日々愚案

歩く浄土122:内包贈与論5-カール・マルクス考5

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わたしの内包論からみると資本論として結実したマルクスの思想には、思想としていくつかの未然がある。男性と女性の関与的な関係を対関係に縮小したこと。もうひとつは人間の私性の根深さについて考察を究尽していないこと。まだある。神の見えざる手の支配を大衆に仮託できると錯覚したこと。この3点について徹底的に考え尽くしたうえで貨幣論を書いたらおそらくそれは贈与論になったであろう。マルクスにある思想の未遂がのちのマルクス主義を招き寄せたとわたしは考えている。マルクスは資本論ではなく贈与論を書くべきだった。わたしはマルクスの思想を批判的に検討しながら贈与論を構想したいと思う。興隆するイギリスの資本主義社会が喚起する労働者の過酷な生産現場と生活の困窮と蔓延する疾病を目の当たりにした時代の切迫と制約がマルクスを駆り立て、土台にある思想の未然を解き明かすことなく資本論へと駆け抜けていった。未遂に終わったマルクスの思想を内包論から拡張する。

人間と自然の相互規定としての疎外がマルクスの自然哲学の中核をなしていることはよく知られているが、遺伝子工学を駆使したゲノム編集による人間の改変やビットマシンと人間の融合、あるいは人間という天然自然の有機的肉体からデジタル生命への跳躍が語られる現在、マルクスの思い描いたおおらかな自然が棲息する場所はどこにもない。マルクスの自然哲学は大幅に拡張するしかない。ここにはマルクスの思想がなぜ社会思想でしかありえなかったかということの秘密が隠れている。マルクスの経済論を傍らにおき幻想論を精緻に描いた吉本隆明の思想もまたマルクスに似て社会思想だった。アダム・スミスが市場には見えない手が働くというとき、大文字のGodが無意識に想定されている。マルクスが生きた時代にその神通力はすでに消失していたが、類生活の調和を語るとき大衆が神の似姿として仮構されている。この意識の型は吉本隆明の大衆の原像という理念として色濃く影を落としている。左翼であれ右翼であれ吉本隆明が好んだ究極の左翼であれ、あるいはリベラルな理念であれ「社会」主義者であることからまぬがれることはない。どの理念も主観的な意識の襞のうちにある信を媒介に社会を語る。内包論でしつこくこれらの理念で人と人がつながることはないと主張してきた。

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アダム・スミスの経済学を批判的に継承したマルクスの赫奕とした意志論に充ちた経済学は現実と乖離していたのではないか。アダム・スミスは『国富論』でつぎのように書いている。

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった形で事業を運営することにより、得られるものである。そして人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様、人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである。(『国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章)

ユヴァルはアダム・スミスの経済論の根幹にある思想を解説する。

『国富論』は、おそらく歴史上最も重要な経済学の声明書と呼んでもいいだろう。第1編第8章でスミスは次のような、当時としては斬新な議論を展開している。すなわち、地主にせよ、あるいは織工、靴職人にせよ、家族を養うために必要な分を超える利益を得た者は、そのお金を使って前より多くの下働きの使用人や職人を雇い、利益をさらに増やそうとする。利益が増えるほど、雇える人数も増える。したがって、個人起業家の利益が増すことが、全体の富の増加と繁栄の基本であるということになる。これがあまり独創的な発想には思えないとしたら、それは私たちがみな、スミスの主張が当然のものと見なされる、資本主義の世界で生きているからだ。毎日のニュースの中で、私たちはこのテーマをさまざまな形で耳にしている。だが、自分の利益を増やしたいと願う人間の利己的な衝動が全体の豊かさの基本になるというスミスの主張は、じつは人類史上屈指の画期的な思想なのだ。経済的な視点からだけでなく、むしろそれ以上に道徳と政治の視点から見て、従来の思想を根本的に覆すものだった。実際のところスミスはこう述べているのに等しい-強欲は善であり、個人がより裕福になることは当の本人だけでなく、他の全員のためになる。利己主義はすなわち利他主義である、というわけだ。(『サピエンス全史・下』134~135p)

ユヴァルによって称揚されるアダム・スミスの経済論はありのままの現実を鋭利に指摘している。アダム・スミスの論理の糸はじつに強い。マルクスも形無しだ。スミスの経済論はすでに流通している経済のシステムをなぞっている。巨利を得る者も夜逃げをする者も世相はさまざまである。市場社会は私利と私欲を追求するがそこには「見えざる手」が作用しているとアダム・スミスは考えた。だれもが気ままな営利活動をやってもそこには見えない采配が働いている、と。それは神にほかならない。どうじにこの市場原理は世界の無言の条理に底がひらかれている。産業革命による科学の急速な進歩と資本主義という宗教が結びつき勃興期のイギリス社会ではさまざまな矛盾が湧きあがった。マルクスはこの世のしくみを変えようと果敢にこの条理に挑んだ。『経哲草稿』を読むと炎のような意志が燃え盛っている。堅固な秩序にマルクスは反抗する。あるがままの秩序のなかで富む者はますます富み、困窮する生活者はますます貧にあえぐ。世の中がこんなものであってたまるか。青年期に描いた夢を実現しようと大英図書館に日参し刻苦勉励。資本論の構想を練りに練った。巨大な頭脳に宿った気宇壮大な夢。空前絶後のとほうもない情熱。これほど世界を熱く語った者は以後一人もいない。なんども取りあげた『経哲草稿』の好きな箇所を再録する。

人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質かが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間に対するもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されてる。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係になかに示されているのである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』129~130p)

世界の無言の条理は物それ自体というほどに強固ではあるが観念のひとつにすぎない。マルクスはこの観念を音色のいい人間のおのずからなる関係で置き換えたかった。じつに太い精神のうねりが語られている。男性の女性にたいする関係に表現される自然は世界の無言の条理ともっとも遠く離れている。このもっとも自然な関係をマルクスは究尽すればよかった。この人間にとっての最深の箇所をマルクスは跨ぎ超している。マルクスは人間の類生活を個別的な現存と共同的存在に分別する。性という関与的な存在のあり方と個別的な現存と共同的な類生活は互いにどう関連しているのか。マルクスが「歴史は人間の真の自然史である」(『経哲草稿』)というときの自然史とはなにか。ひとつの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはく、ブルジョア社会の社会構成をもって人間社会の前史は終わると『経済学批判』で述べるとき、前史とはなにか。多くのことがマルクスの胸中で混沌としている。わたしたちはマルクスの予言が悉く覆されたことを歴史としてすでに知っている。マルクスとは何者か。マルクスの世界構想はなぜマルクスの思惑と相反するものとして実現されてしまったのか。

マルクスの思想のなにが残されるのだろうか。わたしはマルクスの意志をもって歴史に参画しうるという比類のない確信だけだと思う。マルクスの思想の意志論だけは引き継ぐことができる。残余の思想はすでにすぎてしまった。マルクスにあっては人間という生命形態の自然が同一性という拘束衣をまとっていることは自覚されていない。マルクスの精神の夢が現実に適用されたときなぜ潰えたのか。わたしはマルクスが究尽できなかった思想の未然のなかにマルクス主義という厄災の淵源があると思う。

そうするとマルクスの思想は全面的に改定される。マルクスの自然哲学の自然は外延自然の謂であり、人間の歴史を自然史に還元するというとき、その自然も、前史が終わるというときの前史も、外延的な自然と書き換えられる。まだいくつもある。マルクスの疎外という概念は内包的な表出と読みかえられる。

わたしのかんがえでは、人間の人間にたいする最も直接的で本源的な関係は、根源の性を分有する分有者の分有者にたいする関係である。この自然的なおのずからなる関係のなかでは、根源の性にたいする分有者の関係は、根源の性を分有する分有者にたいする分有者の関係であり、同様に分有者にたいする分有者の関係は、分有者の内包自然にたいする関係となってあらわれる。個別的現存は領域としての自己となり、類的な関係は喩としての内包的な親族となる。この内包的な表現の核心に還相の性がある。対幻想は可視化された往相の性と実体化できない還相の性との領域として存在することになる。マルクスはこの機微を知らずに生きた。根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。

ひとはここに、あるがままの現実にたいし、当為として、自己の陶冶が他者への配慮へと至る夢の懸橋を構想した若いマルクスの熱い意志が拡張されているのを感じないだろうか。もしも人間という現象が事物とは異なるものであり、それ自体意志をもつ善きものであるとするなら、マルクスの思想がのこしたあいまいさは剔抉されてよい。なによりマルクスにおける思想の未踏は思考としては超えられるものとしてある。何事も初めがむづかしい。マルクスが商品の分析をもって間然するところのない『資本論』を著したように、わたしは存在を究尽することで〈内包論〉を創ろうとかんがえている。無謀な試みだとしても、彼が世界を向こうに回して闘った野性の意志だけは受け継いでいる。今は残骸となって遺棄されている、マルクスが紡いだ人倫についての夢想は、あるいは若い頃にわたしを震撼させた吉本隆明の思想は、彼らの思想を根底で支える同一性原理を拡張すれば、意志論として成就するとわたしはかんがえた。これから登攀することになる険しい理路を仰ぎ見ながら、わたしは電脳社会の彼方を虎視眈々として狙っている。わたしの構想のなかでは、同一性の拡張をもって、「人間社会の前史はおわりをつげる」(マルクス『経済学批判』)ことになる。国家も社会も貨幣も人間が自然と不断に交感するなかで、自然を粗視化して不可避に編みあげた自然の代償態である。ひとのこの生存のありようは避けようもなく、〔在る〕の制約を被った。思考はささいなきっかけでときどき拡張し膨らむことがあるが、大半は停滞するか退行する。精神の古代形象は飽くことなく円環する。内包的な表現と内包史へ。

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