第三信 森崎茂様 さっそく返信をいただき、ありがとうございます。第二信の最後で言及されていた、俗と非俗のあいだのわずかな隙間ということ、とても微妙で難解ですが、大切なとこ・・・【続きを読む】
1愚禿とみずからを呼んだ親鸞の79歳のときの書簡が遺されている。「阿弥陀仏の本願は、有念、つまり、色・形を思うはたらきの対象でもありませんし、無念、つまり、形や色・・・【続きを読む】
第二信・片山恭一様(2017年8月27日)2017年8月18日に片山さんと熊本で話をしたとき、お互いの言葉もこなれてきたので、往復書簡をやりませんかと呼びかけ、その第一信が送ら・・・【続きを読む】
第一信・森崎茂様(2017年8月24日) 往復書簡をはじめるにあたり、これまでの流れを少し整理してみたいと思います。ぼくたちの対話も四年目に入り、当初にくらべると、ずいぶ・・・【続きを読む】
1信から迷いがなくなるときその信を自力廻向と言い、信が迷いに埋め尽くされるときその信を他力廻向と言う。信が脱落し迷いそのものになるとき自力は果てている。その迷いの・・・【続きを読む】
1生は本質的には内包的な贈与として存在しているのに、なぜ贈与的な生が交換へと変質したのか。マリノウスキーやモースやレヴィ=ストロースらは女性を財貨とみなし、焦らす・・・【続きを読む】
1マルクスの構想した、個即類という思想は、マルクスの主観的な意識の襞にある信の外延的な思想であって、意識の外延表現ではいかなる意味でも類と個はつながらない。外延的・・・【続きを読む】
思考をインスパイアされる言説に出会うことはほとんどないが、ネットで見つけたユヴァルの動画には引き込まれた。なんだほぼわたしとおなじ世界認識をしている。以前読んだ『サピエン・・・【続きを読む】