日々愚案

歩く浄土110:情況論34-内包自然と総表現者12/池田晶子の自然4

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世界が行き詰まっている。グローバリゼーションの猛威の前にどんな理念もかすんでしまっている。為す術もなく日々を漂っている。部分的な知は「おれの日向」ということに呑みこまれてしまう。人間は「ここはおれの日向」よりも強い自然をつくることはできなかった。ここに人間の心身がからまった私性の根深い自然がある。この自然はハイテクノロジーと結合したグローバル経済によって天然自然から人工自然へと急速に舵をを切りつつある。わたしはここに世界の混迷の根因があると思う。世界の地殻変動のなかで、わたしたちの生は総アスリートして再編成される。電脳社会からのさまざまな煽りにさらされて国も個人も内向きに精神を退行することで転形期の混乱を乗り切ろうとする。勝敗はすでに決している。民主主義は勝者にしか適用されず、その世はどうであれ切り捨てられていく。そうやって社会の外部に例外社会が形成され、それもまた自然となっていく。どこをどう見回しても世界を革める理念はみえてこない。労働者という理念はアスリートとしてほぼ編成を終えている。
1%による99%の収奪を民主主義の理念で指弾してもまったく無力で無効である。それはわたしたちの日々の実感としてある。私欲によって高度な自然はますます強化されていく。

『ヨーロッパから民主主義が消える』と言う本の最後で著者がスラヴォイ・ジジェクの論文を取りあげていた。ジジェクは、現在EUを危機に陥れている難民問題はグローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度を形成していくだろうと述べている。「(アラブやアフリカにおける)国家権力の崩壊は、現地の現象ではなく、西側が利益を得ている結果なのだ。崩壊した国の増加は、偶然の不幸ではなく、明らかに、強国が経済的植民地に行使するメカニズムによるものである。なかでもリビアとイラクの場合は、西側の干渉がとりわけ直接的に行なわれた」(『ディ・ツァイト』「ユートピアが爆発するとき」スラヴォイ・ジジェク)著者はジジェクの意見を「我々がほんとうに多くの内戦国家を助け、難民が出ないようにしたいなら、やるべきことは簡単だ、つまり、それらの国々で儲けている西側資本が手を引けばよいだけの話だ。資源の利益が現地に還元されるようになればさらによい」と要約する。ジジェクという口だけ左翼の卓見だろうか。儲け話があるのに資本が手を引くわけないだろ。わたしはルワンダの虐殺も電脳社会からの煽りにちがいないと当時直観した。昨年秋、イスラム過激派がふつうの若者120名以上を無差別に殺戮。またサッカー独仏親善試合の競技場も襲撃され、フランス国歌ラ・マルセイエーズを歌いながら待避したことはよく覚えている。脅威があるとき個人も国家も内向きになる。ふたつの自然が激突する。共生する理念はどこにもない。グローバリゼーションに抗する理念はどこにもない。

なぜ音色のいい世界がみえてこないのか。青空のみえる世界はないか。世界が行き詰まっている。何気なく村田沙耶香の『消滅世界』を読んだ。『ハーモニー』のバージョンアップ版。あの伊藤計劃の『ハーモニー』が牧歌的に思えるほど生が貧血してしまう世界が描かれている。人は科学的な受精によって子を産み、子は社会に召し上げられ、夫婦のセックスは近親相姦とおなじように禁忌であり、すべての人がすべての子のお母さんになるという世界。男性も人工子宮によって子を産める時代。世界のすべてが社会化されている。そこには固有の生はかけらもない。家族も個人も崩壊している。なによりすべての人がそれを自然なことだとして受けいれている。強いAIの到来より不気味だ。こういう作品が書かれるようになった時代。なにか時代を象徴している。『ハーモニー』は自己幻想が共同幻想に同期することで生の不安を解消するという怖い物語だった。『消滅世界』は対関係の夫婦からセックスを消滅させ、科学的受精によって子を社会に囲い込み、夫婦という形式を社会に同期させる物語だが、もうそこには社会から提供される属躰としての個しかない。見事な共同幻想への同期の物語となる。池田晶子の考えは裏側から作品として実現されているという印象をもった。人間を意識と定義し、その自己意識を創世以来のおおきな意識のかたまりに吸着させると、私は人類であるという共同幻想そのものになるが、ではその意識のかたまりから分岐した「私」はなぜ池田晶子なのか、これがわからないとことあるごとに書いていた。意識のかたまりというのっぺらぼうの共同幻想に同期してもそこから固有の生が出てくるわけがない。禅仏教の覚者に固有名は必要か。自然に融即して無明になりたいのではないか。

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グローバルな世界の変化や市民主義的な理念に存在の初期不良が内在されている。わたしたちの生が伸びやかにならないのはそこに根因があり、人間の始原の意識と存在のありようの粗野な形式が、消費期限をすぎて混乱をもたらしていると考えてきた。存在了解の初期不全が混沌とした世界の中心にいまむきだしの生存として晒されていると言うべきか。既知の理念をどう手直ししようと世界に王手をかけることはできない。世界にたいする構想力だけが生のありようとこの世のしくみを革めることができる。世界を根柢的に思考すること。

1948年に吉本隆明は「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」で存在と意識について書いている。そこでマルクスの経済の概念にたいして詩人にとって意識が実在することを対置する。存在の仕方が意識を決定すると言われるが、意識がなければその存在そのものと措定できないではないか、と。経済が生活であれば、詩は内面の意識として実在すると吉本隆明は言いたくてたまらない。

マルクスがあらゆる芸術を彼の思想から放遂した所縁は実在としての意識などは彼にとって嗤うべき愚劣事に過ぎなかったからだ。意識とは意識的存在以外の何ものでも断じてあり得ない、そして人間の存在とは彼等の現実的な生活過程のことである、(フォイエルバッハ論)斯様なマルクスの思想の根本図式のうちには芸術の、詩の成立し得る余地は存在せぬ。(「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」)

意識は意識的存在以外の何ものでもないというマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないという逆措定を含む。このような措定の逆立の当否は唯確信の深さと、実践によって決せられねばならぬ。ここに至って詩的思想はマルクスの所謂非詩的思想と対時するに至るのだ。(吉本隆明『擬制の終焉』356~357p)

社会的な存在のありようと内面の詩的な意識は逆立すると吉本隆明は確信している。現人神のためなら死ぬことができると信じ、戦後を生き惑い、再び言葉の背骨をつくろうとする途上の心構えが語られているわけだ。24歳の青年吉本隆明がここに立っている。渾身の研鑽を積んでマルクス論や言語の表現理論や共同幻想論がのちに作品となる。吉本隆明の方法論のなかにある牧歌的なものは敗戦の痛手から社会が復興しつつある時代性が影響していることもあるだろう。いまは2016年。それから社会も世界もとほうもない変貌を遂げた。内面に未知はなく、世界は混沌としている。内面化された世界に違犯しない社会的なコードをたどることで文学作品は商品となる。世界を構想する力は文学にはない。どんな未知もそこにはない。すべてが予定調和であり、容易に社会化される。そうやってみながこぞって嬉々として世界の属躰となる。なぜ世界はこうでしかありえないのか。存在了解の初期不全がむきだしになって現前しているとわたしは考えた。存在と意識について、ただの一度も究尽されたことはない。その起源の闇にいま世界は陥没しつつある。それがわたしの世界認識の初発にある。内面の観念の王国が世界をねじ伏せたことはただの一度もない。内面化による知はいつも世界に順服してきた。内面の文学が政治のない世界を構想しえたか。自己の陶冶と他者への配慮がなめらかにつながりうるにもかかわらず、このことが本格的に思考されたことはただの一度もない。内面と社会という観念の型を可能としてきた思考の慣性を根こそぎ転倒し、拡張すること。わたしは可能だと思う。

    3
池田晶子はレヴィナスの「と共に」を一蹴したが、マルクスの考えも撥ねつける。マルクスの考えにたいする反発は、レヴィナスの考えのたいするそれとおなじで激烈である。ようするに「と共に」は不可能だという。

きっと彼は考えたろう、私マルクスとは一九世紀ドイツ中産階級のユダヤ人、かくかくの肉体をもち、かくかくの経済状態、それによって、かく考えることを規定された人間であると。無論そうだ。地上に生きるということは、誰だってそういうことだ。ところで、それら社会的肉体的存在としての自分を認識している自分とは、では、いったいどの自分なのか。―次のセンテンスは、マルクスがボタンを掛け違えた決定的瞬間である。

〈人間の疎外された対象ないし本質の疎外された現実は―ヘーゲルが人間と自己意識とを同じものとみなしている以上―意識以外のなにものでもありえない。〉(『経済学―哲学手稿』)

 然り、人間の現実は意識以外のなにものでもありえないのだ、しかしマルクスはすぐにこれに続けて言う、それはそうではない、それは非現実的な抽象だ。そして別の箇所でこう言う。

〈われわれがここでヘーゲル流の抽象を取り除いて、自己意識のかわりに、人間の自己意識をおいてみれば―。〉

 断じてNO! 自己意識のかわりに「人間の」自己意識をおく、と言うわけには絶対にいかないのだ。いや、言ったって私は別に構わないのだけど、それならマルクスは、自分を「マルクス」と認識しているのは誰なのかという問いに最後まで答えるべきだったのだ。しかしきっと彼には、この問いを完遂することはできなかったろう。そして、意識とは、個々人、個々の肉体に備わった個々別々誰それの意識である、「私」とは肉体マルクスの意識であると答えて、疑わなかったろう。で、当然、マルクスにはへーゲルがこう読める。

〈対象がもっぱら「自己」のうちに帰還するものとして現われるだけにはとどまらない。人間がいきなり「自己」として措定されるのである。しかしながら、「自己」とは抽象的に把握され抽象によってうみ出された人間のことである。人間は「自己的」である。彼の目・彼の耳等々は「自己的」である。彼の本質の諸力の各々が彼の中にあって「自己性という属性をもっている。とはいえ、だからといって、自己意識が目とか耳とかの本質力をもっている、といったら大間違いである。それどころか、自己意識こそ人間的自然本性の、たとえば人間の目などの一つの性質なのであって、人間的自然本性が自己意識の一つの性質なのでは断じてない。それだけ独立のものとして抽象化されて釘づけにされてしまった「自己」は、抽象的利己主義者としての人間である。それは、思惟活動という純粋な抽象物にまで昇華された利己主義である。〉(同)

 しかし、ヘーゲルの「自己」が、独立的な自己などというチャチなものでないことも、前章で詳しく見たところである。マルクスが正しくも指摘する通り、ヘーゲルにとってはまさしく全人間が「いきなり自己」なのだから、今さら肉体ヘーゲルのどうのこうのが、問題になるはずがないのである。逆にここで、マルクスが要求するように、「自己意識」を「人間の自己意識」つまり個々人の肉体所有の自己意識に置き換えたならば、これが「利己主義」に陥らないはずがないではないか! 早い話が、俺は食いたい、お前は邪魔だ、である。お定まり町人の世である。マルクスの哲学によっては、世直しは絶対に達成されるはずがなかったのだが、皆、気がつくのが遅かった。(『考える人』43~45p)

精神のうねりが、意識の種々の形態を節目としながら実現するものを歴史だとヘーゲルは考えた。精神は意識に宿り、自己と家族と国家というそれぞれの役柄を演じる。意識という形式に精神が宿り、意識が自己をよぎっていく運動が、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的であるという彼の精神現象学だ。ヘーゲルの絶対精神は吉本隆明の全幻想領域に対応している。ヘーゲルのこの意識の運動のなかからは生身の人間の煩悩は捨象される。事物を抽象する数学の抽象力のすごさはまた捨象力の徹底性でもある。ヘーゲルの意識の運動は煩悩を切断したところで成立する。意識の形式だけが問題とされ、衆生の生は絶対精神によって整序される。閉じられた意識の劇がヘーゲルの精神現象学である。絶対精神は、朕は国家なりでさえのけぞる空虚の徹底性でもある。空虚の実現においてヘーゲルの哲学は完結する。同一性という空虚な意識の形式で見事に空虚を実現してみせた、それがヘーゲルの哲学である。その切断力の徹底性には頭が下がる。世界のすべてを覚知してなにを手にしたのだろうか。はじまりの不明があるにも関わらず、目を瞑ってその深淵を跳び越した代償として意識の消失点を獲取した。斯くして存在は無に至る。空虚な有論が無という空虚を演じることの空虚。

ヘーゲルの考えを正当に継承せず曲解したマルクスの考えは利己主義になると池田晶子は批判する。心身一如のその場所に意識があるというマルクスの存在と意識についての考えのあいまいさに考究の余地がのこされていることはたしかだ。わたしは池田晶子が軽々とバカにするマルクスの「人間の自然本性」は、男性と女性の関係的存在にあると理解している。マルクスの思想の未然を拡張すると資本論ではなく贈与論になることをわたしは構想している。わたしは池田晶子の頭でっかちの批判に対してはマルクスの考えを擁護する。「マルクスという人は、哲学者としては、どうしても二流である」と池田晶子は言うが、勃興する資本制社会の引き起こすさまざまな出来事を黙認できず決然と立ったとき哲学において二流であることは必然だった。マルクスは現実に対して観察者の位置をとることを肯んじなかった。マルクスは時代の要請からいくらか勇み足にならざるをえなかった。世界を解釈する哲学、そんなものどうでもいいと本気でマルクスは考えた。出来事を眺める傍観者は後知恵でなんとでも言う。ただ男性の女性に対する関係の深さをそのまま資本論ではなく贈与論へと持ち込むことができなかった思想の突きつめの足りなさには時代性が刻印されている。分配のしくみを変えれば「と共に」は類生活として可能となるとマルクスは本気で考えていた。この関与的な存在の驚異をマルクスは時代の要請から社会化した。資本論のハイライト、使用価値と交換価値を交差させた価値形態論も「人間の自然本性」を矮小化したところで1の哲学の経済的理念化として表現されてしまった。ここでは真のマルクスがあるわけではなくマルクスの方法的制約が問題となる。

マルクスの経済論に対して幻想論を対置した吉本隆明の思想が窮屈なのはマルクスの思想の負債であり、マルクスの思想の未然もヘーゲルの思想の未然に由来する。利己主義の総体が利己主義と衝突するのは矛盾でも背反でも逆立でもなく自然である。ヘーゲルもこの自然の強固さを崩せていない。だから池田晶子の指摘は、俗世の煩悩を解脱して存在の驚異に目覚めよ!と宣明する池田晶子にもはね返る。どんなに清冽な倫理を唱えようと、肉体というぬいぐるみもそれに貼りついた自我もピクリとも動かない。お金や生活が現実なら、それを目の前に取りだして見よ、ほら、それは言葉、やはり観念じゃないかと金太郎飴みたいな物言いを繰り返しても、ふたつの観念が触れあうことはない。錐もむことも軋むこともない無難な安全な考えだと思う。むしろ触れあわないことによって池田晶子の言説が成り立っている。そして彼女の考えは権勢や金力にまみれた者らの魂の浄化として愛好される。ミロシェビッチが「たましい一途」と書いた掛け軸を床の間に飾ることになる。

自己が意識であり、その意識には創世以来の意識が重畳されていて、その意識に同期することは私は人類であることにひとしいと池田晶子は言うが、じつはこの意識の型のなかにはおぞましさが潜んでいる。わたしが世界であるとはヘーゲルも言っている。ヘーゲルの自己意識は世界そのものなのだから。かつてアーメン小僧だったヘーゲルは『キリスト教の精神とその運命』を書き、目を瞑って神という懸崖を跳び越した。たしかに感知していたそれをないことにして書かれたのが『精神現象学』なのだ。そのごまかしの負債を、晩年ギリシャ以前の思考に遡り、関係が表現であることに求めたのだと思う。

ヘーゲルや池田晶子のりくつからは意識の律動はでてくるが、「と共に」というつながりはでてこない。共生は不可能であると言いつのる池田晶子の鋭敏な感覚は市民主義の欺瞞を抉る。競争から共生を説く市民主義の者らよ、だれかひとりでもいい、池田晶子の指摘することに真っ向から答えよ。
鋭い切っ先で現実の盲点を突く池田晶子の言葉はどこか痩せていて現実を相対化する対抗概念でしかない。マルクスのおおらかな言葉には魅力がある。言葉を発するその場所でかれが生きている息吹がこちらに伝わってくる。マルクスの言葉には眼がついて言葉が踊っている。マルクスの大きな夢が語られる。

人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいする-また自然にたいする-君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。(『経哲草稿』186~187p)

それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は二つの受苦的な存在であり、自分の苦悩を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接にあたえられたままの自然諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は-客体的にも-主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。(同前206p)

マルクスの熱い夢が書かれた『経哲草稿』はいまでもすきで、なにか大きな弓が引かれているような気にさせられる。観察する理性として世界を対抗概念で語るのではなく、言葉で大きな構想力が述べられていて、その言葉のなかでマルクスが生きている。いまこういう言葉をつくれるひとはいない。言葉で世界をつくることは凄いことだと思う。マルクスの人間を受苦的な存在であり情熱的な存在であるという感覚はとても音色がいい。人間を人間として考えてみるとき、「君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ」。いい言葉だなあ。ヘーゲルの強靱だがふくらみのない言葉よりぬくもりがあり、池田晶子のどんな愛も自己愛の投影であるという干涸らびた言葉より生きることへの意志が強く迫ってくる。

彼の叙述に「実践」と並び現われるこの「人間」という言葉の無神経、普通の人が、「人間性」とか「人間重視」とか「人間とは何か」とか口にしながら、自分で何を言っているのか皆目わかっていないのと同じである。人は大抵、「人間」という語で、まず二足歩行する五臓六腑を漠然と思い浮かべるらしい。次にそこに、もろもろの血の通った喜怒哀楽愛憎その他の色を描き入れ、そうやって何だかんだこの世にうごめいているそれらを総称して「人間」と呼び、満足するらしい。ところで、この世はそれが全てである。歴史とは、それら「人間」の織り成す歴史である。犬や猫は歴史をもたない。歴史とはいつだって、「人間の」歴史でしかない、言わずもがなのことは言う必要がない。マルクスは何も新しいことを発見していない、むしろ、もっと当たり前のものを不明瞭にして曇らせてしまった。(『考える人』42~43p)

マルクスは新しいことを発見していないし、当たり前のことを曇らせた。それは「人間」とは「意識」であるという自明だという。それこそ自明のことではないか。世の中すべて金だということを批判的していい気になっている。その物言いのどこがそんなに特別なのか。金銭の取得が生の目的ではないということを池田晶子はしつこく言う。お金も実体化された観念にすぎないと。そんなことはわかりきったことでいちいち言うほどのこともない。池田晶子の言いたいことはよくわかる。わたしも1980年代の初めに(観念)の強度論というものを書きたくて、はじめに内包論を考え、ささっとすませつぎに進もうと考えているうちに内包論の深みにはまり、いまだに内包論を書いている。内包贈与論を済ませたら、つぎは内包浄土論を書こうと思う。たとえば親鸞の浄土論と経済論と科学論を内包という粗視化を通しておなじ土俵で論じてみたい。そんなことを考えている。人びとの生が金の多寡で分別されることをやり過ごすことができないマルクスの多感が資本論を書かせた。そのことをわたしは疑わない。マルクスの考えは「早い話が、俺は食いたい、お前は邪魔だ」に帰着すると池田晶子は言う。なにかを指摘したつもりになっている池田晶子が痛々しい。空虚が意識を語り、絶対精神に吸着され、その精神の赤子が空虚に差し戻されるヘーゲルの精神の荒廃よりマルクスの思想のほうが熱い。ままならぬさまざまな生の出来事を抱えて引き裂かれ七転八倒してお迎えまで生きる、その味わい深さを知ることもなく語られる言説の軽さ。煩悩にまみれのたうつ生であってもわが子をかわいいと思う心ばえ。池田晶子は「と共に」の不可能性を往相廻向の信を否定することで語っている。それは世界への対抗概念にしかならない。わけもわからずがむしゃらに生きるその姿そのものを親鸞は他力による浄土という。それが自然法爾と言うことだと。86歳のとき親鸞は自然法爾について「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり」(「末燈鈔」)と言った。強い言葉だと思う。ここで「と共に」はみずからの計らいとはまったく関係なく満願成就している。そのあたりのことを内包論はすこしていねいに言おうとしている。生を満月として生きること。池田晶子に他力の縁はなかった。

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