日々愚案

歩く浄土144:情況論44-状況を根源的に考えるとはどういうことか/森友学園問題と共謀罪法案

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状況を根源的に考えることは主観的な心情で事件を語ることを意味しない。どの立場に立とうと「社会」主義という共同幻想へと回収されるだけである。こんなものはいくら論じても気が鬱々とする。そして凡庸な悪に絡め取られあっという間に忘れ去られてすぐに過ぎていく。そういうことをわたしたちの歴史は飽くことなく繰り返してきた。主観的な心情を信として主張することのなかに生きられる未知はなにもない。この意識の呼吸は外延的な表現にすぎないから、生を締めあげる環界のおおきな自然に抗する内面というちいさな自然を精神の待避する場所としてつくることしかできない。内面の凡庸な悪を嘆くことはできても、ともに外延自然であることに変わりはない。この閉じた自然の円環をひらこうとしている。この意識の外延史を往相の歴史と呼んでみる。そうすると遷ろう自然も内面の王国もこの意識の範型にぴたりと収まる。内包論をしぶとく考究することで謂わば還り道の生や歴史を描くことが可能となりつつある。意識の外延史がわたしたちの知る人類史であれば、この人類史をすっぽり包む内包史が可能であるということだ。内包論からは往相の歴史からの還り道を表現することができる。この立場から状況的な課題を論じる。

なぜ人類史を意識の外延史と一括りできるのか。生を引き裂く力をわたしは権力と定義している。外延的な自然では国家権力がもっともおおきな権力である。天然自然に由来する国家という理念が人工自然によって解体されつつあるということが転形期の世界でもっともおおきな変化である。その混乱の煽りをうけて国家が内面化する。ここに現在の混乱の核心がある。森友学園問題の幼児虐待も教育勅語暗唱も、テロ等準備罪を新設して織り込んだ共謀罪法案もその噴流としてあるといっていい。つまり急速に国家が内面化しているということだ。それだけ外延自然が追い込まれていると解していい。ビットマシンと結合した金融工学や分子生物学というハイテクノロジーによって天然自然が解体に瀕している一方で、内面の自然である文学や芸術は旧態依然としてのんきに居眠りしている。むしろ世界の地殻変動を下支えする力として機能しているというべきか。

外界の自然に抗する精神の待避する場所である内面は権力か。意識の外延史を思考の慣性としている意識の刻み方では内面の表現が文学や芸術とされている。わたしはあるときからこの内面化も生を引き裂く権力だと考えるようになった。わたしは内面という自然は歴史の遺物だと思う。初源の精神の古代形象にあった抗命の荒々しさはとうに漂白され、ただ商品としてだけ存在している。ユニクロの綿シャツと文学作品はまったく等価であり、差異はどこにもない。外延自然の変貌の速度に内面の思考の慣性はとっくに振り切られているのに、そのことを意識することもない。この自然とはいったいなにか。外界と内面という二分化された自然だ。この観念の網の目は粗すぎてもう世界を表現できない。

内面化の産物である文学や芸術という、それ自体を至高なものとみなす思考の慣性のなかに目に見えない権力がある。内面という自然はシステムと完全に同期し、システムの一部と化している。このことは歴史の概念として言える。内面化という精神の自然は生と表現を引き裂いてきたということだ。なにが生と表現を引き裂いてきたのか。知識人と大衆という権力による分割によってだ。この権力の力線は不可避に生活と表現の分離をもたらす。この意識を自然的な基底として世界は連綿として縁取られてきた。存在を知覚する初期不良によってわたしたちの人類史が象られてきたといってもよい。そうやって外界の倒錯と畸形と奇怪さに充ちた歴史をしのいできたというべきか。適者生存という世界の無言の条理を精神を慰撫することでなぞってきたということだ。国家という外延自然が衆生の統治として采配される。人間が共同的に存在するかぎり治安を紊乱するものを処断することは自然とされる。支配を肯んずることができない敗残の徒が内面の王国を精神の至高性としてもつことも自然である。国家という外延自然と内面の自然はもともと同期していたとわたしは考えている。凄まじい外延の力から待避するちいさな自然をつくることで日々をつないできた。外界も内面もおおきな思考の慣性を自然として受けいれることで成り立っている。わたしは内包論でこの認識の型そのものをひらこうとしている。

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野蛮、未開、原始、古代・・・という歴史概念は観察する理性がねつ造した物語にすぎないのではないか。時系列に沿った空間的な歴史概念を縦にすることができることに内包論を展開するなかで気づいた。外延自然を包む内包自然と総表現者という概念を手にしてそのことが可能だと思えはじめた。自己に直立する歴史の概念をつくらないかぎり、適者生存という生命形態の自然が変わることはない。幾分か比喩でいうのだが、わたしのなかには人類一万年の歴史が凝縮して内蔵されている。おなじように、長くて100年の生涯のなかに、だれのなかにも人類史が内挿されている。むろんこの思考の革命は内包自然と総表現者という概念ぬきには可能ではない。精神の古代形象を、表現として問い尋ね、初源に根源の二人称が存在し、この根源の性を分有することで人間という驚異が立ち上がったと考えた。根源の二人称が、存在しないことの不可能性として存在するのであれば、根源の二人称の分有者は歴史を自己に直立するものとして生きることを可能とするはずだ。外延的な表現では、「社会」主義は共同幻想として表現される。その是非を問いたいのではない。そのような表現の仕方しかまだわたしたちはつくりえていない。テロ等準備罪が盛り込まれた共謀罪法案が閣議決定の後、国会に上程されようとしている。籠池夫婦の経営するカルト幼稚園が教育勅語を唱和する愛国小学校を開校するにあたって、すぐ籠池叩きにシフトするだろうが、政府が便宜を供与したかどうかが国会でも問題になっている。この疑獄については『日本会議の研究』を書いた菅野完のツイートに注目してきた。いちばん切れ味がよかったからだ。菅野完は言う。

①いやね、実際、これが一番怖いのよ。日本会議の陰謀とか、政治家の介在とか「巨悪」があったほうが、どんなけ楽か。それ潰したらええだけやねんから。しかしもし、本件が「役人の忖度と忖度が重なり合った結果」なら、もう、これは悪夢よ? 日本が戦争に突き進んだ構造と全く同じやん(2017年3月7日)

かなり時代錯誤のツイートを連投する兵頭正俊も危機感を抱く。

②森友学園事件と加計学園事件。この犯罪は、安倍晋三を退陣に追い込めなかった場合は深刻なことになる。現在の状況はさらに悪化し、猛烈に警察国家が進み、北朝鮮化が進むことになる。ありもしない危機が煽り立てられ、この島国だけ世界から切り離された異様な国になる。日本は悪鬼に憑依された状態だ。(2017年3月7日)

菅野完も兵頭正俊もいま起こっているおぞましさを直観している。この国が右傾化し戦前復帰することより醜いことが実現しつるある。わたしはこの国がカルトによって乗っ取られ人倫が決壊しつつあると思う。いま起こっていることには人倫のかけらすらない。

内田樹がよくリツイートしている山崎雅弘の「諸外国のメディアが普通に見抜いている通り、この事件は、安倍政権と日本会議という太い紐帯から切り離しては論じることも幕引きをすることもできない。ところが、なぜか『途中までは』他のジャーナリストと一緒に学校法人を批判しながら、最後の結論では『日本会議は無関係』とか言い出した人がいる」(2017年3月5日)という批判に菅野完は反論する。

③そりゃおまはんは現場も歩かんと、安い古本だけ頼りに記事書いてるから、「日本会議がー」とか気楽なこと言えるわけよ。現場歩けよ。人の話聞いてこいよ。人にあってこいよ。お前の机の上に現場ないねん。(2017年3月5日)

森友の事件追いかけると、否が応でも「大阪維新のダメさ」を見せつけられるわけだが、「大阪維新、ほんまに、ゴロツキしかおらんな」と思うと同時に、「ああ。日本はトランプにびっくりしてる場合ちゃうな。トランプ現象は、日本でもう10年前に起こっとる」と嘆息するしかない。(2017年3月5日)

菅野完の①の主張も③の山崎や維新の批判も的を射ている。菅野は籠池夫婦が経営する幼稚園で教育勅語を商売の売りにして園児を集め、酷い幼児虐待を愛国教育の名を借りてやっている。これは日本会議筋の案件とは異質のものだと言う。安倍の便宜供与が官僚の「忖度」政治に隠れているとも指摘している。共に同意する。この「忖度」に注目せよ。おぞましさはこの「忖度」において生じる。人権派も愛国派もその別はない。ここに悪の凡庸さが潜んでいる。凡庸な悪はいつも例外なく「あった」ことをないことにできる。みずから進んで悪をなしているのではないにもかかわらず、悪を許容してしまう。それが「忖度」の正体だ。これを指摘したのは菅野完だけである。だから注目した。戦前に復帰することよりももっとおぞましい出来事が進行している。国家が自然な基底を喪失し、戦前の皇国思想ではなく、国家の内面化がカルト的にあらわれているということだ。オウム真理教が国家権力を掌握したらどうなるかということがいま起こっている。麻原彰晃が安倍晋三に取って代わったということ。

と、いうような主観的心情を開陳してなにかが変わるだろうか。なにも変わらない。ここには生きることの当事者性はどこにもない。こうやって凡庸な悪は生き延びていく。歴史を外延的に語るかぎり、いつもわたしたちはいくらか内省しながら、いつのまにか出来事を忘れてしまう。該当する歴史の当事者は残骸のように遺棄される。また該当者が該当者性を生の当事者性として生きていることを普遍的に語ることはまずない。『維新の夢』(渡辺京二)で書かれている「島の老婆」もそうだと思う。意識の外延表現という呼吸法では、じぶんがじぶんにとどくことはなく、生は他の生とはいつも離接する。それがわたしたちが生きてきた自然である。

アベシンゾウの欺瞞と驕慢を指弾しようとして、危うく「社会」主義に引き込まれそうになる。主観的な信を基準としてこの思考の回路に巻き込まれるとアベシンゾウやアベの批判勢力と似たことになる。いずれも同一性的な信から派生した理念だ。それほど主観的な信は度し難い。親鸞の煩悩だ。すぐ煩悩が湧いてくる。ではどちらでもない信の場所は架空性としてしかないのか。いや違う。信が消える場所がある。この場所のことを内包自然と呼び、深奥に還相の性がある。生の原像を還相の性として生きるとき社会は消える。ここで人類史は転換する。人間の社会的な生存はここでしか拡張できないと思う。むろんわたしは総表現者のひとりとして、百億の夜をこじ開けようと、わたしにかけられた閂を外そうとして、このことを申し述べている。それはけっして内面化も共同化もできないことだった。おわかりでしょうか、数少ない読者のみなさん。過去を想起し未来を追憶する場所がある。ここにしか生や歴史の可能性はない。

なぜならば人間の個的な現存は断じて社会的な存在ではなく、内包的な存在であるとわたしは考えていて、なにがどうあろうとわたしの考えを譲り渡すことはできない。人間を社会的な現存とみなすことがどれほどの無惨を招来するか、わたしの皮膚に焼きついた生存感覚がある。わたしの本音で言えば、アベシンゾウに与するか、反アベかなどどうでもいいのだ。安倍と反安倍の相剋それ自体が観念として、外延的な表現として閉じられている。そういうことだ。どちらの主観的な心情も同一性に閉じられている。この意識の範型から生を未知ものとしてひらく表現がでてくることはない。状況を根源的に考えることは主観的な心情で事件を語ることを意味しない。どの立場に立とうと「社会」主義という共同幻想へと回収されるだけである。こんなものはいくらやっても気が鬱々とする。そして凡庸な悪に絡め取られあっという間に忘れ去られいつのまにか過ぎていく。そういうことを飽くことなく繰り返してきた。主観的な心情を信として主張することのなかに生きられることはなにもない。この意識の呼吸は外延的な自然にすぎないから生の当事者性として根づくことがないからだ。

目には目を歯には歯で知られるハンムラビ法典は紀元前1776年に制定される。バビロニアの社会秩序では人びとは三つの階級に分けられる。女性一般自由人の命は銀30シュケルに、女奴隷の命は銀20シュケルに相当するのにたいして、男性一般自由人の目は銀60シュケルの価値をもつ。ユヴァルは言う。

この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完璧に公正に思えた。ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の一〇〇万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。(『サピエンス全史 上』139p)

遷ろいゆくさまざまな自然をわたしたちは生きていて、往相の歴史では自己幻想は共同幻想に同期するようにもともと設定されている。わたしたちは長い歴史のなかで精神の知恵としてこの同期のしくみをいろいろ改変してきた。バビロニアの社会を生きた共同幻想をわたしたちが認めることはない。わたしたちはバビロニアの人びととべつの共同幻想を生きているからだ。がんの早期発見・早期治療の錯誤による合法的な殺害と、目には目を歯には歯のハンムラビ法典の迷妄性を分かつ基準とはなにか。開明的な時代を生きていると自任する者は問うてみよ。公平さはなにによって担保されるのか内在的に述べてみよ。

どれほど倒錯していようと、塚本幼稚園の教育勅語もアベシンゾウの美しい国日本も主観的な心情をしては成り立つ。いま、共謀罪法案を上回る法制度が考えられている。テロ等準備罪を新設した共謀罪でもテロの未然の防止の効果は乏しいから事前拘束を可能とする法制度を作る。政府に対して不満を持っているというだけで社会から隔離できることになる。特高、憲兵の再現だ。予防拘禁を可能とする治安維持法を政府は作ろうとしている。この自然はすぎたと思っていたらカルトなアベが復活しようとする。またこの時代錯誤も権力によって自然となる。わたしたちはさまざまな自然に囲まれて生きている。同一性を自然な基底とするどんな理念もその内部に自由と平等の根拠をもたない。先端知に生を収奪されているにもかかわらず、内面を国家の規範に同期しうることの不可解さ。医学知による生の簒奪を受容しながら教育勅語を唱和しうる奇妙さ。往相の歴史ではなく、還り道で生や歴史を語ること。そこにしか生きられる生はない。

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