日々愚案

歩く浄土155:交換の外延性と内包的な贈与6

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交換は経済を外延的に表現したものだが、内包的な贈与という概念は意識の外延表現の派生態ではない。贈与という思考は経済論の範疇からは逸脱しているということになる。逸脱しているとはどういうことか。交換という概念を贈与という概念に組み換えるには、わたしたちの思考の慣性そのものを転換するしかない。倫理を介在させずに贈与という概念が成り立つことを内包論で主張したいからだ。

バタイユはヘーゲルやマルクスとおなじく太い精神のうねりをもった思索者だった。バタイユの言葉から感じられるひりひりじんじんする狂おしさはすきだが、固有の観念をつくりだす苦労がたりなかった。贈与論が経済論ではないとしたら、贈与論の核をなすのは還相の性だから、性によって人間が誕生したと考えたバタイユの思想と内包論は接点がある。バタイユの神聖なエロティシズムという考えは、わたしの還相の性という考えと、どこか似ている。そこでバタイユの思想の未然をど真ん中で射抜くことにした。贈与論の前提となることをより明確にしたいからである。バタイユの思想の根幹は、わたしの理解で言えば、人は性から来て、性に還るということを腑に落ちるようにつかみたい、その激しい衝動にある。ヘーゲルの思想では生きていくことができないというあらがいがバタイユの胸奥にあった。「私たちがエロティシズムという名で呼び、人間と動物を区別するこの激しい感情の誕生こそが、まぎれもなく先史学の探究によって知識にもたらされるものの本質的相貌なのである」(『エロスの涙』)と考えたバタイユは同書のなかでつぎのように言っている。

理性の「末端」は理性を超えるものであり、それゆえ、理性の「目的」は理性を超越することと矛盾しないという事実、その事実にこそ、理性の限界があるのだ。

なにをバタイユは言いたいのか。ヘーゲルの思想ではじぶんをじぶんにとどけることができないと言いたい。なにか過剰なものがバタイユの胸中にあって、それをつかもうとして煩悶する。理性の彼方というものがあるのだが、それがなんであるか言いあてることができない。理性を超えるものを理性で語ることができるか。できないとわたしは内包論で考えてきた。できるわけがないのだ。ヘーゲルの思想に震撼されながら、ヘーゲルを超えることができない。かつて吉本隆明の思想にわしづかみにされながら、吉本隆明の思想に違和感を覚え、強靱な吉本隆明の思想の圏域から逃れようとながく煩悶した時期がある。バタイユが「理性の『末端』は理性を超えるもの」と言うとき、それはヘーゲルの有論のはじまりの不明のことを指している。そしてバタイユは性の知覚において理性は超えられると言いたくてたまらない。それがそこにあることを知覚しながらそれがなんであるか言うことができないもどかしさ。バタイユもまた解けない主題を解けない方法で解こうとして深みに入っている。理性の限界とは同一性の限界と同義である。理性の末端が理性を超えているのであれば、理性とはべつの表現を論理としてつくればいいだけだ。これがむつかしい。わたしも同一性を拡張しようとして七転八倒した。絶句しながらなんとかこの思考の限界領域を突きぬけることができたと思う。この解けない主題を解けない方法で解こうとして人類史が重畳されたわけだ。バタイユはこの思考の限界点を突きぬけたのだろうか。かろうじて神聖なエロティシズムとしてつかみかかっていた。かれの言葉を貼りつける。

このような概観(『エロティシズム』についての概観-森崎注)に目を奪われていた私にとって、何よりも大事なことに思われたのは、私の青春期につきまとわれていたイメージ、すなわち神のイメージを、一つの総体的な展望のなかに再発見し得るかどうかということであった。もちろん、私は青年時代の信仰にもどるつもりはない。しかし私たちが住んでいるこの見棄てられた世界において、人間の情熱は一つの目的しか持っていないのである。私たちがそこに近づく道は多種多様である。この目的には、じつに多種多様な面がある。しかし私たちがそれらの面に意味があると思うのは、それらが深いところで統一されているのに気がつく場合のみである。
 この作品においては、キリスト教の衝動とエロティックな生命の衝動とが、同じ一つのものとして発露しているという事実を強調しておこう。

基礎的には、連続から非連続へ、あるいは非連続から連続への過程がある。私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中で孤独に死んで行く個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁をもっているのだ。私たちは、偶然の個体性、死ぬべき個体性に釘づけにされているという、私たち人間の置かれている立場に耐えられないのである。この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みをいだくと同時に、私たちは、私たちすべてをふたたび存在に結びつける、最初の連続性への強迫観念をも有している。私の語る郷愁は、これまでに私が論じてきた、基本的な事項を知らなければ理解できないというようなものでは全くない。いちばん単純な生きものの分裂と融合を知らない人でも、多くの波の中に失われて行く一つの波のように、この世に自分が存在しなくなることを思えば苦しむことは可能なのである。ともあれ、この郷愁は、すべての人間にエロティシズムの三つの形式を強制する。
 この三つの形式、すなわち肉体のエロティシズム、心情のエロティシズム、最後に神聖なエロティシズムについて、私は順次に語って行きたい。そして語ることによって、この三つの形式の中でいつも問題になっているのが、存在の孤独と非連続性とを、一つの深い連続性の意識に代えることだということを示したいのである。
 肉体のエロティシズム、あるいは心情のエロティシズムが何を意味するかは容易に理解されようが、神聖なエロティシズムという観念は、あまり聞き慣れない観念であろう。それに、こうした表現は、あらゆるエロティシズムは神聖であるという考え方からすれば、曖昧でもあろう。しかし私たちは、いわゆる神聖な領域に踏み入らなくても、肉体および心情には遭遇し得るのである。一方、直接的な世界の彼方に組織的に企てられた存在の連続性の探求は、本質的に宗教的な色合いを帯びることになるだろう。そして西欧でよく見られる形では、神聖なエロティシズムは、神の探求、正確には神への愛と混同されているのであり、東洋では、必ずしも神の表象をそこに参与させることなく、同じような探求が行われているのだ。とくに仏教は神の観念なしで済ませている。それはともかく、私は今から、私の企ての意味について強調しておきたいと思っている。私はこれまで、ちょっと見たところでは奇妙な、不必要に哲学的に思われるかもしれない一つの概念、すなわち存在の非連続性に対立する連続性という概念を、説明しようと努力してきた。ここでようやく、この概念なしには、エロティシズムの総体的な意味もその諸形態の統一も、私たちの手を逃れてしまうという事実を強調することができるようになったのである。(『エロティシズム』)

貼りつけた箇所はすごく面白い。バタイユに固有の生の知覚が神聖なエロティシズムというアーメン小僧のころの郷愁として語られている。ここでバタイユはふたつに引き裂かれた。アーメン小僧の頃の信をヘーゲルの信で叙述している。価値の二重化だ。おなじことをマルクスもやった。ヘーゲルの思想を転倒したとして資本論を書きながら、資本論を精神現象学として書いている。それほどヘーゲルが巨大だということだった。ドゥルーズなんかしびれをきらして、ともかくおれはヘーゲルが生理的に嫌いなんだと言ってしまった。なにをどう言ってもいいんだよ。まだヘーゲル的な思考を本格的に貫通した思想にお目にかかっていない。死を目前にしたフーコーがわずかに真理は他性によってもたらされるといっただけである。
ある生涯をある限定された生として生きるほかないことを、バタイユは非連続な生はどうやれば連続するのかと取りだしている。ああフーコーにも色濃くこのモチーフはあった。意志論を削除し、思考の考古学を微分幾何学として構想したわけだ。連続した相にいきなり非連続の特異点が発生することとして。観察する理性として歴史をそういうふうに記述することは可能だ。マルクスなら個と類の矛盾ということになる。限定されたある生涯を生きるほかないとき、信の共同性が疎外される。この意識のありようを自己意識の外延表現と言ってきた。自己は抽象化された一般性として共同的に表象されるほかない。国家も貨幣もそのようなものとして疎外された。これ以外の表現の形式を持ちあわせていないということがわたしたちの世界のどん詰まり感としてある。自己意識の外延表現はたんにわたしたちの思考の慣性がそうであるというにすぎない。それだけのことだった。外延表現とはべつの表現の領域をつくれば、生も世界も未知へとひらかれる。バタイユは還相の性までもう一歩というところまできていたように思う。キリスト教的な信を郷愁としてもちながら、その信の根をぬき、どうじにヘーゲルの論理式の信の根をぬき、神聖なエロティシズムを内面化も共同化も不能のものとして内包的に表現すればよかった。この細い道を通ってだけ、神仏でも往相の性でもない、理性の彼方が実現できたはずだった。思考の慣性を革める思考は充分に可能だった。なにがバタイユを観察する理性に押しとどめたのかはわからない。

一通りバタイユの著作は目を通したが、数多くの著作のなかで、神聖なエロティシズムがバタイユのなかで根づく心情のように思う。むしろこの感情を味わい尽くそうとして厖大な著作を書きつづけたのではないか。岡潔が人には心がふたつあることを数学で表現しようと生涯を使い切ったように。貫通することはなかったが表現の当事者性がバタイユの思考のど真ん中を流れていると思った。あらゆる言葉のとどかぬところにあるものをバタイユは書こうとした。なぜならばそれはバタイユのなかでありありとありつづけるものであったからだ。言葉を当事者性として生きるということはそういうことだと思う。知識を使い観察する理性として世界を叙述することなどだれにでもできる。すでに可視化され一般化されている知識には固有の生も言葉もない。それらは解けない主題を解けない方法で解こうとする不毛に閉じられている。

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内包贈与論の基礎となる概念をたしかなものとしたいので、バタイユ論をつづける。バタイユの思想には贈与論に寄与するものがあるという直観がこの論考をうながしている。エロティシズムを語るとき、観察する理性の位置がとれないほどに、バタイユはなまなましく生を生きている。エロティシズムは死に至るまでの生の称揚である。これがバタイユの思想の根本命題としてある。エロティシズムの最高の瞬間にエロティシズムは沈黙する。どこかヴェイユの神の概念に似ている。生は個人の死によって切断されるが、生の連続性は死によって非連続的なものとなるのか。終生、バタイユを悩ませた疑問がここにある。エロティシズムの頂点において死は連続的なものになるとバタイユは言いたげである。神聖なエロティシズムは可視化できないから神聖なエロティシズムでありうることにバタイユは耐えることができず、ぎりぎりのところでヘーゲルに回帰している。神聖なエロティシズムが共同化できないから、死は連続的になりうる。この逆理がバタイユにはわからなかった。それが信の共同性の根をぬくということだ。類が個人の生を回収し、死を共同幻想ととらえることが思考の慣性であって、この思考の慣性を突き破らないと、生を固有のものとして生きることはできない。私性は否定性ではなく拡張することによってしか超えることができないという状況の現在もここにある。ある思考の流れに身を任せてしまうと、その公理を相対化することができない。その思考以外の思考が存在するとは思えなくなる。ビッグサイエンスやハイテクノロジーはブラックボックスそのものであるから、ビットマシンやゲノム編集を根底で支えている論理式がみえないシステムとして機能している。疑うならば根底から疑うべきだ。はたして同一性という論理式は無矛盾なのか。バタイユが郷愁を感じる神聖なエロティシズムの場所は同一性が破綻している。かれはこの場所を空間化や実体化を拒み、あらゆる言葉のとどかぬところにあることとして表現すればよかった。くりかえす。それが信の共同性の根をぬくということなのだ。同一性的な信は自己の信と共同的な信が同期することを前提としている。だから、私にとって価値のある貨幣はだれにとっても価値のあるものとしてあらわれる。共同主観的な現実は個人の主観がそれを現実とみなすことによって成り立っている。自己という主観と共同的主観は相補的なことなのだ。自己の内面という自然もまた共同主観を前提としている。わたしたちはちいさな主観という自然の上におおきな共同主観を積み重ねてきた。この自然のくみ上げ方ではもうどうにもならないところまできてしまった。同一性的な信に自己を同期させるほかに生きようがないというのが世界の到達している現在だと言える。

理性の彼方が存在することと、そのことを言葉で表現することとのあいだには千里の径庭がある。共同化できない神聖なエロティシズムはたしかにある。認識の限界を超えた困難さとしてそれはある。それが存在することによって自己の各自性があらわれるということを同一性によらずに表現することは不可能ではないかというほどに言葉になりにくい。しかしそれは存在しないことの不可能性としてたしかに存在する。そしてここをあたらしい自然としてつくりえないならば、交換から贈与への人類史的な転換は起こらない。水は人間という生命形態の自然にとって不可欠のものであり、飲むという行為で自然の代謝関係を維持している。水は三態をとり、固体としても液体としても気体としても相転移を介して存在する。水素二原子と酸素一原子が結合して水一分子になるとき、はじめて水が分子として存在することが可視化される。分子モデルがないならば、水は量としてしか知覚できない。内包存在も存在の粗視化によってはじめて存在することになる。ソクラテスも水の分子モデルなんてしらなかったんだよ。人類の初期も内包存在は存在していたが、それを意識化することはなかった。もともと人は内包存在として存在していたにもかかわらず、身と心がひとつきりの存在のありように心身一如を引きうけ、そこで存在の輪郭を描くようになった。〔根源においてふたり〕という生の知覚がなかったら、意識が目覚めるということはなかったと考えている。可視光線が網膜において化学的に変成され、その刺激が視神経を電気的な刺激として伝播し、視覚中枢でうまそうなりんごと有意味的に知覚されるとき、すでにこの知覚は同一性を前提として成り立っている。考えてもみよ! もしこのおいしそうなりんご、分けて食べようね、という内包的な表出がなかったら、うまそうだから、おっ、喰おうという動物的反射しか起こらないではないか。分けて喰おうという気持ちは人は根源においてふたりであるというという心ばえがなかったら絶対に起こらない。善悪未生の熱いかたまりを分有することのなかにしか意識の起源はない。事後的に同一性が錯認しただけで、私性はとてもモダンなんだよ。私利と私欲はいくらでも変わりうる。内包的な表出という心ばえは同一性という認識のありようよりも悠遠の起源をもっている。よく考えるととても不思議だ。視覚中枢に到達した物性の変化はなぜ心的に登場するのか。光のある波長が神経を化学的刺激として伝導する生理過程がなぜ心的な過程を生じるのか。さまざまな電子ノイズがあるだけではないのか。生の奇妙さを味わい尽くそうとして同一性という象徴の形式をもったにすぎないではないか。驚け! 驚け! 気絶するほど驚け! ここにしか同一性という思考の慣性を突きぬける契機はない。そしてそれはメルトダウンしている現在のことでもある。

わたしの知るかぎり心的な過程について吉本隆明はもっとも破綻のない言い方をしている。「そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく」(吉本隆明『心的現象論・本論』所収「眼の知覚論」)しかし吉本隆明の心的な過程の定義にも矛盾がある。生理的な過程を記述する論理と心的な過程の記述を可能にする原型となる観念を想定しないと、生理的な過程の緩衝域を心的な過程と定義することはできない。あるものがそのものにひとしいという観念の刻み方を同一性と名づけるとき、同一性に先立つ観念というものがなければ、あるものとそのものはたんなる電子ノイズにすぎないのではないかという根底的な疑問が残される。あるものがそのものにひとしいことを統覚する原型の観念があるはずだ。わたしたちは同一性という公理によって同一性を説明している。自己意識の無限性を自己意識を前提にして語るとき、はじまりはいつも不明である。偉大なヘーゲルもこの罠にかかっている。マルクスの資本論もだ。あらかじめ同一性という観念を暗黙に想定し、その公理を使って同一性を定義する。これは決定的な矛盾を引き起こすことになるとゲーデルは不完全性定理として示した。公理に根拠はないということだった。そこで個的な存在を社会的な存在であると言い換え、解けない主題を解けない方法で延命しようとした。人間の精神の夢はつねにここに閉じられている。

心的な過程の定義についてべつの言い方をする。可視光線が網膜に到達し、物理的な刺激が化学的に変換され、ある刺激が神経繊維を伝導し、遅延した刺激が視覚中枢に達するとき、刺激の総量はなぜ対象をそれとして認識するのか。ある刺激が視覚中枢に到達するまでの過程を往路とすると、対象を認識することは復路に比喩される。この過程を大脳生理学が認識することはできない。コップだと認識するようにできていると同義反復するだけだ。対象を認識するということは根本においてはそれがそうなっているというだけでオカルトだと思う。オカルトを自然だと認識するとそれぞれの精神風土に見合った共同幻想ができあがる。アジア的自然が洗練されると村上春樹の文学になるように、この国のナショナルな共同幻想は天皇制として析出する。同一性を暗黙の公理とするさまざまな観念の体系があり、キリスト教も仏教もそのひとつだということができる。
バタイユが覚えたある郷愁、「キリスト教の衝動とエロティックな生命の衝動とが、同じ一つのものとして発露している」はかれにおいては、「神聖なエロティシズム」として知覚されている。キリスト教とエロティシズムが同一のものの発露であるというとき、それに先立つ観念を措定しないかぎり、同一的なものは回帰しないことにバタイユが気づいた気配はない。おなじように吉本隆明の心的なものについての定義は同一性を事後的な観念だとする観念を想定するほかなくなる。わたしは同一性によって刻まれた生や人類史を作りだした原型の観念として〔根源の二人称〕という観念が原初に存在する。観察する理性として申し上げているのではない。わたしの生の知覚は同一性によらぬ観念として表現できる。考えることを考えるということはとても生々しい。生の体験を知識ではなく言葉ではなく置き換えるという気が遠くなる作業がある。言葉のとどかぬところにある出来事を言葉であらわそうとする行為が、言葉をたどたどしくする。ない言葉をつくるということはそういうことだ。宗教的な信への衝動と性への衝動をおなじものとみなすには、信の共同性を解体し、往相の性の彼方まで行くしかない。自己意識の外延性は共同的な信を不可避とするが、還相の性は共同化も内面化もできないからだ。バタイユは神聖なエロティシズムを還相の性まで拡張すればよかった。同一性という公理を拡張しうる観念が還相の性である。わたしは同一性にたいして還相の性を公準として対置する。共同化も内面化もできないこのあたらしい人倫において貨幣の交換はおのずから内包的な贈与となってあらわれる。内包的な贈与は意識が外延化された貨幣の経済論には属さない。交換から贈与は生の知覚をひろげることによってしかもたらされない。富の公平な分配は倫理を仮構するだけで、私性をひらくことはない。では内包的な贈与は人間の関係にどんな関係の変化をもたらすのか。遼遠だがこれから考えていく。真理という思考の慣性の外へ出ること。外は外部の内部化ではない。(この稿つづく)

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