日々愚案

歩く浄土150:交換の外延性と内包的な贈与3

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貨幣を共同幻想として考えようとしている。悠遠の太古、陽気な面々は根源の性を分有することでヒトから人になったと精神の古代形象をイメージしてきた。国家が共同幻想であるとすれば貨幣もおなじく共同幻想ではないか。国家の衰退と精神の退行現象は同期していて、その一方でグローバルな経済やハイテクノロジーは世界を席巻している。内面化した国家のなかにもグローバリゼーションは浸透してくる。国家の内面化はグローバル経済を阻止することはできない。奇妙なアマルガムだ。おそらくだれのなかにもその実感があると思う。国家という共同幻想と貨幣のグローバル性の乖離はなにを意味しているのか。そういう問題意識があった。ユヴァルの『サピエンス全史』を読んだのは偶然だったが、なにか視界がひらけた。その頃から意識的に共同幻想という概念の幅をひろげようと思いはじめた。自然科学の知も貨幣もおおくは共同幻想ではないのか。そういうことをここしばらく考えている。たんなるひとつの仮説にすぎない科学知が真理のようにあらわれ生を引き裂く現実がある。教育勅語よりも倒錯しているにもかかわらず、それが意識されることはない。かつての戦争期の天皇の赤子は万民平等であるという皇国イデオロギーよりもはるかに根がふかい。ここになにがあるのか。真理も共同幻想であり、貨幣も共同幻想であると考えるほかないように思う。国家の内面化よりもはるかに深刻な事態が起こっている。かつての戦争期よりもっとおぞましいことが進行している。

マルクスの交換という概念を共同幻想として読み解くとどうなるか。ユヴァルは意識の外延性として人類史を論じているので、さまざまな共同主観的な現実が遷移していくようすを淡々と記述している。ハンムラビ法典にある人の命を金銭によってあがなうことと近代の人権を等閑視している。神経を逆なでされるような気がしながら、だれもここまであけすけに言ったことはないとヘンな感心もした。ユヴァルは人類の統合をビットマシンと人間の知性が融合することのなかに見ているが、そのあたりは『インターネットのつぎに来るもの』のケヴィンに似ている。わたしはユヴァルとはまったくちがうことを考えている。それはともかく。。。内包論を進めるにあたって外延表現の範囲でももっとやることがあるだろうが、とやきもきする。こういうことだ。吉本隆明が天皇のためなら死ねると思い決めいたかれの息苦しい内面の劇は「マチウ書私論」や「転向論」を経て、『共同幻想論』で国家は共同幻想であると言いきったとき広い世界に出ていくことができた。吉本隆明の思想には行き途だけがあって還り道がない。大衆という理念に思想の夢を付託しているわけだがいっこうに霊験あらかたとならない。そこにはなにか思想の根本的な欠陥があるとながく考えてきた。いまは、吉本さんの思想は平時の思想だ。と思っている。平時の経済が成長する時代の思想であって、中流幻想が一瞬で吹き飛び、人びとが総アスリートとしてむきだしの生に曝露されるとき、吉本隆明の思想の指南力は失効していることを痛感してきた。ハイパーリアルなむきだしの生存競争の時代で、もっとも強大な共同幻想は金融工学であり、科学的知が生権力として生の隅々まで侵襲してくるということだった。ビットマシンが関与するビッグサイエンスがブラックボックスとなりこの過程を推進している。共同幻想という概念をもっと広げないと状況に対応できない。内包論を進めながら一方ではそういうことも考えていた。状況の必然に迫られて、わたしは諸学の大半の科学知や貨幣を共同幻想と考えることにした。内包論はこれらのことも勘案しながらすすめている。

吉本隆明は『親鸞』で往相の知と還相の知を見事に取りだしたが、生や歴史をまるごと還相論で描くことはなかった。わたしの印象では還相の過程にある知の心得ということでしかないと思う。往相の知として共同幻想のしくみは解明したが、それではどうやれば国家から降りることができるかということについてはなにひとつ述べていない。おなじ印象はマルクスの資本論にもある。資本主義的な生産様式のなかで資本がどう駆動しているかについては詳細に論じたが、ではどうすれば公平な分配のしくみができるかということについては希望的観測以外なにも書かれていない。観察する理性は意識を外延的に行使することによって可能となるが、しゃべり、歌い、踊る、そのつど全体としてある生の自然的な基底そのものに触れることはできない。観察する理性と意識の外延表現は不即不離で一体のものとしてある。べつの言い方もできる。私利や私欲と自由や平等、あるいは私性と貨幣はきわめて相性がいいが、これらの理念と三人称のあいだは断絶がある。だれもがこの事実に目を背けてきた。この深淵を目を瞑って跳び越したところに友愛や博愛が位置している。マルクスも吉本隆明も往相の知として貨幣や国家の起源を描くことはできたが、ではどうすれば三人称問題を解決できるかと本格的に問うた気配はない。それは大衆と知識人という生の分割に安閑としていたからだ。マルクスは「人間精神は二〇〇〇年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗している」と言い、吉本隆明は私性の根深さについて「これが二千年前も、二千年後の現在も『社会』が孕んでいる疑問である」と言っている。往相の知ではこの問題の解決はつかない。わたしは内包知ならこの解決が可能だと考えている。

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マルクスは『資本論』に先立つ『経済学批判』で言う。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(『経済学批判』13p)

使い古された手垢のついた定式だが、存在と意識をめぐるもつれた系はマルクスの『資本論』にそのまま引き継がれた。マルクスが価値形態論で使用価値と交換価値の二面性から貨幣の謎を解こうとするとき、すでにレヴィナスの三人称問題が伏在している。マルクスは解けない主題を解けない方法で解こうとしているのだ。マルクスは「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである」(『経済学批判」序言』)と言ったが、かれの傾けた情熱がこの困難を回避してくれることはついになかった。

存在が意識を決定すると考えたマルクスが引いた言葉のおおきな弓にたいして吉本隆明は『共同幻想論』の「序」でつぎのように言う。

 だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った分野は違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったというようなことがあると思うんです。
 その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。なぜそれでは上部構造というようにいわないのか。上部構造といってもいいんだけれども、上部構造ということばには既成のいろいろな概念が付着していますから、つまり手あかがついていますから、あまり使いたくないし、使わないんですけれども、全幻想領域だというふうにつかめると思うんです。その中で全幻想領域というものの構造はどういうふうにしたらとらえられるかということなんです。どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか。
 僕の考えでは、一つは共同幻想ということの問題がある。つまり共同幻想の構造という問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。
 もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
 もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。
 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。そういうふうに統一的にといいますか、ずっと全体の関連が見えるようになって、その一つとして、たとえば、自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想の問題なんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、今度は問題意識がそういうふうになってきます。
 そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。
 はっきりさせるために逆にいいますと、経済的諸範疇を取り扱う場合には幻想領域は捨象することができるわけです。捨てることができる。自己幻想がどうなっているかとか、共同幻想はどうなっているかということは大体捨象することができるわけです。
 ところが、幻想的範疇をその構造において取り扱う場合には、少なくとも反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して関係があるというところまでは経済的範疇というものはしりぞけることができる。そこまではしりぞくという前提があるんですよ。だから僕にいわせれば決してヘーゲル主義ではないんですけれども、そういうように統一的にといいますか、つかむ機軸が自分で見えてきたということで、おそらく僕なんかのやっている仕事がそういう形である意味で広がっているし、広がりながら関連はつくというふうになってきた。そういうところだと思いますね。

ふたつのおおきな精神のうねりを統覚しようとこのメモを書いている。かれらの主観的な心情の襞はここではまったく考慮されていない。おおまかに言って存在が意識を決定する傾向はある。しかし存在が意識を決定するようにみえても、意識は内面に観念の王国をもつことも可能だから、どんな社会的な制約からも自由であることもできる。すなわち意識がなければ存在を措定できない。この真理をフーコーはもう一捻りした。真理は他性によってもたらされるとフーコーは死の直前に遺言した。おそらくフーコーの言い遺した観念の場所に恐ろしいほどの自由があった。吉本隆明は気づくこともなくその場所の存在を暗喩している。「経済的な範疇はある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです」というとき、この「ある構造」がフーコーの最期の言葉とじかに関係する。なぜ存在が意識を決定し、それにもかかわらず意識がなければ存在を措定できないというどうどうめぐりを繰りかえすのだろうか。存在論と認識論に内包論の存在論が先立つ。わたしの表現の公理だ。吉本さんに「この構造」とはどういうことですかと何度か尋ねたことがあるが、まだわかりませんと、言っていた。

マルクスが経済過程からの必然として、それぞれの意思を制約する観念が上部構造としてそびえると言明するとき、皮肉にもマルクスはその必然をまぬがれる観念の場所から、存在が意識を決定すると言っている。観察する理性というものは本質的に出来事を俯瞰することが可能なのだ。ある理念を表明するときその理念を鳥瞰している。外延知がこの宿命をのがれることはない。意識の外延表現とはそういうものなのだと言える。あるいは吉本隆明が自己幻想と対幻想と共同幻想はそれぞれちがう観念の位相をもって存在しているというとき、なぜそれぞれがべつべつの観念であると言えるのか。若い頃からそのことがわからなかった。半世紀近く考えに考えた。それぞれがべつの観念の領域をもつことを担保する観念があるはずだ。この観念こそが同一性だった。吉本隆明は「ある構造」に裏側から触っている。自己と対と共同の三つの観念を統覚する観念がなければ観念を分別することはできない。経済的な範疇に還元できる人間の生存のありようも、強いられた生存から自由である観念も同一性によって担保されているということだった。存在が意識を決定することも、意識がなければ存在を措定できないことも、同一性の戯れにすぎない。生を漂流したフーコーはヨーロッパの知の源流まで遡り、倫理的活動の核という生存の美学をつかんだのではないかと思う。

内包論の場所からすると、国家も、交換という貨幣のシステムも、三人称に抽象化された自己意識の一般性として、ともに共同幻想である。経済的な範疇が優位であるかのように仮象されるとき、貨幣は人びとにとってなによりたしかな共同の表象であり、国家が優位であるように生を強いられるとき、国家は人びとの生を支えるかのように仮象される。経済的な範疇を優位に置けば貨幣が共同幻想として、国家が自然であるようにふるまうとき国家は共同幻想としてあらわれる。それだけのことだった。外延知は存在と意識を対位させることでしか出来事を表象できない。「ある構造」を言いあてられないままに吉本隆明はこの世を去った。わたしの理解ではマルクスの資本論の交換という概念は吉本隆明の国家が共同幻想であるという概念と見事な対応をしている。だれも言っていないが、マルクスの資本論は共同的な観念を本質とする貨幣論とも読めるわけだ。

贈与論は経済論ではなく内包知に属する。内包論では経済論と幻想論を分別することはない。貨幣は商品を媒介にした共同幻想の遷移であり、観念を本質とするとき、宗教から法へ、法から国家へと共同幻想は変遷する。マルクスも吉本隆明も偉大な思想家であるが、内包という世界を構想することはなかった。フーコーは観察する理性の果てに他性によってもたらされるある観念の領域をつくった。なぜかれは他性をつかむことができだのだろうか。もしかするとかれが生の当事者だったからではないか。外延的に空虚なじぶんにじぶんをとどけるのが表現であり、文学である。マルクスは資本主義社会の資本のメカニズムをかれなりに解明し、吉本隆明は共同幻想のしくみを解明したが、外延的な思想の宿命として解明した世界から生存の基底に降りてくることができなかった。マルクスも吉本隆明も往路の思想をつくることはできたが、交換を贈与に転位し、国家のない世界はどうやったらつくれるのかということを語ることはなかった。マルクスや吉本隆明の見果てぬ夢のつづきを内包論としてわたしがやっている。もしもマルクスに広義の〔性〕の縁がありかれの思索を深めることができたならば、資本論ではなく内包的な贈与論を書いたはずだし、吉本隆明にも契機があれば、喩としての内包的な親族を共同幻想論の還り道として書いたはずだ。(この稿つづく)

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