日々愚案

歩く浄土152:情況論45-国家の融解とあたらしい人倫

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安倍報道で気が鬱々していたとき、面白いツイートをみつけた。「坊主」という名の発信者。

以前に「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」を上回る神フレーズ選手権を開催して最優秀賞に輝いた「笠地蔵に集団暴行されるレベル」というのがありますが他の入賞作の「与謝野晶子でも君死にたまえっていうレベル」の方が最優秀賞にふさわしいのではないかと一部仏教界で決まったことをご報告致します。

以前に、深そうで深くない言葉選手権で入賞した「ハードルは高くなるほど潜りやすい」というのが深いのではないか、という問い合わせが相次ぎ、一部仏教界で審議した結果、深いということになりました。よろしくお願いします。

第2回領収書の書き間違え選手権を開催します。

歴代レジェンド達
「ウエディ様」
「クーラン様」
「ブランク様」
※ウエディとは「上でいいです」の意味

特別賞
「はなぶさでお願いします」
「どういう漢字ですか?」
「英語の英です」

「A様」

です。お待ちしております。

このツイートには政治がない。熊本は夏は蒸し暑く、冬は冷え込む。たまに近所の人と時候の挨拶をする。今日は暑いですね、とか、冷えましたね。いや、寒かった、暑かった、とはならない。政治もこんなになったらいいと思う。

安倍晋三の頭のなかを「爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」が渦巻き、このカルトを補弼する事務方が内閣である。民主主義の使い回しで安倍のカルトとサイコパスに対抗できるか。わたしは総表現者とのひとりとして、ポリティカル・コレクトネスでもなく、俗でもなく、安倍の独裁を打ち倒すことができると思う。総表現者という考えは人と人のつながりかたを変える。また人と人とのつながり方が変わらないかぎり、この世のしくみを革めることができない。安倍を嫌悪することも唾棄することもできる。では、お訊きする。いったい、なにをどうしたいのか。どうありたいのか。国有地のただ同然の払い下げも、共謀罪法案も、ほんとうはここが問われている。大事なことは手から手へと無限にちいさな、言葉にならない言葉でしかつたわらない。どうであれ、桜は咲く。空は青い。国家が溶解しつつあるなかでおぞましいことが起こっているのはたしかだ。籠池泰典の国会での証人喚問で、国家権力が総掛かりでひとりの人間を抹殺しようとする。わたしはここで籠池泰典の主観的意識の襞にある信条を考慮していない。かれの主観的信条がどうであれ、国家権力がひとりの人間の存在を抹殺しうるということ。その傍らで、安倍昭恵は私人であると閣議決定をする。「下位の人間の忖度によって指示無しに権力意思を体現する団結の力を『云々力』と呼ぶのはどうだろうか。読みは『でんでんりょく』で。ついでに上の人間の意図に頓着しない人間を『でんでんむし』と定義する。もちろん塩をかけて村八分にする」「パン屋を和菓子屋に書きかえさせたのも忖度パワーだぜ」「ひとつの国家が狂って行く過程は、こういう一見些細な部分から顕在化しはじめるものなのかもしれない」(小田嶋2017年3月24日ツイート)書かれていることはそのとおりだと思う。ひと月前に菅野完は書いている。「日本会議や籠池理事長を『右傾化』と見ていたら、足元をすくわれる。ありゃ、サブカルチャーであり、文化運動であり、連中は、『日の丸君が代が大好きな新左翼』と言うた方がわかりやすい」「つまり塚本幼稚園、そして日本会議的なものとは、『極右ごっこ』でしかないと言うこと。彼らは単に『サヨクが嫌い』な人々なのだ。彼らのメンタリティは『サヨクが嫌いと言う範囲に収まるならば、それが嘘でもデマでもなんでもいいと』言う類。昔の新左翼そっくり」「だから正しい認識としては、『アベ首相頑張れと運動会で言わせる』のを見て、『軍靴の響きが』と憂慮することではないのです。ああ言うのを見たら、『ヤンキーが幼稚園経営しとるんやなぁ』『そりゃそうやわな、大阪の知事とか大阪の維新とか、ヤンキーでしかないもんな』と憂慮することなんです」「あなた暴走族が特攻服に八紘一宇って刺繍してるのみて、『戦前回帰だ!』とか言います?言わんでしよ」(2017年2月26日)菅野完の現場感はいい。

国家の私性への融解。安倍晋三が国家を私性によって占有する事態が現にいま起こっている。国家権力が総力をあげてひとりの民間人の人格を破壊する。公開リンチと変わらない。籠池なる人物の「社会」主義的皇国思想と教育勅語は時代錯誤だが、かれは神風が吹いて、主張がビジネスになることに驚いたはずだ。だから「ああ。日本はトランプにびっくりしてる場合ちゃうな。トランプ現象は、日本でもう10年前に起こっとる」という菅野発言にぴんときた。戦前に復帰することよりも、もっとおぞましい出来事が進行している。国家が自然な基底を喪失し、戦前の皇国思想ではなく、国家の内面化がカルト的にあらわれているということだ。オウム真理教が国家権力を掌握したらどうなるかということがいま起こっている。麻原彰晃が安倍晋三に取って代わったということ。そしてそのカルトがビジネスになる。

錯綜する情報のなかで、フェイクニュースもあるだろうし、スマホでネットの記事をみるだけでは森友学園問題の全貌はみえないが、首相案件が安倍陛下のご意向として忖度されたことは断定できる。しかし問題はそんなところにあるのではない。邪悪な意思の権化である安倍晋三とその一味がいて、その悪政にあえぐ国民がいるという図式ではみえてこないことがある。共謀罪もおなじだが、なぜ人は権力の逆鱗に触れないように羊のように群れるのか。村八分は人びとの長い歴史が積み上げた生活の知恵だった。なんとか生活を維持していくための村落社会の内発的なポリティカル・コレクトネスなのだ。なぜ村八分があるのかとはだれも問わない。問うた瞬間に自分が出来事の当事者になるからだ。村八分という排除の観念のない世界を考えるやいなや、問うものは人権という観察する理性の場所から弾き飛ばされ、どちらでもない第三者の場所を占めることはできなくなる。生身を大地に晒すしかないわけだ。その場所に籠池は立っている。メディアやもの書き文化人は籠池泰典の胸中をじぶんの言葉で言うことができるか。起こっていることは遺棄である。味方がすべて去り、権力によって公開のリンチをうけ、衆目にさらされる。壮絶な孤絶のなかで世界にひとりで立つということ。証人喚問のときの籠池泰典の表情や声を聞きながらそういうことを思った。籠池泰典の主義信条は偽物であるが、むきだしに晒されたことにうそはない。かれの発言におもねりや卑しさはなかった。メディアは独裁者を忖度し、「爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」と報道する。腹を括ればたいしたことない。内面化も共同化もせずひとりでやりぬけばいい。それだけのことだ。内面化するから文学という忖度に溺れ、共同化するからポリティカル・コレクトネスという欺瞞になる。ひとりで引きうけ、ふたりとしてひらくこと。そこにしか世界の未知はない。そこにしか世界の人倫はない。

小選挙区と内閣人事局によって党員と官僚を縛りつけ、食を供してメディアの幹部を抱き込むというわかりやすい独裁のあり方に加えて、籠池事件の核心は、取り巻きが安倍昭恵を忖度して籠池へ便宜供与したということだけでもなく、安倍の愛国詐欺という首相案件を妻がミスリードしたということであって、官僚が首相案件を忖度したということよりは、安倍夫婦の関係のあり方からから派生しているのでないかと思う。べつにかれらが不仲か仮面の夫婦かどうでもいい。なにかかれら夫婦の関係は歪んでいる。そのひずみが社会を巻き込んだ。天然をよそおう悪魔の昭恵とカルトでサイコパスの安倍の妄執が事件の本質ではないか。かれらの夫婦の歪みがあって事後的に籠池への便宜供与があったのではないか。ネットの記事ではそういうことを言っているものは見あたらなかった。

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新聞は購読していないし、テレビもないので、スマホでネットの記事を気の向くままに読んでいる。ネットに比べると、大手メディアは官制報道だから論外だとして、スポーツ新聞も週刊誌もスマホのツイートに比べると情報の流れる速度が遅い。いま起こっていることの臨場感はネットが勝る。このひと月ほどそのことを痛感した。事件は商品だからすぐに賞味期限がきて、つぎの話題に移る。なにか情報を追いかけることが現在であるような錯覚が起こる。糖質中毒があるように、手軽な情報の中毒がある。根づく言葉はどこにもない。規範的言語のやりとりしかない。安倍政権の国有地の格安払い下げ事件があっても世論調査による支持率は微減にとどまっている。わたしの回りに安倍の支持者はいないのでいつも不思議に思う。報道はそれがどんな媒体であっても、ある意見や見解を個人に向けて発信している。政府の見解であってもツイートであってもそれは変わらない。メッセージを社会的な個人に向けてとどけている。フェイクであろうとなんであろうと。最近、オプジーボというがんの特効薬ができたと報道されると、貧乏人でも家族を救おうと高額の治療費を負担するし、小野製薬の株を買って大儲けする者もいる。おれも投資したことにして儲けた分をもらえないかと言ったら笑われた。
それは面々の計らいだとしても、言葉が根づくとはどういうことかとよく考える。自分の体験したことは言葉では言えませんということを言葉で言う。内面化された言葉は内面のコーディングに沿って記号化して社会に発信される。このとき伝わらないという符牒はすでにあらかじめ公共化されている。内面と社会化の密約だ。対手もそれを承知で受け取る。内面の文学と公共性はこの密通によって成り立っている。自己に内面というものがあるように思考の慣性はつくられてきた。内面は共同性に同期するようにもともとつくられている。そうした自然しかわたしたちの歴史はつくりえていない。外界の自然が国家権力となり、応力として個人に内面というちいさな自然が付与される。むろんこの作為は自然だと認識される。環界の自然と内面の自然。このふたつの自然を準拠としてなされる表現をわたしは外延表現と呼んできた。外延自然はさまざまにあらわれるが、あらわしかたがちがうだけで本質的にはおなじ自然のべつようの表現にすぎない。このふたつの自然を統覚する論理式のことを同一性といってきた。この理念は意識されることもなく普遍的なものとしてわたしたちの生や歴史を貫通している。

水には固体、液体、気体の三相がある。だれでも知っていることだ。固体、液体、気体のそれぞれを、自己幻想、対幻想、共同幻想に比喩してみる。固体から液体へ、液体から気体へ相転移を起こしても相転移の本態は水である。おなじように観念がそれぞれの態様をとっても統覚する観念の本態は同一性である。わが身に起こったことを反芻し、わたしは意識の外延的なあらわれのうちで対幻想だけに未知の可能性があると思った。経済過程が大枠で意識のありようを決定すると考えたマルクスの経済論にたいして、吉本隆明は観念は経済過程を括弧に入れて、位相的に異なる三つの観念として存在すると考えた。マルクスの思想の信があり、吉本隆明の思想の信がある。この二つの信を同一性が担保していることにわたしは気づいた。存在が意識をおおまかに決定しているように思えることや、位相的に異なるものとして存在している三つの観念のうち、対幻想と言われる観念に生の未知の可能性があると考えた。それは同一性を公準としてつくられたどんな世界ともまったくちがうとわたしには思われた。この驚異を内包自然と名づけた。この生のリアルは自己に先立ち、一方的に向こう側から来るもので、親鸞の自然法爾や他力に近いことが感得された。この知覚は知識ではない。しゃべり、歌い、踊り、立ち、歩き、触れる、生の知覚そのものである。そこには同一性に分化するまえの未分化な生が根源の〔ふたり〕として熱く息づいている。神や仏、あるいは対幻想という往相の性の彼方にある、まっさらな生の可能性であるようにわたしに知覚された。内包論とはその驚きの軌跡にすぎない。言葉が根づくことの根拠はここにしかないような気がする。

言葉が根づくとはどういうことか、もう少し考えてみる。なぜ社会的な運動はこれほど無力なのか。みな気づいている。未知を喚起する力が言葉や運動のなかにないからだ。社会や政府に反対の意を表明するデモや集会がボコボコ噴出することは社会が健全であることを明かしている。これほどの不正が政府によってなされても、治安を維持する共謀罪法案が閣議決定されても、叛の旗が乱舞することはない。なぜか。わたしは市民主義の側からの安倍への批判は意味がないといぜんから主張してきた。市民主義の欺瞞が安倍晋三のカルトをのさばらせ、安倍のやりたい放題を野放しにしてきた。では、シールズの戦争法制反対のデモと報道されている籠池泰典のなしたことのどちらに義があるだろうか。どちらの主張も「社会」主義であることで共に無効であると思う。わたしは民主主義を使い回す者たちのポリティカル・コレクトネスをまったく受けいれない。おなじように愛国という擬制を名乗る皇国主義も否定する。ポリティカル・コレクトネスは飾りであり、愛国主義は私性のビジネスである。民主主義も皇国主義もとっくに壊滅している。いずれの信も担ぐ者たちの主観的意識の襞にある信にすぎない。称名を唱えるだけの念仏は共にカルトである。どちらの主観的信条も奉戴される共同幻想に閉じられているだけではないか。もっと根源的に思考せよ。地軸が傾くほどに。銘記せよ。わたしたちはふたつの自然を輻輳させて長い人類史を連綿と重畳してきた。まだ同一性が落とした長い影のなかにいる。同一性の拡張において擬制は終焉する。根源の〔ふたり〕からいったい、なにを奪うというのか。なにより、根源の〔ふたり〕から広がる世界が信の共同性をつくることはない。富は分有され、共同性は喩としての内包的な親族へと転位する。広大な未知の歴史が、固有の生が、まったく未知のものとしてそこに現前する。生身の一箇の実存をかけて大胆に思考せよ。それぞれの生の現場で声をあげよ。内包というあたらしい人倫から鬨の声を挙げようではないか。

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