日々愚案

歩く浄土118:内包贈与論1-カール・マルクス考1

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なぜ内包的な贈与なのか。内包的な贈与を可能とする理念はどこに立っているのか。それらについて述べることを内包贈与論の導きの糸とする。

さまざまな人類のうちホモ・サピエンスだけがどういう理由か生き延び、食と性の双極性を象りながら好奇心に駆られ逍遥遊し瞬く間に大地を覆った。認知考古学は流動的な知性が新人類に宿ったとこのいきさつを語る。自然人類学と文化人類学の失われた環がここにある。おそらく自然から離陸した人類は複数あったにちがいないが、現生人類であるホモ・サピエンスだけがいまにつながる。精神の古代形象と共に悠遠の太古を生きた民は家族をなしやがて氏族をつくり部族から国家へと馳せ昇りシンギュラリティを間近にした現在を生きている。

いつの時代の、だれの、どんな本を読んでも、理念と現実は引き裂かれ、実現できない理念だけが唱えられる。彼方の超越が説かれ、民は地べたを這いずり回り、虫木草魚のように生きてきた。理念と現実はなぜこれほどに乖離するのか。おそらく帝国の成立と書記の体系は軌を一にしていて、古代の陽気な面々はこの制度のなかに回収されていったのだと思う。後の世で同一性と呼ばれる抽象の形式がこの制度を成り立たせた。爾来、一万年が一瞬で過ぎた。ホモ・サピエンスが動物的な段階にあるとき行動は食と性の双極的な反射的な段階にあり、生理的な矛盾を心的に疎外することはなかったはずだ。まだ自己を〔われ〕として認識する以前の根源の情動にまみれて生きていた。なぜ知覚は生理的な矛盾を観念として疎外したのか。身体性ではないかと思う。観念として外化された心的な過程は始めはたんなる電子ノイズだった。身体性に引きずられて電子ノイズは有意味化されることとなった。自他未生の観念の誕生だ。

自然から離脱し始めたホモ・サピエンスは錯乱する。背筋が凍りつく恐怖と圧倒的な畏怖にうたれながら生をつないだと思われる。自然への回帰と自然からの不可避の離脱はアニミズムという共同幻想として疎外されにちがいない。このとき古代の民は精神の総敗北に見舞われることになった。快感充足が禁止と侵犯という同一性の罠に収奪されながら、群生のなかから共同幻想とともに〔われ〕が立ち上がってくる。古代の民の生はこうやって引き裂かれ、観念の型としてこの現在に引き継がれた。わたしの理解では同一性という生の鋳型が本格的に再考されるのに凄まじい歴史が重畳されたことになる。意識の外延的な表現の命運は一万年余あったと言ってよい。かりにこれまでの人類史を前史とすれば意識の外延を内包化することで内包史をつくる端緒が内包的な表現として可能となりつつある。一瞬ではあったが万余の奇形的な歴史でもあった。

こういうことを考えているときに『贈り合いの経済』を著した佐川清和さんのブログの一節を目にして、ドキンとした。マルティン・ブーバー(1878-1965)の『我と汝・対話』が引かれていた。手元にないのでブーバーの本を早速アマゾンから購入し再読した。佐川さんが注釈していた「39『われ、ひとと共に』 (上)2015-04-04」をまず貼りつける。

世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。この場合〈それ〉のかわりに〈彼〉と〈彼女〉のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。
したがって人間の〈われ〉も二つとなる。なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。

根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表わすのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立がひき起こされる。
根源語は、存在者によって語られる。〈なんじ〉が語られるとき、〈われ―なんじ〉の〈われ〉がともに語られる。
〈それ〉が語られるとき、対応語〈われ―それ〉の〈われ〉がともに語られる。
根源語〈われ―なんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われ―それ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。(岩波文庫『我と汝・対話』7~8p)

〈なんじ〉を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、〈なにかあるもの〉が存在するところには、かならず他の〈なにかあるもの〉が存在するからである。それぞれの〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接する。〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接することによってのみ存在する。しかるに、〈なんじ〉が語られるところでは、〈なにかあるもの〉は存在しない。〈なんじ〉は限界をもたない。
〈なんじ〉を語るひとは、〈なにかあるもの〉をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて〈なんじ〉を語るひとは、関係の中に生きるのである。(同前8~9p)

ブーバーが根源語と言うとき第一義的な根源語が〈われ―なんじ〉を指していることはすぐわかる。この根源のつながりのおのずからなる応答として存在の定立がもたらされるとブーバーは言う。この存在の定立の後に〈われ―それ〉という出来事が起こる。わたしはブーバーのいう根源的な対応語のことを根源の性を分有すると内包論で考えてきた。この根源語は関係が表現であるように生きられる。〈われ―なんじ〉はつねに〈われ―それ〉に先立つ。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめるという内包論の意図もそこにある。また古代の陽気な面々の総敗北がここにある。総敗北した一万年余のそびえ立つ歴史。内包の生を手にするのにそれほどの歳月がかかった。あなたはわたしよりわたしの近くにいるというずっしりと軽い性のありかでもある。おそらくここまで到達するのに万余の歳月があった。外延史の果てに内包史がある。

つづいて「40『われ、ひとと共に』(中)2015-04-08」で佐川さんは次のように書いている。

さきのM・ブーバーの『我と汝』が発表されてから十年後の1932年、日本の哲学者西田幾多郎(1870-1945)は「私と汝」というじつに興味深い論文を発表している。自分の中では、M・ブーバーの『我と汝』と地続きのテーマとして読めた。というか、〈われ―なんじ〉が立ち現れてくる誰にとっても決定的な「出遇い」への道筋をいま一歩踏み込んで明らかにしていく、実践的行為をうながす論文として読んだ。例えば、次のような一節である。

「私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫)

わたしの理解では、西田幾多郎の思想の根幹をなす絶対矛盾的自己同一(引用に即して言えば、絶対に他なるものの内的な結合)はこの国の伝統的な芸としてある自然な生成をなぞった禅的境地の言い換えである。かれは日中-太平洋戦争下、近衛戦時内閣に与した。ブーバーの根源語は少し意味合いが違う。ブーバーの根源語は神を超越として戴いている。仏のほかに覚者なしという禅と聖書が記す神は違う。
わたしはブーバーの「〈われ―なんじ〉」も〈われ―それ〉」という根源語も、ともに同一性の派生態であるという前提から内包論を考えてきた。
ブーバーが「関係の中に生きる」というとき、根源語を支える神が一義的なものとして暗喩されている。この一義を仲立ちとして〈われ―なんじ〉の関係が表現されることになるのだ。よくわかるが、違うと思う。ニーチェが神は死んだ、われわれが神を殺したと言うとき、かれは同一性に屈服している。神を否定するのではなく拡張すればよかった。おなじことはニーチェやヴェイユが憧れたエックハルトにも言える。エックハルトの神学の神髄はただ一言、神人が合一するとき、計らいを超え神により生に慰めがもたらされるということだった。神という超越を括弧に入れ存在を語ろうとしたハイデガーの倒錯についてはこれまでも触れてきた。
ブーバーが「根源語〈われ―なんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる」ときそれが秘められた信仰を意味していることは明瞭だ。根源語のふたつめ、「〈われ―それ〉は、けっして全存在をもって語ることができない」は三人称の世界を意味している。

ブーバーやベルグソンの『形而上学入門』を読んでいてつくづく内面の思索家だなと思う。かれらがいうことはよくわかる。りくつではなく身になじむようによくわかる。よく似たことを考えていた人なんだなと親近感をもつ。だからかれらが世界をそういうふうに感じていたということはよく諒解できる。とても静かな思想だ。一方で野性のマルクスの音色のいい激情のようなものはどこにも見あたらない。喉越しのいい整然とした世界の解釈が品良く述べられているだけだ。世界をねじ伏せこの世の仕組みを組み替えなければ生きていけないという狂おしさというものはまったく垣間見られない。個別領域の研究者の世界へのノンが表明されていることは読んでいても気持ち良くわかる。しかしその思索で世界をしくみ 改変することはできない。居心地のいい落とし所として自然科学や人文諸科学の狭量さを指摘しているだけだ。そんなことはだれにでもできる。わたしたちひとりひとりのこの世での存在の原理を拡張することでしかこの世の仕組みを革めることはできないことを自覚していないし、またそれを遂行しようという意志は感じられない。ありきたりの世界認識の不備や盲点を指摘するだけである。なによりこの世のしくみ超えていこうとする意思が希薄である。かれらは世界の解釈の多様性を逍遥遊している。もちろんそんなことをかれらに期待しても仕方ない。むろん彼らの世界の感受性はすっと私のなかに侵入する。身体の深いとこでかれらが言おうとする音色のいい言葉はわたしに根づいているので言わんとすることはすべて実感として理解できる。諾、諾、諾だ。そのうえで不満を申し述べれば、かれらには世界を構想する世界認識というものがまったく欠落している。かれらは予定調和の世界で所論を述べた個別領域の思索家でしかない。

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精神の古代形象は国家に総敗北した。古代の陽気な面々がなぜ国家という共同幻想を生みだしたのだろうか。アマゾンから送られてきた本を読み返しながらふと気づいたことがある。
ブーバーは『我と汝・対話』で書いている。

関係の世界をつくっている領域は三つある。
第一は自然と交わる生活。そこでは関係は暗がりの中で羽ばたき、言語は通じない。被造物たちは、われわれに向かって動いているが、われわれのもとに来ることはできないし、彼らに向かってわれわれが〈なんじ〉と呼びかけても、言語の入口で立ち止まってしまう。
 第二は人間と人間の交わる生活。そこでは関係は明白であり、言語の形体をとる。われわれは〈なんじ〉を与えたり、受けとったりすることができる。
 第三は精神的存在と交わる生活。ここでは関係は雲におおわれて見えないが、閃光のごとく自己を啓示している。言語はないけれど、言語を生み出す。われわれは〈なんじ〉を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、形づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。すなわち、われわれの口をもってしては、〈なんじ〉ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源話を語るのである。
 しかしどのようにして言語を超えているものを根源語の世界の中にひき入れることがわれわれに許されるのであろうか。
 われわれは、それぞれの三つの領域において、現存しながら生成する存在者をとおして、永遠の〈なんじ〉の裳裾をかいま見、それぞれの領域から、永遠の〈なんじ〉のいぶきを感じ取り、各領域のあり方にもとづき、それぞれの〈なんじ〉において、永遠の〈なんじ〉に語りかけるのである。(『我と汝・対話』11~12p)

すでに同一性を実有の根拠(身体と心がひとつきりということ)として生きているわたしたちにとって、未開人や原始人は啓示以前の迷妄の世界に棲まっていることになる。鋭くブーバーを批判するレヴィナスにおいてもそのことは変わらない。古代の民は惑乱しながら生きていたのだと思う。精神の古代形象をていねいに解きほぐすなかに内包が追憶する未来がある。それは過去を想起することにほかならない。

 他者は私にとっては客体としては現れない、と述べること、それはただ単に、私は他の人間を私の権能に屈した事物とはみなさないと語ることではなく、私は他の人間を「何ものか」とはみなさないと語ることである。それは、自我と他者、自我と誰かとのあいだに根源的に確立される連関は厳密な意味では認識の能作には宿っていないという点を肯定することなのだ。ここにいう認識の能作は、把持であり了解・内包であり、客体を包囲することである。外部にあると偽ろうとも、客体はすでにして自我によって包摂されている。内在でもあれば超越でもあるような曖昧な境位である。他者への関係、それはまさにこのような曖昧さの終焉であり、また、観念論的哲学の古来の伝承の終焉である。この伝承によると、言語の出現は付加的なものでしかない。厳密に私たちの内部で生じることを外部に知らしめるために、あるいはまた、内面的思考にとっての分析道具として、さらには、その分析結果が蓄積される倉庫として役立つために、言語は出現するというのである。しかるに、他者への関係においては、このような内面性はまずもって断たれており、言語-暗黙のうちにでしかないにせよ、きみと発語するような《語ること》-も、出会いを随意的に伝達することではない。言語とはまさにこの出会いという出来事であり、対話として自己自身から脱出する、それも、与えられた客体に向けて同一者を介して自己投影するようなノエシスとは別の仕方で自己自身から脱出する、そのような思考の炸裂なのである。

 マルチン・ブーバーはこのような作裂を、指向性から言語へのこのような転倒を発見した。それゆえブーバーは、コギトに省察を加える代わりに、最初の語、最初の根本語をもってその哲学の手続きを開始している。〈私〉-〈きみ〉という根本語はつまるところ、一切の言語が開始されるための条件であって、そこには、〈私〉-〈それ〉という根本語によって表現される純粋認識の連関を言明する、そうした言語さえも含まれる。というのも、まさに言語であるがゆえに、この種の言語も対話者を呼びかけるもので、すでにして対話もしくは対話の残滓であるからだ。(『外の主体』「ブーバーについて」71~72p)

同一性以前に同一性に収縮する前の根源語があることをブーバーは発見したとレヴィナスは言う。異論はない。たしかにブーバーは根源語の場所を手にしたのだ。レヴィナスが「私は他の人間を『何ものか』とはみなさない」をわたしの言葉に置き換えると、他者の生存を自己の生の手段にしないということと同義である。ブーバーもレヴィナスもわたしもこの点においてずれることはない。自己も他者も根源語のなかに揺蕩っている。その根源語はどのようなものかということでブーバーにたいするレヴィナスの批判があり、そのレヴィナスの意見にたいしてわたしの批判がある。

レヴィナスは人間という至高性を論じるにあたって注意を喚起する。レヴィナスのつぎの発言にレヴィナスの思想がちらりと姿をあらわす。他者への責任というレヴィナス固有の言葉遣いだ。

 もうひとつ予備的な注意を記しておかねばならない。私たちの歴史、私たちの社会、私たちの魂に充満するかくも大量の権力や暴力や残虐さの奔出を眼前にしつつも、〈私〉-〈きみ〉のうちに、《他の人間のためにある人間が負う責任》のうちに、〈人間的なもの〉のカテゴリーが探し求められたという事態に、驚きを覚える向きもあるかもしれない。(同前74~75p)

ここからブーバーを好意的に評価しながらレヴィナスは舌鋒を鋭くする。わたしはレヴィナスのブーバーに対する批判はレヴィナスの考えの突きつめの甘さに差し戻されるように思う。精神の古代形象のありようそのものが問われることになる。国家の正義が要請されるとレヴィナスが言うときこのあいまいさが露呈する。わたしはレヴィナスはハイデガーと異なる存在の原理をつくりきれていないと思う。レヴィナスの思想はいつも振り出しにもってしまう。レヴィナスの特異な、存在するとは別の仕方という思想が空間化されていることからこの堂々めぐりがもたらされているとわたしは考える。ブーバーの実体主義的な思考の限界はレヴィナスにもその片鱗が残っていると思うのだ。

 ブーバーにとっては、私が呼びかける相手たるきみは、この呼びかけにおいてすでに、私にきみと呼びかける私とみなされている。それゆえ、私にとっては、私によるきみの呼称は当初から相互性の創設であり、同等性と衡平の創設であろう。かくして、私が私として理解・聴取され、私を十全に主題化する可能性が生まれる。私ないし〈自我〉一般の観念がやがてこの関係から引き出されることになろう。私自身に関する全面的反省が可能事とみなされているのであり、その結果、〈自我〉は概念へと、私という生きた中心性を超えた〈主体性〉へと高められる。伝統的な合理主義では、この種の高揚は中心性よりも「善きもの」、それ以上に「精神的なもの」とみなされ、偏った主体ならびにその知的、道徳的錯覚からの「解放」を表すとされている。

 私たち自身の考察では、他者への接近はそもそも他の人間への私の呼びかけのうちにではなく、他の人間への私の責任のうちにある。それが根源的な倫理的関係なのだ。-ここにいう責任は他の人間の顔によって呼び起こされ、引き起こされ、現象性と現れることがまとう形象の断絶として描かれる。私は死へとまっすぐに曝され、他者を見捨ててはならないという命令(ないし神の言葉)が私に下される。顔ならびに、顔が知覚されるもののなかで占める独特な地位を解釈する際、方法論的な意味で重要なのは、世界という文脈が顔に付与するのとは無関係な意味性に即してそれを解釈することであろう。そうなると、私-一人称から抜け出すことなき私-の根絶やしできない中心性は、隣人に対する責任の無制限な性格を意味することになろう。私が他者への責務から放免されることは決してないのだ。-他の人間への責任、ただしこの責任は、その原因となるような自由行為によって条件づけられることも、それを尺度として測られることもない。人質の責任にも似た無償の責任であり、それは、相互性を要求することもなく、他者の身代わりになることにまで至る。兄弟関係・友愛や他の人間への贖いといった考えの基礎である。したがってここには、ブーバーのいう〈私〉-〈きみ〉の場合とは逆に、始原の同等性は存在しないのだ (きみと呼び合うことは果して正当な根拠を有しているのだろうか)。倫理的不等性である。他者への服従であり、根源的な奉仕である。「主格」ではなく「対格の一人称」である。(同前76~77p)

 他人との相互的な関係たる正義は、ブーバーにおいては〈私〉-〈きみ〉のなかで始まる。私たちが辿ってきた展望によると、倫理的不等性-私たちが先に問主観的空間の非対称性と呼んだもの-から「人格同士の同等性」への移行は、国家に属する市民たちの政治的秩序に由来することになろう。私の隣人の「かたわらに」いる第三者にも私が責任を負うている限りにおいて、倫理的秩序を起点としての国家の誕生は理解可能なものとなろう。しかし、誰が誰のかたわらにいるのか。隣人への私の関係の直接性は、人間同士を比較し、裁かなければならないという必然性によって変容される。正義と客観性の場たる普遍的諸原則に依拠しなければならないのだ。-とはいえ、市民性は〈私〉の中心性に終止符を打つわけではない。市民性はこの中心性に新たな意味をまとわせる。ただし、棄却可能な意味を、である。国家が存在の法則に即して機能し始める場合もあるのだから。しかるに、国家の合法性、言い換えるならその正義を測るのは、他者に対する責任なのである。(同前78~79p)

どれほど存在の彼方を希求しようとも国家の要請が不可避であることがブーバーの所論にたいする批判として述べられている。なんだ、なんだ、なんだ。元も子もない。「国家が存在の法則に即して機能し始める場合もある」。そんなことがあるわけない。ハイデガーでも主観的な意識の襞のうちにある正義を語っていた。他者にたいする責任が「国家の合法性、言い換えるならその正義」を喚起することは原理的にありえない。レヴィナスにとっての絶対はユダヤの神であり、その似姿が国家であると表白されている。思考の限界を究尽することをレヴィナスは放棄し安易に流れている。なぜ元の木阿弥的な思考を脱ぎ去ることができないのだろうか。レヴィナスは虜囚の境涯にあるとき『実存から実存者へ』を構想し、解放後1947年にこの本を公刊する。生の不全感に捕らわれ〈在る〉のざわめきをイリヤだと直観し、ハイデガーの哲学に真正面から挑んだデビュー作である。わたしはレヴィナスはデビュー作のモチーフを超えることはなかったように思う。わたしはわたしの痛切な体験を悶絶しながらレヴィナスが解き明かせなかった思考の難所を少しだけ超えたような気がしている。(この稿つづく)

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