日々愚案

歩く浄土120:内包贈与論3-カール・マルクス考3

マルクスが思想として描いた見果てぬ夢のつづきを内包論として考えている。
マルクスは、ヘーゲルの精神現象学の精神を物質と読みかえ、貨幣の弁証法を資本論として著した。弁証法を日常語に置き換えると、失敗・反省・納得となり、だれもが知っている精神の動きとなる。一部の者が富を寡占するシステムはまちがっている。そのとおりだ。ではそのことを内省しよう。このシステムをいいものに造りかえよう。それで納得できないか。そういうことをマルクスは言ったのだがそうはならなかった。なぜか。マルクスには答えられなかった。禁止と侵犯に閉じられた同一性的な意識のありようやわたしたちの暮らしぶりはヘーゲルの絶対知やマルクスの思想のようには動かない。規範を違犯するのがわたしたちの生だ。マルクスは資本論ではなく贈与論を構想すれば同一性の彼方にいくことができたはずだ。あるいは資本論を過渡として贈与論に向かえばマルクスの思想はもっと生きられることになった。わたしはそう思っている。
マルクスの思想の相貌は『経哲草稿』から『資本論』に収斂していくにつれ険しくなっている。マルクスの直観した自然が次第に痩せていった。レヴィナスが固有の他者をいつのまにか他者一般に還元して世界を倫理と共に論じたように、マルクスの本質直観は同一性的な論理に回収されている。古代の民の精神の総敗北を追認するようにマルクスは言葉をつくっていったような気がする。この敗北の構造はマルクスでさえも解き明かしていない。かれは世界を解釈したかったのではない。マルクスはこの世のしくみを変えることを渇望した。そのことはよくわかる。

わたしの内包的な贈与という考えとマルクスの資本論の接点を見つけたいので、とても好きなマルクスの言葉を引用しながら、そこを絡めて意見を述べる。

①人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質かが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間に対するもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されてる。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係になかに示されているのである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』129~130)

②人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいする-また自然にたいする-君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。(同前186~187p)

このふたつの引用はなんど読み返してもたまらなく好きだ。言葉に目玉がついて音色のいい言葉が奔っている。マルクスは固有の他者を念頭に置きここを書いている。引用のこの箇所についてなんども論じてきたが再論する。男性の女性にたいする関係のなかにもっとも本質的な関係が反照されるということはまるごと諒解できる。男性の女性にたいする関係と人間の人間にたいする関係は次元が違うことをマルクスは考察していない。男性の女性にたいする関係はそのままでは人間の類生活とはならない。男性の女性のたいする関係と類生活はつながらない。まして人間の自然にたいする関係を男性の女性の関係に比することはできない。性の関係と類生活と自然との代謝関係はそれぞれに異なった関係である。性の自然と人間のつくる自然はまるでちがうではないか。人間と人間が織りなす自然と、人間が自然に働きかける作用のなかに性の自然を縮減していく。性の自然をそのままにまるごと表現することで人間の人間にたいする関係を人間と自然の関係を包み込めばよかった。性の世界が収縮する度合いに応じてマルクスの社会という自然は前景に迫り出してくる。マルクスは直観した性の知覚を基軸にして、愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ交換することを構想すればよかった。①と②でマルクスが言いたいことを実現しようとすれば表現されることは資本論ではなく贈与論であることは明らかはないか。ヘーゲルが絶対知を意識の劇としたように、人間的な自然を自然そのものに解消しようとするマルクスの過渡を取りだす。

③それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的な存在であり、自分の苦悩を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接にあたえられたままの自然諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は-客体的にも-主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。(同前208p)

マルクスが歴史を人間の自然史だと考えるとき表現して言われていることは諒解する。ここにはまだマルクス主義の影はない。人間的な自然存在を類的な存在とするにはマルクスの思想を盛っている理念の方を拡張するしかないとわたしは考えた。マルクスが自明のこととして書いている人間的な自然はなぜ立ちあがったのかということをわたしは内包論で究尽した。マルクスの思想にある不明をわたしは解き明かしたと思っている。あるものが他なるものと重なる驚異があるからコツンと我という知覚が立ちあがった。生きていることのなかにある不思議な感情に驚いて身体とノイズがひとつきりで生存している奇妙な生きものがそのものを我と知覚したということだ。それがあるものがそのものに等しいという同一性の起源だ。生きものの快感充足に引きずられていたノイズがノイズの由来をつかもうとしてノイズが同一性のなかで有意味化された。爾来の一万年は一瞬だった。わたしの生の知覚からマルクスの資本論の序文をみてみる。

④起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は、資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら、ここでは、個人は、経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないからである。(岩波書店『資本論』「第1版の序文」16p)

思想的に成熟したマルクスは間然するところのない作品のモチーフを堂々と語る。わたしはつぎのように解読する。マルクスは周到に言葉の仕しかけをつくっているが、いくつもの錯認を語っている。この作品はすでにぶれることなく同一性の認識の枠組みで論述される。『経哲草稿』にみられた受苦的存在という初々しさはかけらもない。個人は社会の被造物であり、また社会は自然史の過程に還元しうることが揺るぎない確信とともに言明される。個人は社会の造出物ではないし、人間の社会を自然史に還元することはできない。個人は社会からつくられ、社会が生成変化するのは自然の営みとおなじであるという見解は容易にマルクス主義となる。生きていることの不確かさやゆるぎをこの思想は許容しない。マルクスは信心がすぎて極楽を通り越した。思想が専制となる所以がここにある。同一性は世界の無言の条理にひらかれている。マルクスの思想は一散にここを目指す。無言の条理の堅固さにおいてマルクスの思想は世界と同期することになる。同一性の論理で思想を同一性的に論じるかぎり抜け道はない。事実倒錯した歴史が実現された。人間の社会化はここにとどまらない。ビットマシンの二進法はこの世界をさらに外延化する。根源の性を分有する思想は、同一性の彼方に跨ぎ超すことを可能とする。わたしがあなとなるとき、あなたはわたしよりわたしの近くにいる。古代の民の精神的な総敗北も内包史によって超えられる。内包自然による喩としての親族は国家もビットマシンの二進法も包み込むことができる。浄土は歩く。

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