日々愚案

歩く浄土111:情況論35-内包自然と総表現者13/池田晶子の自然5

    1
存在と存在者のあいだには余白があることをハイデガーは発見し、その余白はヒューマニズムではけっして埋まらないことをハイデガーは直観していた。戦後のハイデガーにとって、存在と存在者の存在論的差異の糾明は、わたしの理解では、ナチへ荷担したことの弁明として使われている。
「断じて、人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、『自我』であれ『我々』であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの『主観』として、人間であるのではまったくない。(『「ヒューマニズム」について』)
たしかにハイデガーの言う通りだ。しかしそれはわたしの内包とは似ても似つかぬ代物だ。この考えは偉大なゲルマン共同体の復興を夢想したハイデガーの思想の核心にあるもので、『存在と時間』以来受け継がれている。そういう意味では一時期とはいえナチに加担した第二次世界大戦をはさんで、後期の思想に至るまでハイデガーの思想は一貫しているといえる。身に貼りついた心を自己が領有することの権能にヒューマニズムの根拠をおく理念と、ハイデガーのつかんだ〔存在〕の触知はまったく異なるものだった。その感触の驚きに『存在と時間』は縁取られている。
『存在と時間』から『「ヒューマニズム」について』の二〇年間に彼の思索は熟成したのだろうか。ナチ加担の狡猾な言い逃れを緻密に取り繕ううちに彼という人間の地肌が露出したという気がしてならない。こう指摘されることさえ〔存在〕の為す業とハイデガーはいうだろう。存在論には、神という観念ぬきに存在を語ることの総毛立つような恐ろしさがある。それをだれより知っていたのがハイデガーだった。
池田晶子にとって「人間」とは「意識」であり、そのことを意識だと認識するその刹那、意識は意識のかたまりに同期する。それがはじまりの不明を究尽せずに意識の現象学を記述したヘーゲルの思想だ。意識のかたまりを存在と言ってもいい。だれがどうやろうと意識は存在に同期するしくみになっている。それはハイデガーによればつぎのようになる。

しかし、それにしても、存在というもの―、この存在とは、いったい何であろうか。それは、〈それ〉〔存在〕そのものである。このものを経験すること、そして言い述べることを、来たるべき思索は、学ばなければならない。「存在」―それは、神ではないし、また、なんらかの世界根拠でもない。存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遙かなものでありつつ、それでいて人間には、どんな存在者よりも、より近いのである。たとえ、この存在者が、岩であろうと、動物であろうと、芸術作品であろうと、機械であろうと、はたまた、その存在者が、天使であろうと、神であろうと、それらにかかわりなく、それらよりも、より近いのである。存在は、最も近いものである。・・・「存在の問い」は、つねに、あくまでも、存在者への問いにとどまっている。(『ヒューマニズムについて』58~59p)

ヒューマニズムは「存在者の存在」論にすぎないというのがハイデガーの弁明である。心が身に、身に心が貼りつき、そこに自由や平等があるという理念は、自己には執着するが赤の他人ことには無関心である。それはこれまでの歴史のなかで人間がつくったもっとも強固な自然で、すべて私性に根ざしている。ハイデガーや池田晶子の言い分はこのかぎりでは正しい。しかしハイデガーの存在の知覚には致命的な欠陥がある。存在者に先立つ存在は存在者にとっての無意識のようにあらわれる。とても怖いことだ。存在は神という超越でさえなく、「より広く遙かな」謎を、同一律の範型で語ろうとしていることである。もちろん本人はそのことに気づいた気配はかけらもない。存在者に先立つ存在を語ることは端的に不可能である。語りえぬものとしかいいようがない。内包という際限のなさは、自己意識の外延態として表現することができない。自己を内包的に拡張するときに領域の自己として覚知されるなにかだ。1という点的な自己はがらんどうである。だからそこにはなんでも入り込める。「無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである。しかし、無傷の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、歪む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。・・・ところが世間の人は、歪む働きなどは存在者そのもののうちのどこにも見出されることはできない、と思い込んでいる。・・・歪む働きは、存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そうであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着する何か存在者として、けっして見つけることはできないのである」(『形而上学入門』131~133p)かくしてハイデガーは悪の凡庸さを感受することができる。「存在というものが初めて、無傷の健全なものに、恩寵のうちで立ち現れることを許してくれ、また、深い激怒に、災禍へと向かって突き進むなだれのような殺到を許してくれるのである」(同前135p)見事な弁明である。これがおぞましい考えでなくてなんだろう。華麗なレトリックで厚化粧された壮大な空虚と欺瞞。

深い激怒の邪悪さは存在の本質に内在する歪む働きであり、災禍に向かってなだれをうって殺到するとハイデガーは言う。言うまでもなく民族浄化をさしている。ハイデガーの心の襞をめくってみる。ハイデガーは見えない言葉で、おれは存在に触ったのだ、ユダヤ人のホロコースト、おうそれがどうした、と轟然と言い放っている。民族浄化を許容しても痛痒を感じずにすむ怖ろしいものがハイデガーの思想に棲まっている。慄然とするおぞましさはたんにハイデガーの卑俗な性格に還元できるものではない。存在論がもつ本来的な恐さなのだ。厄災は決してあの時代に特有の出来事といってすむことではない。存在と存在者のあいだにある謎はかたちを変えていまも生々しく息づいている。機をみるに敏なハイデガーは哲学の時代が終わり、科学の時代が始まると告げ、そのとおりになった。哲学はサイバネティクスに引き継がれるとハイデガーは言う。「従来の哲学の役割を今日では諸科学が引き受けています。・・・哲学は個別諸科学へと解体します」(同前392~393p)科学はやがて思考に包摂されると言った池田晶子はにはぶれがない。ハイデガーのような機能主義者ではない。しかし、人間は意識であり、自己意識は意識することにおいて実存をはみ出し、人類の意識と同期するという池田晶子のゆるぎなさは、ハイデガーやヘーゲルの思想と紙一重であり、生の半分しか生きることはなかった。語りえぬことを内包表現として生きること。存在と意識についての起源の闇はここでしかひらくことはできない。またここを拓きうるならこれからの世界も開きうる。同一性に拠らぬ存在の粗視化は可能である。

やっとここまできた。ヴィトゲンシュタインが、語りえぬことについては沈黙せよ、善悪は、主体によってはじめて成立する。そして、主体は世界に属さない。それは世界の限界なのである、と言ったことや、ニーチェがあらゆる価値の価値転換を果たしたいといったこと、レヴィナスが存在の彼方や、〔在る〕のざわめきというイリヤを包越したかったこと、それらのことがここで書いてきたこととすべて切り結ぶ。理性の形式では魂は語りえないなどいうのは、あったりまえで言うもおろかなことなのだ。それさえもわからずに存在を論じてきたことの不明を恥じよ。自力の果てることからさらに精神の行程が始まるのだ。なんと弛緩した思考かと思う。その程度の凡庸な思考で世界を理解できるはずがない。もっと思考を強靱にすればよかった。池田晶子の世界の理解は現実に対する対抗概念であり、現実をあしらうものでしかなかった。邪気がなくイノセントであったが生の半分が欠落したまま生きてしまった。

    2
世界を語るとき、貧困や不遇感やもろもろの生の不全感は、なぜ間違った一般化として表現されるのだろうか。はたして〔在る〕のざわめきは外界にたいして内面化して語ることができるようなものだろうか。できるという前提のうえでわたしたちは生を刻んでこなかったか。もしそれが錯認だとしたらどうなる。なにがわたしたちをそこに繫ぎ止めたのだろうか。〔在る〕のざわめきが心身一如に付随するという強固な観念のうえに生の不全感がかたどられてきたからではないか。それをわたしたちは観念の自然とみなしてきた。そのことは生を切りなく重畳してきた歴史としても言いうる。一部の思索家は存在論の初期不良について鋭敏に気づいていた。ニーチェの価値の転倒。ゲーデルの不完全性定理。ヴィトゲンシュタインの語りえぬことについて沈黙せよ。神という超越ぬきに存在を語ろうとすることにおいて、敏感な思索家たちの気づきは、ハイデガーにも共有されていた。ハイデガーは言う。「『存在』―それは、神ではないし、また、なんらかの世界根拠でもない。存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遙かなもの」。戦時の自己の恥辱を払うためであろうと、いいところまでハイデガーがきていたことは事実だ。存在が神ではなく、あらゆる存在者よりも遙かなもの、それはなにか。そのことがハイデガーにはついに理解できなかった。そのすきまに邪悪な激怒が忍び込む。「存在の開けた明るみ」が無傷の健全なものであるとどうじに「深い激怒の邪悪さ」であるようにハイデガーに感じられるのはなぜか。そのとらえ返しがハイデガーにはなかった。ヴェイユの匿名の領域や親鸞の他力と自然法爾、わたしの内包のなかに、ハイデガーのおぞましさやその弁明はない。なぜか。ハイデガーは存在の手前で折り返してきた。ハイデガーにはこの存在を貫通する気概がなかった。ここでわたしはもう池田晶子の三日月の生を問題にしていない。わたしが問い尋ね悶絶した満月の内包にとって池田晶子の半月の思索は取るにたらぬことにしか思えないからだ。総じてヨーロッパ的な思考は強者の思想であり、強者の弁明であり、知の帰り道である還相の知というものがない。外延権力を撃ち、外延権力を相対化する、そういう知はあるが、息苦しい。東洋的な知にはもともと外延権力をねじ伏せようとする気骨はなく、はじめから権力と野合し、そこに自然に生成する観念の境地をつくる。わたしの理解するかぎり、親鸞だけが生の垂直性を自然法爾として摑取した。

存在と意識をめぐる謎はまだなにも解かれていない。この謎を解くこともなく、この謎を放置したうえで、解けない主題がいつも解けない方法で論じられてきた。あるとき生は貧血し、あるとき生は憤怒に駆られ燃えさかる。わたしたちの生は振り子のように揺れる。そしてまともに究尽されることもなく出来事を行き過ぎる。ここはおれの日向だという人間がつくったもっとも強い自然をやわらかく解きほぐすことができるだろうか。強い自然は心身一如という同一性に根拠をおかれた生の粗視化のひとつにすぎない。わたしは自然に根ざした私性は内包論で包み込んで融かすことができると考えている。

ネットの記事をふたつ取りあげる。

フィリピンのドゥテルテは「ヒトラーは300万人のユダヤ人を虐殺した。(フィリピンに)麻薬中毒者は300万人いる。私も喜んで殺したい」(朝日新聞デジタル2016年9月30日)と発言した。

グリア細胞のひとつで常在性マクロファージと言われる免疫細胞ミクログリアが神経細胞と接触することで脳の回路がつくられることを自然科学研究機構生理学研究所などのチームが発見。ミクログリアは神経細胞同士が情報をやりとりするつなぎ目「シナプス」が正常に働いているか確認する役割も担う。発達障害では脳回路の異常が起こっていることが知られているので、脳回路の異常が原因の病気の治療や予防につながる可能性がある。(共同通信2016年10月5日記事の要約)

このふたつの記事は天然自然から人工自然へ、哲学から科学へ至る時代の象徴として読み取ることができる。存在の謎を貫通することができなかったハイデガーは、謎を順延し、哲学から技術への時代を語ることで延命した。「従来の哲学の役割を今日では諸科学が引き受けています。(略)哲学は個別諸科学へと解体します」(『「ヒューマニズム」について』392~393p)機を見るに敏なとことんずるい奴だと思う。時代の趨勢はハイデガーの言うようになった。ドゥテルテのやっていることは権力による強くて古い自然の行使であり、後者はグローバルな強くて新しい自然の現況である。ドゥテルテの倒錯はすぐ批判することができるが、分子生物学になると先端知を受容する。天然自然も人工自然もわたしの概念では外延自然ということになるが、天然自然を人工自然が凌ぎつつあるというところに世界の現在が位置している。やがて天然自然は人工自然に呑みこまれることになる。そうやって生の世界への属躰化はいっそう促進される。正常は異常の前触れとして正常そのものも治療の対象として組み込まれていくだろう。この過程は避けられない。

こうやってわたしたちの生は科学の先端知に取り込まれていく。正常な精神と異常な精神はもともとわたしたちの生活知に基づいているにもかかわらず科学が生権力として大幅に介入し、そこで正常と異常が分別される。正常であることも異常の偏りのひとつだとはならない。健全であることや正常であることは架空の観念でありそこに到達することはできないにもかかわらず、架空の観念が善であるとして生が再編成されるわけだ。わたしの理解では世界の地殻変動と世界の転形期を時代の根柢で決定しているのは強くて新しい自然である。この自然に煽られて世界で精神の退行が自然な知として復興している。
脳回路の異常が精神の奇妙なふるまいを招くことがあっても、精神の理解しがたい挙動があるから脳回路の異常があることにはならない。奇妙な生が精神の不安定を招くことがあってもそのことは脳という自然が異常であることにはならない。脳回路の異常に精神が馴服するときわたしたちの生は記号としての同一性に漸近していく。それが村田沙耶香の『消滅世界』の作品の意味である。存在と意識の謎を解かないかぎりわたしたちはどこにも行けないし、事物として世界の属躰となるほかない。

ハイデガーさん、存在者に先立つ神より深いはるかな存在を内包存在と言えばよかったんだよ。そうすれば言葉がほんとうのほんとうになることができた。もう少し大胆なことを言えば、ヘーゲルやハイデガー的思弁は同一性そのものへと漸近して行き、必然として思弁は共同幻想を体現することになるだろう。グローバル経済とハイテクノロジーは理性的な善を装いながらそこに必ず収斂して行く。ハイデガーのナチ加担と哲学の科学への解体はそのことを暗喩していたように思えてならない。観察する理性は同一性を実有の根拠として共同幻想それ自体へと収縮する。意識の明晰さという虚妄はこの流れを拒むことができない。池田晶子の奇怪な観念はこのおぞましさを解除できるだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です