日々愚案

歩く浄土134:内包贈与論13-初源の意識と権力1

内包贈与論をすすめるにあたってマルクスの考えたことをたどりなおし、マルクスの思想が「社会」主義であることを明らかにしてきた。人間の個的な生存を社会的なものとすれば世直しは強い倫理を招き寄せ、マルクス主義を不可避とするということだった。マルクスの思想が貨幣や歴史の謎を解くことはなかった。私性と貨幣は鏡像の関係にあり、私性と貨幣の謎はマルクスの思想の方法では解けないということだった。存在が意識を決定するのか、意識が存在を措定するのかは、鶏と卵はどちらが先かというどうどうめぐりにしかならない。意識の外延性を公理とした存在と意識のあれこれは、外延性の閉じた意識と存在のあれこれであってどちらに理があるか、なんとでも言いうる。むきだしの条理からするとどちらでもいいことになる。そのあたりをどういじくり回してもなにもでてこない。そうではないのだ。あたらしい概念をつくることで意識の外延性を前提とした存在と意識のありようを包み込んでしまえばいい。そこにしか未知の世界構想はない。外延存在に内包存在という根源の二人称が先立つわけだから。外延的な表現と内包表現は自然数と実数の関係に比喩される。権力と内面化も、政治と文学も外延表現の遺制であってそこに未知はなにもない。

この書き殴りメモは本質論であり情況論としても読めるものだと思っている。
数少ないこのサイトの読者も安倍晋三のふるまいのすべてに嫌悪を感じ、不動産で成り上がったトランプの権力を嵩にきた冷徹なビジネス政治に暗澹とした思いがあると思う。安倍晋三がトランプにへつらい国富を献上し、そのつけを安倍晋三は独裁によって軍事国家をつくることで国民を締め上げていく。共謀罪もそのひとつだ。そのただなかでこのメモも書かれている。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(『経済学批判』13p)

意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む。このような措定の当否は唯確信の深さと、実践によって決せられねばならぬ。ここに至って詩的思想はマルクスの所謂非詩的思想と対峙するに至るのだ」(吉本隆明「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法に就いての諸註」1949年)

マルクスの方法的な意識も吉本隆明のそれも意識の外延性をなぞったもので、どちらに理があるか決定不能である。マルクスが非詩的な方法で社会を流動する貨幣を解析し、吉本隆明が詩的な思想を内面の文学と逆措定しても、なにが解決したわけでもない。天皇の赤子は万民平等であるという自然生成も、大衆の原像を繰り込むという知的な操作も、意識の外延性としていえば、おなじ範疇に属する。いずれの思想も世界の無言の条理に無力であるように思う。むきだしの生存を外側からなぞっているだけではないか。いま人倫が急速に決壊しつつある。世界の画像がメルトダウンする。生も世界も蠢動するさまざまな共同幻想の属躰となろうとしている。そのただなかに生きている。なぜなにもかもがなし崩しになるのだろうか。世界が壊れつつあるたしかな実感がある。邪悪な意志をもつ者によって世界が崩壊しようとしているのだろうか。そうではない。自己というがらんどうが人倫の決壊と世界の壊れを招来しているのだと思う。「私」のありようが世界をメルトダウンさせている。そこには自己意識の外延的な表現としての人類史の必然がある。世界を構想する力が涸竭したことのあらわれがこの世界をむきだしにしている。ただことばの力だけが暗闇を照らすことができる。わたしは言葉の構想力でむきだしの世界を包んでしまえばいいと考えている。未然の世界認識の方法を現前させること。わたしは総表現者のひとりとしてことばの力で人類史を転換したい。それが可能であることを内包論で書き継いでいく。

ここであらためてわたしの表現の原則を申し述べる。わたしはわたしの身に起こった出来事がどういうことであるか腑に落ちるまで考えたいので考えている。べつの言い方をすると当事者性に徹するということだ。つまりわたしはじぶんが遭遇した出来事を観察する理性によって説明したいとはまったく思っていない。苛烈だった体験を、体験として語りたいのではない。わたしは、わたしが体験したことを普遍的に語ろうとしている。そこにしかわたしに固有の生はないと思うから。そして固有の生を普遍として語ることのなかでしか人と人はつながらないと確信している。意識の外延的な表現の範疇で人と人はつながらない。2016年11月末、片山さんとの熊本での討議のとき、友人の紹介で熊日の文化部記者との顔合わせをしたことがある。ひとしきり考えていることを話し、いまぼくがここでしゃべっていることは職業にはなりません、と申し上げた。おそらくその意味はつたわっていないと思う。大衆の原像というときその意味はすでに社会化されている。わたしがつくろうとしている考えは社会化できないものに生の可能性があるというものだ。大衆の原像ではなく、生の原像を還相の性として生きるとき、人との関係は、おのずから喩としての内包的な親族となってあらわれる。この信は内面化することも共同化することもできず、内包的なそれ自体の表出の構造をもっている。片山さんのサイト「小説のために」に音色のいい言葉があったので貼りつける。

 誰かを好きになる。たとえばタイタニックの船上でジャックがローズに恋をする。このときローズは、ジャックの眼差しによってはじめて可視化されたと言っていい。少なくともジャックのようにローズを見た者は、それ以前にはただの一人もいなかった。すると人を好きになることは、一つの創作であり創造である。ジャックがいまその場に、「自分よりも大切なあなた」としてのローズを誕生させ、出現させたのだ。同時にジャックは、ローズその人を「自分よりも大切なあなた」として生きる者として、この世界にはじめて誕生し、出現したことになる。この相互性が「表現」である。

ぼくたちの生は、根源において二人称である。誰もが根源の二人称の表現者である。この「表現者」という場所で、万人は自由であり平等である。そして根源の二人称の表現者として、一人ひとりが自らの自由と平等を行使するとき、人と人は自ずとつながらざるをえない。これが「21世紀の友愛」である。というか、これまで友愛というものは、一度として人間の歴史上に存在したことはなかった。いまはじめて、ぼくたちが「友愛」を定義するのである。規範や強制力によらない友愛を。

一人で考えているうちは妄想や錯覚かもしれないが、(中略)二人で考えることは、もはや妄想や錯覚ではない。すでに実在であり現実である。やがて二人は三人になり、四人、五人……あとは指数関数的に増えて数億、数十億になる。おお、シンギュラリティ! 地球上が根源の二人称の表現者で溢れかえるぞ。このとき世界は革まる。暴力や強制によらず、世界は自ずと革まる。
  おのずからなる革命の可能性を確信しつつ、その手応えを感じつつ、今年もぼくたちは討議をつづけていく。どうぞ共謀罪に引っかからないように、ひそかな声援を送りつづけてください。(「21世紀の自由・平等・友愛」2017年2月1日)

根源の二人称という言葉にはいい風が吹いている。「この相互性が『表現』である」。まさにそのとおりだと思う。この機微をわたしは内包表現だと言ってきた。表現の主体が手前にあって内面化したものを外化するのではない。それだと対幻想にしかならない。関係の相互性が表現であるという出来事は対幻想からはみだしてしまう。このリアルを入れる言葉がないので、根源の性を分有すると名づけた。ほんとうはだれでも体験していることだと思う。体験しているにもかかわらず思考の慣性がこの驚異を同一性に回収し、同一性によって名づけられた自己が同一性によってかたどられたもうひとりの他者と出会う世界が対の世界だと錯認する。性の世界は一瞬にして実体化されるわけだ。そうではなく「この相互性が『表現』」なのだ。この相互性を可視化することはできない。

「忙しい時間をやりくりして、ぼくたちがどういうことを話してきたのか、サワリのところだけをできるだけわかりやすく説明してみようと思う」と「21世紀の自由・平等・友愛」について書いてあるので、「サワリ」では尽きないことを少し書いてみる。『guan02』のまえがきを書いてそのあと10年余思考がフリーズした。生を根源の二人称の表現だとするとき、歩く浄土があらわれる。片山さんはそのことを、「誰のなかにも浄土は、存在しないことの不可能性として内挿されている。別の言い方をすれば、誰のなかにも『自分よりも大切なあなた』が無限小のかたちで埋め込まれている」と言い、「ぼくにはぼくの浄土があり、うちの奥さんには奥さんの『浄土』があり、誰のなかにもそれぞれに固有の『浄土』がある」と書いている。ここで、このそれぞれの浄土をn1、n2、n3、・・・としてみる。この浄土は信の共同性を生まないだろうか。やはり信の共同性をつくると思う。「歩く浄土77」で書いた。「たとえば、仏はただ親鸞一人がためにあると元祖親鸞が言い、ある者が親鸞の非僧非俗や他力を我がことのように諒解したとする。さらにもう一人の者もおなじことを覚知した。するとどうなるか。元祖親鸞をn1、他力本願をつかんだ者をそれぞれn2、n3、n…とする。そのとき親鸞n1と親鸞n2と親鸞n3・・・の互いの間柄はどうなるだろうか。どういう関係をつくるだろうか。わたしはここで絶句した」。わたしはここにある謎を解かないかぎり、私性と貨幣、あるいは権力をひらくことはできないと考えた。根源の生の分有者と、生が根源において二人称であるとしてあるということは同義だが、なにかもうひとつ概念を付けくわえないと気持ちよく浄土が歩かない。それがなんであるか、それがどういうことであるかつかむのに10年余かかった。その困難たるや言葉がない。それは根源の性を分有することのなかに無限小のものとして隠れている還相の性だった。「根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある」(『生と精神の古代形象』)還相の性が内包論のもっとも深いところに熱く息づいているとわたしは考えている。

と書いてきて、片山さんの、生が根源において二人称であるという感触はじつは二段構えではないかという気がする。ふたりでやっている討議の「サワリ」と書いてあるではないか。わたしは根源の性を分有するという存在の仕方が意識の外延性となったあらわれを対幻想と呼び、この性はおおかた生木を裂くように断ち割られる。内包論ではこの性のありようを往相の性と名づけ、この往相の性の彼方に内面化することも共同化することもできない還相の性があると考えてきた。内包の息づかいを外延的に敷衍すると、外延表現では自己は、あたかも領域としての自己としてあらわれる。またこの意識は国家に抗する内面化という表現の方法によって存在しないことの不可能性として暗喩することはできる。しかし外延的な意識ではそれそのものをつかむことはできない。ここまではわたしたちの知る文学や芸術という内面の制度もくることができた。内面は外界の制度や自然(ナチュラル)なものにたいする異和として存在する。そうすると環界や制度に還元できない意識の剰余は外化されるほかない。外に化けるのだ。その刹那まちがった一般化が起こる。ヴェイユはこういうことに極めて敏感だった。それにもかかわらず、匿名の領域が存在することを言い切っている。わたしはヴェイユの匿名の領域を還相の性と喩としての内包的な親族として粗視化した。わたしの考えでは片山さんの、生が根源において二人称である、という直覚は還相の性において統覚されることになるのではないかという気がしている。そのことを二段構えではないかと考えてみた。いつかそのあたりのことを片山さんに聞いてみたい。(この稿つづく)

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