日々愚案

歩く浄土113:内包贈与論の予備的考察5-カール・ポランニーの人類学1

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根源の性の分有者という出来事がわたしの世界認識の根本としてある。心(身体)に身体(心)がはりつき、その心身一如を所有するものが自分だと人びとは思いなしてきた。そうではなく根源の性を分有することにおいてはじめて自己の自己性、各自性が生まれるとわたしは内包論で考えた。根源の性の分有者という往相の性の深奥に還相の性が熱く息づいており、この還相の性を核とするとき、外延表現における三人称の世界は、還相の性の自ずからなる応答として、喩としての内包的な親族となってあらわれる。この世界の知覚をもとにすると貨幣論はどう拡張されることになるか。内包贈与論でそのことを探っていきたい。

手元に文化人類学の古典とみなされる幾人かの著者とその本がある。内包贈与論の手引きとして読み返したり、新たに読み込みこんでも、砂を噛むようで少しも面白くない。なぜだろうかと輾転反側しながら呻吟した。いくつか思い当たることがあった。未開社会で財の蕩尽やポトラッチ、贈与や互酬性がみられることは数多くの書物に記されている。なにかわたしが構想する贈与論と噛み合わない。かれらが優れた研究者であることはわかる。それだけなのだ。かれらの分析する言葉を読みながら心がぴくりとも動かない。退屈だ、それも徹底的に。自然を対象とする自然科学の探究のように未開人の生態観察がなされている。財はどのように分配され、社会の制度や婚姻のしくみはどうなっているかが詳述される。そうじて研究者の素顔がみえてこない。分析するものとされるものの関係が権力となっていて、その権力を内在化する視点はまったくなく、ゴリラやチンパンジーの生態観察と変わるところはない。停滞した冷たい社会の観察と分析が開明的な上位の国家によってあたかも帝国主義の尖兵のように研究される。ときどき未開社会に生きる者たちへ親愛の情が郷愁としてつぶやかれたりする。それは付け足しにすぎず、観察する理性による権力として未開人の心身の解剖がなされている。なにがかれらを研究へと突き動かすのか。未開人の自然を解明したいとい好奇心だと思う。800年前に親鸞は言い切った。「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)

文化人類学の知は「おおそらごとのかたち」である。文化人類学の碩学はかれらの生きた社会の功利性に嫌気がさし未開社会のなかに西欧社会が通り過ぎることで喪失した未知をみようとした。余計なお節介だ。そういうものは知の考古学を精密に描いたフーコーにも色濃くあった。西欧精神の疲労だ。「絶対的に超・西欧的な文明が文化が発見されることになるのか。わたしはそれが可能だと思う。大いにありうることだとさえ思う。そして、それが可能でなければならぬ。世界が、資本主義に特有のこの西欧的な『権力』形態を越えねばならぬと思います。わたしにとって真実と思われるのは、いまや、非・資本主義的文化は、西欧文化の圏外にしか生まれまいということです。西欧は、西欧文明は、西欧の『知』は、資本主義の鉄の腕によって屈伏させられてしまいます。われわれは、非・資本主義的な文明を創出するには、疲弊しつくしています」(『批評あるいは化死の祭典』蓮実重彦によるフーコーへのインタヴュー)
意識の外延的な知はフロイトであろうがハイデガーであろうが文化人類学であろうがおなじ迷路に行きつく。これまでなんども述べてきた、西欧の知は解けない主題を解けない方法で解こうとして、主題のありかをあいまいにしたまま順延している。二度にわたる人類史の厄災を経て人間という概念の厚みは破壊された。そこでレヴィ=ストロースやフーコーらは人間という概念から意味を脱落させ、人間のふるまいを数学のようにあつかうことにした。構造分析であり、事象の関係の型だけを抽出した。それはひとつの挑戦であり、資本制社会を批判する対抗概念を導いた。「このような〈主体〉の非根底的・非根源的性格こそ、構造主義者と呼ばれた人々に共通のものだった。それが先行世代にとって、極めて不愉快なことだったわけですが、ラカンの精神分析にせよ、レヴィ=ストロースの構造主義にせよ、バルトの分析、アルチュッセールの仕事、あるいは私の仕事にせよ、私達はすべてこの一点については意見が一致していた。すなわち、デカルト的な意味での〈主体〉、そこからすべてが生まれてくるような根源的な点としての〈主体〉から出発してはならない、ということでした」(『哲学の舞台』50~54p)

かれらの大胆な試みはたいした成果を上げることはなかった。これからとりあげようとする文化人類学の碩学たちの業績もおなじようなものだった。資本制社会の功利性を是としなかった者たちの精神の彷徨の軌跡であるようにわたしには思える。意識の外延性、あるいは外延知は存在を内在的にあつかう方法をもたないので、哲学者とおなじように文化人類学もまた社会にたいする対抗概念を語っただけだった。かれらはいくつかの過誤をおかしている。ひとつは観察する理性の行使によって未開人の心性をつかむことはできないということ。未開人の社会制や婚姻の形態や財の分配の記述が生きていない。生は、症例としてサンプルとして標本のように固定することはできない。もしそれが可能であるとすればそれは権力そのものであるということだ。研究者にその自覚はまったくない。未開人のくらしにたいして睥睨する知が語られているだけだ。郷愁として語られる親愛の情はおぞましいものであるとわたしは思う。
文化人類学の方法についての疑義はまだある。未開であるとされる人びとの暮らしぶりを分析するとき、明晰であることの優位性が暗黙の内に前提とされている。明晰は迷妄から人の生を救いはするが生を熱くすることはない。分析や生態観察をすることによってかれらの生のあり方が変わることはないということ。モダンという明晰は人の生を切り刻む。親鸞は明晰であるが、衆生の分析や観察をしているのではない。親鸞が「われらなり」というとき、親鸞はそのなかにいてそこを生きている。生と思弁の分離もない。親鸞のつぶやく言葉が親鸞の生を包んでいる。むろん鎌倉の生き難い時代を生きた衆生に対抗概念を語ったのでもない。親鸞が浄土というとき、そこに浄土が顕現した。そういう強い言葉は文化人類学の知見のなかにはかけらもない。外延知による贈与や互酬性と内包知による内包的な贈与の根柢的なちがいはこれからしだいに明らかになるだろう。

    2
かつてレヴィ=ストロースはフランス市民革命の人権宣言についてつぎのように言った。

 E サルトルが提起した問題のなかには、確かに、フランス革命とフランス史におけるその創世的役割の問題がありました。それが重要な事件であったことは、少なくとも、あなたもお認めになっておられるのでしょう?
 L=S 認めるどころではありません。フランス革命はいくつかの理念と価値を流通させ、それらの理念と価値はヨーロッパを、それからさらに世界を魅了したものです。それはフランスに一世紀以上にもわたって特別の権威と栄誉を与えたものでした。しかしながら同時に、西洋を襲った何度かの破局の原因がそこにあったかもしれない、と考えることは許されるでしょう。
 E どういう意味で、ですか?
 L=S つまり、人々の頭のなかに、社会というのは習慣や習俗でできているものではなくて、抽象的な理念に基づいているのだという考え、また理性の臼で慣習や習俗を挽き潰してしまえば、長い伝統に基づく生活形態を雲散霧消させ、個人を交換可能な無名の原子に変えることができるのだという考えをたたきこんだからです。真実の自由は具体的な内容しか持つことができません。小さな範囲の帰属関係と小さな団結がうまくバランスをとっている、その均衡状態から自由は成り立っているのです。これを、理性的と言われる理論的思考は攻撃するのです。それが目標を達成した暁には、もはや相互破壊しか残っていないのです。その結果を我々は今日見ているわけですよ。(『遠近の回想』213~214p)

そうだろうか。カール・ポランニー(1886-1964)の『経済と文明』を読みながらそう思った。ハンガリー革命のときの学生活動家で放校処分になり、ルーマニア、オーストリア、イギリス、アメリカを転々としながら、経済人類学を作りあげた。わたしたちは市場経済を普遍的だと思っているが、交易、貨幣、市場の3つは、それぞれ別個の起源と発展過程があることをポランニーは発見している。資本制社会の原理である市場経済とは異なった経済のシステムがあることを18世紀の西アフリカのダホメ王国を分析しながら解明した。互酬と再配分と市場交換という3つの経済行為が、王が絶対の権力を握る国家で経済は社会のなかに埋め込まれていることが遺著『経済と文明』で書かれている。翻訳者の栗本慎一郎によると「互酬とは、血縁関係や友人関係における社会的義務となっている贈与行為であり、再配分とは、政治的または宗教的な中央権力への社会的義務としての財物の支払いである。したがって、市場交換以外は、すべてその基礎になっている社会的関係と不可分のものとなっている。ポランニーの経済人類学について栗本慎一郎はまえがきでつぎのように書いている。

 この書を頂点とする仕事によって、ポランニーが残した業績は、こうした分析の方法が非市場社会のすべてに対して有効であること、またこの三つの経済行為の方法が、いかなるかたちで社会に埋め込まれているのかという検討が、どの社会に対しても有効であることを明らかにしたことである。これによって、すべての民族や社会の文化は、旧来のせまい常識からは考えられない広い枠組みの中で、「比較」されうることになった。また経済学は、市場経済社会である資本主義の歴史的特殊性が、マルクスの認識以上に完全に部分的で例外的でさえあることを知らされ、より普遍的な非市場経済社会を分析するについては、経済人類学と呼ばれる分野が不可欠であることを知らされたのである。そして、こうした分析から示される非市場経済社会の文化と経済の原理が、現代の混迷する社会で本質的に要求されているものであることをポランニーは述べている。

資本主義社会と市場の結びつきが根源的でも本質的でもないことはポランニーの本を読めばわかる。資本主義社会にたいする悲憤慷慨がそこに込められていることもわかる。フーコーもまたそのように考えた。そのときよりも時代はもっとどん詰まっている。レヴィ=ストロースもポランニーもフーコーも世界の現状にたいする批判として世界にたいして対抗的な概念を提示する。問題なのはそれが世界にたいする対抗概念であって、対抗概念には世界を新しくつくる力がないということだ。世界はさまざまに解釈しうる。たしかにそうだ。そして解釈は未知の世界を創造できない。
ポランニーがダホメ王国の富の分析をするとき、王国の国民は富の分析の枝葉末節なサンプルになっている。これは人類学の根本的な欠陥だと思う。植民者が被植民者に向けるまなざしが文化人類学にはある。このことは、はっきりと言っておきたい。優越者の劣敗者への視線がある。露骨な権力の行使であり、その上に成り立った学問である。勇者の憐れみというやつだ。かれらの思念をよぎるものは倒錯した桃源郷なのだ。わたしたちはすでにモダンの洗礼を受けている。このモダンを逆行することはできない。レヴィ=ストロースが批判するフランス市民革命の理念が、長い伝統に基づく個人の暮らしや生を交換可能な抽象的な理念に分解し、生活の紐帯を解体してしまった。ここに人類史の厄災の元凶があるとレヴィ=ストロースは言う。ほんとうはもっと生の内在に向かって考究し、存在の原基的なありようを究尽すべきだったと思う。かれはヨーロッパ的な知の偏りが招いた惨禍に怯み、現場から逃散したのだ。犬や猫を愛玩するように未開人の生態観察を行使する。なにか堪えがたいものがある。ポランニーもおなじことをやる。徹底的な非関与によって考察する対象を腑分けする。それはバランスの上に立つダホメ王国の経済として描かれる。サバンナの村落社会は王権の支配が直接におよばない自治としてある。ミール共同体のようなものだ。スターリンによるコルホーズの失敗としてそれはある。相互扶助性そのものは人びとの生活の知恵である。「真実の自由は具体的な内容しか持つことができません。小さな範囲の帰属関係と小さな団結がうまくバランスをとっている、その均衡状態から自由は成り立っているのです」(レヴィ=ストロース)レヴィ=ストロースの理念は逆立ちしている。具体的内容をもつ真実の自由とは生活の知恵に基づく私性ということである。ここに抽象的な自由や平等を持ち込むと相互破壊しか残っていないとかれは経験に照らして言いたいわけだ。マルクスも私性を読み違えた。私性の根はマルクスやレヴィ=ストロースが考えたよりもはるかに根が深い。「交易、貨幣の起源は人類の先史時代に埋め込まれており、一方、市場はごく最近発展したものである」(カール・ポランニー『経済と文明』39p)

貨幣は身体の延長であり、その身体が心をかぎっているとしたら、貨幣は心の延長である。こころが身をかぎり、身が心をかぎる、その心身一如を所有するものを自分とみなしたとき、生命形態の自然が環界を巻き取り粗視化するのは必然だった。ここに精神の古代形象の原型がある。この自然は外延自然であり、生の余儀なさにすぎない。わたしは外延自然を内包自然として拡張しつつある。ポランニーの指摘するように貨幣の起源は先史時代の精神の古代性のなかにあると思う。よく気づいた。ポランニーの卓見だ。ヘーゲルは、始まりの不明と言い、ハイデガーは存在者の二義性と言い、フロイトは無意識と言って、問題の所在をそれぞれごまかした。このごまかしにニーチェやヴィトゲンシュタインやゲーデルは自覚的だった。閉じた公理系では語りえない出来事がある。内面化も社会化もできないことがあるということだ。思考の限界にかかわる困難をひらこうとした思索者はほぼ皆無だ。

貨幣の起源を問うことは私性の根源を問うことに等しいし、私性という起源の闇は根源の性を分有することでひらかれる。心身一如を所有するものが自分であるという臆断が一気にひろがる場所がある。心身一如という生命形態が自然とみなした場所に自己があるのではない。まして心身一如によって自己は所有されるものではない。互いに相対する二者がいるとする。そのときそれぞれの眼に相手が映る。わたしではなくあなたの目に映っているわたし、わたしの目に映っているあなた、そこに〔主体〕があり、それが自己の各自性と言うことなのだ。この不思議を同一性に閉じ込めて自己に先立つ超越として人びとと相対した理念が神や仏だと言っていい。「私」と対座して「私」に内在する他者、それが神や仏という超越にすぎないとだれが気づいたか。この信は不可避に共同性を疎外する。

これまですこしだけヘーゲルやハイデガーやフロイトの方法的な制約について書いてきた。内包贈与論ではいくつかの人類学を批判的にあつかうことになる。意志論を放棄せずに世界を語るには存在論の拡張を避けることができない。自己意識の外延表現とみなしてきた外延知や外延自然をどういうふうに対象化しても、世界の無言の条理に牙を立てることができないことはわたしにとってすでに既知のことである。わたしは体験の固有性にこだわってきた。生活することと思弁を分離して世界を論ずることは一度もなかった。わたしの生存感覚を貫いている内面化も社会化もできぬことを言葉として表現しようとしてきた。考えつづけることを断念せずに考えることを考える日々をつないで、知識人と大衆という権力による世界分割ではなく、ついに総表現者という理念を手にしつつある。もとよりグローバリゼーションの猛威に煽られてつくられた総アスリートという現状にたいして総表現者という概念を着想したということもあるが、歴史の概念としても生の概念としても言いうるもので、総表現者という理念は世界を未知にむかってひらいていると思う。外延知の範疇では知識人と大衆という二分法を避けることができない。内包自然を知覚すると、生活を表現が包み込み、これまでの歴史ではありえなかった〔主体〕という概念が登場することになる。歴史にとってまったくの未知だと思う。

    3
内包贈与論は貨幣論の変形ではない。貨幣としてあらわれた身体の粗視化そのものの拡張である。存在論の拡張をぬきに貨幣論は拡張できない。そのことはわたしのなかではけっして共同化できない内包的な信としてある。ヴェイユの言う神の恩寵はそのままに神からヴェイユへの内包的な贈与であり、親鸞の自然法爾は他力による一方的な内包的贈与である。内包的な贈与論をこのようなものとして構想している。手がかりはいくつかある。この場面を作品から抽出する。

①人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいする-また自然にたいする-君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。(マルクス『経哲草稿』)

②わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。わたくしは、さういうきれいなたべものやきものをすきです。これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。(宮沢賢治『「注文の多い料理店」序』)

・・・・・・・・/空には暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるへてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると(宮沢賢治「業の花」)

③「チモシイと二人になると、いつも不思議な気分になった」彼は遠い記憶を手繰るようにしてつづけた。「たとえばぼくが青って言う。チモシイが黄色って言う。すると二つの言葉が一つになって緑色になる。きみは黄色だね。あなたは青ね。二人だと緑……わかるかなあ」
「わかるよ」フユは言った。「とてもよくわかる」
「温かくなるって、そういうことだと思う。ぼくがチモシイの足をさすってあげたところで、たいして温かくなるわけじゃないんだ、実際はね。でもそうやっていると、ぼくの青とチモシイの黄色が一緒になって、二人とも緑色になってしまう。青のままでは寒いし、黄色のままでも寒いけど、緑色になると温かい。こうしてぼくたちは、冷たい世界にいても温かかった。いつだって温かかったんだ。火を熾しても身体が温まるわけじゃない。まわりの空気が温まるだけでね。お腹いっぱいに食べても、ぼくがいっぱいになるわけじゃない。ぼくがいっぱいになるのは、胸がいっぱいになるときなんだ。ぼくたちが温まるのも、同じことだよ」
「素敵ね」彼女は短く言葉を挟んだ。
「フユならきっとわかってくれると思った」ヤシは嬉しそうに言った。(片山恭一『新しい鳥たち』)

マルクスは「愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できる」という直観をそのまま資本論ではなく、贈与論として構想すればよかった。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)という宮沢賢治は自己を可視化も実体化もしていない。つまり引用した宮沢賢治の「あなたのすきとほつたほんたうのたべものになること」という言葉はつながりのおのずからなる応答を指しているようにみえる。「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」もまるごと内包贈与論として読みかえることができるとわたしは考えている。それがなぜ可能かというと、「たとえばぼくが青って言う。チモシイが黄色って言う。すると二つの言葉が一つになって緑色になる」からだ。もうひとつとても好きな場面を取りあげる。

皆さんは『タイタニック』という映画をご覧になったでしょうか。監督はジェームズ・キャメロンで、主演はレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット、1997年の映画です。
  豪華客船が氷山にぶつかって沈没する話ですね。1912年に起こった実際の出来事です。イギリスのサウサンプトンからニューヨークへ向かう処女航海で、当時史上最高の豪華客船が沈んでしまう。その船に乗り合わせていたのが、上流階級の令嬢であるローズと、貧しい青年ジャック・ドーソンだった、というのが映画のほうの設定です。ケイト・ウィンスレット扮するローズは、不本意な結婚をさせられようとしている。その婚約者の男と一緒に船に乗っています。一方のジャックは、画家志望で故郷であるアメリカに帰るところです。二人は運命的な出会いを果たし、身分や境遇をも越えて愛し合います。
  そこへ事故が起こる。海に投げ出された二人は、沈没した船の残骸につかまりながら救助を待ちます。しかしローズを助けようとして、自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックは力尽き、「きみは生きろ」と言い残して海中へと沈んでいきます。ここでもやはりヴェトナムの難民船や『方丈記』と同じことが起こっているわけです。愛しい人の生命を優先させ、わが身は次にする。完全にボランティアな自己犠牲の行為です。
  しかもこの二人、出会ってから数日です。なにしろタイタニック号は、出航して三日目くらいには沈んじゃいますからね。その間に、ジャックは素早くローズの心をとらえ、自殺しようとしていた彼女を思いとどまらせ、婚約者から彼女を奪い、自動車のなかでちゃっかり愛を交わして、最後は自らが犠牲となって冷たい海に沈んでいく。数日前までは見ず知らずだった、赤の他人の女性のために。
  まさに人生の神秘です。これ以上に不思議なことがあるでしょうか。(片山恭一公式サイト「家族として見た世界~人がつながること」)

「きみは生きろ」も内包的な贈与の象徴として読むことができる。内包的な贈与は貨幣論の変形ではない。(この稿つづく)

〔付記〕辺見庸の「私事片々」発言が神奈川新聞に掲載されている。アドレスが長いのでググってお読みください。辺見庸ブログ私事片々2016年5月分です。落ち着いたいい文章だった。伊勢崎賢治の「新9条論」と、平成天皇を楯にとった安倍晋三にたいする批判への疑義が書いてあった。常々わたしも感じている。どちらも解決がついていない。辺見庸と伊勢崎賢治の論点はずれている。「安倍政権憎しで、南スーダンから自衛隊を撤退させろ、という主張は、非人道的です。撤退する代わりに何をするか、を具体的に提示しなければなりません」(伊勢崎賢治ツイート2016年10月15日)親鸞はすべてを助けおおすことはできないから、往相廻向ではなく還相廻向と言っている。辺見庸の最後の発言は印象深い。「一人の人間がどう考えるか。歴史の大転換期にあって、群衆の中で一人の人間がどう思考するのか。歴史と自分の関係をどう考えるのか。それが今、一番大事なことだと思う」

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