日々愚案

歩く浄土130:内包贈与論10-カール・マルクス考10/価値形態論について1

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マルクスの『資本論』のなかで価値形態論が根幹をなしている。価値形態論はなぜ難解なのか。同一性によって共同幻想としてある交換価値を論じているからだ。マルクスは価値の根源について定義できないままに、世界の条理を回避し価値論を記述したように思う。マルクスの『経済学・哲学草稿』は礎石の概念をフォイエルバッハに、記述の論理をヘーゲルに負っている。自然即人間、人間即自然、個即類、類即個という概念の礎石はフォイエルバッハに由来し、叙述の理念はヘーゲルに拠っている。わたしにはそうしか読めない。人倫についてのマルクスの理念は近代の啓蒙主義をまぬがれていない。ヘーゲルの『精神現象学』を唯物的に表現したものが『資本論』ではないか。わたしのヘーゲル読解の不満はそのままマルクスの『資本論』にも受け継がれる。存在と意識について、親鸞やエックハルトほどの徹底した究尽されていない。白熱しながらマルクスが『資本論』を書いていることはよくわかる。眼光紙背に徹するように『経済学・哲学草稿』を読み込むとすでに『資本論』の原型はできあがっている。『経済学・哲学草稿』から『ドイツイデオロギー』、『経済学批判』を経て『資本論』に至る道はマルクスにとっては必然であった。マルクスの必然はわたしの必然ではない。いくつものことをマルクスは考え残した。マルクスの自然哲学は同一性を公理とした外延自然の理念化にすぎないし、自然哲学から導かれた人間の個的な生存は社会的なものであるという定義は、定義によって思想の行方を決定していた。苛烈な情熱と桁外れの頭脳が資本のしくみを解明したひとつの見事な達成であるといえる。わたしは人間の個的な生存は社会的なものではなく内包存在のあらわれで、同一性に引き取られたとき自己というものになったと考えてきた。『資本論』はマルクスの思想の自然であってわたしの自然ではない。マルクスの意志論を活かしマルクスの思想を組み替えることは充分に可能だと思う。『資本論』の価値形態論の冒頭を引用する。

資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。(『資本論』「商品の二要素 使用価値と価値」67p)

最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私が始めて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理念があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。(同前「商品に表わされた労働の二重性」77p)

商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦粉等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち、使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純な、もっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。(同前「価値形態または交換価値」89~90p)

マルクスの価値形態論を読むといくつもの疑問が湧いてくる。なぜ使用価値は、使用価値でありながら交換価値へと二重化されたのか。『資本論』を読んでもわからない。交換価値はすでに疎外された労働を前提としている。なぜ商品は労働の二重性としてあらわれるのか。資本主義社会における貨幣の運動をマルクスは解明したことを信じていたが、貨幣の謎は解けないだけでなく、むきだしの生存によって貨幣の欲望を昂進しただけだった。マルクスの思想が人間の生存のありようを革命することはなかった。それはどうしてなのか。『経済学・哲学草稿』のなかに『資本論』は透視されている。マルクスには激烈な現実批判の意識があった。これは疑い得ないしおおいに首肯する。人間という自然は社会によって実現できるというという強固な信がマルクスにあった。その信は、おおまかには人間の意識は社会の土台をなす生産関係によって規定される。すなわち意識は社会的なものであり社会的な意識は経済によって決定される。マルクスは資本という経済のしくみを解明すれば、労働者に夢を託すことでこの世のしくみを変えうると本気で考えていた。途方もない信のかたちだった。マルクスの情念のかたちが『資本論』として昇華した。人間の個的な生存が社会的なものであり、この存在を社会と統一することが人間と自然との完成された本質であるとマルクスは考えている。人間は自然であり、その自然は社会において完成される。商品が価値の二重化によって貨幣を生み、貨幣が資本へと転化する自然な必然(国民経済学)に意志論で立ち向かった。空前絶後の壮大な試みだった。男性の女性にたいする関係は人間の人間にたいする関係とおなじであり、そのことはとりもなおさず人間の自然にたいする関係であると心底マルクスは思った。富の分配のしくみを変えれば「歴史は人間の真の自然史」となるはずだった。マルクスの夢は無惨に打ち砕かれた。人間という奇妙な生は同一性の論理をもともとはみだしている。

『資本論』をどう読んでも価値の二重性も貨幣の謎も消えない。マルクスの理念は現実によって反故にされてしまっているので、理念の当否を問いたいのではない。マルクスの思考のうねりを確乎として支えている同一性が息苦しい。斯様に世界は明晰なものとしてあらわれるだろうか。マルクスが『経済学・哲学草稿』第三草稿〔二〕「私有財産と共産主義で扱った」私性批判程度で世界の条理は覆るだろうか。マルクスのデビュー作の私有財産批判を検討する。

人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義。それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、またいままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。

 物質的な、直接に感性的なこの私有財産は、疎外された人間的生活の物質的な感性的な表現である。私有財産の運動-生産と消費-は、従来のすべての生産の運動についての、すなわち、人間の現実化あるいは現実性の運動についての感性的な啓示である。宗教、家族、国家、法律、遺徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なあり方にすぎず、生産の一般的法則に服する。だから私有財産の積極的止揚は、人間的生活の獲得として、あらゆる疎外の積極的止揚であり、したがって人間が宗教、家族、国家等々からその人間的な、すなわち社会的な現存へと還帰することである。宗教的疎外それ自体は、ただ人間の内面の意識の領域でだけ生ずるが、しかし経済的疎外は現実的生活の疎外である、-だからその止揚は〔意識と現実という〕両側面をふくんでいる。

自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。なぜなら、ここにはじめて自然は、人間にとって、人間との紐帯として、他の人間にたいする彼の現存として、また彼にたいする他の人間の現存として、同様に人間的現実の生活基盤として、現存するからであり、ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存するからである。ここにはじめて人間の自然的なあり方が、彼の人間的なあり方となっており、自然が彼にとって人間となっているのである。それゆえ、社会は、人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貰徹された自然主義であり、また自然の貰徹された人間主義である。(『経済学・哲学草稿』130~133p)

できるだけマルクスの思想をていねいに語ろうと引用を貼りつけたところで、こんな雑なことしかマルクスは考えてなかったのかと、めまいがしてきた。マルクスの真の思想もロシア経由のマルクス主義の歪曲もあったものではない。マルクスによってマルクス主義そのものが語られている。「社会は、人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貰徹された自然主義であり、また自然の貰徹された人間主義である」という考えはけっこう深刻だと思う。私有制を否定すれば個と類の真の解決が訪れ、歴史の謎は解かれるとマルクスは言う。観念の上部構造は生産の下部構造に服するとも書いている。おなじのりで貨幣の謎が解けたと『資本論』で言う。とんでもない。まったく解けていないではないか。つまり意識と存在の謎はだれも解いていない。マルクス主義から棘をぬいた「社会」主義にすぎない民主主義が適者生存の主観的信条をめぐって相克する。いま世界はグローバル経済に疲弊し、分断による憎悪によって煽られている。

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内包論という未知によって音色の言い世界を描くことができるとわたしは考えている。マルクスの考えにたいしてむかしつぎのように書いた。

わたしのかんがえでは、人間の人間にたいする最も直接的で本源的な関係は、内包存在にたいする分有者の関係である。この自然的なおのずからなる関係のなかでは、内包存在にたいする分有者の関係は、内包存在を分有する内包者にたいする内包者の関係であり、同様に内包者にたいする内包者の関係は、内包者の内包自然にたいする関係となってあらわれる。ひとはここに、あるがままの現実にたいし、当為として、自己の陶冶が他者への配慮へと至る夢の懸橋を構想した若いマルクスの熱い意志が拡張されているのを感じないだろうか。もしも人間という現象が事物とは異なるものであり、それ自体意志をもつ善きものであるとするなら、マルクスの思想がのこしたあいまいさは剔抉されてよい。なによりマルクスにおける思想の未踏は思考としては超えられるものとしてある。(『guan02』「創刊にあたって」)

マルクスの思想とわたしの考えは前提が異なるので思いっきりすれ違っている。個的な生存は類生活が実現する社会によってもたらされると考えたマルクスと、自己は内包存在が同一性の制約の下で表現されたものにすぎないと考えている理念の違いは埋めがたい。理念を支える公理の違いだと言うしかない。ここには存在と意識をめぐる解きがたい謎が潜んでいる。わたしの内包論はマルクスの思想をぐるんと一回転させてマルクスの思想をまるごと包んでいると思う。マルクスは男性の女性にたいする関係のなかにもっとも本質的なことが自然にあらわれると言いながら、この自然を自然一般に解消し、人間の個的な生存は社会的であるということを前提として自然哲学を論じている。個人を社会的な存在とみなす思考の様式は「社会」主義となるほかなく、この認識の様式が人類史の厄災を招来し、ポリティカルコレクトネスとしていまも生き延びている。以前書いた文章のなかでは根源の性の分有者のことを内包者と規定しているが、分有者も内包者もほとんどおなじ意味で使っている。分有者でも内包者でもいいが、それらは相互にどう連結するのか。ここでわたしは行き詰まり悶絶した。絶句の果てに内包自然の核にある還相の性をつかんだとき、還相の性が、根源の性の分有者相互を喩としての内包的親族として巻き取ることに気づいた。マルクスの思想に沿って言えば、人間の人間にたいする関係を人間の自然にたいする関係へと同期するには男性の女性にたいする関係を根源の性の分有者と内包化すればいいということになる。マルクスの外延的な自然を内包的な自然に拡張するとき、マルクスが考えた人間の人間にたいする関係が人間の自然にたいする関係へと拡張され同期することになる。それは共同性ではなく喩としての内包的な親族としてあらわれるということだ。むろんマルクスは表現のこの機微を知ることも生きることもなかった。マルクス以降の思想においてをや。

マルクスの価値形態論を組み換える。マルクスの価値形態論は内包的な価値形態へと拡張される。即ち、マルクスの価値形態論は内包論によって内包的な贈与論となる。

マルクスは『資本論』の価値形態論のなかで「商品に表わされた労働の二重性」を「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私が始めて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理念があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない」と書いている。使用価値であると共に交換価値をもつものが商品として労働の二重性としてあらわれたと考えたマルクスの思考の様式は意識が外延化され線形的である。ここには使用価値は交換価値をもつが疎外された労働により価値から遠ざけられるというマルクスの思考の公理が隠れている。マルクスはなぜ価値は二重化されるのかと問うべきだった。労働の二面的な性質を批判的に証明することで貨幣の謎が解けるとはとうてい思えない。

マルクスの思惑と違って内包論からすると使用価値も交換価値も共に内包的に二重化される。内包論では自己は〔領域としての自己〕としてあらわれる。使用価値は〔わたし〕のための使用価値と〔あなた〕のための使用価値とに。使用価値が重なるわけだ。そうすると使用価値はマルクスが考えた個的な現存のための使用価値ではなく、内包的な使用価値へと拡張されることになる。交換価値は他者を自己に含みもつ〔領域としての自己〕のもとでは、交換ではなく〔内包的な価値〕としてあらわれるほかない。内包的な価値を交換価値で言いあらわすことができるだろうか。交換価値というときすでに世界は三人称化されている。つまり世界の条理をなぞることになる。内包的な価値は交換価値の派生態なのだろうか。そうではない。交換価値が内包的な価値の同一性的な派生態なのだ。マルクスの理念は逆倒している。この逆倒を世界の無言の条理はバネにする。この逆倒が富豪と貧者を生んでいる。なぜ交換価値が使用価値と二重化しながら価値を増殖していくことができたのか。なぜ商品は貨幣から資本に転化したのか。交換価値は同一性的な生存と相性がいい自然だったからだ。このすきまに厄災が流れ込んだ。問うべきことはだれにとっての使用価値であり、だれにとっての交換価値なのかということであり、価値の固有性なのだ。マルクスが考えることはなかったが、わたしは私性の起源について考えた。マルクスは私性の起源を西欧近代の知的な操作で解決できると錯認した。わたしは人びとがどのように私性をたぐり寄せたのかよく見える。この体験は、重畳された歴史としても、生の現存性としても言い得る。人間が自然から離脱し、自然から分離されはじめたとき、驚愕と恐怖に襲われる。心身一如という意識の塊に動物的な生存衝動が巻き込まれ、意識が動物的な生存反射を昂進させたということだ。ここはおれの日向だとする心と身体がひとつきりの生存は大地を簒奪する。むきだしの生存に晒されているときこの意識の流れは自然であると思う。マルクスはこの意識を断ち切ることなく、社会批判の意識で結局はこのむきだしの生存をなぞることしかできていないと思う。環界を粗視化する止化する観念の遠隔対象性は世界を外延的に抽象する。この外延的な存在の粗視化のうちに商品→貨幣→資本が自然に生成する。この意識の流れにどんな意志も関与できない。それがわたしたちの知る歴史であり個の生存である。

マルクスの思想は内包的な存在である個的な現存を意識の外延性に沿って自己へと縮減し、圧縮された人間にとっての使用価値と交換価値の疎外という円環に人間社会の宿命をみようとしている。マルクスは貨幣形態の発生の謎を解いていない。マルクスはおおきな情熱と巨大な頭脳で解けない主題を解けない方法で解こうとした。個は類とつながらず、類は個と断絶している。個と類はマルクスとはまったく異なった思考法によってしかつながることはない。マルクスは個と類のあいだの懸崖があることにまったく気づいていない。マルクス主義の淵源はマルクスが考え残したマルクスの思想そのもののなかにある。「社会」主義的な理念はいぜんとしてこの囚われのうちにある。グローバリズムか反グローバリズムという二項図式も私性をめぐって相克しているにすぎない。グローバリゼーションによって疲弊した人々を排外主義とナショナリズムで囲い込んで飼い馴らす。それがいま起こっていることだ。既存のどんな理念も音色のいい生をつくることができないのは先験的である。

内包論によって決定的な思考の転換が告げられる。使用価値はなぜ交換価値へと二重化されたのか。個即類、類即個を前提とすれば、商品から貨幣、貨幣から資本へと価値が増殖していくのは私性としての必然ではなかったか。マルクスは人間についての根本的なことを見逃していた。それは外延的な自然にすぎないマルクスの自然哲学の必然であったように思う。

内包的な使用価値は交換ではなく内包化されて交換価値が内包的な贈与となる。人間の人間にたいするもっとも原初的で根源的な関係は〔ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとり〕という精神の古代形象に起源をもつ。根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。この認識が可能となる場所で人類史は転換し内包的な歴史が遠望されることになる。マルクスの資本論の拡張に即していえば、人間と人間の関係の原型は社会的な存在として類即個あるいは個即類としてあるのはなく、根源の性を分有する存在者としてある。そのとき内包化された人間の他者への関係は、外延表現における三人称の他者を、喩としてあたかも内包的な親族として巻き込んでいく。人間の人間にたいする関係は内包的な関係へと拡張され、人間の自然にたいする関係は根源の性の分有者と内包自然との関係へと転位する。わたしはこのようにマルクスの自然哲学を拡張してきた。この飛躍は人間の個的な存在を社会的な存在であるとみなすことの切断によってもたらされる。マルクスの思想の神通力が失効してからも自己を社会的な存在とする理念は生き残っている。わたしは意識の外延化されたどんな理念で手当てしても、それらの理念は世界の無言の条理を適者生存でなぞっていくだけだと思う。そんなものにわたしたちの固有の生があるはずがない。生きているということはもっといいものだ。そういう現実をわたしはつくろうとしている。内面という制度ではないまったく未知の内包知が新しい内包自然をつくっていく。べつの意識のあり方へ!(この稿つづく)

 

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