日々愚案

歩く浄土119:内包贈与論2-カール・マルクス考2

    1
無名時代のゴッホのようにマルクスは『経哲草稿』を書いている。かれはまだ何者でもないのだ。そしてかれはたくさんの人のひとりとして、親鸞のように、非僧非俗を、生涯を生きた。内包論の各論を書き進めるにあたって文化人類学の碩学の本を読み返し、新たに読み込み、得た知見を内包論に織り込もうと試みたが、用に供しうるものはなにもなかった。文化人類学は限定された知の領域の巨人が未開人の精密な生態観察を行使し、開明的な頭脳によってそれを解析する知識であって、そのなかにいてそこを生きるものはなにもなかったからだ。かれらの知は対象をありのままに観察し記述し分析するだけで表現という位相がない。だから読んでいても医学文献の症例報告を読むようでじつにたいくつである。それらに比べるとブーバーの原始人に向ける眼差しにはふくらみがある。とても穏やかなのだ。親鸞の「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)と似たものを感じる。内包自然にしても内包的な親族にしても、贈与論にしても、稀な文学作品か考え抜かれた思想のなかにしか存在の原理を拡張するにあたってインスパイアーされるものはない。

レヴィナスはブーバーのなにが不満なのだろうか。悠然とした言葉のゆるみに我慢ができないのだろう。あなたのふたつの根元語には痛みがないではないかとレヴィナスは言いたい。わたしも若い頃、汝と我を読んで言葉の甘さや切れ味の悪さに面食らったことがある。ブーバーは思弁を語っているのであって、かれの意志の体現を渇望しているのではない。内面の平安をえたいわけだ。ブーバーの我と汝は、インマヌエルから降り立ったもので格別の新味はない。わたしの内包論と思考の構え型はよく似ているようで決定的に違う。
レヴィナスののブーバー評はどうか。ブーバーの根源語〈我と汝〉に立腹している。わたしはどっちもどっちではないかと思う。レヴィナスの根源語もまた〈我と汝〉の自同律に回収されてしまう。しかしレヴィナスの〈我と汝〉には苛烈なものがある。『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』の扉の言葉に「国家社会主義者によって虐殺された六百万の者たち/そればかりか、信仰や国籍の如何に関わらず、/他人に対する同じ憎悪、同じ反ユダヤ主義の犠牲になった数限りない人々/これらの犠牲者のうちでも、もっとも近しい者たちの思い出に」と献辞されている。ここはブーバーの思索を大いに肯定しながら痛烈に批判していると読むこともできる。毒のあるレヴィナスに登場してもらう。以下の引用のなかにレヴィナスの思想のすべてが、思考の限界が晒されている。

 〈ある〉がふっと触れること、それが恐怖だ。私たちはすでに、種々の対象を入れる容器としての機能や存在たちへの通路としての機能を捨て去った空間が、それ自体醸し出す不確定の脅威ででもあるかのように、〈ある〉が夜の中に忍び込んでいることを指摘してきた。それを強調しておかねばならない。意識であるということは、〈ある〉から引き離されているということだ。(略)恐怖は言ってみれば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動なのである。それも、無意識のうちに意識を鎮めることによってではなく、意識を非人称の〈目覚め〉のうちに、レヴィ=ブリュールの言う〈融即〉のうちに、つき落とすことによって。
 レヴィ=ブリュールは、恐怖が主たる情動の役割を演じている実存を記述するためにこの融即という概念を導入したが、この新しさは、それまで「聖なるもの」の惹き起こす諸感情の記述に用いられてきたさまざまなカテゴリーを打破したところにある。デュルケムにおいて聖なるものは、それが惹き起こす諸感情によって俗なる存在と際だった対比をなしているが、これらの感情は、依然としてある対象を前にした主体の域を出ていない。そこでは主客二項それぞれの自己同一性は、問われていないように思われる。聖なる対象の感覚的な諸性質は、それが誘発する情動的な力やこの情動の本性とは何の共通点ももたないが、この不釣合いや不一致は、この対象が「集団的表象」の担い手であるということで説明される。レヴィ=ブリュールの考えはこれとはまったく違っている。プラトン的な類の分有とは根本的に区別された神秘的な融即において、主客両項の自己同一性は消滅する。両項は、それぞれの実体性そのものの根拠を脱ぎ捨てるのだ。ひとつの項と他の項との融即とは、何らかの属性を共有することではない。ひとつの項が他の項なのである。存在する主体に支配されていたおのおのの項の私的な実存は、この私的な性格を失い、不分明な基底にたち帰る。一方の実存が他方を浸し尽くすと、そのこと自体によってもはやそれは一方の実存ではなくなる。こうした実存のうちに私たちは〈ある〉を認める。デュルケムにとって、未開宗教における聖なるものの非人称性は「いまだ」非人称の〈神〉であり、いつの日にかそこから発達した宗教の〈神〉が生まれることになるが、それとはまったく反対に、この非人称性は神の出現を準備するものなど何ひとつない世界を描出しているのだ。〈ある〉の観念は私たちを〈神〉に導くものではなく、むしろ〈神〉の不在に、いっさいの存在の不在に導く。未開人たちは絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる。
 恐怖はいかなる意味でも死の不安ではない。レヴィ=ブリュールによれば、未開人たちは自然現象としての死に対して無関心な態度しか示さない。恐怖のなかでは、主体はみずからの主体性と私的に実存する能力を剥ぎ取られる。主体は非人格化されるのだ。実存感情としての「吐き気」は、まだ非人格化ではない。それに対して恐怖は、主体の主体性、「存在者」としての個別性を覆してしまう。恐怖は〈ある〉への融即である。まったき否定のさなかに回帰する〈ある〉、「出口なき」〈ある〉への融即である。〈ある〉は、いってみれば死の不可能性、実存の消滅のさなかにまでゆきわたる実存の普遍性なのだ。(『実存から実存者へ』118~121p)

主観的な意識の襞のうちに正義の判断基準はないとレヴィナスはくり返し主張してきた。ある意識の呼吸法のもとでは、対象と対象を論じる言葉には、あるいは表現と表現主体とのあいだには必然としてすきまが生まれる。このすきまを抽象化された一般性へと昇華すると国家となり、内面化すれば文学や芸術というものになるが、意識の型としては同型である。そのことをレヴィナスは知解していたはずだ。内面化することも共同化することもできない根源の一元に追憶する未来と過去の想起があるのではないか。それは名づけようもなく名をもたぬ出来事として存在しないことの不可能性として存在している。国家に正義を要請するのではなく、国家をつくらない人と人の関係を言葉で現成すればいいだけではないのか。あらゆる自己意識の外延的な表現は内省と遡行という意識の劇を免れえない。

デュルケムが未開人は「絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる」と言おうと、レヴィ=ブリュールの「神秘的な融即」によって主客両項の自己同一性が消滅しようと、レヴィナスの〈ある〉のざわめきにたいする恐怖は変わらない。では内面も国家も同一性のニヒリズムによる形式にすぎないというレヴィナスはいったいどこにいるのか。在るのざわめき、在るの不全感のなかに棲息しているだけではないのか。このニヒリズムを代償するもの補完するものがレヴィナスの「顔」であり「人質」であり狂おしい倫理である。ましてこの倫理を国家が代理できるはずがない。パスカルの「ここはおれの日向だ」という私性の根源をどう拡張できるのか。そのことをレヴィナスは問わなかっただろうか。問い、悶絶したはずだ。そして問いながら倫理を要請し絶句する。ハイデガーとおなじ哲学の地平に棄却される。

    2
もう少しレヴィナスの心の内を探ってみる。ブランショがレヴィナスの奥さんをナチから匿ってくれていたので、生きて再会し、翌年『時間と他者』を書いている。あなたとわたしは離接しているということをレヴィナスは言うが、他者の絶対的他者性はかれのかれの体験からきていると思う。「エロス的関係の悲壮さ」という言い回しは、およそレヴィナスにふさわしくない。「愛は悟性の解きえないとてつもない矛盾である」と鉄仮面のへーゲルも似たことを言っている。

①三〇年ほど前に私は『時間と他者』という本を書きましたが、そこでは、私は女性的なものが他者性そのものであると考えていました。(『われわれのあいだで』161p)

②エロスは闘いでも融合でもなく、また、認識でもない。数ある関係のうちで、エロスの占める例外的な位置を承認しなければならない。それは、他者性との関係、神秘との関係、すなわち、未来との関係、すべてがそこにある世界のなかで決してそこにはないものとの関係、すべてがそこにあるときにそこにはあり得ないものとの関係である。そこにはない存在との関係ではなく、他者性の次元そのものとの関係である。可能なるもののすべてが不可能であるところで、もはやできることをなし得ないところで、主体はなお、エロスによって依然として主体であるのだ。愛は、ひとつの可能性ではない。愛は、われわれの主導権〔発意〕に帰すべきものではない。愛には、理由はない。愛は、われわれを満たし〔われわれに侵入し〕、われわれを傷つけるが、しかし、それにもかかわらず、〈我〉が生きながらえるのは、愛のうちにおいてなのである。(『時間と他者』89~90P)

プラトン以来、社会的なるものの理想は融合という理想のうちに求められるようになる。他者との関係において、主体は、ある集団的表象、ある共通の理想に身を投じることによって、他者と一体化しようとする傾向がある、と考えられるようになる。「われわれ」と言い、叡知的なる太陽の光へと、つまり真理へと顔を向け、自己の面前にではなく、自己の隣に他者を感じとることが、集団性ということである。それは、媒介者の役割を果たす第三項の周囲に、必然的に生じる集団性である。相互共同存在もまた、〈と共に〉という集団性にとどまっており、これが真正なかたちでその姿を現わす〔啓示される〕のは、まさに真理の間近でなのである。それは、共通の何ものかをめぐっての集団性である。したがって、あらゆる共同体の哲学においてと同様にハイデガーにおける社会性も結局は孤立した主体のうちに見出されるのであり、現存在の分析がその真正なかたちで遂行されるのは、孤独の言葉によってなのである。
このような隣り合いの集団性に対して、私は「我-汝」の集団性を対置し、相互性が切り離された二つの自由の間の絆にとどまり、孤立した主観性の避けがたい性格が過小評価されているブーバーの考え方に即してではなく、集団性というものを捉えようと試みたわけである。私は、未来の神秘へ向けての、現在の時間的超越を探し求めたのである。
このような超越は、それが人格であれ、真理、仕事、職業であれ、何らかの第三項への融即といったものではない。それは、共同体ならざる集団性なのである。それは媒介者抜きの〈向かい合い〉であり、また、エロスにおいてわれわれにもたらされるものであるが、そこでは、他者の近さのうちにも隔たりが完全に維持されるのである。エロスの悲劇性は、このような近さと同時にこの二元性〔二重性〕から構成されているのである。
愛における伝達の挫折として提示されるものは、まさしく、関係の積極性を構成するものであり、このような他者の不在は、まさに、他者の他者としての現前なのである。(同前97~98p)

③エロス的な関係においては、そのなかで称揚される他者性を減少させるものはありません。他者性を取り除く認識、ヘーゲルの「絶対知」における、「同一性と非同一性との同一性」を称賛する認識とはまったく反対に、他者性と二元性とは愛情関係のなかで消滅することはないのです。二つの存在の間の混乱であるような愛の観念は、ロマンティックな誤った観念です。エロス的な関係の悲壮さは、二人であること、そして、他者がそこでは絶対的に他者である、という事実にあるのです。(レヴィナス『倫理と無限』87p)

レヴィナスの引用を貼りつけながらしきりに西欧的な知の偏りについて考えた。島嶼の国日本においては自然な生成は知識ではなく根づいている。精霊信仰が島国の精神風土としてある種の生態史観として温存されているからである。わたしの理解ではグローバル化するテクノロジーは国境を越えて拡散していくような気がする。ビットマシンは外延的な表現をさらに外延することで文明の生態史的な概念は理念化できるからだ。人間の心的な過程をビットマシンはよくシュミレートすることができる。ケヴィンの『〈インターネット〉の次に来るものを』を読みながら人工自然による自然生成のことが書かれていると思った。becoming(成ること)で始まり、beginning(始まり)で終わることは二進法でも記述可能な自然として円環しうる。ケヴィンらのマシンと人との知の融合は猛烈な圧力を人間という自然にもたらすことは必至だと思う。

わたしは自己意識の外延的な表現にたいして自己や共同性を包み込む概念として広義の性を主張してきた。感慨が国家に囲繞されているとき、人は内面をつくり外延的な権力に抗してきた。その枠組みそのものがビットマシンによって侵襲されようとしている。国家は国家自体を内面化することで時代の趨勢に対抗しようとしている。そこに世界の現在がある。い換えれば、書記の体系を発明することで古代の民は精神の総敗北をしたのだが、シンギュラリティを迎えようとするいま、人工自然による国家への侵略は文明史の一万年を内向きに収縮させようとしている。そうではない。意識の外延という表現の範型にたいしてわたしは内包的な表現という概念を提起している。問題なのは天然自然と人工自然の対立ではない。そのレベルはとっくに過ぎている。意識の外延を内包表現で包み込むこと。総アスリート化する情況を、知識人と大衆という権力による生の分割ではなく、総表現者という理念が可能とする生によって世界を包むこと。そこにしか内面化することも共同化することも不能である生の固有性はない。人類の総敗北の文明史はここで根柢的な拡張を遂げると思う。

古代の民の精神の総敗北を対象化すること抜きに、あるいはもっとも強固な私性の根源を拡張すること抜きに内包的な贈与は可能とならない。未来を追憶するように過去を想起することは還相を導くことによってしか可能とならない。内包的な表出を表現の概念として媒介にすると、未来は過去を想起するように追憶することが可能となる。人類の文明史を拡張しようとするとき、その核になるものは還相の性であるとわたしは考えている。この場所からレヴィナスの発言を追っていく。

はじめに生の不全感を感得する幼いレヴィナスがいた。長じてハイデガーの哲学に魅せられ千年に一度の巨匠として崇め、ハイデガーのナチへの荷担で哲学的な挫折をし、生涯を賭けハイデガーの哲学批判に心血を注ぐ。捕虜収容所から解放され、1947年に『実存から実存者へ』、翌年『時間と他者』を刊行。

引用①にあるように、レヴィナス自身がある固有の女性との関係そのものを他者性と考えていたと述べている。引用②は固有の他者の近しさが「エロスの悲劇性は、このような近さと同時にこの二元性〔二重性〕から構成されている」として表白されている箇所だ。レヴィナスは正直ではないと思う。結構ごまかしている。梯久美子のまだ『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』は読んではないが、もの書き魅了するうそがこの本にあるのではないかと思う。ハイデガーに魅了されたレヴィナスと『死の棘』に魅入られる読者は主観的な意識の襞にある虚偽ということにおいて同型であるようにみえる。わたしは『死の棘』は双方の虚偽によって演じられた自意識の劇であると理解している。この虚偽を信じる心性は天皇のためにだって死ねる。そういうことをレヴィナスは言っているように感じた。島尾敏雄とおなじように超越的な神にエロスの挫折を預け自己を救抜しているのだ。このときレヴィナスにとって天空の神は空間化によって外部化されている。レヴィナスは神を人間に内在する概念としては使用していない。それがレヴィナスにとっての〈我と汝〉の関係だった。空間化の応力によってレヴィナスの他者は三人称として可視化される。わたしたちが知っている人権の理念とはそういうものだ。それらの理念はつねに実体化され人格を媒介に主張される。ひとたび問うてみよ。ひとはなぜ自由で平等であるか。同一性は可視化されることを前提とした理念によってしか答えることはできない。それはいつも建前になる。そしてそれはビットマシンが特異とする二進法のアルゴリズムによって容易に一般化される。安倍晋三を支持するか安倍晋三に批判的かどうかそんなことは二進法は斟酌しない。わたしたちはこの現実の直面している。無意識に世界の属躰となる。わたしたちが手にした自由や平等や他者への配慮というものはそういうものにすぎない。意識の外延論では解決不能の、内包論では過ぎ越すことができる過渡的な概念なのだ。

それでもレヴィナスの内面では矛盾が起こる。この矛盾は絶えず実現できない倫理を招来する。だから「エロス的な関係の悲壮さは、二人であること、そして、他者がそこでは絶対的に他者である、という事実にある」として悶絶する困難が回避される。かれは思考の限界を虚偽によって繕っている。三人称が不可避であるとき、国家の正義は要請されるしかない。それがレヴィナスの実現不能の倫理だ。最晩年に至るまでフーコーも「法と秩序のあいだの和解は永遠の夢である」と考えた。じぶんをなぞるように過去を想起するとき、古代の民の精神の総敗北が感得される。かれらを、そしてわたしたちの生を引き裂くのは同一性の為せるわざなのだ。国家が書記の体系を発明したとき、精神の古代形象は国家へと回収され、回収されない否定性は内面化された。国家という環界もまたいまビットマシンに包囲されている。このとき否定性は、ナショナリズムとの争闘とナショナリズムを崩壊させようとするグローバリゼーションとの相克とに二重化される。意識の外延性としてはそうなるとしか言いようがない。

楽しい空想をする。もしも、ブーバーが、レヴィナスが、マルクスが〈我と汝〉の関係をそれ自体領域化できたら、三人称はなくなるぞ。喩としての内包的な親族が国家やグローバリゼーションとって変わることになるぞ。すでにわたしのなかでは、対幻想は還相の性と往相の性に拡張されている。思考の慣性に沿って言えば、対幻想を関係の中心に向かって逆向きに求心すると還相の性があらわれ、可視化すると往相の性があらわれる。それだけのことだった。還相の性は外延的な意識に翻訳すると領域としてあるから内包的な心身の意識では空間化することもなく存在している。外延的な表現ではあらわすことができない。また内包的な意識があるから古代の民の生を想起し未来を追憶することができる。内包的な表現では国家は否定されるのではなく、存在することができない。内包表現は世界の可能性だということができないだろうか。ヘーゲルの有と非有という絶対知は内包論において正しく拡張されているのではないだろうか。信心すぎて極楽通り越す。(この稿つづく)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です