日々愚案

歩く浄土115:内包贈与論の予備的考察7-カール・ポランニーの人類学3

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だれのどんな人類学を読んでもしっくりこない。未開人の精神の古代形象を観察した記録から人間の精神の原型が出てくるはずがないからだ。研究者もその研究を解釈する者たちも対象にたいする視線の動かし方がモダンで、解釈の言葉が未開人の暮らしぶりのなかに根づきそこを生きることはない。また観察の対象とされる未開人も精神の古代形象もどういう生活形態であろうと充分にモダンであるように思える。モダンな意識の研究者がいて、すでにモダンな未開人がいて、観察することによってなにが出てくるというのだ。そんな思いにとらわれる。わたしは未開人の生きた自然も、現代を生きているわたしたちの自然も外延自然であるという観点からポランニーの人類学を考察していく。文化人類学という分野が学的対象であり、この観察から人類の古代の精神形象の知見が得られるということは認める。それでは文化人類学の知見を集積していくとわたしたちが当面している世界の大転換にともなうどんづまりを切り拓いていく力になりえるだろうか。断言として否であると言いたい。たとえばレヴィ=ストロースには体験的な臆断が生の知覚として前提とされている。人びとの自由な生活という伝統に基づく生活形態をフランス市民革命の理念がばらばらにし、個人を交換可能な無名の原子に変えてしまい、そのつけとして幾たびかの厄災がヨーロッパを襲ったと言う。レヴィ=ストロースはなにを考え損ねたのだろうか。フランスの市民革命によってもたらされた自由・平等・友愛は歴史にとって不可避であり必然だった。人びとの生きる観念の自動更新として生起したもので歴史が大きなうねりと共に変遷していくことは自然だった。西欧近代の人びとが受容した新しい自然とレヴィ=ストロースが理想とした伝統という紐帯で結びついた生活が受容した自然には埋めようのない乖離がある。どこまでレヴィ=ストロースがそのことに自覚的であったのかはわからない。文化人類学は人びとがさまざまな自然を時に応じて受容していくということに自覚的ではなかった。自分が生きている時代にたいする否定的な感情から現場を逃散して未開の地へと向かったのだ。それは不毛なエルドラド探しだった。問題は人びとが歴史をつくるとき、時代に応じてさまざまな自然を暮らしの余儀なさとして受容したということにすぎない。自然を受容するとは共同幻想のさまざまの諸相にまどろむということだ。どういう自然を受容したかということで文化人類学の知見を吟味することができるとわたしは考えている。わたしは文化人類学の達成を、人びとがいかなる自然を受容したのかという観点から捌き、自然の深奥にある私性の根幹に迫りたいと思う。私性の根幹に迫ることぬきに内包的な贈与という構想を語っても虚妄だからだ。わたしは文化人類学の達成や『〈インターネット〉の次に来るもの』がもたらす自然もまた外延自然として一括りにし、内包自然によって包んでしまおうと構想している。モダンな精神の古代形象をどれだけ解析しても音色のいい風や青空が見えてくるわけではない。もっといえば内包論の立場からすると神話学も受容した自然の諸相のひとつとして扱いうるという前提がある。わたしたちが知る精神の古代形象はモダンな自然の諸相にすぎない。根源の性を分有することは〔わたし〕が〔あなた〕〕になるということであり、〔あなた〕が〔わたし〕より〔わたし〕の近くにいることである。ここに精神の古代形象の起源がある。〔あなた〕が〔わたし〕より〔わたし〕の近くにいる不思議でシンプルな情動を生きてヒトは人になった。このとき動物から受け継いだ心身一如のなかに根源の性が流れ込んだ。それが同一性ということなのだが、群生から身を引きはがすように人びとはさまざまな自然を変遷してきた。それがわたしたちの知る歴史だと言えよう。

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人間は生理過程における矛盾を観念として疎外したと吉本隆明は言う。ほかのだれにもみることのできない卓越した思考だと思う。吉本隆明の用語法でいえば原生的疎外から純粋疎外への移行として語られている。視覚を例にとると対象からの光線を網膜で受信し、化学的に変換され、神経繊維を伝導していく。物理的な刺激と化学的な変換のずれは生理過程の矛盾を生じるから、その矛盾を観念として疎外したと吉本隆明は観念を定義していた。わたしはこの観念は電子的なノイズと規定してもいいと思う。なにが問題か。電子ノイズがなぜ意味を形成したのか。なにもわかっていない。そういう意味では電子ノイズはそれ自体としては無根拠だと言ってよい。それ自体としてはなんの根拠もないにも関わらず、電子的なノイズは心身に展開され巻き取られ、その電子ノイズを有意味化しながら自然として受けいれ、人は歴史を重畳してきた。生存することの知恵として幾重にも重なったさまざまな自然の諸相を人間はつくってきたということだった。今はそのことの是非を論じているのではない。わたしの知るかぎり吉本隆明の観念の定義がいちばん破綻がなくすぐれていると思う。それでも吉本隆明の観念の定義は定義それ自体のなかに不可避に意識の特異点が内在されることになり、その意識の息づかいでは特異点そのものをほどくことが出来ずに生の深奥に不全感を抱え込んでしまうことになる。
なにが問題なのかというと、この意識の型が可能となるには前提がある。それは身体が心をかぎり、心が身体をかぎるその心身一如を所有するものを自己とみなす自然である。わたしは生を引き裂く自然と熱い自然をあたかも一身で三生を経るようにして体験し、あるものがそのものに等しいというあたりまえは、あるものに先立つ固有な他者によぎられることなしにあらわれないと考えた。理念というよりはリアルな生の知覚だった。あるものが他なるものに重なるという驚異があるから、事後的にあるものがそのものに等しいということが起こるのだと考えた。根源の性を分有することではじめて自己の各自性があらわれるのだと。心身一如という自然の上に起こる心的な挙動とおおきくことなる精神の可能性が内包にある。この覚知はわたしの内包論の根幹をなしている。

どういう切り口で文化人類学を論じるか。論者の数だけ論じ方があるが、書誌学的ことには関心がないので内包論に引き寄せて人類学的の記載法を相対化したい。ふたつの方法で人類学に迫ってみたい。ひとつは自然論から。未開人の自然も、わたしたちの自然も、これからテクニウムによってもたらされる自然も、意識が外延的に表現された外延自然にすぎないことはいうまでもない。もうひとつはある時代を生きるとき、そこで暮らす人々が生きている時代との関係でもつ迷妄の度合いは、それがどんな時代であれ変わらないということ。この2つから人類学を読み解いていく。わたしが鮮明に記憶しているブリュルの未開人の記載がある。

 未開人の眼が、わたしたちと寸分ちがわない器官としての完成度をもっているだろうから、わたしたちと寸分ちがわないように対象物を映しているだろうことは疑いないと、たれでもかんがえる。けれど未開社会を調査し研究した人びとは、未開人が視た対象物にたいして〈視た〉ということを保有する仕方が、わたしたちとはるかに異なっていることを教えている。たとえば、レヸ・ブルュルの『未開社会の思惟』(山田吉彦訳)は、そういう例をいくつか記したあとで特有の理論的な整理をやっている。理論的な整理の方はここではそれほど問題にせずにその例をのぞいてみると、北アメリカの原住民が「たつた一度或場所に往ったことさへあれば、彼等はそれで心の中に充分、正確な心象を把持し、然もそれは、決して失はれることはない。森がどんなに広大で未だ通ったことのないものであつても彼等は一度方角を確定すれば、迷ふことなく横切られる。アカデイア及びセント・ローレンス湾地方の土人は心細い独木舟でラブラドルへ、舟出することがよくある。……彼等は、四五十里の間をも航行し、しかも上陸しようと決めた場所に、間違ひなく上陸する。……空が曇って居る時でも、彼等は、太陽を追ふて、幾日も航海して誤ることはない。」という例を挙げている。またオーストラリアの原住民が「或場所を人が通ったかどうかを見別ける実に驚く可き力を持って居る。短い草、硬い土、石の上でさへも、足跡を見出し、そしてその向き方、足の輪郭、その足の開き工合で彼等は、諸部族の足形を、また、男と女の足跡を別ける。」という報告の例をあげている。また、バカイリ族のアントニオという男が「すべての曲り場所を記憶してゐたばかりでなく私が、ある場所に行くまでに、二三の曲り場所が在ったかどうか尋ねた時にもそれに答へた。彼は地図を頭の中にしまひこんで持って居た。或はもつと正確に云へば彼は此処の一本の木、彼処での射撃、少し進んだところの幾匹の蜂その他見たところ何でもないことを沢山順序通りに記憶してゐたのである。」という記載をあげている。
 ブルュルは未開人たちが「地形感」と「方向感」とにたいしても驚異的な「記憶」を「論理以前の心理にとって、記憶は殆ど排他的に、極めて複合的な表象で、これらの表象は不変の順序で相連続してゐる」ものと解している。(略) このばあい未開人たちはわたしたちが触覚によってたしかめるとおなじように地形を〈視〉ている。あるいは地形や山や海や川の起伏と流れや、その間に起こった事象を〈眼で触れている〉という比喩でいってもよい状態にある。われわれが現在、〈視る〉といっている知覚作用は、眼が対象物(からの光線)を網膜上に映し、映された形像の刺戟を脳が了解する作用をさしている。ところがこの了解の水準は、現在的な概念の水準と同一のところにあるとみなされる。「短い草」、「硬い土」、「石の上」の「足跡」やその「輪郭」は、わたしたちの眼もまた未開人とおなじような形状や明暗や凹凸や輪郭で網膜に映っていることを疑うことはできない。これは眼の生理的な構造にかかわるために人間的な種の同一性と無視できる差異しかかんがえられないからである。それなのになぜ未開人の驚異的な「地形感」や「方向感」とわたしたちの鈍磨した「地形感」や「方向感」とは異なっているのだろうか。ブルュルは「記憶」という概念の深浅に帰しているが、このばあいには「記憶」という概念は採用できそうもない。またそこに帰することに意味がみつけられない。たぶんわたしたちは未開人とくらべて多様な概念の層を重ねながら対象物を視ている。「短い草」というとき、未開人たちは現にそこに眼の前に写っている〈短い〉、〈これこれの形をした緑色をした草〉自体をみている。これにある別種の概念を附与していたとしても(この草はなになにの場所にもあるというような)そこに附与される概念は単純で強力である。わたしたちはおなじ「短い草」を網膜に写したとしても多様な概念を附与している。(この草はなになにという名の草で、なに科に属し、ほんとうは白い花をつけ、この根はなになにに役立つ)等々のさまざまな概念の層をおなじ「短い草」に附与している。視覚に写している同一の対象物にたいして、附与している概念の層と水準の多様性と相異が、かんがえられる未開人とわたしたちの〈視る〉という知覚作用における相異である。もちろんこの概念附与の過程は、一瞬のうちに一挙に行なわれるのが普通であろう。そのためにこの概念附与の過程は自覚的(意識的)であるばあいも自覚なしの(無意識の)把握であるばあいもあるだろう。この網膜上に写った同一の対象物の〈短い草である〉という概念の周辺に附与される諸概念の多様さと水準を、了解作用と名づけるとすれば、この了解作用が時間性にほかならないことが知られるだろう。この事態を単純化していえば、未開人たちとわたしたちのあいだでは、同一の対象物にたいしても了解作用の時間性の水準と構造が異なっているのであり、わたしたちは多分に複雑化した概念を対象物に与えて対象物を了解しているのである。報告者たちは、おなじ道や河や山や海のある「地形」を未開人たちと一緒に歩いたり渡ったりし、同じ景物を〈視〉た。未開人たちはそのたどった行程の順序にしたがって〈短い草がある〉〈石の上がある〉〈森がある〉、〈陸地の渚がある〉……という概念の単純な系列の順序ある羅列によって「地形」や「方向」の網膜上の形像を了解してゆくのにたいして、報告者たちは多様な層の重なったより複雑な概念を網膜上の形像に附与しながら、累層された系列の順序ある羅列によって「地形」や「方向」をたどったのである。そこで形像の順序よりも、形像に附与した諸概念の重さが超えられてしまう度合は、報告者の方が未開人よりも大きくならざるを得なかった。「地形」や「方向」を刻みつけうる程度が、未開人の方が驚異的に正確であったのはそのためであった。(『心的現象論 本論』220~222p)

未開人の了解の構造を時間性に結びつけた吉本隆明のブリュル評はもっとシンプルに言えると思う。自然について様々な了解の相があるといえばよかった。ブリュルが記載した未開人の自然、ブリュルや吉本隆明の自然、そして『〈インターネットの次に来るもの〉』の自然。とりあえずこの3つの自然をどう了解するかで世界の現在を映し出すことができる。観念の自然過程としてある遠隔対象性は自然についての認識を自動更新する。未開人の自然を天然自然とすれば、近代と現代は天然自然と人工自然の混融されたものとしてあり、ケヴィン・ケリーのテクニウムはビットに覆い尽くされたコンピュータテクノロジーの讃歌であり、まるでベジャンの『流れとかたち』みたいで、機能主義的に論理が記述されている。マルクスの疎外という概念をハイデガーは技術と読みかえ、時代の趨勢に自分の哲学を接合しようとした。テクニウムを礼賛する者たちは人格をさらに外延化してマシンとのユートピアを語っている。まるで全然違う。でも大半の人はこういうフェイクに騙されていく。自由貿易はTPPを推進し、政治はテロリストの早期殲滅を、病は早期発見早期治療を促すように。ケリーのマシンと人間の融合は天然自然が人工自然に呑みこまれた状態を自然とみなしている。科学知が技術へと変換され社会に適用されるとき人類の文明史は大転換した。いまもわたしたちの生はその渦中にある。いったいなにが起こっているのか渦中ではわからない。また精神は容易には時代の変化に追いついていけないので精神を退行させることで転形期の変化を迎え撃とうとする。それが現在だ。わたしは自己意識の外延的な表現の枠組みではすでに勝敗は決していると思う。人工自然に覆い尽くされたときひとはどこに生のよすがを求めればいいのだろうか。外延自然を包み込む自然をつくらないかぎりわたしたちの生はテクニウムを自然とした世界の属躰となるほかない。

 これから何千年もしたら、歴史家は過去を振り返って、われわれがいる3000年紀の始まる時期を見て、驚くべき時代だったと思うだろう。この惑星の住人が互いにリンクし、初めて一つのとても大きなものになった時代なのだ。その後にこのとても大きな何かはさらに大きくなるのだが、あなたや私はそれが始まった時期に生きている。未来の人々は、われわれが見ているこの始まりに立ち会いたかったと羨むだろう。その頃から人間は、不活性な物体にちょっとした知能を加え始め、それらをマシン知能のクラウドに編み上げ、その何十億もの心をリンクさせて一つの超知能にしていったのだ。それはこの惑星のそれまでの歴史で最も大きく最も複雑で驚くべき出来事だったとされるだろう。ガラスや銅や空中の電波で作られた神経を組み上げて、われわれの種はすべての地域、すべてのプロセス、すべての人々、すべての人工物、すべてのセンサー、すべての事実や概念をつなぎ合わせ、そこから想像もできなかった複雑さを持つ巨大ネットワークを作ったのだ。この初期のネットから文明の協働型インターフェースが誕生し、それまでのどんな発明をも凌駕する、感覚と認知機能を持つ装置が生まれる。この巨大な発明、この生命体、このマシンとでも呼ぶべきものは、これまで他のマシンが作り上げてきたものをすべて包含し、実際にはたった一つの存在となってわれわれの生活の隅々にまで浸透し、われわれのアイデンティティーにとってなくてはならないものになる。このとても大きなものは、それまでの種に対して新しい考え方(完壁な検索、完全な記憶、惑星規模の知的能力)と新しい精神をもたらす。それは始まっていくのだ。〈始まっていく〉ことは1世紀にも及ぶプロセスで、変わらずなんとか前に進み続けている。その巨大なデータベースと広大なコミュニケーションは退屈なものだ。リアルタイムの地球規模の意識の夜明けというこの事象は、無意味なもの、あるいは恐ろしいものだとして片付けられている。実際のところ、大いなる不安が沸き起こるのももっともで、というのもこの脈打つ鼓動から逃れられる人間の文化(や本質)は何一つないからだ。それでも、われわれは自分たちを超えたレベルで動き出した何かの一部でしかないために、この興隆しつつあるとても大きなものの全容を掴むことができない。分かっているのは、そのまさに始まりから、古い秩序を混乱させ続けていることだ。それに対する過激な揺り戻しもあるだろう。
 このとても大きな傑作を何と呼ぶべきだろうか。それはマシンよりも生物に近い。その中心には70億の人々-すぐに90億に達するだろう-がいて、それぞれの脳を相互にほぼ直接リンクさせ、常時接続するレイヤーを作り出して自分たちをすぐに覆い始めた。100年前にはH・G・ウェルズが、こうした大きな存在を世界脳という名前で想像していた。ティヤール・ド・シャルダンはそれを思考の領域という意味でヌースフィアと呼んだ。それをグローバル・マインドと呼ぶ人も、それが何十億ものシリコンで製造されたニューロンでできているので超生命体と呼ぶ人もいた。私はこうした惑星レベルのレイヤーのことを、ホロスという短い言葉で呼ぶことにする。この言葉で私は、全人類の集合的知能と全マシンの集合的行動が結び付いたものを意味し、それにプラスしてこの全体から現れるどんな振る舞いも含めている。この全体がホロスに等しいのだ。(ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』384~385p)

この本は第1章BECOMIGで始まり第12章BEGININGで終わる。総表現者という概念をつくりつつあるので、ケヴィンのビットに関する博物学的知の記載は刺激的だった。かれの技術知に関する見解は内包論にとって考えのインフラとして得るものが多かった。人間も含めた事物を名詞ではなく流れとしてとらえることが終始説かれている。生を自然な生成の一部として生きること。終わりが始まりであるということ。ケヴィンにあっては外延的な知のさらなる外延化は閉じた円環体となっている。ホロスという惑星規模の知が生成する流れのなかに人間が位置しているとケヴィンは主張する。所有はなくなり、アクセスする権利が所有の代替物になると。バーチャル・リアリティーはリアルになり、人工知能(AI)が新しい雇用を生みだすとどうじに仕事を奪うことは不可避であると強調する。所有がアクセスへと転換するというとき、アクセス権が所有権になるだけではないか。人びとの生を睥睨する権力そのものの視線である。こういう論理そのものとペンローズは闘ってきたのだなとあらためて感慨が湧き上がる。
ケヴィンはなにを取り違えているのだろうか。技術知によって個人が社会とつながるという信念だ。典型的な間違った一般化だと思う。強い個人はより強く、貧しい個人はより貧しくなる自然しかわたしたちはつくりえていない。テクニウムが所有を相対化し流動的なアクセス権へと変遷したとしても個人という人格を媒介にした知が外延されるだけで私性そのものが変わることはない。それはポランニーがダホメ王国においてあらゆる生殺与奪の権能を持っているという前提のうえで貨幣と交易と互助性を論じる思考の形式とまったく同型である。精霊が昇華した王もテクニウムも共同幻想そのものであり、共同幻想に同期することが生きるよすがとなるところに生の豊穣さはない。どの時代を生きても人びとが時代との相関関係としてもつ迷妄の度合いは変わらない。太宰が言った、明るさは滅びの姿であろうか、人も家も暗いうちは滅びぬや、生まれて、すみませんを、『〈インターネット〉の次に来るもの』の論理は表現できるか。根源の性を分有することでわたしがあなたになるとき、あなたはわたしよりわたしの近くにいる。この生の知覚をホロスは表現できるか。(この稿つづく)

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