはなぜなのか。この根底的な疑問を同一性による思考は解くことができない。わたしの知るかぎり、意識の同一性起源は吉本隆明の心的なものについての定義がもっとも慎重で破綻がないことも指摘してきた。

人間がサルと違う言葉をしゃべるようになった数百万年前から種族というものができた数十万年のあいだ初期人類はどういうふうに暮らしていたか。書誌学的なことではなく、表現として考えてみる。古代文明の発祥地で国家と貨幣と文字が発明されたその時代を意識のなかではるかに遡る。エマニュエル・トッドは『家族システムの起源』で人類の初期は核家族で、父系性や母系制でもない双方性の未分化なありかたが家族の基本であったと述べている。そうするとそれ以前はどうだったのだろうかと想像がふくらんでいく。この悠遠の太古に同一性は存在したのだろうか。実定的に言いたいのではない。なにかひとつの表現のイメージがかすかに浮かんでくる。もしかすると人類初期の核家族は〔根源のふたり〕の外延的な痕跡かもしれない。それがほんとうの精神の古代形象であるかもしれない。内包的な存在のありかたが長い時間のなかで外延化され、やがて核家族として昇華し、その核家族の深奥にも根源の性が内挿されているから、一世代ごとに内包が受け継がれ、現代へと到達した。スマホでこれを書いているわたしがいるわけだから、少なくとも数百万年わたしの系統の人類が途絶えたことはない。数百万年どこをうろついてきたのだろう。こういうことを考えていると愉しい。悠遠の太古、渾然一体となった熱いかたまりがあった。このかたまりから子どもというちいさいこぶができてくる。とてもシンプルな世界だ。それを内包存在と名づけたい衝動がある。遙かな遙かな太古に熱い情動のかたまりが熱く生きていてあまりに熱いので、熱いかたまりから身を剥がして、ちょっとだけ冷ましてみた。それが家族ではないか。そのなかにも内包は生きている。深奥に内包的な存在があり、内包存在を冷ました輪郭が家族という外延的なもので、渾然一体となった融即した熱いかたまりからむくっと起き上がって、その輪郭をかたどったのが同一性ということだったような気がする。むかしむかしの大昔には名づけようもなく名をもたぬなにか熱い渾然一体となったかたまりに手足がふたつずつあった。内包存在を考えていると気持ちがふくらんでくる。宗教も貨幣も国家もなにもない。そんなものがあるはずないと言われてもしらない。表現だから。この表現からは人類史はモダンの極致のように感じられる。初期の体系や国家や貨幣のない時代を生きた陽気な面々もその時代を迷妄とともに明晰に生きた。わたしの遙かなる祖先のことだ。そしていまおなじように現在を迷妄と共に明晰に生きている。いったいなにが違うというのだ。歴史は、原始、未開、野蛮、古代、・・・と遷移したのか。こういうことを言い始めたのはだれだ。きちんとしないと落ち着かなかった整列するのがすきだったヘーゲルがこんなことを言った。弁証法は陽気な面々もしっていた。失敗→反省→納得。生きていることはこのくり返しだから。たまに獲物が多く捕れるとおおはしゃぎし大盤振る舞いをして、歌い、踊り、日照りで食べ物がないとき天を仰ぐ。ときにはヤラしい気持ちになる。ないならないなりになんとかあるだけでやりくりする。生きることの基本はむかしもいまもこれからも変わらない。トッドのいう人類は初期に核家族であったことでさえモダンである。そのモダンな時代でさえ食は分有された。鋳造貨幣ができたのはつい最近だ。おのずからなる贈与。いったい未開から解明へと遷移していくというのはほんとうか。なにが世界をこれほど複雑にしてしまったのか。同一性だ。そうではない。〔人は根源においてふたり〕であるということが、書記と宗教と国家と貨幣に先立つもっともおおきな発明である。ここにおいて生と死が表現されている。同一性ではなく還相の性が生を統覚している。内包自然を生きる総表現者のひとりとして、だれもにとってもこの生が可能となる。人類史を自己に内属するものとして縦に直立させること。この縦になった歴史を根源のふたりが統覚している。内包史をこのように構想している。

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中沢新一のスピリットという理念は、存在の究極は心は物質であり、物質は心であるという素過程を想定できるというものだった。歴史を俯瞰するとてもモダンな心性から記述されたものであっても、春風のようにさわやかなことを言っているのではない。まだよく知られていない人間の精神層みたいなものがあるとかれは思っている。そうだね。ちょっとぎょっとする中沢新一の発言を引用する。モダンな意識が精神の古代形象をさぐりあてようとする典型がそこにある。

・・・大分前ですけれども、イギリスのBBCの番組で、昔のロシアの言語学者がユーラシア母語を再構成する研究をやっていたのを紹介していました。ごらんになりましたか。この学者は天才的な人で、ユーラシア大陸でいろいろ語られている言葉のデータを全部集めてきて、移動の経路も、わかるかぎりの情報をそこへデータとしてインプットし、幾つかの言葉を取り出します。たいがい生活用語ですね。しかも、必ず必要とする水とか、火とか、塩とか、こういうものだけに限定して、ユーラシア語の母型を再構成してみようとした。これをコンピューターで再構成したのを聞いたんですね。それはそれは身の毛のよだつような音でした。ものすごい深さというんですか、火という音をユーラシア母語で発してみた音、まさにこれは火だという音なんですよ。水という音は、これこそ水だと感じるんですね。(「心と言葉、そのアルケオロジー」『群像』2004年1月)

中沢新一がコンピュータが合成したユーラシア母語を「身の毛のよだつような音」と形容するときモダンな心性が古代の精神をさぐるときの典型があらわれている。明晰な精神は古代の未開の精神をいつもこのように再現する。違うと思う。古代の面々は日々をふつうに生きていたと思う。生のなかに歴史を縦に直立させるとそうなる。明晰さの度合いも迷妄の度合いもなにも変わらないはずだ。古代の精神のありようをモダンな心性が称揚する。この視線のことを観察する理性だといってきた。初期の人類が自然の一部でありながらその自然から離脱しつつあることが不可解で、もう一度自然に戻りたいという衝動がアニミズムやトーテミズムになったのだと理解している。現代の医療もゆがんだ呪術ではないか。どこが違う。むろん雷が大気の放電現象と理解するほどには明晰である。神の怒りは火山活動であるとか。人間の精神を科学が解明するというのは度しがたい迷妄ではないか。加持祈祷で病を対峙する呪術とどこが違う。

資本主義社会も人間が観念を粗視化してつくったシステムにすぎない。書記や宗教や国家や貨幣もおなじだ。観念がつくったものは観念によって置き換え可能である。貨幣も貨幣よりもっといいものを観念をつくることで貨幣に取って代わることができる。なにをやっても間に合わないようとなぜ感じるのか。言葉が喚起する未知がもう外延表現にないからだ。だれでも知らずに知っている。交換から贈与への移行をおのずからなそうとするなら、意識の外延性は意識の内包性へと転換させるほかない。そのために思考の慣性を拡張すること。中沢新一は思考の慣性がこの世界の枠組みを限界づけていることに気づいている。この気づきを内包へと切り替える縁がかれにはない。だから対称性という外延を空間化している。対称性人類学を論じながら、かれのありようはなにも変わらない。だから世界はこういうふうに解釈することもできるんですよというお節介にしかならない。そんなにいいものだったらおまえがまずそこを生きろよ。中沢新一の唱える対称性人類学では、人と人とのつながりかたはなにも変わらない。中沢さん。人間の意識にはまだ未知があることにあなたは気づいてますね。その領域のことをあなたが第三期の形而上革命と呼んでいることも知っている。そこに未知があるなら未知があるということを、観察する理性の手つきではなく、そのなかにいてそこを生きることを可能とする意識において指摘するほかないんだよ。あなたにはわからないでしょう。それはわからなくてもすむように中沢さん、あなたが生きているからです。第三期の形而上革命があなたを変えることはないのでしょうか。

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中沢新一は三万数千年前に大脳組織のなかで起こった流動的知性という横断思考から意識の原型のようなものが生じたと主張している。物質は心であり、心は物質である素過程という概念を提示する。この素過程が物質的に表現されたのがマルクスの思想であり、素過程から分岐した幻想論を総合しているという自負が中沢新一にある。どちらの過程もまったく自然な過程であると中沢新一は言う。流動的な知性の素過程はスピリットに象徴される。自由はスピリットによって実現されてきた。この自由は光と比喩している。対称的思考を「山羊=人間」「熊=人間」とよくなぞらえる。少し洗練されると神話ができる。わたしはスピリットも神話も存在(ある)の初期不全が負荷されてできた観念であると考えてきた。この場所からすると中沢新一の言葉には痛みも苦労もなく、深さもない。それはかれが出来事をいつも観察家の眼でみているからではないか。かれが自分を生きることはない。なんといっても観察家だよ。言葉の当事者性ということは皆無である。知識がやたらと羅列される。かれにとってはオウムの事件はたんなるサンプルだったのかもしれない。世間の風当たりをやりすごすまでがまんすればよかったということなのだろうか。

人類最古の超越が素過程においてスピリットとして生まれ、大地を飛び交ううちに精霊は神や国家に変質していき、対称的な思考の自発的破れが起こったという。対称性の自発的破れは当時、物理のはやりだった。物理という自然に起こった対称性の自発的破れを人間の流動的な知性にやどった超越が同義であるとレーニンが好きな中沢新一は言う。かれ自身もかんたんには答えることはできないとは言っている。なぜ対称的な生を生きていた太古の面々は自然の一部でありながら精霊であるその対称的な思考を破ったのだろうか。中沢新一はこの意識の変容をどう解いたか。わたしがカイエ・ソバージュシリーズでいちばん疑問を感じたところだ。ずいぶん前に読んだ本だからなにが書いてあったかあらかた忘れてしまったが、ここに疑問を感じたことだけははっきりと覚えている。その肝になるところを引用する。

① 球体をつぶすには、外からの強い圧力が必要です。ではこのときスピリット世界には、いったいどんな「圧力」が外から加えられたのでしょうか。これはとても大きな問題で、ここでは簡単に答えることはできません。しかし、『熊から王へ カイエ・ソバージュ』をお読みになった方は、スピリット世界におこったことときわめてよく似た仕組みによって、王と国家が発生していることに、気づいたかもしれません。
 国家のない社会では、いっさいの「権力Power」の源泉は自然の側にあると思考されていました。文化は人間の心の内部でつくられるものです。そこで人間らしい行為やものの考えの基準が整えられれています。しかしここにはどこを探しても、権力の源泉というものは存在しません。それは畏るべき力を秘めたスピリットたちのいる領域、つまり心の外である自然の奥に隠されている、と考えられていたのでした。その源泉に接近できるのは、シャーマンや戦士のような特別な能力と技量を持った人たちだけでした。こういう人たちは危険な力に触れているとして、たいていは社会の中心部から遠ざけられていました。
 シャーマンや戦士の能力をもった人物が、社会の中心部に進出して、自分は権力の源泉に触れている「主権者=王」であるという主張をはじめたとき、人類の社会には根本的な変化がおこったのです。そのとたんに、自然はもはや権力の秘密の源泉であることをやめなければならなくなります。権力の源泉は主権者である王とともに、社会の内部に持ち込まれ、スピリットたちの王国であった自然は、それ以後しだいに開発や搾取のための、ただの「対象Object」の位置に降りていくことになります。
 このときにおこった心(精神)トポロジーのカタストロフィ的変化は、スピリット世界におこった「対称性の自発的破れ」による神の出現の過程と、同じ型の変化をあらわしています。

 王の発生と神の出現は、どうやら深く関連しあっているようです。二つの過程は、心のトポロジーにおこる同型の変化によって引き起こされたもののようです。自然と人間との間に対称性を保ち続けようとした社会の中から、王と国家が発生するのといっしょに、スピリット世界の内部からは神が出現するのです。

②すべては自然史として
 なにもかもが、まるで自然史の過程のようにしておこっていることに、驚きを感じませんか。神の観念の出現などという、物質過程からもっとも遠いと思われるような出来事を理解するのに、自然がいまある秩序にたどりつくうえで決定的な働きをしたと考えられている「対称性の自発的破れ」の機構が、これほどに有効な働きをするのは、何故でしょうか。
 それはスピリット世界の成り立ちを考えながら、私たちがすでに見てきたように、「超越」の領域に関わるものごとが、心の過程と物質の過程との境界でおこっていることに、深い原因があるように思われます。この領域で発生した「力Power,Force」が、心の内部システムに組み込まれてくるときに、「超越」をめぐる宗教的思考が動き出します。またそこは、王と国家の成立以後は、政治的思考の舞台ともなっています。ということは、「力または権力」の関わる問題には、マテリアルな過程が決定的な重要性を持つことになる、ということをも意味します。
 その意味で、国家や経済システムの展開ばかりではなく、宗教のような観念のシステムについても、これを「自然史の過程として」研究することの重要性を力説したマルクスとエンゲルスの思想は、この領域でいまだに有効性を失ってはいない、と言えるかもしれません。スピリットや魂に関わる問題について、「マテリアリズム(唯物論)」 の視点を失うべきではないのです。量子論のような物質科学が物質の領域で発見してきたことと、神の問題のような心の領域の問題とは、現生人類の脳にたえまなく「スピリット的なるもの」の発生している場所で、必ずやひとつにつながりあっているはずです。それを探究する科学こそ、今世紀に私たちが早急につくりださなくてはならないもののひとつとなるでしょう。(『神の発明』)

オウムを手厚く接遇していたときの自分と大学で講義をするときの自分は別人らしい。もしも森友学園に自分や妻が関係していたら首相も代議士も辞めるということをはっきり申し上げておきます、なんか言うから疑獄がややこしくなった安倍晋三がいる。衆目に晒された中沢新一はカイエ・ソバージュシリーズは大学の講義録であると書いている。第5巻目の『対称性人類学』のまえがきでかれは言う。「さらに、対称性の概念をめぐる私の思考に拍車をかけたのが、9・11の事件だった。この事件をきっかけにして、私の思考は世界史の方向に向けられていったが、そのさいにするりと『圧倒的な非対称』という言葉がこぼれでたのである。私は神話的思考の本質を、対称性の概念によってとらえなおすことができるのではないかと考えた。このことは、レヴィ=ストロースの神話論の中にときおり登場してくる考えであったが、彼自身はそれをひとつの主題として取り出してくることはしなかった。しかし、グローバル化の進行していく世界の本質をとらえる有力な概念として、『対称性』をひとつの主導原理にまで高めていくことの必要性を、私はその頃ひしひしと感じていたのである」。オウムに荷担したことに触れずに、A級戦犯であることを隠し、柔和な顔で9・11を語るかぎり、だれも論難する者はいない。わたしは中沢新一の対称性という概念はエッシャーのだまし絵に似ていると思う。階段を昇っているつもりでいつのまにか下ってしまっている。かれの唯物論と唯心論のいかがわしさ。散乱する知識に幻惑されてはなりませぬぞ。巧みに惑わせるというのはかれのスキルです。

同一性の外延表現を中沢新一は唯物的な外延論と唯心的な外延論に分けている。唯物・唯心一元論の素過程そのものが外延表現の範疇に属していることをかれは考量していない。だから王や国家は社会という唯物的なものであり、神はスピリットの変化したものであると錯覚できる。かれが称揚するスピリットの世界はなぜ変形したのか。どんな圧力が外から加えられたのかと問い、シャーマンや戦士の能力をもった人物が社会の中心部に進出して権力を得たのだと答える。なにも思考されていない。今西錦司とおなじで、人は立つべくして直立し、人は成るべくして人と成り、もつべくして家族をもった、というにひとしい。わたしはその理由を問うている。中沢新一の自然生成は出るべくして社会から王と国家が出現し、出るべくして神があらわれたということになる。神も国家も王もそれぞれの抽象度をもつ共同幻想であるといえば済む話ではないか。なぜ神は心の変形であり、国家は唯物的なのか。中沢新一に残存するマルクス主義ということなのか。

なぜ対称的な思考のなかに禁止・抑圧・排除という生を引き裂く力が生まれるのか。全一者である中沢新一が対象のなかに自己を投影しているからだ。素過程が彼方から襲来されることはない。一人の恍惚者が写すのは素過程の唯物的で唯心的な同一性であって、国家も王も神も同一性の写像にすぎないのだ。中沢新一の対称的な思考はかれのありようの反映だと思う。一人の恍惚を自由の根源とみなす全一者のなかで知識を戯れている。まるごと空虚だ。まったきニヒリズムではないか。対称的な思考を生きるということは、かれの存在のありかたが変わるということで、オウム的なものから目を背けるのではなく、かれ自身のなかにあるオウム的なものを否定するのではなく、オウム的なものであろうとしてもそうあることができない存在をつくることなのだ。中沢新一の柔和さとおぞましさは表裏一体だと思う。柔和なまなざしはいつのまにかトポロジカルに変形して悪鬼になる。かれにおいて対称的な思考はメビウスの輪になっている。中沢新一という全一者の意識にかかれた「柔和な私」がいつのまにか「麻原のような私」にねじれている。対称的な思考を語るごとに、かれはかれ自身を貶めているようにみえる。そうではない。〔わたし〕がいつのまにか〔あなた〕なる、〔わたし〕はメビウスの輪のように〔あなた〕になる、という表現の機微が〔内包〕なのだ。

ドナ・ウイリアムズは、『心という名の贈り物』の冒頭で、わたしはなにを失うのだろうかと、その切り立った崖の上で、自問する。「ゼロよりもはるかに下」の深みでしか生きられなかった過去、なぜわたしはああした仕打ちを受けなければならなかったのか、そこから這い上がりたいと書いた。中沢さん。目の眩むような崖下から這い上がって来いよ。これから中沢新一の贈与についての考えを扱うが、かれの贈与はエッシャーのだまし絵で、じつは交換の裏返しにすぎない。かれの思考の根本的な欠陥は対称的な思考を観念の往相の過程としてしか考え切れていないということに尽きる。対称的な思考を観念の還り道において表現することができていたら、内包論ともどこかで出会えたような気がする。観念の往相の過程で世界を記述しても、世界の無言の条理をなぞることにしかならない。考えるしかないことなどかれにはなにもない。だから中沢新一の散乱する言葉にはスキルはあっても心を撃つことがない。なにか決定的な思考の欠損が思考にある。

おのずからなる贈与は理念ではなく、一切の倫理を介さず、そうあることしかできないということなのだ。生物の利他行動を数式で表現したジョージ・プライスは、贈与するものがなくても他者に贈与したくなる生物学者で、最後は看取るものもなく餓死した。かれは生きものの利他行動を生物学として表現した。贈与とは狂おしい行いなのだ。わかるだろうか。一方的に他者に贈与する無償の行為が贈与の本質なのだ。たしかレヴィナスは『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』という分厚い本の扉に、国家社会主義者によって殺された六百万の人にこの本を捧げる。とりわけ近しい者たちの思い出に、と書いている。べつの本だったかもしれないが、私を収容所で人間として扱ってくれたのは一匹の犬だったと、つぶやいている。わがことのように、食い入るように、レヴィナスの本を読んだ時期がある。贈与とはそのレヴィナスの思考の全体を軽々と超える表現なのだ。還相の性が内包的な贈与を可能とする。(この稿つづく)

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