日々愚案

歩く浄土151:交換の外延性と内包的な贈与4

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エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』は刺激的だった。トッドは『世界の多様性』のなかで、276の民族の資料を渉猟し、ある特定の民族の家族の形態は、ある特定の政治イデオロギーと結びつくことを発見した。このことはマルクスも知らなかったことだと誇らかに語っていた。『家族システムの起源』では、西欧近代を範をする構造主義人類学と決別する。わたしは精神の古代形象を、人は性から来て、性に還る。生の原像を還相の性として生きるとき、人類史は転換すると主張してきた。国家は喩としての内包的な親族に変わり、貨幣は交換ではなく内包的な贈与になる、と。国家も経済も共同幻想であり、精神の古代形象のありようのなかに世界史の現在を超えるきっかけを探ってきた。人類史の初源において人は根源において〔ふたり〕であり、一万年の歴史を生の原像のなかに直立させれば、かつてのかなたがいまここに現成すると考えた。過去を想起するように未来が追憶される表現がある。精神の古代形象を尋ねることは私性の起源を問うことでもあった。そういうわたしの手探りにエマニュエル・トッドの『家族システムの起源』はおおきな手がかりをもたらした。かれはこの大著のなかでシンプルな発見を述べる。家族システムの古代的なかたちは核家族であった。トッドは言う。「歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになるのだ」。もう未開から漸次解明へと進化する構造主義的な思考から決別しようではないかとトッドは言いたい。

諸学との間合いの取り方について少し書く。数学は手を動かさないと駄目だ。東京にいるとき数学塾でトポロジーや数学基礎論の研究者たちとポアンカレの『科学と仮説』の研究会をやった。時間と空間の数学的拡大というのがテーマだった。アインシュタインの特殊相対性理論を数式を筆写しながら理解し、理解は貫通した。つまり時間が延び縮みするのがどういうことかわかった。一般相対性理論も数式で追いかけようとしたが、友人の数学者から、それ理解するにはリーマン幾何学の曲率という概念を理解しないと理解したことにはならない、おれは朝昼晩3年考えてやっとわかったと言われ、諦めた。レヴィ=ストロースの構造人類学という概念は数学の代数的構造を手を動かして理解すると、構造という概念はよくわかるが、すこしも面白くない。たとえば免疫学の多田富雄や安保徹はどうか。ニック・レーンのゲノムや生化学の知はどうか。見慣れない用語が煩雑なだけで論理式の抽象度は低い。ラボで手を動かさないと日常の感覚にはならないと思う。数学は手を動かすこと。化学はラボ。エマニュエル・トッドの家族人類学も述語の目新しさ以外は論理式としては簡単なことしか言っていない。
自然諸科学にも階層性があって、より数学に近い諸科学は心的な領域を括弧に入れても成り立つ。小惑星にロケットを飛ばし、資料を回収して地球まで戻ってこれるわけだ。この一連の操作のどこにも心的な過程は関与しない。それでも量子力学の観測者問題は解明できない。おそらく観測者問題の不可解さは物理や数学の問題ではない。数学や物理をなりたたせる認識の論理の奥行きや幅のことではないかと思う。ペンローズは完璧な数学で書かれた量子重力理論があれば意識は解明できると言っている。そうかなあ。ちがうと思う。深海のアルカリ熱水孔でプロトン勾配という化学的な代謝から生命の起源を解明しようとしているニック・レーンが心的な過程を考慮することはない。医学になるとべつの様相を呈する。医学は心身が相関する領域の学だから人間という生命形態の自然を環界の自然そのものに還元することは原理的にできない。この領域では安保徹の身体はまちがわないという思想がいちばん優れていると思う。諸学の知を諸学をささえる公理で読み解くこと。わたしはこれ以外の本の読み方を知らない。人間という現象を解明しようとするどんな思想にも思考者の暗黙の公理が隠れている。それを読み解けば読解は終了する。あとはじぶんの公理と照らし合わせるだけだ。このやり方でしか本が読めない。

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トッドは『家族システムの起源』の上巻の「序説」で『世界の多様性』のなかで書いたことを要約している。

 まず始めにあったのは、近代化の軌道の多様性は、伝統的家族構造の多様性によって説明することができるということを、示そうとする意志であった。まことに単純な一つの確認に導かれて、私はこの仮説を文言化するに至っていた。すなわち、共産主義の地理的分布図は、その絶頂期において見せていた通りの形では、ある個別的な家族システムの地理的分布図と、驚くほど似通っていたのである。内因性の共産主義革命が起こった国(ロシア、中国、ユーゴスラヴイア、ヴェトナム)と、民主主義システムの枠内で共産党が多数の得票を見せる地域の大部分(イタリア中央部、フィンランド北部)では、伝統的農民層において、共同体家族という特殊な人類学的形態の存在を確認することができた。それは、その最大限の世帯発展様態において、父親とその既婚の息子たちを適合させた世帯を作るものである。共産主義イデオロギーの発達に必要な価値観は、革命扇動者たちより以前に存在していたということになる。(17p)

共同体家族のありようが革命扇動者たちを招き入れたとトッドは言う。なるほどそうかもしれない。マルクスも『資本主義的生産に先行する諸形態』としてロシアの共同体を論じているが、延々と資料を採集してその厖大な作業からトッドは帰納法的に、ある特定の家族共同体がある特定のイデオロギーと結びついていることを発見する。ここまでだとトッドは優秀な人類学者だが、『家族システムの起源』で思考を転回する。家族の起源を古代まで遡ると核家族だったと、びっくりすることを言う。わたしたちの思考の慣性は吹っ飛ぶ。内包論では精神の古代形象の初源は人は根源において〔ふたり〕だと考えてきた。根源の性を分有するそのかたちが家族であると。トッドのアルカイックな家族と内包論の根源の二人称がここで出会っているような気がして興奮した。『家族システムの起源』の「序説」をマルクスの価値形態論のように読み解くととても面白い。外延的な意識で、トッドは人類学の方法を革新しかかっている。

 第二次世界大戦後になると、人類学者たちは、ナチスの人種主義の打撃から立ち直れず、次いで民主主義諸国の植民地主義にうんざりしてしまい、大変な努力をして、進化主義を厄介払いしようとすることになる。まことに唐突に、かつまことに公式に、地球上の諸民族を階層序列化するのを止めたのである。 彼らの善意は真摯なものであったが、それでも彼ら人類学者たちは、諸民族を同一水準に置くことに本当に成功したとは言えなかった。なぜなら、人類学は、「未開人」、つまりは非ヨーロッパ人の研究を専門的に行なう学問分野であると自らを定義することによって、発展の観念に乗り越えがたい公理としてのステータスを一挙に与えてしまうからである。人類学による一般化は、そのモデルにヨーロッパ人を組み込むことが決してできなかった。ヨーロッパ人は、明らかにその経済的成功によって、人類の総体を包含する法則の中に席を占めることを免れたのである。それこそが、フィールドで実現するモノグラフが方法論的にいかに厳密であろうとも、学としての人類学が挫折したと言わざるを得ない根本的理由であると思う。
 しかしもしヨーロッパ人を先験的に「近代的」と見なすことを止め、どんな人間集団とも同様なものとして扱うとするなら、その場合は、彼らの核家族が、地上の最も「未開の」民族にも見られるということを、確認せざるを得なくなる。なぜ核家族は、〔近代イングランドのような〕複雑な社会システムと未開の共同体とに同時に対応し得るのかということを理解しようとすると、われわれは構造主義の公理から脱却しなければならなくなる。(28~29p)

皮肉に聞こえるかもしれないが構造主義は人間とはなにかを問う学ではない。いくつかの要素についての相互の関係の型だけを問う。意味を排除した空間の学だ。トッドも指摘しているようにそれは第二次世界大戦の惨禍の後遺症だった。人間の関係から直接的な倫理をぬき、関係の型だけを論じるマルクス主義の変形だったと思う。レヴィ=ストロースの構造人類学よりもトッドの『家族システムの起源』の気づきのほうが刺激的だった。トッドのつぎの発言は内包論にとって示唆的だった。想像力がかき立てられる。

 現地バンドは、核家族なり独身の個人がいったん所属したらそれっきりというような、凝固した構造物ではない。息子ならびにその配偶者と子供を自動的に成員と定義する父方居住原則によって構造化されているわけでも、娘ならびにその夫と子供を成員として指名する母方居住原則によって構造化されているわけでもない、原初的現地バンドは、加入に関しては、選択と柔軟性を特徴とする。それこそがシステムの「未分化性」もしくは「双方性」の基本的な論理的帰結に他ならない。若い夫婦は、夫の家族の集団に加わることもできれば、妻の家族の集団に加わることもできる。選択の可能性があるということは、その見直しの可能性にも道を開く。選択の当然の帰結とは、柔軟性にほかならない。これこそが未分化の〔無差別化された〕システムの主要な様相の一つであり、父系であれ母系であれ、単系のシステムというものの硬直性と対照的な点なのである。 家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的なものと見なされていた形態(不可分の大家族、直系家族)の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現われることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現われることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現われることになろう。(44~45p)

「未分化性」や「双方性」という概念はとても太い。母系制や父系性、交差イトコ婚はよく知られているが、従来の人類学では知識が断片的で説明の論理が入り組み、いったいなにが言われているのか理解しがたい。婚姻のしくみや財産の相続がどうなっているかなどどうでもいいではないか。いつもそんなことを感じていた。父系性や母系制が制度化されるまえにもっとシンプルな核家族が原初に存在したとトッドは言うのだ。わたしたちの思考の慣性は、群れ状態のなかから王があらわれ、衆生が虫木草魚として地を這いずるように生きるというイメージが初めにある。三人称から一人称が長い時間をかけて立ち上がってくる過程を歴史と考えがちだ。モルガンの『古代社会』からすると観念の革命だ。起源として提示される家族の原型。人は性から来たりて性に還る。このどこにも交換や国家という共同幻想はない。人が根源において〔ふたり〕であることのあらわれが家族である。このシンプルな原理。他に欲しいものはない。(この稿つづく)

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