日々愚案

歩く浄土136:内包贈与論15-初源の意識と権力3

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伊勢﨑賢治さんが『新国防論』のなかで「好むと好まざるにかかわらず、いつか起きるのが戦争だと思っています」と書いている。そうだな、いままでのところ、とわたしは内心つぶやく。国家機密を漏洩したスノーデンがプーチンからトランプに送り返されるらしい。拷問を容認するトランプは「情け容赦なく対応する」とツイート。個人は国家間では儀礼的なたんなる贈答品だ。戦争は熄むだろうか。そこに至る道程がどれほど奇怪で困難で殺伐としたものであろうと、わたしは可能だと思う。内包論はその可能性の中心を生きようとしている。

精神の古代形象のはじまりをつかもうと、目を凝らしながら、太古の面々の心性に乗り移るようにして、考えている。表現として古代の心性に思いを馳せると、環界にたいする関係づけや了解の仕方はおおきく異なるとしても、食と性が心身相関する関係の型はそれほど違わないように思う。けっして賢くなっているわけではない。業の深さが変わっているとも思えない。飢えを満たしたい欲望のしくみは恐ろしいほどシンプルなのではないか。
三木成夫には人間の身体と心についての独特の理解があり、言葉のひとつひとつが身にしみるように理解される。それは三木成夫が人間の身体を解剖学的な説明ではなく遠を感得するようにして表現のレベルまでもっていくことができているからだ。表現としての身体が理念として描かれている。三木成夫は「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」だと言う。なるほど。こういうふうに人間を定義すると、太古の面々はわたしたちのすぐ傍らにいることになる。たしかにそれほど基本的な体制は変わらない。ネアンデルタール人だろうと、クロマニヨン人だろうと、縄文人だろうと、身体の体制としてたいした違いはない。三木成夫の生命の感得は数億年の規模をもっているのだから、食と性にかんする人間の基本的体制は先史時代であってもほぼ同一のものであったと考えられる。内蔵体壁系の身体は腸管が求心路の植物神経に支配され、目玉と手足が遠心路の動物神経を司ると考えられている。壮大な生命の歴史を特異な表現で織り上げたもので、読む者の心が浮遊する。生命はリズムであるという断言は心地よい。いまふうの言い方では求心路の植物神経は副交感神経、遠心路の動物神経は交感神経に対応する。三木成夫と安保徹は世界の感じ方や科学の理解の仕方がよく似ている。科学の方法を表現までもっていくことができている稀な科学者だと思う。

三木成夫の身体の体制についての知見に、トッドによる自著『家族システムの起源』の解説を加えると精神の古代形象がどういうものであるか、そのありようの見通しがよくなる。トッドは言う。初期人類の最初の家族の構造は核家族である。伝統的なモデルでは、社会の発展は、複雑だった家族構造がシンプルになっていき、個人というものが登場し、家族構造が個人中心になり、もっと自由になり、もっと進歩するということになっているが、グローバル化の夢は一致に向かう夢であり、思想的には美しいが幻想にすぎない。人類は分岐、分散していく。それが家族構造の力学だということを発言している。初期人類が核家族であったという知見には意表をつかれた。初期人類は比較的ちいさなバンドで生きていたということになる。そうすると先史時代の精神の古代形象はわたしたちと変わりない身体の体制のまわりに数家族の核家族が集まった心象風景を想定できることになる。この時代に前言語的な意識がすでに芽生えていたと思う。それはどういうものであったか。わたしはここに人間の私性と交換と生を引き裂く力の起源があると思う。そのありようはいまのわたしたちとそれほど違うものではないはずだ。未明の太古の面々の生のなかにも根源の二人称が内挿されていたというわたしの実感がある。表現としての意識の起源を探る由縁である。根源の二人称はなぜ心身に押し込まれたのか。それがいま問うてみたいことだ。

歴史時代になると書記と交換が外化した貨幣と国家が一揃いのものとして登場する。わたしが問うているのは、もっとはるかに悠遠な太古の民の、書誌学的ではなく表現としての古代的な心性だ。わたしの隣にいる太古の民の心性を思いやると、私性と交換と生を引き裂く力の中心に位置していたのは〔性〕だと思う。むろんこの〔性〕は意識されることもない根源の二人称である。人間が自然から離脱を始め戦慄と恐怖に見舞われる。自然の一部であるにもかかわらず対象を認識する電子ノイズが身体を擾乱する。そのとき、象徴として言うのだが、ここは私の日向だという、大地を簒奪する、起源の不意をつく錯乱が起こった。それがどういうことであるかわが身をなぞるようにつかもうとしている。根源の二人称は心身一如の身体性に引きずられ、根源の性は引き裂かれ、同一性に封じ込まれたのだとわたしは思う。生存への衝動という惑乱は、なにより身体性に起源をもつと言うべきだ。飢餓と暴力と性。いまも変わらない。それは身体に起源をもつと考えるほかない。ここに動物のためらいのない捕食行動と、ヒトという生き物の身体に貼りついた電子ノイズのずれがある。その戦慄と恐れへを慰撫するものをアニミズムという原始的な宗教として疎外した。この過程にはどんな倫理も介在していないはずだ。倫理は必ず侵犯され無言の条理に呑み尽くされる。一切の倫理を介在させない存在だけがおのずから世界をひらく。なんとかそこに到達したい。

おそらく、先史時代を経て歴史時代から現在へと至る行程は一瞬だったと思う。私性の源、貨幣への欲望、生を引き裂く権力の淵源は心と身体がひとつきりで生存する人間という生命形態の自然のなかにある身体性だと思う。動物の捕食行動は枝分かれしたある霊長類にも引き継がれ、生存衝動に駆られ、「目玉と手足」をつかって棍棒で獲物を殴り捕食する。こうして悠遠の歳月を過ごすことになる。飢餓と捕食行動は分離できない。心身一如という生命形態の自然のなかに生じた電子ノイズが悠遠の時間と共に有意味化される。有意味化された心的現象は同一性の必然として対象を粗視化する観念の遠隔対象性によって環界を拡大していく。観念は自然を網の目のようにコーディングする。掴取した観念を認識にとっての自然とすることで観念は自動的に更新されることになる。その過程で書記と貨幣と宗教が誕生し、いまビットマシンとグローバル経済に追いまくられ国家が内面化している。この過程は一意的であり、不可避であり、自然だと思う。この自然が無言の条理にほかならない。共謀罪が法になるのも自然である。なぜならわたしたちは外延的な自然しかつくりえていないのだから。倫理を介在させることは対象的に不毛である。

人間の生命形態の自然はそのようなものとしてある。それにもかかわらず根源の二人称は生命形態の自然のなかで無限に小さなものとして生きつづけている。内包と外延は意識の芽生えと共に一世代ごとに悠遠の歳月を往還している。おそらく西欧的心性や東洋的心性の祖型となる心性が根源の二人称ではないかと思う。ふと思う。さまざまなギリシャの神々、記紀万葉の神々。そしてさまざまな神の祖型をなす八百万神。アニミズムだ。自然から離陸していく意識は応力のようにして自然へと回帰しようとする。一木一草に神がやどることによって自然から離脱することに内在する異和と惑乱が慰撫される。この意識のありようは自然な生成であるようにして共同幻想を疎外した。どうじに反力として共同幻想から押し出されるように、身が心を引きずる心身一如がひとかたまりになって外化されることになる。それが始原の風景だ。自己という意識のありようはこのようにして誕生したとわたしは考えている。飢餓に怯え捕食し腹を満たし、喉が渇き水を飲み、寒さに震え暖を取る、いつもどこにでもつきまとう奇妙な、なにか。それがあるものがそのものに等しいという同一性の起源をなしているとわたしは思う。ここで親鸞の自然法爾を重ねてみる。親鸞にとっては還相廻向という表現が現実であり、往相廻向は虚であったと思う。他力という仏の慈悲のリアルさが親鸞にとっての現実であり、その余は虚妄だった。親鸞は、計らいによらず、仏の慈悲が他力としてだれの下にもすでにとどいているという道理が自然法爾なのだと考え、波瀾万丈を生きた。人びとが生きる現実と親鸞が生きる現実は逆倒していたと思う。観念的なものは現実的であると考えたヘーゲルに似ているが、ヘーゲルは同一性という論理式でしか思考をしていない。
仏の他力によって各自性が生まれるということ。親鸞より近くに仏がいるから親鸞の極悪深重は生きられる。その逆ではない。仏による摂取不捨によって親鸞が親鸞でありうる。その逆ではない。おなじように根源の二人称が存在しないならあるものがそのものに重なるということは起こりえない。同一性は根源の二人称から身を引きはがすときの心身一如の熱いかたまりにたいする驚きであり応答である。根源の二人称が同一性に象られるときその痕跡のことをわたしたちは神や仏と言い習わしてきた。ギリシャのさまざまな神や記紀万葉の神々も根源の性に照射されることによって表現されたのだと思う。ギリシャの目鼻立ちのくっきりした神から数千年後に大乗教である衆生救済のキリスト教が生まれたことも根源の性が同一性にじかに作用したからだと思う。もし存在の根柢においてその存在が二人称でないならば同一性の超越神が誕生することもなかった。

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根源の性の分有者という生の知覚は内面化することも共同化することもできないとくり返し書いてきた。自己表出ではなく内包表出を表現の基底とするとき、内面化という自己意識の用語法では根源の二人称を表現することができない。内面化不能ということは内面を通約した共同性でも表現できないということだ。わたしは一対の男女の性を基盤とし、そこから生みだされる観念を対幻想だとする理念のかたちは拡張できると思う。対幻想を特殊な共同幻想とみなすかぎり、対幻想が自己幻想と共同幻想のつなぎめとなり国家という共同幻想をつくるのは必然だった。〔性〕は自己や共同性を媒介するものではなく、〔性〕という観念にだけ世界をひらく鍵がある。

共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉も〈種族の母〉も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。(吉本隆明『共同幻想論』)

人間の集団的な共同性の最小の単位は、三人から成るものとかんがえることができる。(略)そしてこの集団的な共同性のなかでは、個々の成員はかならず全人間的に登場することはできない。共同性であるという特質は、そのなかの個々の成員にとっては、人間的な〈行動〉をいつも部分化されてしまうものとしてあらわれる。(略)ところで、二人からなる集団をかんがえても、この集団のなかで、個々の成員は部分的にしか登場することができない。(吉本隆明『情況』所収「機能的論理の位相」)

わたしは広義の〔性〕のなかにだけ、自己でも共同性でもない同一性の彼方に行ける可能性があると考えてきた。吉本隆明の定義する対幻想の世界では個々の人間は部分的にしか登場できないことになる。それは対幻想もまた特殊な共同幻想だからだ。吉本隆明の論理ではそうなる。わたしは吉本隆明の対幻想的なもののなかに同一性をひらく契機があると考えてきた。なぜ吉本隆明の語る性が窮屈かというと、かれが自己意識の外延表現として対の関係を表現しているからだ。わたしは根源の性を分有するありかたのなかでだけ人は全人間的に登場できると考えた。

原始宇宙のごく初期でクオークと反クオークが衝突して対消滅し光子二個をつくりだす。対幻想をこう比喩できるのではないか。ひとたび対幻想は消滅する。対幻想の拡張といってもいいかもしれない。対幻想は同一性の下で往相の性として残り、内包自然として還相の性となるのだと。根源の二人称の核にあるものは還相の性だと思う。他者への配慮は還相の性をぬきに現成しない。わたしたちの歴史は他者への配慮(友愛)を実現したことがない。そこで問う。なぜ還相の性がなければ喩としての内包的な親族は可能とならないのか。還相の性を自然法爾としての〔性〕と名づけてもいい。還相の性というものがなければ信の共同性の根をぬくことができないからだ。根源の性を分有することで歩く浄土は可能となる。しかしそれぞれの浄土はどうつながるのか。それぞれ固有の浄土をもつ者たちの共同性をつくるのではないか。そのありようがこの世のしくみを革めるとは思えない。還相の性がなければ自己の陶冶と他者への配慮は切断されたままである。根源の性の分有者という考えでは三人称の根をぬくことができないということだった。それはこの世のしくみを転写するだけだ。わたしはこの畏るべき問いをまえにして十数年悶絶した。思弁的な手続きとして還相の性をもちだしているのではない。そうではなくて還相の性がだれのなかにも無限小のものとしてもともと内挿されているから、対幻想という往相の性に引き裂かれるから、還相の性が立ち上がるのだ。最期の親鸞が到達した自然法爾はこういう場所だったように思う。自然(じねん)な還相の性は可視化することも一般化することも内面化することも共同化することもできない。それにもかかわらず還相の性は存在する。だからこのこの世のしくみを革め、じぶんのありようが変わる可能性がある。

神仏と往相の性の彼方へと呪文を唱え、還相の性を手にした。それは根源の二人称の核にある還相の性の呼びかけにたいする対幻想という往相の性からの応答だった。それが対幻想の深奥にある還相の性ということだった。可視化することも内面化することも共同化することもできない、ここに生の可能性がある。生の根柢にある根源の二人称は圧倒的に善である。その余は末節にすぎない。対幻想の最奥に還相の性がある。じぶんの生存感覚をたどりながらやっとここまでくることができた。(この稿つづく)

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