日々愚案

歩く浄土143:情況論43-さまざまな共同幻想/足下にある危機4

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内包論の考察をすすめていくことで内包論がつくろうとしている世界の輪郭がすこしずつ明らかになってきたという手応えがある。ヴェイユの匿名の領域は、人格や衆を媒介にしないデモクラシーを超える可能性を示唆している。ヴェイユがどこまで考えきれていたのほんとうはわからない。ヴェイユの生涯はあまりに短く、彼女は明確に理念として取りだすことはできなかった。わたしはヴェイユの匿名の領域を内包論をすすめる過程で広義の性の棲まう内包自然と読みかえた。わたしたちはいくつものおおきな外延自然からなる共同幻想に囲まれて、ちいさな内面の自然でさまざまな外延自然に抗しながら生をつないでいる。わたしはじぶんの生の体験をなぞりながらいくつかの自前の概念をつくり、未知の新しい世界をつくりつつある。わたしたちの知るどんな世界とも異なる世界が少しずつ姿をあらわしてきた。片山さんとの持続した真剣な話が積みあげた賜物ではないかと思う。特定機密保護法を契機にこの国は嵐の中を漂流し、風雨はさらに激しさを増している。多くの人たちの心は絶望で塞がれているのではないか。グローバルな世界の構造的な激しい変化があり、世界史の転形期がもたらす猛烈な圧力に抗しようとして国家が急速に内面化している。肌身の感覚で皆そのことを感じているはずだ。真綿で生が締めあげられているような感覚。戦前回帰ではない。もっとおぞましいことが進行している。日中ー太平洋戦争は、それでも日本人は戦争を選んだのであって発狂した世界の動向のなかで、戦争を回避することが不可能であるような総力戦だった。狂いはじめた歯車が複雑に絡むと共同幻想は燃えさかり収拾がつかない。歴史の恐ろしさがそこにはあった。わたしたちが当面しているのはゆきゆきて神軍の事態ではない。そんな力はこの国にはもうない。もっと疲弊している。いま進行しているのは戦争を趣味とするカルト宗教の横行である。趣味で戦争をやりたいという妄想しかそこにない。たしかに反知性主義だ。グローバルな世界で生き残る才覚をもたない支配者たちの悪あがきだとわたしは解している。政府首脳のだれ一人として味のある面構えをした者がいない。国益という看板の中身は私利と私欲と保身で塗り固められ、じつに卑しい情けない顔をしている。地に足の着いていないオカルトな者らの哄笑がじつに醜い。安倍晋三という身の程知らずのオカルト男にこの国が引き摺り回されている。というようなことをいくら書いても楽しくならないので、あの安倍晋三でさえいい顔になるようなことを書く。

左右のイデオロギーもリベラルな理念も適者生存をなぞる世界の無言条理をまえにしてまったく無効である。わたしの内包論はこのことを前提としてすすめている。帝の東洋的専制のもとで虫木草魚のように地を這いずり生きることしかできなかった時代、人びとは「帝力吾において何かあらんや」として生をしのいでいたと思う。内包論ではべつの理解をする。先史時代、あるいは古代を生きた人びとがその時代の皇帝の治世を天変地異のようにやり過ごしていたとして、その人びとが帝国の衆生として生きるとき、かれらがその時代との相関としてもった明晰さと迷妄さの度合いは、はるかに流れ下った時代を生きているわたしたちがこの現代のなかでもつ明晰さと迷妄の度合いは違わないと内包論では考える。制度以前を生きた人びとの生のリアルとわたしたちの生のリアルはまったく違わないと思う。日々を生き抜くときに生がリアルでないはずがない。そのリアルは変わらない。迷妄のなかをかれらが生きたというなら、わたしたちもまた迷妄のなかを生きている。意識の外延性の伸びしろがなくなりいよいよ生が世界の属躰化しつつあることもたいしたことではない。だれのなかにも一万年の人類史が凝縮されて内属していると考えるとき、「帝力吾において何かあらんや」はべつの相貌をもつことになる。生の原像に「帝力吾において何かあらんや」を直立させればいい。これが総表現者ということの意味である。知識を采配する者らが人びとを振り分けつなぐのではない。一人ひとりが大地の簒奪を可能としてきた外延的な自然に、虜囚としてではなく、世界の属躰としてではなく、じかにじぶんの足で立つことが可能だということ。このときいつもじぶんがじぶんにとどかない生の不全感は消失する。衆の理念によってその一人としてわたしたちはつながるのではない。根源の二人称のあらわれとしておのずからつながるのだ。生の理念も歴史の理念も大幅に拡張する。まったく新しい生の様式が可能となると思えてならない。

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あらゆる素粒子のふるまいを仮想の量子コンピュータで計測できるようになると仮定する。このとき分子生物学は、分子生物学が登場したとき、生態学がたどった運命をたどり、分子記号学の興隆を次世代の自然認識に道をゆずり渡すことになる。架空の思考実験だが、人が対象物をそれであると認識する刺激の往路が視覚中枢に達したとき、物理的な過程や化学的な過程が分子レベルの説明よりも細かくその理路を解析することはできるだろう。脳の機能を量子的に説明することさえできるかもしれない。そこで、すべての量子のふるまいと意識がある相関をもつと考えてみる。意識は解明できるだろうか。解明できると考えてみる。すると矛盾が起こる。素粒子のふるまいによって意識が解明できたとして、解明できることを認識する意識はどこにあるだろうか。少なくとも自然過程そのもののなかにはない。すると意識を自然科学的に解明する方法論が宙に浮く。解明できたとみなしたとき、解明したという意識は自然科学と乖離している。ではその意識とはなにか。ペンローズは強いAIを信奉する者たちにゲーデル文を突きつけてこの困難を回避した。そのうえでペンローズは「意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」と考えた。ただそれはアルゴリズムではなく非計算的な過程として起こるという。賛同する。この点においてペンローズは強いAIの信奉者にたいして優位な場所にいる。自然科学で意識を解明できると信じることは神によって世界を説明できることとおなじで宗教である。むろんこの宗教は新興の共同幻想にほかならない。科学という宗教で意識が解明されるとすれば自己意識は共同幻想そのものとなり、共同幻想に覆われることで意識が解明されたと信じることはできる。ハイテクノロジーをビットマシンと結合したゲノム編集に象徴すればこれまでに存在したことのない自然を生産することは充分に可能だと思う。生が同一性へとかぎりなく収斂していくなかで人間という概念は再定義されていくとくり返し主張してきた。わたしたちの生はそこへと漸近していく。このグローバルな進展をうながす強力な力を人間の内面も倫理も阻止することはできない。斯くして自然は遷ろう。きわめて自然なこととして。世界も人間も地殻変動にさらされている。人間という存在の固有性や意識を自然に還元できないということを論理的に言い得ている思想家は吉本隆明だけだった。また引用する。「そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく」(『心的現象論・本論』)見事な説明だと思う。だれもこのかんたんなことを言い得ていない。そのうえで不満を申し述べる。それをかれが好むのかもしれないが、心的な過程を生理過程の矛盾の緩衝域とみなす吉本隆明の表現論は本質的にニヒリズムだと思う。意識のこの呼吸法では生はいつもなにかへの過渡としてしか存在しない。そんな半端なことが文学だと言われても。。。
自己表出の意識は意識の観測者を暗黙に公理として想定している。出来事を俯瞰する意識は生の不全感を不可避に随伴する。わたしが内面もまたひとつの自然であるというとき、外延自然によって析出された自己は自己にとどかないという宿命をもつ。吉本隆明の言語表現論はこの意識のさわりが核心にある。たしかに人間の意識を自然に還元することはできない。しかしそのことと意識が自己において発出されることはまったくべつの出来事である。なぜ動物的な反射の唸りが人間的なものとして発語されたのか。そしてその発語はなぜ人間的なのか。内包的な存在としてこの世に生誕することと、精神の古代形象は、個体発生は系統発生を繰り返すように相同であるはずだ。40億年前の太古に深海のアルカリ熱水孔で、ただ一度無機物から原核細胞という有機生命が生まれたように、ある種の霊長類が根源の二人称によぎられて、その驚きを自己という心身において発出した驚異とおなじだとわたしは思う。それは神秘であるとしか言いようがない。善悪未生の圧倒的な善が驚きとともに発語された。わたしはここに人間の意識の起源があり、この意識を分有することにおいてヒトは人となったのだと思う。この意識は、いつの時代にどのような生を強いられようと、いつも、そのつど間に合うものだった。自己であることに根源の二人称はいつも先立っている。じぶんがじぶんにうまく届くとはこういうことだと思う。じぶんがじぶんに離接するとき、生の不全感は、野蛮、未開、原始として、ヘーゲル的に未来へと順延される。西欧近代の精神は神の代わりに大衆という観察する理性を発明することで生の不全感を埋めようとし、共同性へ還元できない意識の剰余を内面化し、それを文学や芸術であると称した。ここに生きられる未知はまったくない。そういう意味で2ちゃんねる的心性と村上春樹の騎士団長殺しは意識の範型としてはまったく同型である。天皇の赤子万民平等であるという心性と大衆の原像を繰り込むという意識の範型がおなじものだと言うこと。おわかりいただけますか、数少ない読者の皆さん。

人は内包的に存在しているということ。生の原像は、しゃべり、歌い、踊り、触れ、立ち、歩くことのなかにある。わたしは生のこの住処のことを内包自然と呼んでいる。内包自然のリアルを前提とすると、即時に総表現者という概念がリアルに現前する。わたしたちがまだ生きたことのない新しい生の様式だ。だれもがそれぞれに表現の〔主体〕である。このとき根源の二人称を分有する自己のなかにいきなり歴史が直立する。歴史の過去と現在と未来はわたしのなかで順延されることなく現成する。

 

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