日々愚案

歩く浄土135:内包贈与論14-初源の意識と権力2

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私性と貨幣と権力という身体が延長されて内化された精神の古代形象を遡行する。起源の不意をつく錯乱をあきらかにしたいのだ。これから考えたいことは書誌的なことではない。精神の古代形象を表現として遡求したい。表現として遡求するということは観察する理性として精神の古代形象を考古学的に考究することをまったく意味しない。わたしなりに人間の精神現象の始原をつかんでみたいという欲求がある。私性の自己中心性や貨幣への欲望、あるいは権力の起源のその始まりはどういうものであったか。そのことを表現として考えてみたい。百億の夜に掛けられた千の閂のひとつをひらきたいから。

わたしはいまマルクスや吉本隆明の方法的な意識と離接する場所から考えつづけている。なにより私の体験のリアルがあり、そのことに関連するが、世界もまた転形期のただなかにある。かれらの「社会」的な思想を批評することは対象的に不毛であるという圧倒的な実感があると言ってもよい。むきだしなったこの世の条理が迫っている。すごく自然だ。安倍晋三やトランプを邪悪な意志を体現しようとする権力者として批判することも、人知れずちいさな善を積み増すことで世界が少しでもよりよくなっていくという文化的雪かきを業とするポリティクス・コレクトネスの偽善を指摘することも可能だが、おなじように対象的に不毛だと思う。なにも変わらない。うんざりだ。そういうちまちました意識ではなく、還相の性のなかにある怖ろしいほどの圧倒的な自由を行使したい。すきな音楽を聴きながら、意識は見たことも生きたこともない精神の古代形象の始原へと、わたしがあなたであるように、遡っていく。先史の人類の精神の古代形象にも視えないかたちですで根源の二人称が内挿されていた。根源の二人称という見通しのよい言葉を使って精神の古代形象の始原を解いてみる。それは意識の起源を問うことであり、私性と貨幣の起源を解くことでもある。

マルクスは歴史を人間の真の自然史だと考えたが、このときマルクスが自然とみなしたものはなんだろうか。資本論を科学だと考えていたわけだから人間が自然の一部であるという自然哲学の自然ということではないかと思う。「社会は、人間と自然との完成された本質統一」(『経済学・哲学草稿』130~133p)と書いたように、人間の個的な生存は社会的な存在によって実現されるとマルクスは本気で思っていた。愕然とする。意識のうねりをつかむ手つきが粗雑である。そんなことしか考えることが考えることができなかったのか。自然主義のマルクスは狂乱の世界史を、自然と人間の相互規定的な疎外によって人間の歴史を人間の真の自然史に還元できると掛け値なしに思い込んでいた。自然をナチュラルと考えると思想の対極に親鸞の自然(じねん)がある。似て非なるものだ。
自然(ナチュラル)を対象とした観念の遠隔対象性が粗視化しえた自然の摂理をわたしたちは真理とみなしてきた。自然を対象とした表現が自然科学だといってよい。そのえた真理を認識にとっての自然としてさらに自動的に観念は更新される。こうやってさまざまな真理の体系が建築物としてそびえ立つ。ゲーデルは、ここにあるひとつの真理の体系があるとして、この真理が無矛盾であることを真理を支える公理を使って証明することはできないことを証明し、なにより確実な真理の系である数学の世界に衝撃をもたらした。量子力学も相対性理論も分子記号学もコンピュータ言語も金融工学も数学に基礎をもつことはあきらかだから、世界も社会も数学によって支えられているといってよい。DNAの解読もDNAの編集も強いAIも数学抜きには成り立たない。いまでは万象をつくるものは数学だといっていい。

ここで親鸞の自然法爾の自然(じねん)を考えてみる。親鸞の自然(じねん)は自然(ナチュラル)と相関しているのだろうか。マルクスの自然哲学の自然の表現として親鸞の自然法爾はある。わたしはそのように理解している。親鸞の自然(じねん)はヘーゲルの太い精神のうねりが有論で腕をふるった非有ということともまったくちがう。マルクスは現実の自己表現が観念形態であると考えた。吉本隆明は観念形態は観念形態の自己表現としてあると考えた。ヘーゲルもマルクスも吉本隆明も太い精神のうねりをもっている。それにもかかわらず、かれらの思想は表現の往相過程としてしか考えられていない。その思想のありかたをわたしは自己意識の外延表現だと言ってきた。ハイパーリアルなむきだしの生存競争がわたしたちが当面している現実である。わたしたちの生は徹底した適者生存のふるいにかけられ選別され、アスリートしてゲームに勝ち残ったものだけが勝者になる。それがむきだしの生存ということだ。だれもが例外なくこの現実に直面している。わたしは世界のこの条理を革めることができると考えて内包論を書いている。人間的な意識の始まりを考えてみると、共同化も内面化もできない意識のありようを不意を突く錯乱として起源の闇が隠蔽したのではないか。悠遠の歳月わたしたちはその意識の囚われのなかにいるのかもしれない。なにかとても生々しいリアルがそこにあるような気がする。

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個体発生は系統発生を繰りかえすというヘッケルの考えがあるが、生物学のこの理念は歴史や生にも妥当するのではないか。当事者性の引き寄せるひずみを存在の根柢でひらきたいという体験を、内面化も共同化も不能とみなすわたしの表現の原則を敷衍してみる。親鸞の自然法爾はここまで到達しているとわたしは思う。往相の自然は還相として自然に重なる。この思想が親鸞の他力にほかならないが、もうひとつ奥まで行ける。還相の自然が可能だから往相の自然がそれ自体に重なるのだと。表現が表現を転倒しているのだ。他力のなかにある自力を親鸞が言っているのではない。他力という意志論によって親鸞はこの世のありかたをめくり返しているようにみえる。根源の二人称という思想によって人類史をつくりかえることができるというたしかな手応えがある。

重畳する歴史の累積は個人の生涯においても反復していると考えてみる。個人の生涯には人類史が凝縮されて表現される。その生の基底のことを吉本隆明は大衆の原像といっていることはよくわかるが、この概念からは表現ということはでてこない。べつに大衆の原像を繰り込まなくても生の原像としてだれでも喰い、寝て、念ずる。生の原像はだれのなかにも内挿されている。わたしの内包表現論は生をまるごと表現にしようとしている。観察する理性は表現の主体と表現を分離する。俯瞰による観察する理性は、それがどんなイデオロギーであれ、知識人と大衆という権力による分割を行使する。生活と表現の分離だ。わたしのなかでは精神の古代形象の始原を解き明かすことと日々の生を歩く浄土として生きることは一意的に対応する。人類史は生の当事者性として一身に表現されるというわたしに固有の生の知覚がある。わたしの身に起こったことを普遍的に語るとき、わたしは総表現者のひとりとしてわたしに固有の浄土を生きることになる。それはだれにとっても可能な生としてある。なぜなら人は根源において二人称だからである。わたしたちは一人称として自己を考えているが、そうではなく、一人称としての自己に先立って根源において二人称である。このリアルをわたしは根源の性と名づけてきた。「私」というありかたは一人称であるようにみえる。事実、だれもが自分を一人称だとみなしてきた。このとき自己が自分によって所有されることはなにより自明であると思っている。「私」は「私」である。あるものはそのものにひとしい。同一性である。あるとき〔ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとり〕という機縁が訪れた。驚倒した。自己の背後の一閃に驚いてこの驚きを内包論として考えてきた。
内包論では根源の性を分有するとき根源の二人称は「私」という自己意識の外延性を〔わたしがあなた〕であると上書きする。「私」という自己のありかたのなかに〔わたしがあなた〕としていきなりあらわれる。このような意識のありようをわたしたちはまだ一度も自然として生きたことがない。それが人類史ということなのだ。「ぼくたちの生は、根源において二人称である。誰もが根源の二人称の表現者である。この『表現者』という場所で、万人は自由であり平等である。そして根源の二人称の表現者として、一人ひとりが自らの自由と平等を行使するとき、人と人は自ずとつながらざるをえない。これが『21世紀の友愛』である。というか、これまで友愛というものは、一度として人間の歴史上に存在したことはなかった」(片山恭一公式サイト「21世紀の自由・平等・友愛」)

風が吹き雨が降るように「それ」がある。この「それ」のありようにはどんな意志もない。この「それ」のありようが歴史を連綿と織りなしてきた。この「それ」がわたしたちの知る自然であり、自分である。悠遠の太古の面々とわたしたちの個々の生はなにも変わらない。ここには起源の不意をつく錯乱がある。この錯乱をわたしたちは自然とみなしてきたということだ。乱世のただなかで親鸞は自然法爾によって未知の存在を現前させたのだと思う。それが親鸞の浄土だ。そうすると、貨幣は身体の延長であり、その身体が心をかぎっているという自然は、こころが身をかぎり、身が心をかぎる、その心身一如を所有するものを自分だとする自然は、それが、人という生命形態が環界を巻き取り粗視化するのは必然だったとしても、あるいはそこに精神の古代形象の原型があるようにみえたとしても、同一性が掬い取ったひとつの自然にほかならないのではないか。わたしは私性も貨幣への欲望も生を引き裂く権力も同一性が象ったひとつの必然にすぎないのだと思う。

外延的な意識の範疇に属する存在と意識の先後関係ではなく、外延と内包の始原を息をつめて考えている。レヴィナスが引用したパスカルの言葉。「ここは私の日向だ。この言葉こそが大地全体の簒奪の開始であり象徴である」。これではっきりするだろう。私性も貨幣への欲望も権力も生を簒奪するものであることが。これ以上強い自然をわたしたちはまだもちあわせていない。それにもかかわらずわたしたちはこの自然を、おのずから超えているということにおいて超えることができる。いったい根源の二人称から、なにを奪うのだろうか。還相の性からいったいなにを奪えるというのか。根源の二人称や還相の性をあたらしい自然とすればいいだけのことではないか。そして、それは歩く浄土として、内面化も共同化もできないが、いつも、わたしたちと共にある。そこにだけ世界の可能性がある。先史の人類の精神の古代形象のなかにもみえないかたちですでに根源の二人称が内挿されていた。(この稿つづく)

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