日々愚案

歩く浄土133:情況論39-国家の内面化とグローバリゼーション1

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国家を自然と考えてみる。この自然は環界の自然のように働きかけても容易に人工化することができない。商品が貨幣に、貨幣が資本に、資本が金融工学でビットマシンに結合するようには対象を操作することができにくい。いわば天然性を色濃くのこした自然であると言える。すると世界には、気候・風土・精神性が折り重なった百数十の文明の生態系があるということになる。この生態圏をビットマシンと結合した多国籍のグローバル経済が凌ぎつつあるということが世界の転形期のいちばんおおきな特徴としてある。グローバリゼーションによって文明の生態史は攪乱され疲弊し人びとの大半は窮乏し生活は逼迫する。生活的な実感としてそれはまちがいなくある。自由貿易は適者生存を前提にした理念だから、富裕な者はより富裕に、貧者はより貧しくなっていくのが自然である。世界を平定しつつあるグローバル経済にたいして国家は抗命し、国家の内面化をもってナショナリズムを喚起する。諸個人は思考を停止して国家に同期し、伝統的な精神性に待避しながら身をかがめて嵐が去るのを待つ。それが目のあたりに起こっている。

風土に根ざした自然としてある国家は、わたしの概念では外延自然にほかならないから、意識の外延表現でほどくことはできない。人間の営みが、家族から親族を、親族から氏族へ、氏族から部族へと共同性を遠隔化し、観念を巻き上げて国家という共同幻想を生んだことは外延表現の必然であって、この意識の範型では国家をなくすことはできない。現在までのところ国家を最上位とする共同幻想が乱立していて強大な国家が弱小の国家を締め上げている。自己意識が外延的に粗視化された国家の内部で棲息する者は、この共同幻想に抗して自己を内面化し、自己幻想が共同幻想と矛盾・対立・背反する契機のなかに国家を相対化し超えていくと願望をもつことはできるが、自己の観念は国家の観念に同期するのが自然だから、そういうことは起こりえない。この主観的心情の襞は共同幻想に同期するようにできている。

国家が内面化したときその国家の内部で権力闘争が始まる国と国家に同期する国民の違い。日本の方が深刻だと思う。トランプ現象に振り回されているが、この国の劣化のほうがずっと激しい。しばらくまえにシールズの流れに乗った発言者たちは風見鶏のように天皇制のメリットを説き天皇親政を語る。機を見るに敏な身過ぎ世過ぎの処世術が巧みな人たちだなと思う。片やトランプは99%の貧者の側に立つ革命家だと持ちあげる者がいるかと思うとポリティカル・コレクトネスを未練たらしく語る者もいる。どちらの側もなぜこの国の国民は易々と支配者に従うのかと嘆息する。締め付けが厳しくなると背に腹はかえられないというのが自然な生成なのだ。それは見事な伝統芸としてこの国の心性として深く根ざしている。橋本治の、この国に個人というものはもともとないといえばすむ話。ひとしきり抗がん剤の進歩について旧知の友人とおしゃべりをするブロガーが、アメリカでは大統領令に抗命する国務省の役人が1000名もいるのに、この国ではなぜそういう人もメディアもいないのでしょうかと得々と語る。こういう安易さから未知が兆すことはない。

わかりやすい例えでいうと、テロの脅威より、がん治療の驚異のほうが、いま、ここにある危機としてはるかに深刻だと思う。テロの脅威については支配者たちもそれぞれの国の国民も撲滅することになんのためらいもなく一致団結する。わたしにはテロリストを殲滅したがる安倍晋三もトランプもプーチンも習近平もヒラリーも金正恩もみなおなじ顔つきをしているようにみえる。テロは愚劣だが、では、がんの早期発見早期治療は愚劣ではないのか。トッドと近藤誠の本を手がかりにわたしたちの生を貫く権力を情況として炙りだしてみたいと思う。トッドと近藤誠の発言のなかに世界が凝縮されてあらわれている。

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以前から保護貿易を提唱してきたトッドの近作をアマゾンから3冊取り寄せて一気に読んだ。『グローバリズムが世界を滅ぼす 』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』『グローバリズム以後 アメリカ帝国の失墜と日本の運命』この3冊。むかし『世界の多様性』を読んだとき、トッドが「おおくの民族を研究して、ある特定の民族の家族の婚姻形態を分析すると、外婚性には外婚性の、内婚性には内婚性のある特定のイデオロギーが結びついていて、このイデオロギーは国家形成の強弱を意味する。これは私の発見によるもので、マルクスも気づいていませんでした」と書いていたことが印象深く残っている。おそらく日に夜を継ぐ研究の賜だと思い、そのことには頭が下がる。徹底した帰納法的な思考の持ち主だ。「私の態度はプラグマティック、実際的」であると言っている。

中東で起こっていることについて無知なのでトッドの発言をなぞってみる。かれは中東で起こっていることはアラブ圏で国家を築いていく困難を、新自由主義経済が加速していることにあると言う。イランとトルコにしか国家形成の力はない。シリアは女性の地位が高く近代化が進んでいる。イランではシーア派とスンニ派が対立しているように見えるが脱イスラム化がすすむなかで信仰が消滅しつつあることの表象である。中東全体が信仰の消滅に晒されニヒリズムが勃興している。だからISは悪魔ではあるが完全なニヒリストの国家なのだ。ISの若者は欧州が生みだした。等など、刺激されて面白い。
先進国ではいま4つのことが起こっているとトッドは言う。
1 どの共同体にもあった信仰体系が経済的合理性に置き換えられ金を至上のものとする信仰となっている。これは新自由主義経済がもたらしたものである。金の合理性は目的になりうるか。金が信仰の最後のものであるが、この信仰は反共同体的である。共同体的な展望の欠如。
2 先進国の歴史で経験したことのない、急激な高齢化が進行している。金以外の目的がないことが高齢化の不安に結びつく。
3 社会を横断する教育レベルの向上。
4 女性の地位の向上。教育革命である。

この4つを合わせると人類学的な革命が起きる。いま現に起こりつつある。新石器時代以来の革命が進行している。私たちは途方もなく大きな転換期の只中にいるということ。政策の現実性としては日本はアメリカに服従するのが割に合い、核武装をすべきである。それはかれの人類学者としての研究に基づいている。インタビューに答えて、まだ読んでいないが『家族システムの起源』で、初期人類の最初の家族の構造は核家族であり、伝統的なモデルでは、社会の発展は、複雑だった家族構造がシンプルになっていき、個人というものが登場し、家族構造が個人中心になり、もっと自由になり、もっと進歩するということになっているが、グローバル化の夢は一致に向かう夢であり、思想的には美しいが幻想にすぎず、人類は分岐、分散していく。それが家族構造の力学だ。そのようなことを『グローバリズム以後』のなかで書いている。原始の人類は核家族で、時代を経るに連れて複雑に分岐した。共同体的なつながりを消失してモナドに分解されることの嫌悪がトッドにある。レヴィ=ストロースと理念のさわり方がよく似ている。エリートの知の流儀についてのこだわりがトッドにあって理解しがたい。典型的な観察する理性の知に世界へのどんな構想もない。トッドの考えるグローバリズムとは経済的なものではなく識字率の向上を指すということがわかった。識字率が向上すると人類学的な革命が起こるとトッドは考えている。3冊の本の全体を通してEUはすでに崩壊しており、イギリスのEUからの離脱は賢明であった。国家は内向きに収束し、保護貿易によって域内の生活が潤い、内需が拡大すれば、消費が伸びて社会は安定する。あのグロテスクなヒラリーとトランプとは言っていたが、トランプの登場を充分に予見はしていた。それほどアメリカ帝国はグローバル経済によって疲弊しているとも。エリートにとって知がどういうものとしてあるのかをよく象徴する印象的な発言をいくつか貼りつける。世界を語る精神の後進性がよくあらわれている。

驚いたのは、EU離脱をめぐる国民投票内容についての社会的文化的構造のほうです。それは、大衆の声と文化的なエリートたちの声の対決という構造になっていました。つまり、離脱に投票したのはふつうの人たちです。大学教育は受けておらず、イングランド北部、南部、中部の大衆的な地域に暮らす人々。これに対して、左翼に限らず、高等教育を受け、高級紙の「ガーディアン」を読み、親EUの人たち。この人たちは、離脱という結果に憤然としていました。その嘆きのほどと言ったら! 私の長男は英国で暮らし、英国民になっていますが、彼によると、国民投票のあと、大学人たちは激しい憤りぶりだったそうです。
 私が驚くのは、大衆層がエリートたちに刃向かうことができたという点です。だって、それはちょっとフランス的だからです。
 フランスでは、大衆がエリートに刃向かうのは、まあ伝統みたいなものです。日常茶飯です。しかし英国では、エリートに対して社会的に敬意を払うという伝統があります。つまり、目上の人の優位性を受け入れるという習慣です。
 私がケンブリッジ大学の学生だったとき、びっくりしたことがありました。20歳の若道だった私に、高齢の家政婦さんが「サー」と呼びかけたのです。フランス人の私にしてみれば、敬意を払うべきは、より年配の人に対してです。彼女が私に「サー」と言うのではなく、私のほうが彼女に「マダム」と言わなければならないのです。 まあ、それが習慣なのでしょうが、ケンブリッジの学生というのは若き紳士なのです。だから敬意を払う。(『グローバリズム以後』31~33p)

 そのとき、一種の啓示を得たのです。
 福島第一原発から25キロにある南相馬、住民の半分くらいがいなくなってしまった町の中の理容店の夫婦に話を開いていました。その途中で、主人がなにかをうまく言い表せない場面がありました。そしたら、奥さんが話し始めたのです。私はなんだか、フランス人の田舎の夫婦と向き合っているような気がしました。それで、その奥さんにあなたは南仏のフランス人のおかみさんを連想させるところがある、と伝えました。
 突然でしたが、こういうことがはっきりしたのではないかと思いました。つまり、男と女の関係は、エリートたちよりも大衆の中のほうがずっと平等だ、ということです。そして、ある疑念が生じました。単純化してはいけないと思いますが、こう考えたのです。「世界のどんな国でも、エリートというのは似ている、という物語は、実はお笑い草なのではないか。最もその文化の特徴的な要素が一番染みついているのは、社会構造の中で上位にいる人たち、つまりエリートたちだ」。
 かくして、フランスのエリートたちは、フランスの大多数の人たちよりフランス的であり、ドイツのエリートも同様。英国でも、米国でも。
 世界のエリートたちに共通点はある。教育レベルは高いし、外国語で意思の疎通もできる。けれども、それは目くらましだと思うのです。
 私が一番よく判断できるのはフランスのエリートです。彼らは、グローバル化について普遍主義的な考えを最も強く主張しています。彼らは、他のだれよりも、欧州は存在しなければならない、様々な人民というのは存在しない、などと言いつのります。けれども、諸国民の違いをなくしてしまうというヒステリックな考え方こそが、フランスのエリートがフランス文化の戯画であることを示しています。普遍的な人間という視点からものを考えるのは典型的にフランス的です。そして彼らは、その極端にまで行ってしまう。
 けれども、彼らが「普遍的人間」なんて叫んでいる、そのこと自体が、彼ら自身こそ典型的フランス人の戯画であることを示しているのです。
 そして、彼らは世界についても知らないのです。世界を知っていれば、こう言うでしょう。そう、人間は普遍的だ、けれども社会は違っている、文化的な違いもある、と。(同前38~40p)

水俣に行けばトッドはもっと喜ぶだろう。人間は普遍的だが、社会はさまざまに違い、文化も多様的だ。トッドはそう言うが、とても鈍感だと思う。この件を読んですぐにフーコーのホメイニ絶賛とそれを批判したイラン人女性の論争を思いだした。知とはなにか。知識で世界に触れるとはどういうことか、徹底して考えるしかないことがフーコーにおいても、トッドにおいても回避されている。

イランの天皇ホメイニについてフーコーは言う。伝記によるとそれは一九七八年十一月に発表される。「国家のどのような首長も、自国のすべてのマスメディアを拠り所としているどのような政治的指導者でさえも、このように個人的でこのように強烈な愛着の的になっていると今日自慢するわけにはいかない。この絆は、多分三つの事態にもとづいているにちがいない。すなわち、ホメイニはここにはいないのであり、十五年来、彼は亡命生活をしていて、国王が出ていってしまわないかぎり亡命先から帰国したくない。つぎに、ホメイニは一言も言わない、いやという否認の言葉以外は一言も-国王にたいして、体制に、従属状態にたいして。最後に、ホメイニ党などあるまいし、ホメイニ政府などあるまい。つまり、ホメイニは集団意志の集約点なのである」「それは素手で立ち向かう人々の反乱であって、われわれ各人を圧迫する、いっそう個別には、あの石油労働者やあの国境地域の農民たちといった彼らを圧迫する重荷を、つまり全世界の秩序という重荷を、かの人々は除去したいのだ。これは多分、世界規模のシステムにたいする最初の大反乱であり、最も現代的な反抗形態である。そして最も奔放な反抗形態」
このフーコーの発言にイラン女性読者は憤激して反論する。「精神性ですって? サウジ・アラビアのほうはイスラム教という水源から水を飲んでいる。盗人と恋人のために、手を下げ、頭を垂れている。ヒューマニズムを追い求めている西欧左翼にとって、まるでイスラム教は望みの綱のようだ・・・他の国々では! 私のような多数のイラン人は〝イスラム教にもとづく統治〟という考え方に途方に暮れ、絶望しています。イラン人は自分たちが何の話をしているかを承知している。イランのまわりでは、いたるところでイスラム教は封建的ないし偽革命的な圧政の隠れみのになっている。またしばしば、チュニジアでもパキスタンでもインドネシアでも、そしてわたしどもの国でも、イスラム教は-悲しいことに-沈黙させられている民衆の唯一の表現手段なのです。西欧の自由主義は、イスラム教の掟が、行動を起こしたくてうずうずしている社会のうえにのしかかる、なんと重い鉛の蓋になりえているかを知るべきでしょうし、病よりもきっと悪いにちがいない薬に魅了されてはならないのです」(『内包表現論序説・補遺』)

フーコーのホメイニを賞賛する一連のルポを『ミシェル・フーコー伝』で読んだとき、「フーコーの思想には戦略も戦術も存在するが、大気の重さが計量されていない」と書いた。トッドも世界を俯瞰する知を行使している。この知は国家の権力とおなじ権力なのだ。この知の下では生はたんなる症例にすぎないことになる。観察する理性は権力である。数少ない読者の皆さん。言葉遣いに注意せよと言っているのではないですよ。ドゥルーズもなにかの本に「直ちに理解した無教養な人たち」と書いていたことがあり、ああ違うとカチンときたことがある。親鸞も「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)と言っている。ぜんぜん違う。親鸞はその言葉のなかにいてそこを生きている。フーコーもドゥルーズもトッドの言葉も現場を生きていない。この違いは決定的だと思う。そのなかにいてその言葉を生きることがないならそんなものは言葉ではない。わたしは総表現者のひとりとして百億の夜にかけられた閂のひとつをひらこうと固有の言葉を生きている。生きることと表現は不即不離なのだ。(この稿つづく)

 

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