日々愚案

歩く浄土114:内包贈与論の予備的考察6-カール・ポランニーの人類学2

ポランニーの『経済と文明』を読んでいくと、文化人類学の倒錯というものがいくつもみられる。古代社会を人間のとっての理想とみなす観察者の視線が濃厚に感じられる。学的な知一般について言えることだが、生活と知の分離が前提としてある。俯瞰する知がこの世のしくみをつくってきたのだ。若い頃からケッと思ってきた。体験の固有性を普遍的な表現にすること。これ以外に表現の価値はない。かいつまんで言うと2つの欠落がそこにある。三木成夫が自分の子どもについて語っているところが味わい深い。三木成夫の遠の感得が表現として書かれている。

 五月晴れの庭でひとりでドロをこねています。ゆっくりゆっくり・・・。その眼差しはなにか遠い彼方に向けられている。なにを造るというでもなく・・・小さな手の皮膚で感触をためしているのでしょうか、ただひねもすといった感じなのですね。もう顔から服から泥だらけ・・・。そのうち姉がやって来て世話をやきます。手を洗いなさいといってジョロで水をかけてやる。するとちゃんと手を出す。そして顔もふいてもらう。しかしそうされながら眼差しはいぜんとして「遠」をさまよっている。いわゆる、われに返るということがないのですね。夢のまた夢とはこのことでしょうか。(中略)私たちにとって、もの思う人類の誕生は永遠のテーマですが、この三歳の世界に、その問題のすべてが秘められているように思われてならないのですね・・・。(『内臓のはたらきと子どものこころ』)

ここ、好きです。ここには権力の匂いがありません。

むかし娘から一人目の子の育ち具合をメールでもらってなるほどね、と思ったところをひとつ。

娘に子どもが生まれてもうすぐ7ヶ月です。「生まれてきて気持ちいいという感じよ。生きてるのが楽しいって毎日声だしてる」。娘から送られてきた動画がおもしろかった。鏡に映ったじぶんをみて、なにこれって顔してる。だれ、これって、顔を鏡にくっつけたりからだをゆすったりして不思議がっています。根源のつながりをそのまま生きてる感じです。なんど見ても笑えます。
文化・民族・宗教以前の自他未生の生を驚きながら生きてます。やがて自我が同一性からつくられます。それは生存の自然な基底です。しかし、この同一性は事後的なあり方です。ひとがこの根源のつながりを生きていることは自己が輪郭をもっても少しも変わりません。ひとはいつも固有の他者とのつながりのうちに生きています。

なにが文化人類学の根本的な欠落なのか。表現の時間が対象を観察する理性のなかにないということ。これはおおきな欠陥だと思う。三歳のわが子が「遠」をさまよい、どこをみるともなく「遠」をみている夢のまた夢。ここを三木成夫が人類の桃源郷だと感得するとき、それは表現として言われている。「生まれてきて気持ちいいという感じよ。生きてるのが楽しいって毎日声だしてる」ということも母子の自他未生の音色のいい言葉として言われている。

もうひとつ文化人類学への違和がある。フーコーの医学への批判と重なる。ここでフーコーは人びとの生に無制限の力をふるう医学を批判しているが、人類学の理念も徹底した非関与を装いながらおなじことをやっているとわたしは思う。征服者の学問であると比喩してもいいかもしれない。フーコーは言っている。「もちろん医者の金儲け主義は事実としてあるのだが、肝心な問題はそれではない。また、医療の知識が非常にいいかげんで間違っているということでもない。そうではなくて、われわれの身体や苦痛、生命や死にたいして、他人が無制限の力を振るうという事実そのものが批判されているのだ」「つまり医学的な知への〈否(ノン)〉であるといえる」(『哲学の舞台』)フーコーの発言はそのまま文化人類学への批判にならないだろうか。

文化人類学の言説にたいする倫理的な態度を主張したいわけではない。文化人類学へのふたつの違和感をより合わせてそれがなにに由来するのか言ってみる。わたしの推測では単なる学問的好奇心として未開人を観察するフィールドワークに向かうのではないと思う。その研究者が生きていた時代に当の本人が息苦しさを感じ、なぜこの世のしくみはここまで歪んでしまったのかという内省がある。ここから歴史を遡行するというモチーフが生まれたに違いない。このときすでに研究の方法的意識は解くことのできない矛盾を抱え込んでいるように思う。内省と遡行という方法意識をどれだけ歴史的な過去に外延してもその研究の方法が孕んでいる特異点は解けないということだ。このことは文化人類学に特有の問題ではない。思想家吉本隆明の母型論やアフリカ的段階という方法論も文化人類学とおなじ解けない主題を解けない方法で解こうとしたことにおいて変わるところはない。わたしは対象を解こうとするときの観念の粗視化に制約があることが一番大きな理由としてあるのではないかと内包論で考えてきた。

このあたりをかんたんに敷衍する。同一性によっては粗視化できないことを内包論では根源の性の分有者と粗視化できる。このとき同一性に規定された、からっぽ、すっからかんが、はじめて生においても歴史においても〔主体〕として登場する。これまでわたしは同一性のモデルとして数学のA=Aをよく使ってきた。人間にはふたつのこころが内在されていることを直感した岡潔はこの不思議を数学で表現しようと狂気じみた執着を持続し挫折した。数学の抽象力のすごさ、切断力の鮮やかさは、存在者の属性をすべて捨象することと引き換えに得られる制約された表現法である。わたしは最近数学もまた粗視化のひとつのありようにすぎぬことに気づいたように思う。はじめから気づいていたわけではない。ふとそれは訪れた。内包という粗視化は存在者だけではなくハイデガーやフロイトを苦しめた存在そのものを表現できるということだ。ハイデガーの存在者の健全さと邪悪さという二義性も存在を内包存在で包むと、存在者は根源の性を分有する分有者という贈与として表現される。前回のブログで取りあげたタイタニックの物語の「きみは生きろ」という場面も内包的な贈与の本然としてうけとることができる。命が贈与されるなら、身体の延長にすぎない貨幣が贈与されないわけがない。

フロイトの自我にたいする無意識も、存在の内包性を自我に閉じ込めるから混沌として沸立つ釜のようにあらわれるだけなのだ。自我・超自我・無意識は同一性の為せるわざにすぎない。可視化することや実体化することの起源の闇がここにある。ヘーゲルはこの捉えがたさをはじまりの不明にある豊穣な混沌と呼んだ。そうなのだ。どんな思索者もまだこの生の奇妙さを名づけていない。しかし存在しないことの不可能性として名づけようもなく名をもたぬ出来事としてそれはたしかに存在している。ヴェイユは定義できないが人格の底にある聖なるものや匿名の領域として存在していると言った。わたしはいまヴェイユの神の恩寵や親鸞の他力による自然法爾を内包的な贈与として粗視化できると思う。存在の粗視化という理念は数学の同一性という公理より深くて広い、同一性を包括できる概念だと思う。同一性は奥行きのある領域として内包という理念に拡張することはできるが、内包存在を同一性に還元することはできない。同一性は内包の痕跡として内包をシュミラークルするだけだ。根源の性を分有するという驚異は同一性の外延的な知では自己はあたかも領域のようなものとして表現され、このとき外延知の、謂わば身体の延長された貨幣は、私性に拠ることなく内包的な贈与へとおのずと拡張される。根源の性を分有するという出来事は私性よりもはるかな精神の古代形象であると言える。善悪未生という観念そのものが善のうながしだった。若い頃わたしを引き裂いた自然と渦中で襲来された熱い自然はわたしの生存感覚を貫いているが、体験の固有性を抽象して、いまこういうふうに言うことができる。文化人類学の試みは壮大な不毛に囚われている。生きていることを包む表現を〔主体〕としてつくるときだけ、わたしたちの生は未知に向かって進んでいくことになる。(この稿つづく)

 

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